聖書に、「汝ら励みて悔い改めよ」とあります(ヨハネの黙示録3・19)。普通の悔い改めではいけないのです。「悔い改めて福音を信ぜよ」とイエスが言ったのは、イエス在世時代の話であって、末の時代には「汝ら励みて悔い改めよ」と言わなければならないのです。
励みて悔い改めよというのは、普通の悔い改めとは違うのです。強引に悔い改めるのです。悔い改めを命令されるという意味であって、現在の末の時代には普通の悔い改めではだめです。
理屈だけを知ってそれを実行しないというのはけしからんことです。知っていながら実感できないというのは、非常に情けないことです。本当は芥溜めの中に頭を突っ込んで祈るくらいの気持ちが必要です。
人間は永遠の命をばかにしています。本当に真剣に御霊を求めようというほどの純真な気持ちがないのです。とにかくもっと純真になって頂きたいのです。
福音を信じるというのは、死ぬか生きるかの瀬戸際の問題です。永遠の命に入られるか、永遠の呪いに叩き込まれるかどちらかになるのです。八十年や九十年のことと違います。永遠に生きるか永遠に死ぬかの瀬戸際に立たされているのです。
キリスト教では、人間はこの世に生まれて騙されて育った。だから人間は死んでいると思っている。悪魔に騙された、いわゆる陥罪して善悪を知る木の実を食べたので、霊的に死んでしまったのだと思っている。
キリスト教では皆こういう言い方をしているのです。これは間違ってはいないですけれど、聖書を正しく読んでいないのです。聖書から見ると、人間がこの世に生まれた時に死んだのです。現世で生きていて騙される前にもう死んでいるのです。
キリスト教では、人間はアダムの子孫だから死んでいるのだと言います。ところがローマ人への手紙の四章十七節では、「死人に生活を与えている」と書いています。パウロはローマ人という異邦人に書いているのです。
異邦人は聖書の正確な理解をしていない。だから、アダムの罪が今日に及んでいるというような分かりやすい言い方をしているのです。これは間違っていませんが、正確ではないのです。
私たちはイスラエル民族に対して福音を伝えなければならない責任があるのです。そうするとキリスト教の神学くらいではだめです。パウロのローマ人への手紙の四章くらいではだめです。もっとはっきりしたことを言わなければいけないのです。
ローマ人への手紙の四章で書いている原罪の説明は、異邦人向けにできているのです。異邦人向けに言われていることをイスラエルに言ってもだめです。イスラエルに言うためには、しっかりと聖書の急所を押さえて言わなければいけないのです。
聖書によれば、人間は皆死んでいるとありますが、どうしても死んでいるとは思えない。やはり人間は皆生きていると思っている。これはどういうことかと言いますと、肉体的に生きているということです。肉体的に生きているという思いが、はっきり死んでいる証拠になるのです。
パウロは言っています。
「これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩く私たちにおいて、満たされるためである。
なぜなら肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。
肉の思いは死であるが、霊の思いは命と平安とである」(ローマ人への手紙8・4~6)。
肉体人間として生きている人は、肉に従って自分のことを見ているのです。肉体的に生きている自分のことを生きていると思っている。これが死んでいることです。肉の思いが死である。肉体の自分を自分だと考えている人は、絶対に救われないのです。人間が肉に従っている証拠に、肉体的な自分のことを考えているのです。
肉体がなぜあると思うのか。「神の国は霊である。言葉と力である」とあります。肉体的に生きていることが悪いのではないのですけれど、これは影であるとはっきり意識していれば、肉体的に生きていることが幸いになるのです。
ところが肉体的に生きていることを影であると考えないで実体だと考える。これを考えている人間は必ず地獄へ行くのです。
