top of page
検索
  • 管理人chaya

未完成の地球と未完成の人間


 人間は死ぬのが当たり前だと思って生きています。十人が十人、百人が百人共、死なねばならないと思って生きています。ところが、心底では死にたくないと思っているのです。

 死にたくないと思っていながら、その気持ちを正直に持つことができない。死なねばならないと思っているのです。これはどういう事でしょうか。

 死にたくないという気持ちがないのなら、死なねばならないと思うのはしかたがないのです。皆様は死なねばならないと考えていながら、死にたくないという気持ちが腹の底にあるに決まっているのです。

 死にたくないという気持ちがありながら、死なねばならないと思っている。こういう二重人格的な感覚が、自然にできてしまっているのです。

 これは命に対する真面目な考え方が定着していないから、死にたくないと思いながら死なねばならないと思うのです。こういう矛盾した考え方を持つことをやめるように正直に考えて頂きたいのです。

 死なない命はあるのです。あるに決まっているのです。死にたくないというのは人間の願いです。本願です。または本望とも言えるでしょう。本心とか本望とかいうものは、必ずそうならねばならないことが、何となく分かっているのです。何となく分かっているから死にたくないという気持ちがあるのです。

 ところが、一方では死なねばならないという気持ちが人間にあるのです。これはどういうことかと言いますと、人間というものと魂とは別物なのだということです。別のものが一つになって生きているのです。

 人間として生きている場合には、魂として生きていないのです。人間である自分を認識している時には、魂である自分が皆目分かっていないのです。

 魂は人間の本質ですが、魂である自分がはっきり分かっていますと、人間の方は無視された状態にあるのです。

 常識で生きている人は、人間として生きているのです。常識というのは、本当の命を考えない人間の知識です。

 知識、常識、学問は般若心経の五蘊に入るのです。魂は人間の本心、本願として人間に隠れている気持ちです。潜在意識というようなものです。深層意識というようなものです。

 理性と良心の本質は、表面的には現われていないものです。表面に現われているのは、世間の人間関係の常識、社会状態のあり方というもので、人間の方に入るのです。

 常識を基礎にしている人間は、死なねばならないのです。死ぬに決まっているのです。

 死にたくない、死ぬのが嫌だというのは魂の本質です。人間として生きていますと、魂が全然分からないのです。

 皆様は三十年、四十年、長い人は八十年、九十年の間生きていました。人間として生きておいでになった人は、魂や命のことが全く分からないのです。だから、死んでからどうなるかが全然分からないのです。

 最近の日本人の考え方は、死んでしまえばそれまでだと思っているのです。皆様もそういう現代感覚に、知らず知らずのうちに引き込まれているかもしれないのです。

 人間が死んでしまえばそれまでだということが本当であるとしたら、葬式をする必要はありません。墓を造る必要もないのです。年会とか法事をする必要もないのです。

 人間は葬式もしますし、墓も建てるのです。死後のことを全然考えていない共産主義者でも立派な墓を造っているのです。

 レーニンの墓であるレーニン廟は巨大な墓で、陵墓と言えるものです。年間の維持費は六千万円かかると言われています。無神論者であるレーニンは世界一立派な墓を建ててもらっているのです。

 「資本論」を書いたマルクスの墓は、ロンドン郊外にありますが、直径二メートルの大きな顔が墓として置かれているのです。

 共産主義を世界中に流したマルクスやレーニンに巨大な墓が造られているのはなぜか。死後があるから墓が造られているのです。

 人間は死を無視することができないのです。皆様は現在常識で生きている状態です。人間として生きていますが、どこか間違っているとお考えになっていると思います。

 どこか間違っているという気持ちがあるから、死にたくないという気持ちが湧いてくるのです。自分が生きている状態が本当に間違っていないのなら、死にたくないという気持ちが出てくるはずがないのです。

 死にたくないという気持ちが起きるのは、死んでからが大変だということが分かっているからです。だから、どうしても死にたくないという気持ちが起こってくるのです。

 常識で生きていることが、百人が百人共、千人が千人共分かっているのです。分かっていながら正しい生き方を考えようとしない。これがいけないのです。

 もし皆様が間違っていることが全然分からないのならしかたがないのですが、生き方が間違っているということは、十人が十人、百人が百人共分かっているはずです。

 ところが、世間の人たちが自分の命のことを真面目に考えようとしないので、自分もこれでいいのだろうと思っているのです。自ら安心できないのに、安心したような格好で自分自身をごまかしているのです。

