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アニメーションの世界

聖書に次のようにあります。

「この後、私は四人の御使が地の四隅に立っているのを見た。彼らは地の四方の風を引きとめて、地にも海にもすべての木にも、吹きつけないようにしていた。

また、もう一人の御使が生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た。彼は地と海とを損なう権威を授かっている四人の御使に向かって、大声で叫んで言った、『神の僕らの額に、私たちが印を押してしまうまでは、地と海と木とを損なってはならない』」(ヨハネの黙示録7・1~3)。

 一節に書かれているのは、ヤコブの悩み(艱難時代)をこの地上に来たらせるための四人の御使だろうと思います。

 風を引き止めるということは、地球の生命現象をストップさせているということです。これは生物の生命現象をストップさせるという意味ではなくて、地球に命の気配が流れることをとどめてしまうことになるのです。永遠の生命を学ぶという風潮を消してしまうということです。

 現在、永遠の生命を勉強しませんかと呼びかけても、ほとんどの人は関心を持ちません。そういう勉強をする人を変人扱いしているのです。文明思想によってそういう勉強をしない、させない風潮が世界中に行き渡っているのです。これが風を引き止めているということです。

 やがて命の気配が完全にストップする時が来るでしょう。艱難時代は災いを来たらせる時であって、イスラエルの歴世歴代の不信仰に対して、神が容赦なくぶん殴ることになるのです。人間の歴史そのものを殺してしまうことになるのです。

 人間を殺すだけでなくて、歴史を殺してしまうのです。これが風を引き止めるという形容詞になっているのです。

 その前にちょっと待った。風を引き止めてはいけない。今しばらく風を吹かしておかなければいけないと、大声で叫ぶのです。イスラエルの額に神の印が押されるまで、神自身の御名が印されるまでは風を止めてはいけないと、大声で叫ぶのです。

 それをするのが、日の出る方から上がってくる天使、サンライジングから来る天使です。皆様はそれに該当して頂きたいのです。ところが現在のところ、皆様は宗教観念ばかりでとてもだめです。

 神はアダムに言っています。「あなたは土から取られたのだから、ついに土に帰る。ちりだからちりに帰る」(創世記3・19)。

 土の方は土から出たとありますが、ちりは出たとは書いていない。これが意味深長です。人間の額が魂です。額に汗するというのは魂に汗するということなのです。

 額は思考方式の源泉です。ここに汗をするのです。こういう経験をすると、福音が心の底まで分かってくるのです。

 額に汗して土に帰れと言っています。

 会社で働いているのはその人の顔です。額に汗をかくというのは魂に汗をかくということです。額とか顔という言葉が使ってあるのは、魂を意味するのです。魂に汗をかくことができるような待遇を、神から与えられた人は非常に少ないのです。こういう経験をする人は指導者になれると思います。

 土から出たから土に帰れというのは、肉体を指しているのです。ちりだからちりに帰れというのは、魂に対して言っているのです。土の人間と魂の人と二通りのことを言っているのです。

 魂として見ればちりです。

 「あなたは人をちりに帰らせて言われます、『人の子よ、帰れ』と」とあります(詩篇90・3)。人をちりに帰らせてから人の子よ帰れと言っています。ちりに帰るということが非常に重要です。

 つまりどんなことを言われても、どんなに小突き回されても、絶対に服従し、絶対について行ける人だけがちりに帰った人です。これは神に対してピュアーハート(pure heart)を持っていれば誰でもできることなのです。

 神に対して慎みを持つことです。神を相手に生活するのです。理屈で聖書を勉強していて、霊、魂で勉強していない。だから宗教観念になってしまうのです。

 パウロは言っています。

 「このように、あなた方はキリストと共に甦らされたのだから、上にあるものを求めなさい」(コロサイ人への手紙3・1)。この共にというのはtogether withとなっているのです。これは非常に強い意味です。

 三節には「あなた方は既に死んだ者であって、あなた方の命はキリストと共に神の内に隠されているのである」とありますが、ここの共はwithだけです。together withはwithと違って非常に強い意味があるのです。

 イエスがキリストとされたことは、全人類に対して神が断固たる処置を敢行したのです。断行したのです。ですから、キリストに対してなされたことは、全部神的事実です。

 皆様は言葉としてはお聞きになるでしょう。しかし本当に信じていないのです。これはすべてpure heatではないからです。清い心ではないのです。本当に塵灰に伏して神に祈ることになりますと、面子も自尊心もなくなってしまうのです。

 人間はだいたい不正直です。御名を崇めるということが分かっていないのです。神がキリストに対して処置したことは、全世界の人間に対して処置したのです。

 つまりキリストと共に甦らされた。今生きているのは、キリストと共に生かされているのです。キリストによってでなければ生かされていないのです。ところが、皆様は固有名詞の人間で生きている。この世の習わしに従って生きているのが当たり前だと思っている。キリストと共に生きないで、日本人と共に生きている。これがいけないのです。

 とにかくこの世離れした人間になることです。自分の境遇とか、自分の事情があると思うのが間違っているのです。キリストと共に甦らされた人間に、自分の事情があるのでしょうか。