人間は肉体があると思えてしようがないのです。キリスト教はここまで説明しません。キリスト教でいう肉の思いというのは、泥棒するとか嘘を言うことだと思っているのです。人の悪口を言うとか、犯罪行為をすることが肉の思いだと言っているのです。
ところが聖書が言っているのはそうではありません。聖書が見ているのは、肉体的に生きているその気持ちを肉の思いと言っているのです。
キリスト教と聖書では段が違います。神は霊であるから、拝するものも霊と誠を持って拝すべきであるということは、十分にできるのです。
肉体人間が自分だと思っているその思いが死です。人間の命は思いです。自分の思いが自分の命になっているのです。だから肉体的に生きていると思うのは、虚しい思いで生きていることになっているのです。その思いを捨てない以上、その人は命を経験することはできません。
死んでいるものの思いを持っている状態で命を経験しようと思っても、聖書を正しく勉強しようと思ってもだめです。
目の前に花が咲いているとします。花が咲いているのは何か。イエスは野のユリを見よと言っています。花が咲いているというのは神が装っているのです。そこに神の国があるのです。だからそこに入れと言っているのです。
天地の命が花になって現われている。天地の命はとこしえの命です。青葉、若葉には地球の命、宇宙の命がそのまま現われているのです。
青葉を見ているのは命を見ているのです。しかし人間は青葉は見ているが、命を見ていない。これが盲目の証拠、死んでいる証拠です。
花の中に神の国がありますから、その中へ入ったらいいのです。水と霊とによって新しく生まれて神の国へ入ればいいのです。
肉体的に生きている人間は神の国へ入れません。本当に入りたいと思うなら、素朴になればいいのです。
地球には命があります。地球が自転公転しているのは命を証しているのです。毎日、毎日、三百六十五日、地球を見ていながら、地球に命があることを知らない。人間はこれほど見事に死んでいるのです。寒いとか暑いということが神の国です。地球が自転公転していることが神の国です。夜が明けたら神の国が来たのです。
人間は神に生かされているのです。花が咲いていることが神の国なら、鼻から息を出し入れしていることは、神の国に決まっているのです。
目が見えることは神の国に決まっているのです。生理現象は全部神の国です。人間は神の国に生きていながら神の国が分からないのです。
心臓が動いていることが神の国を証しているのです。目が見えることが神の御霊の働きです。耳が聞こえることが御霊の働きです。そのように人間は毎日神を経験しているのです。生ける誠の神を経験しているのです。だから私たちは神の子です。
生かされているということは霊なることです。花が咲いていることは霊なることです。鳥が神に養われている。蒔かず倉に収めない鳥が神に養われている。鳥が神に養われていることが神の国です。鳥のように生きればいい。これが神の国と神の義を求めることになるのです。
人間は神の国に生きていながら、霊魂が神の国に入っていない。肉体が神の国に生きていながら、霊魂が神の国に入っていない。こんなばかなことがあっていいのでしょうか。人間は神の国を知っていながら、みすみす地獄へ行くのです。知っていながら地獄へ行くのです。
生かされていることが霊です。生きていることは肉です。自分が生きているからです。生きているという肉を捨てて、生かされているということを考えさえすれば、生活は毎日神の国の生活になるのです。そうならなければおかしいのです。
人間は神と顔を突き合わせていながら、神が見えない。神が分からないということはどういうことなのか。生かされているというのは生理機能の働きですが、これが神の国です。消化機能、呼吸機能が神の国です。「神の国は実はあなたがたの中にある」(ルカによる福音書17・21)というイエスが言っているのは、これを指しているのです。
「聖なるものを犬にやるな」とイエスが言っています(マタイによる福音書6・6)。聖なるものは聖霊です。犬は異邦人です。イエスだったら異邦人は相手にしないでしょう。
しかしユダヤ人がイエスを殺してしまったので、ユダヤ人が動物扱いをされて、異邦人が人間扱いされることになった。だから私たちにも聖霊を受けるチャンスが巡ってきたのです。