 このことを真面目に考えた頂きたいのです。日本人は自分の命を真面目に考えるという習慣が、全くないのです。困った民族です。

 般若心経を日本人は読んでいます。読んでいながら、般若心経の本当の意味を知ろうという人がめったにいないのです。

 ある奈良のお寺は、般若心経を写経して千円を添えて送るとご利益があると言って、百万人から十億円を集めたのです。これで金堂を再建したのです。現在までに六百万人の写経が集まっていますから、六十億円の収入があったのです。

 高田好胤管長は全くの商売坊主でした。好胤さんだけでなくて、日本中のお坊さんは皆商売をしているのです。キリスト教の牧師も同様です。天理教もPL教団、生長の家も同じです。

宗教は営業

 日本の宗教はどれもこれも営業ばかりしているのです。宗教という名前の営業です。

 なぜ宗教という商売が流行るかと言いますと、人間が幸福になりたい、人間が救われたいと考えているからです。肉体人間が自分だと思い込んでいるのです。しかし、どこか間違っているという気持ちはあるのです。魂という本音があるからです。

 魂は人間の本音ですが、本音のことはめったに外に出さないのです。常識だけで世間のつきあいはできるのです。商売もできますし、月給も取れるのです。そこで世間並みの常識しか考えないという悪い習慣が日本人についてしまったのです。

 ところが、それが間違っていることを、皆様は心の底ではご存知なのです。ご存知だから、般若心経や聖書の勉強をしたいと思われるのです。

 宗教というばかなものがなぜあるのか。これは仏教が悪い、キリスト教が悪いという問題ではありません。百人が百人、千人が千人共、この世に生まれてきますと、常識で生活するのです。世間並みの考えで生きることが、世間一般の常識になっているのです。

 ところが、魂の奥底では常識で生きることが間違っていることを、皆様一人ひとりが十分に承知しているのです。世間並みで生きていることがどうも間違っていると思えるのです。死んでからどうなるのかということを考えずにはいられないのです。そこで宗教が顔を出してくるのです。

 死んでからどうなるかを考えますと、神や仏を相手にしない訳にはいかないのです。自分が生きている生き方が正しいものではないことを皆知っているのです。だから、宗教という考え方が必要になってくるのです。

 宗教が本当のことを言うのなら結構です。宗教が流行るのはこの世の間だけです。仏教が言っていること、キリスト教が言っていることは、この世でしか通用しません。

 死んでしまうとこの世から去ってしまうのです。こんなことは子供でも分かることです。この世から出てしまうと、この世の常識は通用しません。

 宗教はこの世の常識です。常識の一つです。現世では通用しますが、死んでしまいますと、皆様は別の世界へ行くのです。他界しますから、他の世界へ行くのです。

 死んでしまうと別の世界に行くのです。別の世界ではこの世のことは一切通用しません。通用するはずがない所へ行くのです。

 ところがおかしいことに、この世の寺や教会が言う理屈が、死んでからも通用するように思い込まされているのです。般若心経を正しく読んでいないからです。般若心経を正しく読んでいれば、この間違いが分かるのです。

 般若心経を仏教のテキストとして読んでいると、般若心経が宗教になってしまうのです。五蘊皆空とか色即是空、究竟涅槃という言葉があっても、それをまともに読もうとしないのです。まともに読むことが恐ろしい気がするのです。

 皆様は現在生きているという事実がありますが、これは常識には関係がありません。家庭を持ったり商売をしたりしているのは、常識によってできているのです。

 ところが、死んでからどうなるかということは、常識ではないのです。この世を去ってからは、常識は通用しません。そこで神仏を考えようという気持ちが起きてくるのです。その神や仏を常識で信じようとしているのです。

 宗教は常識で分かる神仏しか説くことができないのです。それを般若心経は五蘊皆空という言い方で否定しているのです。人間の常識を否定しているのです。

 般若心経に遠離一切顚倒夢想という言葉がありますが、人間の考えが間違っているから、人間の考えで神仏を考えてはいけないと言っているのです。

 ところが、般若心経を寺で説くので、般若心経が商売のねたになっているのです。世間並みの常識で般若心経を扱っているからです。ところが、般若心経を説いているのは魂のことを説いているのです。全然見当が違っているのです。

 この間違いをはっきり言葉に出して言う人がいないというのは、どういうことでしょうか。私は皆様にこういう間違いをはっきり知って頂きたいのです。

 日本人は間違いを信じ込まされて、誤った生き方を強制されているのです。宗教によって人間の考え方が間違った方向にねじ曲げられているのです。

 親鸞上人や空也上人は真面目に考えていたようです。しかし魂がはっきり分からなかったのです。親鸞は魂という言葉を一度も使っていないのです。歎異鈔には霊魂という言は一回も出てきません。

 一万七千六百巻と言われる膨大な経典の中には、魂という字は一字も出てこないのです。仏教は悟りを説いています。今の人間の考え方が間違っていると説いています。これが空観です。

