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  • 管理人miwa

ジスタイム

私たちは今、地球の命を完成するために、地球の命を経験しているのです。命は皆様の命とは違います。

夫婦が仲良くすることよりも、親子が親密になることよりも、命を完成することが第一に必要なことです。命を完成しなければ、いくら夫婦が仲良くなっても何にもならないのです。命を完成しなければ、地獄へ行くだけです。

今生きている命はどういう命なのか。これは完成するための命です。そうしたら、とこしえの命が泉のように湧き上がるのです。

 イエスがくれる命の水を飲んだら、その人の中で命の水が湧き上がる。どのような水が湧き上がるかというと、永遠の命に至る水が湧き上がるのです(ヨハネによる福音書4・14)。

 その水は何年でも無限に湧き上がるのです。本当に飲んだら、飲んだ腹の中から命の水が無限に湧いてくるのです。これが人間が生きている目的です。

 道徳、財産、地位、名誉、自分の命より大切なことは、命の水が湧き出ることです。これを掴まえることが夫婦の目的です。兄弟の目的です。これを考えないで、兄弟だ、夫婦だと言ってみたところで、何にもならないのです。

 夫婦とか兄弟というのはこの世のことです。とこしえの命は永遠のできごとです。サマリアの女はそんな結構なものがあるなら、一杯くださいと言ったのですが、イエスは直接その人に与えずに、夫に与えようとしたのです。

 夫婦の場合には、できたら夫が妻のためにとこしえの命の水を飲むべきです。もし夫がその責任を全うできなければ、妻が夫の代わりをする場合もあり得るのです。

 もし結婚していない女性なら、他の男性の指導を受けるべきです。これは道徳、法律には関係がないことです。

 とこしえの命を掴まえるか掴まえないかは、神と人間との関係であって、これは絶対です。国家よりも世界全体よりも大きい問題です。国が滅びても世界が滅びても、神を信じる方が重大な問題です。

 できれば夫が中心になって妻を導くことが良いに決まっているのですが、それができなければ妻が中心になって信仰する場合があり得るのです。

 難しかろうが、困難であろうが、どうしてもしなければならないのです。人間は永遠の命を掴まえなければ、必ず地獄へ行くことになるのです。泣いても笑ってもそうなるのです。絶対にそうなるのです。善とか悪とかいう問題とは違います。絶対ということは絶対です。承知できなくてもしなければならないのです。

 どうしたらとこしえの命が掴まえられるのか。命は一つしかありません。夫の命とか妻の命があるのではない。地球の命が一つあるだけです。地球の命をお互いが分担しているのですから、これを掴まえたらいいのです。

 どんなに道徳を守っても、法律を守ってもだめです。命を掴まえなかったらいけないのです。これはどんなことを犠牲にしてもしなければいけないことです。

 人間は命を全うするために生まれてきたのです。これを掴まえそこなったら、どんなに苦労しても、どんなに善人であっても、どんなに真面目に働いても神の前には通用しないのです。

 命を掴まえるか掴まえないかだけを、神は見ているのです。神が見ているのはこれだけです。この神の処置を徹底的に考えて頂きたいのです。神はこれをする人間だけを捜しているのです。

 神は現在の天地を造ったのですが、顔をしかめて造ったのです。いやいや造ったのです。闇が淵の表に座り込んだのです。そこで神の霊が水の表を動かしたのです。そうでなければ神の霊が水の表を動かさないのです。

 現在、神の霊が水の表を動かしているのです。時間、空間があるのではありません。神の霊が水の表を動かしているだけです。時間、空間があるのではないということが分かった者だけを、新天新地の民にしようとしているのです。分からない者は地獄へ落とされるのです。これは大変な違いです。

 親鸞の正信念仏偈に、「帰命無量寿如来、法蔵菩薩因位時、在世自在王仏所」とあります。在世自在王仏所とは、この世にいながらこの世の王となるという意味です。

 仏というのは神を信じて救われる人間のことを言うのです。成仏したかったら神を信じたらいいのです。

 命は無限に生きるものですから、束縛したらいけないのです。無限に生きるということは、どんなことでもできること、限りなく生きることです。神と同じ命を持つのです。だから神の言うとおりにしなければならないのです。

 人間が考える道徳や法律はどうでもいいのです。これは人間が造ったもので、神が造ったものではありません。人間が造ったものを軽く見て、神が造ったものを重く見るのです。神の言葉に従って見なければいけないのです。

 夫婦の本当の姿はエデンの園の真ん中にある木の姿です。これが愛であり、命です。他の見るに麗しく、食べるに良い木とは違います。ウリやナスとは違います。ウリやナスは食べるためにあるのです。これは食べたらいいのです。

 ところが善悪を知る木の実は食べてはいけない実です。ではどうしたらいいのか。神が食べたら良いと言ったら食べたらいいのです。神の処置に従わなければ食べてはいけないのです。これが善悪を知る木の実です。

 エバはへび(悪魔)が食べたらいいと言ったので食べたのです。これが逆性です。神の御心に従わなければ愛とは言えないのです。エバはこれを世間並のものにしてしまったのです。

 今の女性のセックスの感覚は世間並です。命に繋がるための愛の発動がなければならないのです。これが本当です。これは世間並よりもレベルが高いのです。

 本当の愛、本当の夫婦とは何か。二人の者が会いて一体となるということですが、これはめったにないことです。これが実現するように勉強しなければいけないのです。

 今皆様が肉体的に生きていることは、神が肉体を持っているのと同じ条件で生きているのです。理性や良心は神と同じ心理機能です。人間は神と同じ条件で生きているのです。神と同じように刺身が食べたければ刺身を、ビールが飲みたければビールが飲めるのです。

