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たくさんの書と命の文


 人間が空だということは道元も一休も言っていますけれど、空ではない自分は何かということが分からないのです。実である人間が全く分からないのです。

 これについては釈尊も全然言及していません。実の人間とは何であるか。釈尊の場合にはかろうじて明けの明星という言い方で、人間の実をちらっと覗かせる程度のことはしているのです。

 明けの明星が人間の本体だということが、世界では全然明らかにされていないのです。人間の歴史が始まってから今日まで、明けの明星が人間の本体だということをはっきり言われたことがないのです。

 明けの明星は人間歴史の中で大変な謎になっているのです。皆様の本体は明けの明星なのです。明けの明星の次には太陽が現われるのです。

 現世に生きている間に明けの明星の意味が分かれば、現世が空であることは当たり前です。現世を去っていくのも、また極めて当たり前のことなのです。

 今生きている人間は因縁の塊のようなものです。宇宙の悪因縁が集結されたのが、今の人間の姿です。これを解脱して人間本来の姿に帰りますと、初めて万物の長になるのです。

 今の人間は万物の因縁が固まっているのであって、死ぬに決まっている状態です。これは本当の自分ではないのです。本当の自分は霊魂としての自分です。霊魂である自分とはどういうものか。これが分からないのです。

 男は抽象論として霊魂が分かりますが、実体論として何であるかが、さっぱり見当がつかないのです。実はこれが女です。これが男に分からないのです。

 失礼ですが、皆様は女を誤解しすぎているのです。甘く見すぎているのです。女の実体が全然分かっていないのです。これが皆様の迷いの根本原因です。

 これは理趣経で言っているところとは違います。密教の理趣経でいうような女性観とは全く違います。女ではなくて女性の本質をいうのです。

 女性の本質というのは、現われている女とは全然違います。人間の本質が現われている人間と違うように、女性の本質もまた現われている女ではないのです。

 人間の本質は霊魂です。霊魂の本質は何かと言いますと、神性そのものです。神としての性格です。神性とは神であるという意味です。これが人間の霊魂の本体です。

 人間が霊魂であることを自覚したら神になるのかと言いますと、神になるのではないのです。神と同じ内容の神の子になるのです。これがイエスの本性です。

 かつて純粋な人間がいました。これがハーアダムという人です。私たちは最初純粋な人間でしたが、純粋な人間としての性格を持つことできなかったのです。

 そこで、純粋な人間が二つに別れて、純粋な方が女性になり、純粋でない方が男になったのです。理論的に考える方が男として残ったのです。

 だから、女の方が上等です。男は上等ではないのです。上等とか上等ではないという言い方は正確ではないのですが、分かりやすく言いますと、男の方が安物なのです。女の方が上等です。

 男の人は女に惚れます。女が欲しくてたまらないのです。なぜ女が欲しいのかと言いますと、自分自身のものでありながら、自分の外に出てしまって自分のものではなくなっているからです。これが女の本質です。

女性の本質

 自分のものであるのに、自分の外へ出てしまっているのです。これが女性の本質です。

 旧約聖書では、アダムという純人を深く眠らせたのです。アダムがどうしても神を神として捉えることができないので、やむを得ず神がアダムを深く眠らせたのです。

 深く眠らせたというのは、一度死んだ状態にしたのです。一度死んだ状態にして、アダムのあばら骨の一本を取って、女を造ったのです。あばら骨を抜いた所を肉で埋めたのです(創世記2・18~23)。

 これはそのように書くしか仕方がないという巧みな記述になっているのです。

 最初の純粋なアダムは、男と女が一つになっていた人格です。一つになっていた人格が、どうしても神が神であることを見分けることができなかった。神性を見つけることができなかったのです。やむを得ず男性と女性という二つの性格に分けたのです。

 あばら骨というのは人間のハートの生粋ですが、これを女にしたのです。だから、男にはハートの生粋がないのです。頭はあります。思考能力はありますが、ハートが男にはないのです。

 男は素直になること、信じることができないのです。男性の皆様はそれができないのです。理屈は知りたいと思いますけれど、理屈をいくら知っても絶対に神を信じることはできません。