 仏教の空観はすばらしいものです。般若心経の色即是空、五蘊皆空というのはすばらしい考え方です。

 ところが、人間が現在生きていることが空であるなら、実の人生、実という人間の命がなければならないのです。実というべき人間の命はどこにあるのか。それが何であるのかを、般若心経は全然説いていないのです。

 般若心経は空を徹底的に説いているのです。大業に空と言っているのです。般若心経が言うように、現在生きている人間の常識は間違いなく空です。

 皆様は五十年、六十年の間、この世に生きてきました。常識で生きてきました。それで何が分かったでしょうか。家庭生活を送ってきました。それによって人間の本質が分かったのでしょうか。魂のことが分かったのでしょうか。

 本当の空が分からないままで、般若心経を読んでいても空念仏になっているだけです。

 仏説阿弥陀経には、「阿弥陀如来の名号のいわれをよく心得て、念仏申せ」と書いています。ところが、阿弥陀如来の名号のいわれを真宗のお坊さんが知らないのです。お坊さんが知りませんから、信者さんも知らないのは当たり前です。

 阿弥陀経には書いています。大無量寿経にも書いています。ところが、三部経を読んでいるお坊さんで、阿弥陀如来のいわれが分かっている人は一人もいないのです。宗教はこういうことをしているのです。

 宗教は悪いものではないとしても、嘘です。悪いことと嘘とは少し違います。嘘というのは満足を与えておいて騙すのです。悪いというのは満足を与えないでかっ払うのです。悪いことと嘘とは少し違うのです。

 宗教は人間にある種の安心感を与えるのです。そうして嘘をつくのですから、罪深いことになるのです。

人間と魂

 人間と魂の関係が分かればいいのです。簡単なことです。

 魂は死なないものです。死ねないものです。なくならないものです。霊魂不滅という言葉がありますように、魂は不滅です。

 なぜ魂は不滅かと言いますと、魂は神から出てきたものだからです。神から出てきたものは、神そのものです。神が不滅であるように、魂もまた不滅です。死にたくても死ぬことができないのです。

 そこで魂の本性が分かれば、皆様は死なない命がはっきり分かるのです。死にたくないという皆様の願いは魂の声です。死ななければならないという思いは人間の常識です。

 人間の常識と魂の本心とは違うのです。皆様と私は、同じ時代に同じ命を持って生きているのですから、皆様が死んでいくのを、黙って見ている訳にはいかないのです。だから、こういうことをお話ししているのです。

 日本中の宗教は皆間違っているのです。宗教は現世の教えであって、死んでからのことは一切責任を取りません。

 般若心経をまともにお読みになれば、宗教の間違いはすぐに分かるのです。

 聖書は人間が書いたものではありません。聖書には永遠の命、死なない命がそのまま出ているのです。これを素直にお読みになれば、死なない命を掴まえることができるのです。

 日曜日はイエスが復活した記念日です。一週間に一回ずつやってきます。イエスは一度死んで復活した。はっきり死を破ったのです。これは歴史的事実です。このことが分かりさえすれば、皆様の霊魂が死ぬべきものではないことを、はっきりご承知いただけるのです。

 宗教が悪いと申し上げましたが、もう一つ悪いのが学問です。小学校、中学校で教えることは実学で必要なことですが、大学で教えている学問が悪いのです。

 学問はすべて専門学です。法律学を学んでいる人は科学や芸術のことは知りません。専門学はすべて部分的な学問です。専門的というのは部分的ということです。

 部分的な学問を勉強した人は部分的なことしか分かりません。部分的なことしか教えてもらっていませんから、部分的なことしか分からないのが当たり前です。人間存在の本質は全く分かりません。

 部分的なことしか勉強していない人が、この世の中の全体が分かっているような顔をして政治家になったり、企業家になったりしているのです。

 人間に必要なものは全体学であって、全体的なことを勉強するのが本当の学です。こういう学は世界に一つもありません。

 文明はこれほど間違っているのです。専門的な学が学問だと思い込んでいるのです。専門学は専門的なことには役に立つでしょう。しかし全体的なことは全く分からないのです。

 専門的なことを勉強した人が、全体的なことが分かったような顔をして、世界の政治や経済を指導しているのです。

 このように、現在の文明は根本的に間違っているのです。部分的にしか通用しないものを全体的に通用させている。これが文明の間違いです。

 現世にしか通用しない宗教が、死んだら極楽や天国へ行けると言って、死後の世界に通用するような言い方をしているのです。これが宗教の間違いです。宗教や文明が間違っていることを、まず皆様に知って頂きたいのです。

