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  • 管理人chaya

はじめに


 彼岸とは何か。どうしたら彼岸に入れるのか。仏典の究極の目的は彼岸に入ることですが、それが仏典では明らかにされていなかったのです。人間歴史の中でそれが全く分かりませんでしたが、人間歴史の終末において幸いにもそのことを教えられたので、ようやくにしてそれを書くことができました。

 今回この書を出版するに際して、躊躇せざるを得ませんでした。それは、この書の内容がまだまだ不完全だったからです。もっと完全なものにして出すべきではないかと思ったのです。

 しかし、混迷した文明、目的がない文明が、いつまでも続いているのです。人間が果しなく死んでいくのです。私はこの現状を看過することができないので、不完全ながら本書を出版することにしました。

 この書の出版を契機にして、もっと優れた本が出版されることを望みたい。そして、「彼岸に入る方法」について、議論が起きることを強く望む次第です。本書がそのための導火線、起爆剤になれば、大変な喜びです。

 言い伝えによりますと、釈尊が死ぬ直前に、「私の説いた教えは不完全で、仮のものだった。やがて本当のことをすべて教えてくれる人が現われるから、その人に聞きなさい」と言って死んでいったと言われています。そして五○○年後に、ユダヤのベツレヘムで、メシヤであるイエスが誕生したのです。

 インドにいた三人の博士が、ユダヤのベツレヘムでイエスが誕生したのを察知したので、黄金、乳香、没薬などの贈り物を用意して、はるばるインドからユダヤのベツレヘムまで、旅をして訪れたのです。

 三人の博士たちはエルサレムに到着したのですが、イエスがユダヤのどこに誕生したのか分からなかったので、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。私たちは東の方でその星を見たので、その方を拝みに来ました」とヘドロ王に尋ねたのです。イエスがベツレヘムで誕生したことを聞いて、そこに行って贈り物を捧げたのです。この間の事情については、新約聖書マタイによる福音書二章一節から二十三節に詳しく述べています。

 今まで、仏教界で一人も彼岸が分からなかったのはなぜかと言いますと、釈尊の悟りとイエスの復活の命を一つにして見ることができなかったからです。私は仏典の真髄と聖書の真髄を一つにして見たので、彼岸の実体を知ることができたのです。釈尊は明けの明星を見て、大悟徹底したのです。

 ところが、イエスは「私は輝く明けの明星である」と言っています(ヨハネの黙示録22・16)。釈尊は復活したイエスを見たのです。ですから、釈尊とイエスは切っても切れない大関係になるのです。仏典は仏典、聖書は聖書であって、全く関係ないと思われてきたために、彼岸の実体がどうしても分からなかったのです。般若心経と聖書の不思議な関係につきましては、拙書「般若心経と聖書の不思議な関係」一巻から三巻に詳しく述べていますので、ご覧頂ければ幸甚に存じます。

 皆様は現在生きていますが、何のために生きているのか分からないのです。文明ができて人間の歴史が始まってから、だいたい六千年になりますが、人間が何のために生きているのか分からないのです。

 皆様は何のために生きているのか分からないままの状態で、死んでいかなければならないのです。現代人は神経がおかしくなっているようです。そういうことが、当たり前だと思っている人がずいぶん多いのです。

 何のために生きているのか、自分の人生経験がどういうことであったのか、それが分からないままの状態で死んでいくことになるのが、当然だという考え方、これは実に無責任、無感覚、無自覚、無定見のひどい考え方です。

 こういう考え方にしてしまったのは、現代文明です。これがルネッサンス以降の文明です。ルネッサンスはユダヤ人のトリックですが、ユダヤ人がこういうやり方で白人社会を騙した。白人社会はユダヤ人の言うとおりに動いているのです。その白人の考えのとおりに日本人は、動いて行かなければならないことになっている。こういうことを冷静に考えて頂きたいのです。