 精神(マインド)をやり直せと言っているのです。問題はマインドです。マインドで信じる信仰ではだめです。ハートで信じる信仰でなければいけないのです。ハートに信じて義とされる信仰でなければいけないのです。

 キリストの福音は、人の心未だ思わざることです。これを受け取るにはどうしたらいいのか。だいたい今の人間はハートを持っていないのです。ハートを持っていても、ハートとしての役割を果たさなくなっている。ですから、現在のような無秩序で混乱した社会状勢になってしまったのです。

 皆様はこういう社会状勢に馴染みすぎているのです。馴染みすぎていて、この世の習わしがそんなに悪いものだと思えないほど、ハートが歪められているのです。毒されているのです。だから神を素直に信じることができないのです。

 どうしたらいいのか。御霊と相撲を取って開かれるしかないのです。

 神はイスラエルの不信仰によって、契約の民でさえも切ってしまった。本木の橄欖を切ってしまた。そうすると異邦人はどうなるのか。本木の橄欖さえも惜しまなかった神は、容赦すると思うのかとパウロは言っています。これをよく考えなければいけないのです。

 日出る方から上ってくる御使は、生ける神の印を持っている。生ける神の印とは、ザ・シール・オブ・ザ・リビング・ゴッド(tte seal of the living God)です。どんなシールなのか。これをしっかり持っていなければ、日出る所の天使とは言えないのです。

 シールはただの印鑑ではない。印鑑よりももっと有機的な活動的なものです。日本の印鑑は全く記号みたいなものですけれど、シールは記号や信号だけではなくて、ある働きを持つものです。そういう内容を持っているのです。

 例えば神がカインに印を与えたようなものです。(創世記4・15)。殺人者であった彼は、ホモ・ファーベルの社会へ乗り込んで行って、その村の村長になったのです。印が物を言ったのです。

 神のシールとは何か。生きているということ自体が神のシールです。これは神がシールになって現われているという意味にもなるのです。生きている神のシールですから、生きている神がシールであると考えられるのです。

 そうすると、リビングということがどういう内容を持っているのか。リビングが神であるとすると、生ける神とはどういう意味なのか。

 現代文明に向かって、リビング・ゴッドのシールを具体的にぶつけていく信仰でなかったらだめです。だから、神が生きているという印をしっかり身につけることです。単なる感覚だけでなくて、意識としてこれを身につけるのです。

 意識として活用できていない人は、理論的に突っ込まれると答えられなくなるのです。意識が生活になってマスターできますと、どんな角度から、どんなふうに応用問題を出されても、即座にどんどん答えられるのです。神の国は言葉ではなくて力だということが証明されるのです。

 言葉が力となって働くのです。力が言葉として働くのです。力と言葉は同じなのです。例えば、復活の後にイエスがエマオの途上で数人の人に現われた時に、イエスの言葉に力があったと言っています(ルカによる福音書24・19)。

 言葉に力がなければいけないのです。単なる論理が分かっていてもだめです。言葉に力があれば、無言の説明になるのです。言葉に力があれば、人の魂に楔を打ち込むことができるのです。これが世界伝道へのやり方です。

 論理的に言いくるめるような巧みさがなくてもいいのです。素朴で大胆で、力があればいいのです。そうするとイスラエルに響くからです。

 未だかつて日本に現われたことのないような人間になってもらいたいのです。神の命をそのまま力で前へ押し出すのです。これがリビング・ゴッドのシールです。

 実生活において、自分のリビングにおいて神のシールが明確に感受できるような人間でなかったらいけないのです。のびのびとしたらいいのです。

 幼子になるのです。幼子になったら単刀直入に神の命を証できるのです。命の証をするのです。命を言葉で証することができるようになれば、場合によっては力によってすることができるでしょう。命が力になって現われることもあるでしょう。

 病気ぐらいはどんどん治せるようになるかもしれないのです。しかしこれが目的ではないのです。命の言葉を伝えるのが目的です。もしイエスのように病気をどんどん治せることになったら、人々が山のように集まるでしょう。そうしたらマスコミの大評判になってたちまち有名人になりますが、命の言葉が飛んでしまいますから、神はそうさせないでしょう。

 問題は生ける神のシールです。リビング・ゴッドのシールです。これを持たなければいけないのです。ですから生活においてもリビング・ゴッドのシールということを心得て生活することです。これが自分の生活のペースだということを考えて生活するのです。

 皆様は生ける神の代理者として、日本を窓口にして世界の文明と対決するのです。

 目が見えること、耳が聞こえることが、そのままリビング・ゴッドです。リビングという言葉が付け加えられていることは、単なるゴッドではないということです。

 リビング・ゴッドと単なるゴッドとどう違うかと言いますと、ゴッドというのは概念的です。論理的です。リビング・ゴッドになりますと、生活的、生態的、実体的になるのです。

 リビングという事実がそのまま神です。リビングは神に決まっています。神の他にリビングはないのです。

 そこでまず第一に精算しなければならないことは、生きているのは当たり前だという気持ちです。自分自身の中にそういう意識があることを、厳しく咎めなければいけないのです。