 今までの皆様の考えが間違っているということを申し上げたいのです。魂とは何かを考えて頂ければ、皆様は命の本質を掴まえることは十分にできるのです。

 良く晴れた日には、太陽が燦々と輝いています。太陽という有形的なものが何を意味しているかです。万物が現われているのは電気の働きです。電気の働きが物質になって現われているのです。

 ところが物質はどうして現われているのか。太陽がどうして現われているのか。太陽は原子活動の現われですけれど、これは何を意味しているのか。太陽は有形的に現われていますけれど、これは無形的な何かを教えるために現われているのです。これが空即是色です。

 魂とは何か。仏教には魂という言葉はありません。なぜ魂という言葉がないかと言いますと、仏教の仏というのは抽象人格を指しているからです。

 例えば、空海が説いた大日如来は人間の頭で考えて想像した一つの偉大な人格を言うのです。現在、太陽や地球があることを見て、色々想像します。それから生まれてきた抽象人格が大日如来です。本当にあるのではありませんけれど、人間の頭で造った超人格が、大日如来です。偉い人格です。

 魂というのは人間の頭で造ったものではありません。この世に生まれる前に魂の元があったのです。それがこの世に生まれて肉体を持ったのです。

 本当に死なない命を受け止めて、生きているうちに自分の魂の本体を掴まえることができる人は、めったにいません。ないことはないのですが、非常に少ないのです。

 心を広くしてお聞きにならないと、本当の命の故由がなかなか理解できないのです。

 魂というのは、目で見たり、耳で聞いたりすることの本質です。目で見る力、耳で聞く力、即ち五官が働く力の本質が魂の根源です。魂そのものではありませんが、五官の働きの本質が魂の根源になるのです。

 過去、現在、未来がありますが、過去即ち生まれてくる前に命の本質があったのです。それが生まれてきたのです。

 生まれてきたというのはどこかから来たのです。そして現在生きている、五官が働いているのです。やがて死んでいきます。死ぬとはどこかへ行くのです。

 皆様の五官の働きの根源は生まれる前にあった。そしてこの世を去ると未来へ続いていくのです。肉体的にこの世に生きているのは、八十年か九十年ですが、五官の働きの本質はなくならないのです。

 赤ちゃんは生まれて二十四時間以内にお母さんのおっぱいを飲むのです。誰に教えられなくてもおっぱいを吸うのです。生まれたばかりの赤ちゃんは、少し目が見えるようです。やがて見えなくなるのです。

 生まれる前に、母親の胎内で血液の音を聞いていたのです。天の音楽のように聞いていたのです。生まれて数ヶ月たって、目が見えて、耳が聞こえてくるのです。それは生まれる前にそれだけの力が宿っていたからです。

 五官の本質は生まれる前にあったのです。それが肉体をとってこの世に出てきたのです。物心がつく前から五官の働きはあったのです。

 もし生まれる前に五官の働きがなかったら、おっぱいを吸うことができないはずです。これは人間だけではありません。犬でも猫でも皆おっぱいを吸うのです。すべて生き物は生まれる前からの働き、つまり本能性を持っているのです。人間の本能性が魂の根源になるのです。

 本能性が肉体を持つようになりますと、精神性に結びついてくるのです。そこで記憶するのです。考えることができるのです。精神的な働きと五官の働きの本源が魂の元です。

 霊魂の元であるものが現世に出てきて、現世の生活を味わうことになるのです。この状態を霊魂と言うのです。魂というのは五官の働きを言うのです。

 生命が肉体を持ってこの地上に現われます。何のために肉体を持って地上に現われたのかと言いますと、天地森羅万象の実体を知るためです。

 天地森羅万象は何であるのか。これは色々な意味において、絶対人格の現われです。真言宗ではそれを大日如来の現われと言っています。これは絶対人格で命の本体です。命の本体が目に見える形で現われているのです。これが現世です。

 命の本体が目に見える形で現われているのです。見える形で現われている命の本体を知るためには、私たちも目に見える形で、この世に出てこなければならなかったのです。

 私たちは肉体を持ってこの世に出てきたから、太陽の暖かさが分かるのです。雪の白さが分かるのです。花の美しさが分かるのです。

 私たちが肉体を持ってこの世に出てきたのは、天地宇宙に遍満している命の本体を知るためです。

 命の本体が万物になって現われているのです。これを知るためには、霊魂である私たちも肉体という形になって現われなければならないのです。これが、人間がこの世に生まれてきた目的です。

 命の本質は本来、形がないものです。命の本質、本体を神と言うのです。

 仏というのは人間の側に立った悟りであって、神は絶対者の側に立った呼びかけです。絶対の側からの呼びかけである神と、人間の側からの呼びかけである悟り、仏と、この二つがあるのです。