生かされているということは霊です。霊によって生かされていながら、思いが肉です。霊によって生かされていながら、肉の思いでそれを見ているのです。
五官の働きは神の言葉です。神の言葉の働きを持っていながら分からないのです。肉の思いで考えているからです。
神が霊であることは、人を生かしているということに現われているのです。人間は肉体人間として生きていると思えてならないのです。ところが肉体はないのです。
呼吸機能、消化吸収機能、排泄機能があるだけです。生理機能が肉体になって現われているのです。
機能というのは働きです。働きというのは事がらです。事がらは霊です。呼吸機能、消化吸収機能、排泄機能のどれ一つ欠けても人間は生きていけません。機能という働きがあるから肉体が生存しているのです。だから色即是空は当たり前のことです。
肉体があるのではない。呼吸機能が止まったら心臓が止まるのです。止まったら肉体はなくなるのです。ただ焼かれて灰になるだけです。
生理機能が働いているだけで肉体はない。肉体が存在するという考え方は間違っているのです。
自分の思いで自分が生きている。肉体感覚で生きているというのは肉の思いです。肉の思いのもう一つの働きが自我意識です。
自我というのはあるはずがないものです。人間は自分で生まれたと思ったわけではない。従って自分が生きているはずがないのです。ところが人間は自我意識で固まっている。
肉の思いさえ蹴飛ばしたら、命はすぐに分かるのです。生きているという事実さえ分かればいいのです。肉体がないのですから、肉体人間はどこにもいないのです。これが分かると自分の思いがばかみたいだということが分かってくるのです。そうすると肉体人間の思いを問題にしなくてもよくなるのです。
人間の思いは妄念ばかりです。自分の思いというのは楽しいことも悲しいことも全部妄念です。良いと思っても妄念ですし、悪いと思っても妄念です。利害得失は全部嘘です。
イエスは「心が貧しい人たちはさいわいである」と言っています(マタイによる福音書5・3)。心が貧しいというのは英語ではthe poor in spiritになっていますから、霊において貧しいと訳すべきです。
霊においてとは生きている状態においてということです。生きている状態において何も気にしないのです。
例えば人に誤解されてもドンマイ(don't mind)と言うのです。お金が儲からなくてもドンマイです。ボーナスが少なくてもドンマイです。どんな時でもドンマイと言うのです。
ただ霊魂に関すること、死ぬか生きるかについてはドンマイと放っておけないのです。この世の出来事はどんなことでもドンマイでいいのです。
そうすると神の御心だけが成就していくのです。イエスが言っている山上の垂訓の精神はこれです。簡単明瞭です。右の頬を打たれてもドンマイ、下着を奪われてもドンマイです。悪しきものに逆らうな。ドンマイ、ドンマイでいいのです。そこに神の国があるからです。
絶対に臍を曲げてもいけないし、怒ったらいけないのです。焼きもちをやいたらいけない。どんなことでもドンマイでいけば、必ず神の国へ行けるのです。
この世で自分の気持ちで願っていることが、実現すると思うことがいじましいのです。現世で幸福になろうという考えがいじましいのです。人間はとにかくこの世のことが大切に思えてしかたがないから困るのです。
人間はなぜ自我意識を持っているのか。神は人間に自意識を与えているのです。
人間は現世で神を経験しなければならない責任があるのです。人間の霊は人生です。生きていることが霊です。魂は言が肉体となっているのです。霊という魂が生きているのです。人間の霊と魂は神を経験するためにこの世に来ているのです。
神を経験しようとすると、霊魂が経験の主体にならなければいけないのです。人間の霊魂は経験の主体となる機能性を持っているのです、海の魚、空の鳥、家畜と全地を治めなければならないからです。
人間は悪魔に代わって、神の番頭役を務めなければならないのです。神を経験して、万物を指導しなければならない責任があるのです。神を経験して万物を指導しなければならないので、経験の主体としての自意識が必要なのです。