 将棋の場合ですが、高段者が金や銀を一手差し間違えると、その差し間違いを咎めると言います。

 皆様は今まで異邦人の真ん中で生きていて、この世の習わしがそのまま自分の生活意識になっているのです。このことを深く深く自分の身にとめて考えなければならないのです。異邦人の習わしが自分の生活意識になっていた。現世の日本社会における教育、常識、信念が、そのまま自分自身の生き方の基礎になっていたという点です。

 これを咎めるのです。この大人の意識を痛撃するのです。これができなければ、絶対にpure heartを持つことができないのです。

 自分の中にある大人意識を毎日叱るのです。病気になったらすぐに死ぬのではないかと思うのですが、それがいけないのです。これが大人根性です。これを咎めなければいけないのです。

 生ける神の印は、生活の中で体当たりで掴まえなければいけないのです。生ける神の印は自分で掴まえなければいけないのです。生ける神を自分の命にするのであって、生ける神のシールがある以上、死を考えることは許されないのです。

 生ける神のシールを持っている者は、死を考えたらいけないのです。それは生ける神を冒涜しているのです。そのように厳しく自分の大人のど根性を咎めるのです。

 神が相手にしていない自分を相手にすることは、自分の魂が神を軽蔑していることになるのです。いつも生ける神の印を持っているという感覚で生きるのです。生ける神だけを問題にするのです。イエスが生きていたのと同じ生き方をするのです。そうして自分を叱るのです。これが己が命を憎むことになるのです。

 自分の命を毎日憎むのです。これは大人ではできないことです。日本人としての大人根性が悪いのです。大人根性が邪悪そのものです。アダルト(adult)の根性がアダルタラス(adulterous)になるのです。邪悪、姦悪です。

 アダルトがいけないのです。いつでも幼子の感覚を持つのです。意識的にそうするのです。現世のことに対しては疎い人間になるのです。これでいいのです。

 これがピュアーハートになる第一条件です。これがなければピュアーハートには絶対になれないのです。生ける神のシールをしっかりも持ち続けることがピュアーハートであって、これが神を見ることになるのです。

 イエスは言っています。

 「心の清い人たちはさいわいである。彼らは神を見るであろう」(マタイによる福音書5・8)。

 ハートとマインドの関係はどうなるかです。

 直感したことを自分自身の意識に取り入れるということが必要です。ところが、神から与えられている恵みを、素直に自分のものとしないで、現世のことに紛らされてしまうことになるのです。神を無視するのです。とこしえの命を無視するのです。これが傲慢です。これをしなくなると、その魂はどんどん伸びていくのです。

 現象をマインドで見るのと、ハートで見るのとでは、どう違うかということです。マインドで見た現象とハートで見た現象とは違います。現在皆様はこれを経験しているのです。

 目の働きと耳の働きをマインドで受け取るのとハートで見るのとでは違ってくるのです。現象に対する価値観が莫大な違いになってくるのです。

 マインドかハートかというのは、世界観の問題になってくるのです。世界観の組み立て方によって価値観が違ってくるのです。

 とにかく異邦人が、聖書の真理、神の約束の真理を勉強するということは、本当に有難いことなのです。約束はとんでもないことです。約束に従ってこの地球を見ると、全く違ったものになるのです。自分が現在生きているのも全然違ったものになってしまうのです。これは生きるか死ぬかの問題です。ですから、今までの経験を全部捨てて頂きたい。捨てなかったらだめです。

 イエスやパウロに対して、新しく発見や発明をしなければいけないのです。発明はエジソンやワットの専売特許ではありません。イエスやパウロの心境について、発明という言葉を使うのが本来の意味です。

 エジソンの発明は本当の発明とは言えません。ただ工夫しただけです。発明というのは全く未知なるもの、自分自身から見て完全に未知であるものが開かれることが発明です。未知なるものが明らかにされる。自分の中に光が差し込んでくることが発明です。

 私たちが聖書を学ぶということは、神の国を学ぶということです。今の世界とは全然世界が違う所へ入っていくのです。

 今、目の前に花が咲いているとします。花が咲いているという世界があるのです。花が咲いているという世界を証しているのです。咲くということによって、花が咲く世界があることを示しているのです。これが神の国です。神が咲かせているのです。

 イエスは野のユリを見よと言っています。ユリが谷間に咲いているという事実があります。これが神の国です。

 私たちはそれを見ています。見ているが、その世界へ入っていない。だから死んでしまうのです。とこしえの命というのは、ユリが咲いている世界へどんどん入って行くことなのです。これが神の国へ入ることです。

 空が青い。若葉の緑が美しいという自然現象は全部神の国です。この自然現象という膨大なものをキリストの言葉というのです。これを人間は聞いていないのです。

 理屈は知っているが聞いていないのです。森羅万象はキリストの言葉であるという理屈は知っているのですが、そのキリストの言葉に皆様の魂が聞き従っているかどうかが問題です。

 ハートは聞き従うのです。アジサイの花が咲いているという事実に聞き従うのです。咲いているという事がらに服従するのです。これが赤ん坊の状態です。

 赤ん坊の状態はピュアーハートです。だから赤ん坊は花が咲いているということに聞き従うのです。その世界へ入って行くのです。

 大人は入らないのです。アジサイの花が咲いているとします。これはアジサイの花だと思うのです。神の国が実際にありながら、それを知らないのです。それを見ているが知らないのです。