 今のままでは神を信じることはできません。そこで、女が欲しいのです。自分の中にないものが欲しいのです。

 あばら骨というのは人間のハートを守っている骨です。生理的にいうとそうなりますが、これは純粋な考え方の外側にあるものです。情緒性のことです。潜在意識と言ってもいいでしょう。

 潜在意識が人間のハートの外壁になっているのです。その中に本当のハートがあるのです。アダムは潜在意識を抜かれてしまったのです。それが女になっているのです。

 女の良さというのは何か。男性の皆様は女性を抱いたことがあるでしょう。しかし、いくら抱いても女の本質は分からないのです。それは抱き方が間違っているからです。だから、女が本当に皆様方自身のものになっていないのです。

 男は女の考え方が浅いとか、女は何を考えているかさっぱり分からないと言いますけれど、これは男の人がハートに目覚めていない証拠です。ハートが目覚めると初めて女が分かるのです。

 潜在意識とハートが別々になっているのです。従って、潜在意識としてハートを連結することができなくなっているのです。それで永遠の命が自分自身にありながら、それを掴まえることができない状態になっているのです。

 病気で苦しんでいる人がいますが、これは肉体が病んでいるのであって、その人の本体が病んでいるのではないのです。人間は肉体を自分だと思っているから、自分が病んでいると思っているのです。

 男の本性はあばら骨を失った状態です。ハートが空っぽになっているのが男の本体です。ところが、男はそれを文化概念でごまかそうとしているのです。これが悪いのです。

文化概念というのは人間の単なる情報です。男は文化概念が非常に立派なもののように思えるのです。

 聖書にはたくさんの書物があると書いています(ヨハネの黙示録20・12)。これは霊魂が審判される直前の光景ですが、たくさんの書物があるのです。その書物の他に一冊だけ命の文があるのです。

 たくさんの書物というのは、人間の知恵、人間の情報の集まりです。宗教も哲学も、人間の常識、知識も全部情報です。死んだ人間が造った情報ばかりがあるのです。

 老子も孔子も死にました。死んだ人間が造ったものを信じてもだめです。死んだ人間が造ったものでも立派なものがあるという人がいますが、これは情報として立派という意味です。命ではないのです。

 私たちが考えなければならないことは命です。ハートで物事を捉えるのです。ハートで神を掴まえることです。これが大切です。

 本来の人間から潜在意識が抜かれて女になっている。残った方が男です。実は女性が人間の本体なのです。これが人間の霊魂のあり方です。

 人間の霊魂は女性です。神は男性です。神は永遠の男性です。全知全能の絶対者は永遠の男性です。人間は永遠の男性に寄り添うべき女性です。永遠の男性を慕うべき女性です。

 このことを命の文という言葉で現わしているのです。日本人は命の文が全然分からない国民です。困ったものです。日本人はその意味では誠に因縁が悪い人間です。

 現在の男には夫があるのです。その夫はこの世です。この世とか、世間が男という人間の夫になっているのです。ところが、皆様はそういう夫を持っていながら、その夫を信じていないのです。これは現在の女が夫を持っていても、夫を信じていないのと同じことなのです。

 男性の皆様は奥さんがいるでしょうけれど、奥さんはやむを得ず皆様に服従しているのです。心から夫を信じているのではないのです。

 人間と神との関係が夫婦の関係になって現われているのです。奥さんはご主人に自分の体は許しますけれど、心は許さないのです。女はどこまでも女としての意見を持っているのです。女としての人格をしっかり持っているのです。だから、完全に一体にはなれません。

 これは現在の人間の魂が世間を夫にしているのと同じ状態です。肉体人間はそうして生きているのですが、皆様の霊魂は世間の夫に従っていないのです。

 皆様はいつでも二重人格です。霊魂である自分と世間的な人間と、二つの人間が一人の人格になって生きているのです。

 自分の魂の本性が女性だということが分かりますと、初めて寄り添うことの有難さが分かってくるのです。従うことの嬉しさが分かってくるのです。

 男性の皆様はなぜ女性を愛するのかと言いますと、男性にはないものを女性が持っているからです。女性の本質は受け入れることです。受け入れよう、受け入れようとするのが女性の本性です。