 私たちが本当に仏になるためには、般若心経によって五蘊皆空という事がらを経験する必要があるのです。これは般若心経でなくてもいいのです。本当に自分の考えが間違っている、自分はいないということが実行できるのなら、般若心経はいらないのです。

 般若心経はその方向を示しているのです。私たちが肉体を持ってこの世にいるというのは、森羅万象が現象的に現われているから、人間の霊魂も肉体的に現われているのです。

 私たちが肉体的に生きているのが本体ではなくて、命の本体である本当のもの、これを神と言っても絶対者と言ってもいいのですが、命の本体を掴まえることが目的です。これが人間の目的です。

 私たちはこの世に生きている間に、見たり聞いたりすることができます。見たり聞いたりすることができるというのは、命の本体の力が私たちに宿っているからです。

 人間の目の力、耳の力は、神の力と同じものです。命の本源と同じ力が見たり聞いたりする力になって、私たちに宿っているのです。

 人間の常識、自分の利害得失にこだわらないで、清らかな気持ちで目が働くことになりますと、死なない命を見ることができるのです。そうすると神が見えてくるのです。

 これはそれほど難しいことではありません。自分の思想や自分の経験にこだわらないで、ただ生きているということだけを見たらいいのです。

 目が見えるということだけを考えるのです。自分の気持ちにこだわりますと、自分の気持ちが妨害して、誠のことが見えなくなるのです。

 皆様は自分が生きているとお考えになっているでしょう。自分はこういう人間だ、自分の気持ちはこういうものだとお考えになっていますと、命は自分のものだという考えになってくるのです。

命は自分のものではない

 命は自分のものだという考えが間違っているのです。皆様は自分で生まれたいと思ったのではないでしょう。この点をよくお考え頂きたいのです。

 自分で生まれたいと思ったのなら、命はその人のものかもしれません。しかし自分で生まれたいと思って生まれた人は一人もいないのです。そうすると、今生きている命は自分のものではないはずです。

 それでは今生きている命は誰のものでしょうか。天のものだと言ってもいいでしょう。大自然のものだと言ってもいいでしょう。神のものだと言ってもいいのです。言い方は色々ありますけれど、とにかく命は自分のものではないのです。

 だから命の本性がまともに分かれば、死なない命を見つけることができるのです。これをお話ししたいのです。

 皆様の命の素性が分かると、皆様は自分が生きているのではないことがよくお分かりになるでしょう。生まれる前に本能があったのです。これが何であるか分かればいいのです。

 人間の命のルーツ、命の根本が分かればいいのです。命の根本を仏教は、大日如来であるとか、遍照金剛であるとか、色々な言い方をしています。遍照金剛とか大日如来という言い方は抽象的な言い方です。本当の実体は何なのか、世界的に通用する実体は何かということです。

 宇宙に遍満する命の実体は何なのか。その命がはっきりお分かりにならないとだめなのです。これが分かってきますと、今まで自分が考えていた記憶がだんだん変わってしまうのです。記憶の入れ替えがなされるのです。

 記憶の入れ替えがなされますと、皆様は現世に肉体を持っていながら、神と同じ考えで見たり、考えたりすることができるようになるのです。そうすると、死なない命が自分にあることが分かるのです。

 イエスはそれを実行したのです。死なない命が自分の中にあることが分かったのです。これが分かれば死を乗り越えることは何でもないのです。当たり前のことになるのです。

 肉体は火葬場へ行きます。灰になるのです。しかし、この世に何十年間か生きていたという記憶は灰になりません。記憶は残っていくのです。その記憶が正しいものならいいのですけれど、間違った記憶を持ったままで来世へ行きますと、霊魂の刑罰になるのです。

 命をまともに考えていたのか、考えていなかったのかは、皆様がこの世を去ってから、厳密に審判されることになるのです。

 人間は誰でも命の本体を十分に見極める力を持っているのです。私はそれが分かったのです。私にできたことは皆様もできるに決まっているのです。だから、今までの考えにこだわらないで、日本的な考え方にこだわらないで、世界中どこでも通用するような大きい考え方を持って頂きたいのです。

 遍照金剛という考え方は、日本だけしか通用しません。空海の時代にはそれで良かったのですが、今は全世界が一つの意識で生きているのです。

 聖書は世界的な読み物になっています。現在皆様はキリスト紀元に生きています。キリスト紀元とはどういうものか。世界歴史の流れはどういうものかということを、お考え頂きたいのです。

 こういうことが皆様の霊魂に大関係があるのです。世界的に物事が考えられるかどうかです。

 現世だけが人生ではありません。現世を去ってから永遠がありますから、こういうことを勉強して頂くことが、記憶の入れ替えに重大な関係があるのです。

 死なない命は何か。実はそれが皆様の本心にあるのです。皆様が自分の本心に訪ねて頂いたら、死なない命があることが分かるのです。これをイエス・キリストを信じるというのです。