 文明は人間のためにあるはずです。人間が文明に隷属するものではありません。ところが現代では、人間が文明に奉仕させられている。思想的、学問的、政治的、経済的にも、皆様は現代文明に引きずり回されているのです。

 文明の他に信じるものがないから、しかたがないかもしれませんが、般若心経を冷静にお読みになれば、今の文明が間違いだらけであること、間違いの塊であることが分かるのです。これは般若心経を読むだけで分かるのです。

 日本には、般若心経という非常に貴重な文化財があります。白人文明の中には、般若心経というような高等に、高尚的確に、人間の真髄をずばりと言い切っている文化財は、一つもありません。

 白人は肉体人間を認めることが、本性のようなものです。日本人は農耕民族であるために、人間存在を認めることよりも、お天道様を認める感覚が強いのです。これは日本人の特徴です。

 その日本に、般若心経というすばらしい文化財が現存していることは、誠に心強いことです。しかし、そのせっかくの般若心経でも、仏教の経典になってしまうと、三文の価値もないことになるのです。宗教はこれほど悪いものなのです。

 般若心経は仏教の経典ではありません。人間存在の輝かしい文化財の筆頭に上げられるべきものです。ぺらぺら読んだり、書いたりして、すましておられるような仏教のお経ではないのです。

 それを仏教では、経典のように扱ってしまっている。般若心経の経とはスートラということで、縦に繋がっているということです。上から下りてきたという意味にもなるのです。つまり般若心経は、天来の哲学の原則のようなものです。命に関する天来の原則が、般若心経なのです。

 般若心経の中に五蘊皆空という言葉があります。五蘊皆空というのは、人間の思いが本質的には幻覚にすぎないということです。こういう明解な言い方は、白人社会にはないのです。白人思想は非常に浅薄なものです。人間の思いそのものが五蘊であるという思いきった言い方は、東洋人でなければできないのです。

 現在、般若心経の字句を尊重する習慣を持っている民族は、日本人しかいないのです。だから、せっかくの般若心経を、宗教的に曲げてしまうことをしないで、宗教家の手から般若心経を奪い返して、皆様の貴重な命の資料にするべきであると思います。

 釈尊は宗教家ではなかったのです。従って、釈尊の思想が最も端的に二百七十六文字において明確に現われている般若心経は、宗教の経典ではありません。皆様の人生の礎となるべき重要な文化財です。

 現在の仏教界で、般若心経の説明をするお坊さんはたくさんいますが、般若心経の字句を実行している人はいません。自分自身の命の実体として捉えている人はいないのです。

 宗教はいんちきです。日本の憲法には宗教の自由という言葉がありますが、信じても信じなくてもいいと言っているのです。従って、般若心経が宗教の経典であれば、色即是空という言葉でも、五蘊皆空でも、信じても信じなくてもいいとなるのです。

 色即是空は本当のことです。人間は目で見たものが、目で見たとおりにあると思っている。これが迷いです。幻覚です。

 人間の目は、有形的に存在するものを見るためにあるのではない。有形的に存在するものの本質を見るためにあるのです。

 皆様は現在生きていらっしゃいます。ところが、皆様が今日まで生きていらっしゃったその命を続けても、ただ死ぬだけです。死ぬに決まっているのです。

 ところが、死にたくないという気持ちが皆様にあるのです。死んだらどうなるかを、皆様の霊魂は正確に知っているのです。このまま死んだら大変なことになるということを、霊魂は知っているのです。だから、死にたくないという非常に強い気持ちが皆様の中にあるのです。

 ちょっと病気になるとすぐ病院に行きます。そのように、人間の霊魂は命の尊さをよく知っているのです。ところが、皆様の常識がそれを忘れているのです。

 皆様は常識では死ななければならないと思っているでしょう。しかし、直感的には死にたくないと思っているのです。死にたくないという霊魂の願いが、いわゆる本能であり、本心であって、人間の本心は死んではだめだとということをよく知っているのです。