自意識というのは私という意識であって、主我的なもの、個我的なものではないのです。イエスは私を信じなさいとか、私は神の子であると言いました。この私は自我意識ではなく自意識としての私です。
イエスは神の内にいたのです。神の内にいても自分という意識を持っていた。これは自我ではないから少しも邪魔にならないのです。
自意識がなければ、経験の主体となることはできません。霊なる神を拝することはできないのです。主体的意識がなかったら拝することはできないのです。信じることもできませんし、命を与えることもできないのです。これをするためには自意識がいるのです。
もう一つ重要なことは自由意志です。人間は牛肉を食べようが、豚肉を食べようが、あるいは魚を食べようが自由です。お金がある人はあるように、ない人はないように自由にしたらいいのです。
人間には自由意志と自意識が与えられているのです。この二つがあるから自我意識が発生するのです。肉体人間を信じて自意識と自由意志を使うと自我意識になってしまうのです。
悪魔は自意識と自由意志があるから自分がいると考えたのです。そして悪魔と同じ考えを人間に植えたのです。
自意識と自由意志がなければ天使長になれないのです。人も悪魔に代わって神の番頭役を務めなければならないのです。そこで自由意志と自意識が与えられているのです。これを肉体人間に結びつけて考える。だから自我意識になってしまうのです。
何のために人間に自由意志があるのかと言いますと、神に仕えようか、自分に仕えようか、霊の思いで生きようか、肉の思いで生きようかと選択するためには、自由意志がいるのです。
神に従うか、悪魔に従うかどちらかを選べと神は言うのです。命が欲しいか、地獄へ行きたいかどちらでもいいと神は言うのです。行き先を決定するのが自由意志です。
神に仕えるためには自由意志がいるのです。神の僕になるためには自由意志がいるのです。
肉体はありません。機能があるだけです。肉体人間が存在するという考えが間違っているのです。自意識があっても認識の主体となるために使えばいいのです。
自由意志があってもそれを乱用してはいけないのです。霊なること、神に仕えるために自由意志を用いなければならないのです。
人間がこの世に生きているのは、神に遊ばせてもらっているのです。機嫌良く遊んだらいいのです。この世では損も得もありません。毎日、毎日経験しているのです。
ただ神に仕えていればいいのです。パウロは神の奴隷となるとか、イエス・キリストの僕とか言っています。これは自意識の使い方を示しているのです。僕となるために、自分の意見を捨ててしまわなければいけないのです。一切合切、自分の意見を捨ててしまうのです。
禅宗三祖大師の信心銘に、「欲得現前莫存順逆」という言葉があります。現前を得ようとすれば、憎愛の心を離れなければならないのです。これがドンマイということです。
人間は救われなければならないようにできているのです。神を信じるということは、自分の気持ちを捨てることです。
自分の気持ちを持ったままでは、神を信じることは絶対にできません。神を信じるということは、自分の気持ちを全部神にあげることです。自分の気持ちを持ったままで神を信じようと考える。だから偽善者になるのです。信じたような格好ばかりなるのです。
聖書を決して難しいと思ってはいけないのです。神を信じるというのは誠に気楽なことです。ただ自分の気持ちを捨てることです。
山上の垂訓は自分の気持ちを捨てることです。ドンマイが山上の垂訓の秘訣です。ドンマイで山上の垂訓が全部実行できるのです。
自分の気持ちを握っていると、それが皆重荷になるのです。「すべて疲れた者、重荷を負う者は私に来なさい」とイエスが言っています。
なぜ疲れるのか。自分が生きていると思っているからです。そこで重荷になるのです。そんなものはほっといたらいいのです。
自分はいないし、自分の肉体もないのです。ただ、機能があるだけです。機能が肉体になって現われているだけです。
地球も同じです。宇宙の命が地球に現われているのです。物理はあるが地球は存在しない。地球という物質はどこにもないのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)