 見るというのはマインドの働きです。知っているというのはハートの働きです。ギノスコー(具体的に一つになる)しているのです。花をギノスコーするのです。

 花が咲いているという事がらは霊なることです。神の国です。イエスは「野のユリを見よ、空の鳥を見よ」と言っているのです。空の鳥が神に養われているという事がらが神の国です。そこでイスラエルに向かって、「汝ら、まず神の国と神の義を求めよ」と言っているのです。

 まず神の国を求めよと言っているのですが、マインドで生きている者は絶対に神の国に入れないのです。神の国を認めはしますが入れないのです。

 古き人、固有名詞の人間は神の国へ入れないのです。花が咲いている世界へ入れないのは、固有名詞で生きているからです。

 花が咲くとはどういうことかと言いますと、約束に従って咲いているのです。約束がなかったら絶対に咲かないのです。ユリが神の約束を証しているのです。

 空の鳥を見よ。神の約束の一端が空の鳥を養うという状態で、神が見せているのです。

 神の国へはハートなら入れるのです。赤ん坊なら入れるのです。大人は入れないのです。固有名詞を認識しているからです。

 固有名詞の自分が自分だと思い込んでいるから入れないのです。固有名詞の自分は悪魔が化けている自分です。悪魔が化けている自分を自分だと思い込んでいるから、花の中へ入れないのです。

 私たちは毎日お米を食べます。お米の味、餅の味は神の国です。しかし味の世界へ入っていけないのです。味わっていながら味の世界へ入っていけない。だから命がない。そういう人間は死んでしまうのです。ですから、餅を食べていながら、食べていないことになるのです。花を見ていながら、花を見ていないことになるのです。

 これに対してイエスは言っています。「汝ら、まず神の国を求めなさい」と。神の国を求めることが約束だから、この中へしっかり入ってしまわなければ、命は保障されないのです。水からと霊から新に生まれて、神の国に入ってしまわなければいけないのです。

 現象の形態を見て、それを論理的に認識する。いわゆる自然科学的な受け止め方、理知的な受け止め方をするのは全部マインドです。これは肉です。形を見ているがその実質を見ていないのです。つまり観世音ではないのです。

 観自在、観世音というのは、物の本質を見ることです。物の本質が波羅蜜多です。花が咲いていることが波羅蜜多です。この中へ入って花が咲いていることを経験することが般若波羅蜜多です。

 般若ということが実は本当のハートです。般若という言葉がハートです。上智と言わずにハートと言えばいいのです。人間の純粋なハートは般若です。この般若は波羅蜜多を得意とするのです。

 人間のハートは彼岸に入ることが大好きです。実は人間のハートは彼岸でなければ満足しないのです。そういう特性を持っているのです。

 宗教ではない般若心経とは何か。般若波羅蜜多を実体的に経験することです。人々にこれを与えるのです。般若波羅蜜多の実体を人々に与えるのです。観自在を見たければ私を見なさいと言えるようにならなければいけないのです。

 現象意識とは何か。これは人間が造ったものとは違います。花が赤い、若葉が青く見えるのは人間自身の意識とは違います。実は神の意識です。神の意識が人間に与えられているのです。そういう意識が人間に預けられているのです。それを人間が自分の意識、自分の感覚で用いるから、マインドになってしまうのです。肉になってしまうのです。現象意識を霊で用いたらいいのです。

 現象意識が悪いのではない。現象意識は肉の思いとは違うのです。般若心経は現象意識を憎むべきものだと言っている。これが般若心経の間違いです。

 無眼耳鼻舌身意と言っている。これが間違いです。だから般若心経の良い点と悪い点とを分けて見なければいけないのです。これは良い、これは悪いと言わなければいけないのです。

 目もない、耳もないと言っても現にあるのです。これをどう見るかです。

 目に見える形のとおりのものがあると考える。これは現象意識でなくて、肉性意識です。肉性意識と現象意識は違うものです。本当の現象意識は神が人間に植えたものであって、これは霊なるものです。

 花を見てください。肉性意識で見ないで本当の現象意識で見るのです。そうすると、赤ん坊が花を見ているような見方ができるのです。

 この世に何十年間か生きてきたという経験を消してしまって、本当に幼子になって花をご覧なさい。どうして見るかです。

 神が人間に現象意識を与えたのは、現象を見るためではない。イエスは現象を見るために現象意識を用いているのではありません。

 イエスは言っています。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きているものである」(マタイによる福音書4・4)。これをよく考えて頂きたいのです。霊の世界には二つの見方があるのではありません。一つの見方で集約するのが、神の約束の根本原理です。これが信仰の根本原理です。

 固有名詞の人間があり、霊なる人間もあるという見方がいけないのです。人間は二律背反の世界に長く住みすぎたのです。二十年も三十年も、長い人は七十年も八十年もこの世に生きていたので、二律背反で考えるのが当たり前になっているのです。

