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  • 管理人miwa

業(ごう)

この世に人間が生まれたことが業(ごう)です。この業を果たさなければ死ねません。この世に生まれた業とは何かと言いますと、一度死んで、死んでから裁きを受けるという業です。

これは人間の業というよりは、宇宙の業です。宇宙の肉の業です。肉というものの業です。

肉を代表しているのが人間です。肉を代表している人間が、肉の業の急所を心得てこれを片付けてしまいますと、肉の全体がごそっと救われるのです。これはとても大きいことです。肉全体が救われるのです。そこで限りなき王になるのです。

聖書に、「終わりの時には、私の霊をすべての人に注ごう」とあります(使徒行伝2・17)。口語訳では、すべての人に私の霊を注ぐとなっていますが、原語ではすべての肉にわが霊を注ぐとなっています。

 人間という言葉と肉という言葉を同じに扱っているのです。ところが、霊を注がれて意識するのは人間だけです。空気も水も、山も海も、獣も地に這うものも、地球全体に御霊が注がれていますけれど、御霊を受け止めることができないのです。

 そこで、地球の代理者である人間が、全地球に代わって受け止めるのです。皆様の肉体は地球の一部です。一部であるということが、地球を代表しているのです。

 人間がいるということは神の壮大な処置です。これを心得て、地球存在とはどういうものか、天地万物とはどういうものかを認識して、その神の期待に添うことができるとしたら、皆様はすばらしい者になるのです。

 人間一人が肉から霊に入ることは、地球の万物にとっては大感激です。これをよく考えて頂きたいのです。

 神の教会というのは数が決まっています。異邦人の数が満ちる時があるのです。私たちはイスラエルの回復を祈っていますけれど、イスラエルが回復されたら、異邦人は一人も救われなくなるのです。異邦人が御霊を受けるのは今のうちです。

 イスラエルが回復されたら、霊の本業はイスラエルに帰ります。イスラエルに帰ったら、異邦人は救われなくなるのです。異邦人が御霊を受ける時というのは後わずかの時間です。

 人間一人が神である本当の命に目覚めるというのは、宇宙的な大事件です。これをよく考えて頂きたい。御霊を受けるということの意味は限りなく大きいのです。

 ところが、御霊を受けて本当の命を掴まえないままで死んでしまうことになりますと、とても悲惨なことになるのです。ひどい目に会うことになるのです。だから、御霊を受けた者は、必ずキリストの花嫁として完成されなければいけないのです。

 天のエルサレムにおける自分の命を確認しなければいけないのです。皆様は宇宙に生きているのだから、天のエルサレムに生きているという自覚を持たなければいけないのです。

 実際皆様が生かされていることが、天のエルサレムに繋がっているのです。肉の思いで生きているから分からないのです。肉の思いさえ捨てればすぐに分かるのです。これを上から生まれるというのです。

 人間は新しく生まれなければ神の国に入ることはできない。また、神の国を見ることもできないのです。上から生まれるのです。上からの命を受け止めるのです。御霊を受けると、上からの光によって自分の実体が分かるのです。

 いにしえの預言者も聖者も、皆この啓示を受けたのです。旧約の預言者たち、新約の聖徒たちも上からの命を啓示されたのです。

 神というのは私たちと共にいるのです。共にいますがなかなか見えないのです。これに対して目が開かれればいいのです。

 皆様が現在生かされている命は、皆様の命とは違います。自分が生きていると勝手に思っている。だから死んでしまうのです。自分が生きていると思っているのは死んでいることなのです。

 自分が生きていないことが生きていることなのです。自分の生理機能がどのように働いているのか。自分の五官がどのように働いているのか。これをよく見たら命とは何かがよく分かるのです。

 聖書全体の認識が難しくてよく分からないという人でも、熱心に求めていれば、上から光を与えられることはあり得るのです。聖書が分からなくても命は与えられます。また、命が分かってから聖書がだんだん分かってくるという人もあります。

 現世には命が流れています。キリストによって神の命が流れているのです。これを感じるか感じないかです。自分が柔和になることでもへりくだることでもない。イエスの命を捉えるのです。

 イエスが生きていた命と、普通の人間の命とは違います。神が業を休んだように、自分も業を休むのです。自分の業を休むと、神の御霊の業が流れ出すのです。これをよく考えて頂きたいのです。

 現世には、死ぬべき命と死なない命があるのです。固有名詞で生きている命は必ず死ぬ命です。イエスが生きていた命は死なない命です。私はこれを皆様に差し上げようと思っているのです。

 ところが、日本人には悪い癖があるのです。あるグループの中で誰かが芽を出すと、他の人が叩いて潰してしまうのです。お互いに牽制し合うのです。

 「出る杭は打たれる」という諺がありますが、これは日本人独特の考え方です。日本人は封建国民でありまして、封建性が非常に強い民族です。現在までの見方とか、現在までの習慣、伝統を非常に重視するのです。

 ある後家さんがいるとしますと、あの人は後家さんだという位置を与えてしまうのです。あの人は商売人だからと言って、そういう目で見るのです。五木の子守唄にあるように、「あん人たちゃよか衆、よか衆ゃよか帯、よか着物」となるのです。商人でお金を儲けているから、よい帯、よい着物が着られると言うのです。

 こういう見方が封建社会の見方であって、誰かが頭を出すと憎んで叩くのです。だから、日本人にはなかなか傑出した人物が出ないのです。お互いに足の引っ張り合いをするのです。

 自分の命を何とかしなければならないと思っている間はだめです。幼子になるのです。これが無邪気な状態です。イエスはいつも幼子のようになれと言っていました。

 固有名詞の人間は神が相手にしていません。イエスだけが神に愛されたのです。イエス以外に誰もいなかった。アブラハムもいない、モーセもいないのです。イエスがアブラハムとして現われていた。イエスがモーセとして現われていたのです。

 だから、モーセの掟はなかったのです。イスラエルがモーセの掟を信じているのは間違っているのです。モーセは初めからいなかった。モーセの掟はなかったのです。イエスの掟があるのです。イエスが旧約的な形で現われたのがモーセです。アブラハムのハがイエスを意味すのです。だからアブラムがアブラハムになったのです。

 アダムかイエスかどちらかしかないのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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