 皆様は今まで、命のことを考えなさすぎたのです。ただ生活のことだけを考えていたのです。いくら人間が生活と言ってみても、死んでしまうに決まっている人生です。

 般若心経は、そういう考え方が根本的に間違っていると言っているのです。五蘊皆空、人間の考えは本質的には幻覚であると言っています。人間がいると思っていますが、本当にいるのではないのです。人間はないものをあるように幻覚しているのです。

 般若心経はそれをはっきり書いていますけれど、これを宗教のお経として読んでいますと、信じてもいい、信じなくてもいいとなるのです。だから、せっかく般若心経が日本にありながら、ご利益が全然分かっていないのです。

 般若心経を宗教として扱っていることが間違っているのです。釈尊は宗教家ではなかったのです。ですから、般若心経は宗教ではないのです。

 日本には、釈尊の本当の悟りが全然伝わっていません。日本の仏教は、日蓮の宗教、親鸞の宗教、弘法大師の宗教というように、各宗派のお祖師さんの信仰が仏教になっている。これはお釈迦さんの悟りではありません。よく似たような所はありますけれど、全く違うのです。

 釈尊の悟りは一切空とはっきりしているのです。般若心経は完全とは言えませんが、釈尊の悟りをほぼ正確に伝えているのです。

 般若心経は仏教に反対しています。例えば、無苦集滅道、無智亦無得、以無所得故と言っています。無苦集滅道とは、四諦のことです。

 四諦八正道は、日本の大乗仏教の中で、唯識論の中心になっています。それを般若心経は真正面から否定しているのです。般若心経が仏教ではないことを、般若心経自身が主張しているのです。

 般若心経を仏教の経典としてではなくて、命の真髄として、その字句をはっきり見極めて頂きたいのです。

 死にたくないという皆様の本心が本当なのです。人間は死んではならないのです。肉体は滅びます。肉体は消耗品ですから、使えば古くなって滅んでいきます。しかし、霊魂としての人間の本性は、絶対に死んではならないのです。

 このことを皆様の霊魂は知っている。これが死にたくないというやみがたい気持ちになっているのです。だから、病院が繁盛するという妙な現象になっているのです。

 病気は治ってもいいし、治らなくてもいいのです。死なない命を掴まえれば同じことです。

 死なない命はあるのです。イエス・キリストが死人のうちから復活したことは、歴史的事実です。人間が死ななくてもよくなってから、二千年以上にもなるのです。それをキリスト教はめちゃくちゃにしているのです。

 キリストの復活の命が、現実に皆様の命になっていることを、キリスト教が邪魔をしている。それを宗教の売り物にしているのです。死なない命を求めてきた人々に、死んでから天国へ行くというのです。キリスト教の教義を信じれば、死んでから天国へ行って幸せになると説いているのですが、そんなことは一言も聖書には書いていません。

 聖書は、今生きているままで永遠の命を得ることができる。イエス・キリストの十字架、復活によって、今生きている人の命が復活の命になっているという、驚くべきことを書いているのです。

 キリスト教の教義は全部嘘です。死んでから天国へ行くのではない。今生きている間に天国へ入れと言っているのです。

 宗教観念はこの世では通用しますけれど、この世を去ってしまえば全く通用しません。霊魂はそれを知っているのです。だから、皆様は何となく宗教が信頼できないような気がするのです。

 イエスはただの青年でした。宗教が全く嫌いな青年でした。だから、宗教家を偽善者だと言ってひどく叩いているのです。宗教家と律法学者をひどく嫌っていたのです。

 今、皆様の心を毒しているのは宗教と学問です。この二つが、皆様の魂の純粋さをめちゃくちゃにしているのです。

 現在の日本では、命を正確に説明する人はいません。死ぬに決まっていると思っていることが間違っているのです。イエスが復活したという事実をよく勉強すれば、死ななくてもいいのです。

 現に皆様の霊魂は死にたくないとはっきり思っています。死にたくないという霊魂の声を、素直に、率直に聞いて頂ければいいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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