 イエスは普通の大工の青年でした。偉い人物ではなかったのです。現在の学問とは何の関係もない人です。イエスは命の実物をそのまま見せたのです。命の実物をそのまま生きてみせたのです。

 森羅万象は命の輝きです。宇宙の命の輝きが森羅万象として現われているのです。命の輝きは見れば分かります。例えば太陽の働きとか、草木がはえている姿によって命の働きは見えますが、命の実物は目に見ることができないのです。

 イエスは自分の生きざまによって、命の本当のあり方を見せたのです。彼は宗教家ではなかったのです。一切の宗教に反対したのです。

 イエスは命の本源である神を、そのまま生き写しに見せたのです。イエスは肉体を持っていましたから、神そのものではなかったのですけれど、思想的に神と同じ考え方を持っていたのです。

 命をはっきり見るとしたら、イエスの生きざまを見るしかないのです。

 本当の命は思想ではなくて、現実のものです。例えば花を見てきれいだと思われるでしょう。また、料理を食べておいしいと思われます。味を味わうというのは、自分の実体を直感しているのです。。

 花を見てきれいだと思われるのは、自分の命の本質を花という形でご覧になっているのです。人間自身の中に死なない命があるのです。人間はそれを発掘することができません。掘り出して掴まえることができません。

 人間はすべて死なない命を持っていながら、それが分からない。イエスと同じ命を持っていながら、それを掘り出すことができない。現世の世界観、この世に生きている人間の世界観でしか考えることができないからです。

未知の世界観を見つける

 イエスが持っていた世界観は、今の人間にとっては未知の世界観です。その世界観を見つけて頂きたいのです。

 私が言うイエスは、キリスト教で考えているイエスではありません。キリスト教で言うイエスは未知の世界観ではなくて、宗教的な世界観です。私が言うのは宗教的な世界観ではなくて、命の実質、実体を掴まえることができる世界観です。

 花を見て美しいと思う。料理を食べておいしいと思う。おいしいと思うことがそのまま霊魂の命に直結しているのです。

 悟性が人間にありますが、これは人間の理知性に基づいた言い方です。永遠の命の実質は神の霊ですが、これを私たちの魂で受け止めることになりますと、神の思想と自分の思いとが一つになってしまうのです。これは悟性でもないし、人間の悟りでもないのです。

 皆様の命は弁証法的に言いますと、一つのテーゼでありまして、イエスは人間に対するアンチテーゼです。だから、人間がイエスを信じることはできません。

 キリスト教では人間がイエスを信じることができると言いますが、これはできないことなのです。

 現在の人間は此岸、こちら側の岸で生きているのです。こちら側に生きている人間が、神を正確に信じることはできません。イエス・キリストを信じることはできません。

 般若波羅蜜多を実行するのです。こちら側に生きていることをやめて、向こう側へ行くのです。その勇気がいるのです。

 現在の人間が生きている命は、肉の命です。肉体的に生きているという命です。これを本当の命だと思っている。これは考え違いです。

 人間が生きているというのは、どういうことか。食べるとおいしいと感じることが霊です。花を見て美しいと感じるのも霊です。おいしいとか美しいとかを感じることは、魂の感覚です。霊の感覚です。肉の感覚ではないのです。

 私がいう霊は宗教でいう霊とは違います。新興宗教がいう霊、神霊科学がいう霊とは違います。皆様が現世に生まれてくる前、エデンの園でアダムが陥罪する前に、神と一緒にいた時のあり方が霊です。それが現世に顔を出しているのです。

 肉というのは、現世に生まれてきて、三才頃に物心を持ちました。自我意識を持ちました。それ以後の人間の考え方が肉です。

 皆様の心臓が動いていることが霊です。これが神です。この神を生命的な実感として受け止めることができたらいいのです。

 これを詳しく説明しますとややこしくなりますから今はお話ししませんが、イエスの生き方をじっくり見て頂いたらいいのです。

 イエスは死を破ったのです。イエスが死を破ったことによって、人間が死ぬべきものではないということが確定したのです。それ以後においてキリスト紀元が確実なものになったのです。

 弘法大師は今でも生きているという人がいますが、それは弘法大師を信じている人間どうしだけで通用する考えです。

 イエスが生きていた命は、西暦紀元、日曜日、クリスマスという形で全世界に通用しているのです。

 道元禅元や親鸞も、日蓮も生きているという人がいます。宗祖は皆生きていると言われているのです。これはイエスの復活の真似をしているのです。

 日蓮が生きているというのは、日蓮を信じている人々の間にだけ通用している考え方です。空海の場合は真言宗だけで通用しているのです。

 その宗教だけでしか通用しないものは、本当の真理とは言えないのです。だから嘘になるのです。ところが二○一四年というキリスト紀元は、世界中どこでも通用するのです。

 現在の文明を正しい文明にしようと思うなら、イエスが復活した、人間は死ぬべきものではないということを、学的に取り上げることが必要です。学の対象としてキリスト紀元の問題を取り上げることが必要です。