 はっきり言いますと、女性の性器は受け入れるためのシンボルであって、従うことの楽しさ、寄り添うことの嬉しさが女性には分かっているのです。

 ところが、現在の女性はだめです。現在の男性がだめであるように、現在の女性もだめになっているのです。

 まず男性の皆様は人間としてだめです。これを第一にご承知頂きたいのです。

味とは何か

 女の色気とは何であるのか。なぜ女を好きになるのか。例えば、リンゴを見たら見ただけで、リンゴの味の本質が大体分かるのです。見ただけで味の本質が分かるということはどういうことか。

 人間は味ということを知っています。果物の味、魚の味、野菜の味、肉の味を知っています。ところが、味というのは人に教えられたのではないのです。

 私の友人に三歳になるお孫さんがいまして、この子供が料理の味を瞬間に言い当てるのです。母親がこの料理の味はどうかと聞くと、おいしいとかおいしくないとかを瞬時に言うのです。 母親よりも味覚が鋭いのです。

 母親は子供に味について詳しく教えた訳ではありません。何百種類、何千種類という味がありますから、それを教えることができないのです。ところが、子供は味を知っているのです。生まれる前に味を勉強していたとしか言えないのです。

 皆様は人間として生まれたのですが、それは外側の上っ面でありまして、人間の実体ではないのです。固有名詞の人間には味が分かりません。味を知るということは先天性のことです。生まれる前から知っているのです。生まれる前の霊魂の本質が味を知っているのです。

 霊魂の本質というものは、宇宙を貫くプラスのエネルギーの本体です。神の本体と同じものです。これが味を知っているのです。だから、甘い味を教えてもらわなくても知っているのです。

味は人間が教えられるものではないのです。また、後天的に覚えられるものでもないのです。味は先天的にしか分からないものです。これが皆様方の先天性で、潜在意識そのものです。

 皆様は潜在意識の我に帰るということができないのです。信じようと思っても信じられないからです。本来あるべき先天性の自分に帰るということが、人間にはできないのです。これが男の本性です。

 そこで、先天性に帰りたいという気持ちがあるために、女を愛せずにはおれないのです。女の本性は受け入れることです。従うことです。寄り添うことです。男にはそれができないのです。

男は本当に従うこと、寄り添うことができないのです。今までの皆様の状態では、自分の命の実体を信じることができません。

 この世を去ったら必ず裁かれるのです。絶対に裁かれます。だから、目の黒いうちに、一日も早くこの世という夫から離れて、本当の夫に帰るのです。霊魂が本来の先天的な夫に帰ることです。これが女を勉強するということです。

 男は女の人を抱きますが、ただ抱いていただけではいけないのです。女に教えてもらわなければいけないのです。これができないのです。

 今の男はウーマン(woman)は知っていますが、フィメール(female)を知らないのです。神が造った女と今の女とは違うのです。なぜ女が転落したかについては、創世記の二章、三章に詳しく書いていますが、この箇所が聖書の中でも非常に難しいのです。

 世界中の教会でこれが分からないのです。この箇所が分からなければ、人間の陥罪の根本原理は分からないのです。人間がなぜ死ぬのかが分からないのです。

 人間が見ている女は世間並の女です。ところが、世間並の男が本当の男ではないように、世間並の女も本当の女ではないのです。どちらも罪をを犯した人間です。陥罪後の前を隠している人間です。神の前に隠し所を持っている人間です。これは本当の人間ではないのです。

 創世記の三章七節にありますように、罪を犯して前を隠した人間です。宗教では陥罪の根本原理、セックスの根本原理が分からないのです。従って、人間の霊魂の原理について説明する資格がないのです。

 仏教はセックスの根本原理が説明できませんからだめです。老子もだめです。孔子もだめです。日本の仏教はもちろんだめですが、釈尊が説いたのは仏法でありまして、人間は全部空だと言いましたから、これは確かです。しかし、釈尊も男のこと、女のことが分からなかったのです。

本当の命が何であるかについて、釈尊は説明できなかったのです。空は分かりましたが、命の説明ができていなかったのです。

 般若心経は空になれと言いますが、命を教えてくれないのです。これは女が分からないからそういうことになるのです。釈尊は本当の女を知らなかったのです。釈尊も女を抱いたことはありますが、女を知らなかったのです。