 人間は生活でしたいことをしたらいいと神が言っているのです。神が肉体を取っても、私たちと同じような生活しかできないのです。これ以上の生活はないのです。

 全知全能の神でも、肉体を取れば私たちと同じ生活をするでしょう。

 今の人間の生活状態は、神が肉体を持っているのと同じレベルの生活をしているのです。だから、神と同じ思想が持てない者は、地獄へ行くに決まっているのです。

 神と同じ力を持って生きている。何を食べて、何を着ているのかを考えてみてください。だから死んだらただでは済むはずがないのです。

 神は人間が色即是空、空即是色を悟って、現世を捨てて新天新地の王になってくれるだろうと思うから、黙って見ているのです。

 聖書は次のように言っています。

 「イエスはまた群衆に対しても言われた。『あなたがたは雲が西に起こるのを見るとすぐ、にわか雨がやって来ると言う。果たしてそのとおりになる。それから南風が吹くと、暑くなるだろうと言う。果たしてそのとおりになる。

 偽善者よ、あなたがたは天の模様を見分けることを知りながら、どうして今の時代を見分けることができないのか。また、あなたがたはなぜ正しいことを自分で判断しないのか。

 例えば、あなたを訴える人と一緒に役人の所へ行く時には、途中でその人と和解するように努めるがよい。そうしないとその人はあなたを裁判官の所へひっぱって行き、裁判官はあなたを獄吏に引き渡し、獄吏はあなたを獄に投げ込むであろう。

 私は言っておく。最後の一レプタまでも支払ってしまうまでは、決してそこから出て来ることはできない』」(ルカによる福音書12・54~59)。

 天候のことが分かりながら、どうして今の時代を見分けることができないのかと言っているのです。偽善者よと叱っているのです。

 なぜ叱らなければならないのでしょうか。世界中で天候のことが分からない人はいないのです。雲が西に起こってくるとにわか雨がやって来ることくらいは、誰でも分かるのです。これが分かる人間には、永遠の命が分かるに決まっていると言っているのです。これはどういうことでしょうか。

 現実に目の前にある万物のあり方が分かると、海の魚、空の鳥、全地を治めることができるのです。人間はそういう力を持っているのです。

 雲の流れを知るということは、万物の命が分かるのです。雲の流れを知るということは、これくらい大きい問題なのです。

 人間は何の気なしにもうすぐ雨が降るだろうと言っていますが、これが分かる人間は万国の預言者になれる人です。預言者になれるだけの力がない人は、雲の流れが分かるはずがないのです。

 すべての人はそれほど神の実力を与えられているのです。だから自分ではできませんと言ってはだめなのです。もうすぐ雨が降るだろうと言った人はだめです。

 天地の顔を見ていながら、今の時が分からないのかとイエスは叱っているのです。今の時とは何のことか。日本語では今の時代と訳していますが、英語ではthis timeになっています。これは今の時です。今の瞬間です。

 雲の流れが分かるということは、ミカンの味が分かるということです。ミカンの味が分かるということは、生まれる前の命が分かるということです。生まれる前の命が分かる人は、ジスタイムが分かるはずです。だからすべての人は救われなければならないのです。

 神は新約時代では、すべての人の罪を許しているのです。完全に許しているのです。それでもまだ自分があるような気がするでしょう。これが罪です。

 ジスタイム(this time)とはこの瞬間のことです。目の前の瞬間がジスタイムです。

 目の前の瞬間しか時間はありません。昨日という時間はないのです。目の前の時間はどこから来るのか。これが分かると初めて命が分かるのです。命が分かればジスタイムがとこしえだということが分かるのです。

 なぜなら今、今、今と、時間はとこしえにあるのです。今、今、今と言いつつ今はなし。今という間に今は過ぎて行く。これが流れている時間です。

 今、今、今と言いつつ今はあり、この今はとこしえの今とも言えるのです。今が本当に分かったら、これが永遠です。これが分かったらその人は死なないのです。

 ルカによる福音書十二章五十六節は大変なことを書いているのですが、分からないのです。キリスト教ではどうしても説明ができない所です。何のことか分からないのです。なぜイエスが偽善者よと怒ったのか、これをよく考えて頂きたいのです。

 五十八節には、山上の垂訓の一節と同じことを書いているのです。訴える人と役人の所へ行く時には早く仲良くせよ。地獄へ行ったら最後、とことん償わなければ、そこから出てくることができないのです。

 人間はどんなに偉い人でも、偉くない人でも、訴える人と和解しなければ、皆地獄へ行かなければならないのです。

 雲の流れを判断できる人は、地獄へ行かなくてもいいのです。ところが地獄へ行かなければならない。どこでどう間違えたのかとイエスは怒っているのです。

 聖書は常識的な頭でごちゃごちゃ考えてもだめです。ただ黙って従うしかないのです。イエス・キリストの言葉を黙って受け取るしかないのです。

 これができる人は、この世が空だということが分かるでしょう。今、ここが分かれば般若心経が分かるのです。

 雲の流れが分かる人は、今が分かる人です。雲の流れは瞬間瞬間変わっているのです。今が分からなければ雲の流れが分からないのです。雲はみるみる変わります。これが地球現象を現わしているのです。

 雲がみるみる変わるように、地球現象もみるみる変わっているのです。つまり実体がないのです。今の地球ができる前に本当の命があった。これを掴まえたらいい。そうしたら永遠の生命が掴まえられるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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