 キリストの十字架の勉強をして、信じていながら、なお十字架を信じなくても生きていけると思っているのです。そんな愚鈍な考えはやめることです。もっともっと古き人(肉の考え)と葛藤しなければいけないのです。パウロが私は拳闘していると言っています。空を打つような拳闘はしない。空を打つような闘いはしない。二律背反の自分をやめるのです。肉なら肉、霊なら霊と決めてしまうのです。

 人間の肉体生活と霊的な信仰生活とは別でなければならないというのが、異邦人の考えです。実は肉体生活がなければ霊的生活はないのです。霊的生活のために肉的生活があるのです。肉的生活は霊的生活のために統合解消されるべきものなのです。

 現象意識は現象を意識するためではなくて、現象の実体を認識するためのものです。そのためにまず現象意識を与えたのです。肉の下に売ったのです(ローマ人への手紙7・14)。現象意識を与えておいて、肉の下に売ったのです。そこで肉の下に売られた人間は、死ぬことが嫌だと言い出したのです。死ぬことが嫌なら、神の国と神の義を求めればいいのです。神の国と神の義を求めさえすれば、現象的に生きていることは間違っていないのです。ここから進んでいけばいいのです。現象的に生きているからこそ、神の国が分かるのです。

 これが分かれば、神が現象意識を与えた意味が分かるのです。霊の思いで現象意識を用いるのです。これをイエスは「恐れるな、ただ信ぜよ」と言っているのです。辛子種一粒の信仰があるなら、宇宙の真理が分かるのだと言っているのです。

 この世に生きている自分を認めることは、福音を認めていないのです。あなたがたは命の言葉を保って、光のように輝く存在にならなければいけないのです。

 現象がなければ神が自らの命を現わしていることが分かりません。神は自らを現象として現わしているのです。従って、現象を受け止める意識がなかったら、神を受け止めることはできないのです。だから神は人間に現象意識を与えているのです。

 現象意識を神に従って用いるのです。地球ができたのは、神の約束によるのです。現象をよく見なければ神は分からない。だから人間に現象世界を与えたのですが、それを悪魔に横取りされたのです。自分の肉の思いによって現象意識を用いることを余儀なくされてしまった。これが罪の下に売られたことです。

 それから自我意識とは何かということです。古代メソポタミア文明、古代エジプト文明に多くの彫刻が残っています。私は世界一周旅行を二回して、世界各地に残されている古代遺跡をつぶさに見る機会を与えられました。

 エジプトでなぜピラミッドを造ったかです。私はエジプトを二回訪れて、数々の遺跡をつぶさに見てきました。古代エジプト人はなぜそういうものを残したのでしょうか。

 時間的な存在を空間的に残しておく。それを永遠の存在にしたいという気持ちがあったのです。これらが造られたのは、紀元前二千三百年位の頃になりますから、今から五千年も前のことです。

 これはイスラエルの歴史で言いますと、ダビデ王朝の少し後位です。ソロモン王朝が滅んだ時位になります。それ位古い時代です。

 古代の彫刻には女の彫像が非常に多いのですが、なぜ女の彫像が多いのかということです。

 時間的存在である人間が、空間的に像を刻んだのはなぜか。これは永遠的に命を残しておきたいからでしょう。特に女の彫像を多く残しておく。これはどういうことか。人はこうせざるを得ない本性を持っているのです。

 石に刻んだ永遠の生命という命題です。女のボディーがどうして永遠の生命を現わすかです。

 古代エジプト人が石に彫刻して永遠の生命を現わそうとした。これと同じ気持ちが今の人間にもあるのです。これはどういうことかです。

 本能という言葉と官能という言葉があります。これがどのように違うかです。現代人はこういう言葉に正確な認識が持てなくなっているのです。五千年前のエジプト人の方が、直感性がはるかに鋭かったのです。

 どうして現代人はこんなにばかになってしまったのか。現代人の意識は全く愚劣極まりないものです。現代教育が間違っているのです。人間を滅ぼすのが教育になっているのです。

 教育という名によって人間を洗脳してしまった。人間を完全に片端にしてしまったのです。人類はユダヤ人のトリックによって完全にばかになってしまったのです。

 人間の教育という愚劣な概念によって、イエスがキリストであることを信じなくてもいいという風潮を全世界に瀰漫させたのです。

 これがユダヤ教育の根幹です。イエスがキリストでなくても世界が治っていくという愚劣下等な概念を造るためには、教育というテクニックが必要になってくるのです。

 皆様はこういう世界に住んでいるのですから、リビング・ゴッドを持つ人間になるというのは大変なことです。もう少し素直な人間になって頂きたい。自分の間違いを間違いとはっきり認められるような人間になることです。

 今の人間には素直さがないのです。ギリシャ時代の彫刻にはピュアーハートが若干見られるのです。現在の文明には哲学が見られません。形式ばかりになっているのです。

 教育というテクニックによって近代文明が成立しているのです。そうして子供が親を殺すという状態になってしまっったのです。

 人間が考えると、考えたことと反対になって現われるに決まっているのです。学ぶつもりでいる人間が、だんだん獣的になっていくのです。

 理性というものと肉体とは、根本的に異次元のものです。元来、理性が肉体を持つことはあり得ないし、肉体が理性を持つこともあり得ないのです。

 肉体というのは人間の肉の思いによる肉体ということで、本当の肉体とは違いますが、これが理性を持つことはあり得ないのです。

 理性は霊的なものです。神的なものです。ところがそれが肉体を持っている。こういうことを神がわざと仕向けているのであって、そういう矛盾を人間に与えているのです。

 こういう矛盾を人間に突きつけているのです。この絶対矛盾に気づかざるを得ないように仕向けているのです。ところが、この矛盾を矛盾ではないように言いくるめているのが現代文明です。肉体を持っている理性的な人間が存在していることが、おかしくないということを理論的に言いくるめているのです。神を言いくるめているのです。