 人間は死ぬべきものではないことを証明したイエスの復活を、学の対象にするなら、行き詰まっている現在の文明は、たちまち打開されるでしょう。

 現在の専門学はユダヤ人学者が造ったものですが、これが全世界を圧倒しているのです。世界中の学者はノーベル賞を欲しがっているのです。政治家もノーベル賞を欲しがっているのです。これがユダヤ主義文明の特徴です。

 イエスの復活を研究する人には、絶対にノーベル賞を与えません。イエスの復活の勉強を絶対にさせないことが、ユダヤ文明の特徴、目的です。

 人間が死ぬべきものではないことを、イエスが証明した。それ以来、キリスト紀元が全世界で使われているという事実は、歴史的事実です。

 イエスの復活はどういうことなのか。この問題を勉強すれば、すべての科学、すべての政治、経済、法律の根本的な間違いを、はっきり是正することができるのです。

 人間の命は死ぬべきものではないという大原則です。これは宇宙の生命的な根本原則です。宗教ではないというのはこういうことです。

 こういうことが、未だ日本ではっきり言われたことがないのです。般若心経と聖書を一つにして取り上げようという勇気を持った人間が、未だかつて一人もいなかったからです。

 西洋文明の真骨頂と東洋文化の最高峰を一つにして取り上げることがなかったのです。東洋的な空観と西洋的なキリスト観を一本にしてしまえば、世界歴史の根底が明らかになるのです。現代の歴史が間違っている根源がはっきり浮かび上がってくるのです。

 中国の共産主義も、アメリカの自由主義も、ヨーロッパの自由主義もすべてユダヤ人が造った思想です。ユダヤ人問題がはっきりしたら、文明の混乱、行き詰まりが打開できるのです。

 ユダヤ人問題を解決するためには、イエスの復活をどうしても学の対象にしなければならないのです。学者にその責任があるのです。これが、今の学者に分かりさえすれば、世界平和を実現することは何でもないのです。

 こういうことを全世界にはっきり提言できる民族は日本人だけです。白人はだめです。アメリカ人もだめです。日本人だけができるのです。新しいイエスの復活の見方、イエスの復活の歴史的な展開、学の対象としてのイエスの復活をはっきり提示できるのは日本人だけです。

 皆様が生きておいでになるという事実の中に、イエスの復活が含まれているのです。皆様はキリスト紀元に生きておいでになるのですから、今までの行きがかりに捉われないで、命は自分のものだというような間違った考えを捨てて、生きているという純粋な客観的事実を見て頂きたいのです。

 皆様の命の本能性に立つことができれば、死なない命を必ず見つけることができるのです。皆様が今生きている事実の中に、イエスの復活という事がらは十分に含まれているのです。

 イエスが復活したという事実は、皆様自身の問題です。キリスト教の問題とは違うのです。これにお気付きになりさえすれば無駄に死ぬことはないのです。

 そのためには、今までの皆様の考え方を反省して頂きたいのです。生き方が間違っていたのです。五十年、六十年と生きていて、命について何が分かったのでしょうか。

 生きているということ、目が見えるということ、心臓が動いているということをどのように見ていたのでしょうか。

 私たちはこの世を去るまでに、はっきり結論をつけておかなければならない責任があるのです。自分の霊魂に対して責任があるのです。

 この責任を全うしないでこの世を去ってしまいますと、必ず税金を取られます。皆様はそのことが恐いに決まっているでしょう。だから死ぬのが恐いのです。

 ところが死ぬのは恐くないという人がいますが、その人の霊魂は死んでしまっているのです。もし霊魂が生きている状態なら、死ぬことが嫌であるに決まっているのです。

第一の死と第二の死

 人間が現世を去るのは第一の死です。これは本当の死ではないのです。現世を去るのは眠りにつくだけです。他界するだけです。他界するのはご永眠するのです。これは本当の死ではありません。

 現世を去るのは本当の死ではないということを知って頂きたい。

 本当の死は、第二の死です。人間の魂に対する厳しい審判が行われるのです。それから第二の死が始まるのです。

 生きているということは責任があるということです。人間は生活していたらいいのではありません。今までの皆様の人生観や世界観は、この世を去ったら通用しないのです。

 イエスの復活は全世界、全人類に対する大問題です。根本的な問題です。日本人は聖書を知らないのです。キリスト教ではない本当の聖書を一人も知らないのです。聖書はキリシタンバテレンのものと思っていたからです。