 悪魔が悪魔的な弁論によって、神を言いくるめようとしているのです。神が提出している疑問をごまかしているのです。

 ペテロは、「洗礼の目的は体の汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることだ」と言っていますが(ペテロの第一の手紙1・21)、こういう高尚遠大な考えは現代の文明には全然ありません。

 良き良心を今の人間は知りません。理性というものの存在自体を今の人間は信じていないのです。そういう哀れな状態になっているのです。ユダヤ人によってそうさせられているのです。私たちはそれに向かって反撃を加えようとしているのであって、よほど大きく強い気持ちを持たなければできないのです。現代文明に対する決定的な反撃です。これをしなければならないのです。

 現在の状態で生きていることが地獄です。地震、洪水、異常気象が頻発し、鳥インフルエンザ、口蹄疫、ガン、心臓病、糖尿病、風邪が頻発、倒産、不況が人々を苦しめている。これは地獄の様相をそのまま示しているのです。

 人間が時間的な存在であるというのはどういうことなのか。一体人間は時間的な存在なのであろうか。七十年、八十年生きているのが、果たして時間的存在なのだろうか。確かに人間は時間的存在と言えるのです。これについてパウロは次のように述べています。

 「兄弟たちよ。私は既に掴まえたとは思っていない。ただこの一事を努めている。即ち、後のものを忘れ、前のものに向かって体を伸ばしつつ目標を目指して走り、イエス・キリストにおいて上に召してくださる神の賞与を得ようと努めているのである」(ピリピリ人への手紙3・13、14)。

 こういう感覚で見ると、初めて人間が時間的に生きているという意味が分かるのです。

 時間的に生きているというのは何のためか。後ろのものを忘れ、前のものに向かって体を伸ばすためです。これがパウロの心境です。こういう気持ちになれないでしょうか。

 理性を持っている者が、肉体を持っているという矛盾を、パウロは体を伸ばすと言っているのです。体を伸ばすとは神を求めることです。

 私たちの命はキリストと共に神の内に隠れているのです。キリストが分からなければ、私たちの命は分からないのです。

 永遠の命はキリストの内に隠れている命です。しかもキリストと共に神の内に隠れているのです。これが本当の命です。今、人間が生きているのは本当の命とは違います。これは生きているのではなくて、死んでいるのです。現象感覚で生きていることが死んでいることなのです。現象はないのですが現象感覚はあります。しかし現象はないのです。

 人間は現象に対する意識を神から与えられている。神は瞬間的に存在するものです。瞬間的に存在するからこそ永遠なのです。

 神は現前的のみに存在する。だから永遠なのです。もし神が時間的に一億年とか百億年しか存在しなければ、永遠ではないのです。一億年とか百億年だけの神になり、偶像になってしまうのです。神自身が瞬間ですから、現象が存在する訳がないのです。

 人間が現世に生きているということが嘘です。「汝らの命は、キリストと共に神の内に隠れている」とありますから(コロサイ人への手紙3・3)、キリストが分からなかったら自分の命は分かるはずがないのです。

 生きているのは哺乳動物の人間です。神から見た人間の生きざまとは違います。神から見た人間の生きざまというのは、キリストと共に神の内に隠されている命です。これが神が人間に与えようとしている命です。

 今生きている人間は哺乳動物としての人間です。キリストと共に甦ったのが本当の人間です。そうしますと、旧約時代の人間は全部死んでいたのです。イエスが現われなかったら、甦りということは永久になかったのです。ただ死に続けていたのです。

 旧約時代の人間は哺乳動物の人間であって、ノアの洪水の時に、人間と生き物とに虹の契約を与えると言っているのです。虹の契約の意味を理解できるのは人間だけです。生き物は虹の契約の意味がさっぱり分からないのです。しかし、これは人間と生き物全体とに与えられた契約であって、虹の契約の意味をよく考えると、かろうじて分かるかもしれないのが人間なのです。

 人間と生物全体に虹の契約を与えた。だから人間は完全に動物として扱われていたのです。現在のユダヤ人が見ている人間も、動物人間だけを見ているのです。これが文明を造っているのです。

 動物人間というのは、神が見ている人間とは違います。神が見ているのはキリストと共に神の内に隠されている命です。この命に気づく者、気づく可能性がある者を人間と称しているのです。これに気づかない者はただの哺乳動物です。

 ところが可哀想なことに、この哺乳動物は理性を持っているのです。理性の本来の意味は分からないけれどもあるのです。従って神とは何かということを言うのです。彫刻を造ったり、絵を描いたりするのです。これは理性を持っている証拠です。

 今から五千年前の彫刻はノアの洪水直後の作品になるのです。洪水の千年後位の作品です。人間はこういう彫刻を造る能力を持っているのです。これは生物の人間であって、霊的存在ではありません。

 人間が生きていること、また生かされていることは霊的なことです。人間の官能の働きは霊的なものです。官とは仕事をすることです。働きの本質を言うのです。人間の能力を司るものです。

 これは本具の自性という高いレベルの性能を言うのです。ちょっと見ただけでだいたいの目方が分かる。固いか、柔らかいかが分かるのです。人を見た瞬間に好きか嫌いかが分かるのです。だから人間の働きはそのまま霊能です。これに基づいて人間は生きているのです。

 人間が食べたり飲んだりしていることが霊なることです。霊なることというのはこの世のことではない。生まれてくる前のことを経験しているという意味です。肉というのは現世の人間社会のことを言うのです。

 皆様は毎日、霊なることを経験している。知っても知らなくても皆様が生きている姿は神の子になっているのです。自分の好みに合った服を着ているとか、自分の好みの家に住み、好みの家具を置いている。そういう造形の中に住んでいるということが、人間自身の官能が霊的なものであることを示しているのです。

 人間が生かされていることは明らかに霊的事実です。これをキリストと共にいるというのです。皆様の目の働きがそのままキリストの働きを持っているのです。

 キリストの働きは何かと言うと、神の代理者として万物を指導することです。神に代わって、万物(エホバの万軍)を指導するのです。その性能を持っている。

 ですから、キリストと共に神の内に隠れているのは当たり前のことです。それに気づいた者はそのようになるのですが、それに気づかない者はどうなるのか。それだけの性能を持っていながらそれを自分のためにだけ用いてしまった。それに対する懲罰を当然受けなければいけないのです。

 まず皆様が救われなければ、どうしてイスラエルを救うことができるのでしょうか。皆様自身が目を覚まさなければ、イスラエルの目を覚ますことはできません。皆様の額にリビング・ゴッドの印が付けられなければ、イスラエルの額に生ける神の印を押すことができないのです。

 まず皆様自身の額に神の御名が印せられなければならないのです。性根をすえて勉強して頂きたいのです。人間の五官は神にかたどりて造られた神の機能をそのまま持っているのです。その使い方を知らなければ必ず地獄行きを命じられるのです。

 人間存在が時間的存在であるとはどういう意味かと言いますと、未来的存在という意味です。人間はただ生きているのではない。未来的に生きているのです。未来的存在であるから、未来の本質は何かを掴まえなければならないのです。

 人間は未来という言葉を使いますけれど、未来とは何かを知らないのです。本当の未来は現象の中にあるのです。現象を捉えた者は未来を捉えることができるのです。

 現象がなぜ未来になるかと言いますと、現象の中には人間が見ていないものがたくさんあるのです。現象の中に永遠があるのです。それを人間は見ていないのです。

 未来の本質は向こう岸(彼岸)を意味するのです。未経験を意味するのです。人間にとって神の国自体が未来になっているのです。

 仏典に未来弥陀の浄土という言葉と、将来斯土の浄土と二つの言葉があります。未来という言葉は、実は現在を意味するのです。まだ見ていないというのは現在のことです。未来弥陀の浄土は現在のことになるのです。

 信仰によって生活するという要領が分かりますと、その人自身が生きているその足の下が、神の国になるのです。神の国が目の前に開かれるのです。現前がそのまま神の国になってしまうのです。どうせ信じるならここまで信じて頂きたいのです。

 神の国を述べ伝えることが、イエスの伝道の唯一無二の目的でした。神の国をイスラエルに知らせる。神の国を彼らに見せてあげるのです。

 神の国を述べ伝えることが、イエスが弟子たちを遣わした目的です。神の国が来たと言って回れとイエスが弟子たちに命令したのです。

 私たちは日本で神の国を言わなければならないのです。実体的に神の国に生きているという気持ちの実感を伝えなければならないのです。現代文明に対立するのです。文明に向かって挑戦するのです。そういう意気込みで向かって行かなければならないのです。

 神の国とは何か。何でもないことです。イエスがキリストであることが神の国です。神の安息が神の国です。神が自分の業をやめたように、私たちも自分の業をやめたらいいのです。この標準でなければ私たち自身も救われないのです。神の国が目の前にありますから、神の国に入ってしまわなければいけないのです。

 パウロは言っています。

 「神の見えない性質、即ち神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。従って彼らには弁解の余地がない。

 なぜなら、彼らは神を知っていながら神として崇めず、感謝もせず、かえってその思いは虚しくなり、その無知な心は暗くなったからである」(ローマ人への手紙1・20、21)。

 無知な心を英訳でセンスレスハート(senseless heart)と言っています。センスがないハートです。今の人間のハートは皆センスレスになっているのです。センスレスハートというのは、神に感動できないハートです。

 現在の人間が生きている場はこの世であって、必ず死ぬに違いない地獄にいるのです。ところが罪の下に売られた自己存在に本当に気がつくと、それが変わってしまうのです。地獄であるものが極楽に変わってしまうのです。これが神の国です。