 人間の常識や知識ではなくて、皆様が生きているという事実を確認するのです。

 日本人は死ぬということを知らないのです。死んでいくということが、どうなることか知らないのです。この世を去ることは第一の死であって、本当の死ではない。本当の死は第二の死です。

 イエスの復活ということは人間の霊魂の審判と大きな関係があるのです。

 やがて地球そのものが新しくなるのです。今の地球は未完成です。こんなものは本当のものではありません。

 現在の地球の物理次元は未完成の物理次元でありまして、復活後に持っていたイエスの肉体は、私たちが持っている肉体とは違うのです。将来現われる完全物質としての肉体でした。

 このことがキリスト教では全然分からないのです。聖書には書いていますが、キリスト教は正しく読んでいないのです。

 現在の地球も、現在の物質も、未完成のものです。いつ地震が発生するか分からないのです。いつ伝染病が発生するか分からないのです。未完成の地球に未完成の人間が生きているからです。これを完全なものと言っているのが人間文明です。

 未完成の地球と未完成の人間から抜け出すためには、イエスの復活という完全な命のあり方を勉強するしかないのです。

 復活は完全な命のあり方です。これを勉強するしかないのです。

 やがて地球は完成することになります。今の地球は不完全極まりないものです。地震、台風、津波、噴火、洪水、旱魃、竜巻が頻発しているのです。やがて地球は完全なものになっていきます。聖書はこれを新天新地と言っています(ヨハネの黙示録21・1~4)。

 皆様は肉体があると思っています。このことを般若心経は色即是空と言っています。概念的、哲学的には、はっきり肉体がないと言っています。しかし般若心経では完全な地球を説明することができないのです。

 般若心経は彼岸と言っていますが、彼岸を完全に説明することができないのです。そこで聖書がどうしてもいるのです。般若心経で説明できないことを、聖書で説明しているのです。復活、神の国という言い方で、完全な地球、完全な世界を説明しているのです。

 現在の人間の文明、文化を突き抜けて、貫いて、人間文明が最高の状態で完成するのです。人間の本願、本心の最高の願いが、イエスの復活として現われているのです。

 イエス・キリストの復活は人間完成のための唯一無二の哲理性です。弁証法的に言いますと、イエス・キリストの復活は人間自身のアウフヘーベンになるのです。

 肉体的にも精神的にも、歴史的にも、あらゆる意味で人間が完成されるのです。私たちは死ぬべき肉体を脱ぎ捨てなければならないのです。そうしたら完全な肉体を皆様は持つことができるのです。

 イエスが生きていた生き方を皆様が知ろうとお考えになれば、それだけでイエスの生き方を自分のものにできるのです。そのための能力を皆様は持っているのです。

 その能力を持っていながらやろうとしないのが日本人です。これが悪いのです。日本人は宗教ではない聖書を嫌っているのです。自分の考え、自分の卑劣な思想が通用するものと考えている。これは大間違いです。

 皆様の霊魂は、死んだ後の世界を弁えるだけの力を十分に持っているのです。これをよくご承知頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

閲覧数:8回0件のコメント

最新記事

すべて表示

はじめに

彼岸とは何か。どうしたら彼岸に入れるのか。仏典の究極の目的は彼岸に入ることですが、それが仏典では明らかにされていなかったのです。人間歴史の中でそれが全く分かりませんでしたが、人間歴史の終末において幸いにもそのことを教えられたので、ようやくにしてそれを書くことができました。 今回この書を出版するに際して、躊躇せざるを得ませんでした。それは、この書の内容がまだまだ不完全だったからです。もっと完全なもの

死なない命を見つけるために

私は宗教の話をしようと思っているのではありません。世界の歴史の流れの中心の事がらをお話ししたいと思っているのです。これは生活している中心の事がらになるのです。 このことを勉強している訳ですが、これは命の勉強をしなければ分からないのです。命の流れが色々な形になって歴史を造っているのです。これが世の中なのです。 現在の人間は生活については非常に熱心ですが、生命のことを全く考えていません。日本というのは

色即是空と空即是色

皆様が現在生きていらっしゃる命は、必ず死ぬ命です。これを皆様は後生大事に握り込んでいるのです。なぜそういうことをしていらっしゃるのでしょうか。 皆様は自分の命が死ぬ命に決まっている命であることを、十分にご承知のはずです。死ぬべき命であることをよく知っていながら、その命にしがみついている。これはどういうことでしょうか。 こういうことを冷静に考えて頂きたいのです。これは何でもないことです。ちょっと落ち

bottom of page