 もう一度言いますと、私たちが今生かされていることが徹底的に地獄です。黄泉です。無知です。センスレスハートです。無感動で、無感覚な愚か者です。それに本当に気がついて一切合切全部投げ出すと、それが激変して神の国になるのです。

 自分を投げ出すことを、神と人の前ではっきり言うのです。自分の腹の底から、今生きている自分の場が地獄で死ぬしかないとはっきり言えたら、そこが神の国になるのです。

 固有名詞の人間はどこにもないのです。だいたい人間が生きているのは、五官の働きで生きています。固有名詞が仕事をしているのでもないし、食事をしているのでもない。ところが自分が勝手に働いて、勝手に食べていると思っているのです。

 心理機能、生理機能が仕事をして食べているのです。人間は既に安息しているのです。それを自分が勝手に食べていると思っているのです。安息に入ると初めて神の民であったことが分かるのです。神の民はそのままエルサレムの住民です。自分が天のエルサレムの住民であるという自覚がぴったりしたらいいのです。

 現象意識は現象を見るためのものではなくて、現象の実質を見るためにあるのです。現象の実体は神の国です。花が咲いていること、鳥が鳴いていることが神の国です。

 鳥が鳴いていることは普通の人間の意識で分かります。ところが、鳥が鳴いていることが何であるかが分からないのです。そこで聖霊の助けをどうしても願わなければならないのです。すべての肉に注がれたのが聖霊です。この方に聞かなければ分からないのです。

 パウロが言っているように、被造物において神の永遠の力と神性とが現われているのです。だから人間が被造物を見ると、永遠の力がすぐに分かるのです。例えばこの花は咲いてからだいたい一週間経過していることが分かるのです。

 地球ができてから四十五億年になると言います。地球に永遠の力が働いているのです。実は地球が存在しているのは瞬間だけです。

 現象世界は映画のアニメーションと同じことです。少しも変わらないのです。神が立体的にアニメーションを造っているのです。人間でさえもアニメーションを造るのですから、神がアニメーションを造るのは当たり前です。

 地球に永遠の力が働いているのです。瞬間がそのまま見えるのです。地球は瞬間しか存在していない。しかしそれがアニメーションだから永遠に存在するようにできているのです。

 これが理論的に分かっただけではだめです。アニメーションを生活するのです。そうすると全く変わってしまいます。自分の生活がアニメーションだと思うと、腹が立たないのです。欲望的に考える必要がないからです。物の見方が全く変わってしまいます。自分の欠点などというものを考えないのです。

 物の本質が見えてくると、現象が幻であることが分かってくるのです。神はアブラハムに「私は全能の神である」と言っています。「汝、我が前に歩みて全かれ」と言っています。これが清き心と良き良心とを教えているのです。我が前に歩みて全かれと一言で教えているのです。

 イエスは「生きて私を信じる者は死なない」と言っています。イエスを信じることが新約時代の基本です。私を信じる者は死んでも生きるというのが、新約時代の人間に言われたことです。新約時代の私たちは生きてイエスを信じるのであって、死ぬべき自分から抜け出して、死なない自分に変わってしまうのです。

 自分の本質が変わってしまうのです。新に生まれるのです。これを経験するのです。毎日、毎日これを経験するのです。経験し続けるのです。そうして、死と関係がない人間になるのです。そうすると、生きていること自体が神の国になるのです。私が生きていることが神の国だと言えるようになることです。

 神の国はあなた方の中にあるとイエスが言ったように、私が死なないのだから神の国を実験していることになるのです。こういうことが当たり前に言える人間になって頂きたいのです。そうでなければ新約の信仰とは言えないのです。

 ノアの洪水の後に、地球と人間は全部幻になってしまったのです。虹になったのです。人間存在が虹になったということは、地球存在が虹になったのです。

 神が地球を造ったのは人間を造るためでした。何のために地球を造ったのかと言いますと、ルシファーの代わりに新しい天使長を立てるためなのです。そのためだけなのです。そのための道具としてはとても大きいのです。

 神はたった一人の人間を造るために地球を造った。それでいいのです。神はとても贅沢なことをしているのです。もう地球は必要がありません。一人の人間さえできたらいいのです。それが神の初めからの目的です。そういう人間がいなくなったので、地球と人間を幻にしてしまったのです。ついでに幻もなくなるところでしたが、幻だけは残しておいたのです。

 ところが、神がアブラハムの時になってから約束を与えた。約束とは何かと言いますと、天地が造られた原理です。闇が反逆して闇の中から一つの力、言(ことば)としての力を引き出すことによって闇を押さえようとした。これが約束という計画です。その中心がキリストです。

 約束はアニメーションのシナリオです。約束というシナリオがなかったら、アニメーションが展開しないのです。そのように地球が展開されているのです。

 神の口から諸々の言葉がはき出されているのです。例えば形の世界、色の世界、味の世界、香りの世界、栄養の世界を同時にはき出しているのです。だから永遠に存在しているように見えるのです。

 時間がないという点を捉えると、ありてあるものは現前だけです。神という存在は瞬間的にしか存在しないのです。瞬間以外の存在があるとすれば、全部死です。だらだらと繋がっている存在があるとすれば、全部死を意味するのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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