 世間一般の男は、女を抱いていながら女を勉強していないのです。女の勉強は男の霊魂にとって一番難しい問題なのです。難関です。これを皆様が突破されるかどうかということです。これが分からなければ人間完成はとてもできないのです。

 皆様は人間を甘く見ています。女に対する見方が甘いのです。それだけ自惚れているのです。自分の気持ちに対して、自惚れた感じを持っています。これを捨てて頂きたいのです。

 私たちは死ぬか生きるかの勉強をしているのです。永遠に死ぬか生きるかという勉強をしているのですから、その覚悟をして頂きたいのです。

 人間は本能という言葉は知っていますが、本当の意味が分かっていないのです。食本能、性本能と言いますが、食本能とは一体何なのか。性本能とは何なのか。これは学問以上のことになるのです。

 メール(male)とフィメール(female)がありまして、これが神に直属する男と女になるのです。これが霊のセックスです。霊のセックスが本当の本能です。

 甘いものを甘いものとして認識できる気持ちは先天性です。生まれる前の本能性で、これが実は本当の霊です。

 宗教でいう霊は皆シャーマニズムの霊であって、巫女の口寄せの霊、霊媒の霊です。神霊科学でいう霊です。こういう霊はありますが、これは世間で通用する霊です。世間で通用しない霊が、甘いものを甘いと知る心です。女を直感的に好きだと考える心です。

 美人か美人でないかを弁えるのが本当の霊です。女を愛せずにはいられない気持ち、女を愛している時の気持ちは、これは偽りのない気持ちです。

 ところが、肉的な気持ちで愛していることになりますと、女は愛されてはいますが、成仏していないのです。本当に成仏していない。それは、男が成仏していないからです。

 男が成仏した状態で女を愛しますと、同じ愛し方をしていましても、愛されることによって受ける感動、感受性が全然違うのです。

 大体、肉というものはないのです。肉体はありますけれど、肉体の本質は霊です。例えば、呼吸機能は霊です。消化機能も霊です。女性の性器も霊です。これを人間は肉だと思っていますが、とんでもない間違いです。

 本当の女性の見方が分かったら人間は死ななくなるのです。この世に生きていながら永遠の生命が分かるのです。自分が死ななくなることが分かるのです。

 人間の脊髄は六つの要素からできていると言いますが、それがまだよく分かっていないのです。その要素の中でまだ完全に働いていない面があるのです。それが完全に働き出すと、今の肉体とは全く違う肉体になるはずなのです。どうしたらそうなるのか分からないのです。

 血液は脊髄で造られるのです。筋肉も脊髄で造られますし、人間の思考方式の原点も脊髄で造られるのです。

 宇宙のプラスのエネルギーが人間の命として働くためには、脊髄の働きがどうしても必要なのです。脊髄は延髄によって脳細胞に直結しているのです。

 脳細胞の働きが変わりますと、延髄の働きも変わり、脊髄の働きも変わってくるのです。人間の考え方によって、人間の肉体の本質が今の肉体ではないものになってしまうのです。

 イエスは十字架につけられて殺されましたが、復活してこの世に出てきて、焼き魚を食べたのです。ラゲ訳聖書では、ぶどう酒を飲んだとも書いているのです。この勉強をしないといけないのです。

 現在の人間の肉体ではないもう一つの肉体があるのです。これを勉強しないといけないのです。現在の肉体を脱ぎ捨てて、朽ちない、腐らない、変化しない肉体に変わる可能性があるのです。その可能性が脳細胞にあるのです。

 皆様の脳細胞の働きを変えれば、病気は治るに決まっているのです。

 イエスは復活して、永遠に朽ちないボディーで弟子たちの前に来たのです。手や足を触らせたのです。焼き魚を食べて、ぶどう酒を飲んだのです。

 イエスが復活したことは、皆様が既に復活していることを意味しているのです。皆様は現在の肉体を持っていますが、同時にもう一つの肉体を持っているのです。

 今生きている肉体ではない、もう一つの肉体を持っているのです。これを勉強することが、とこしえの命を勉強することになるのです。そうしますと、キリスト紀元とはどういうものであるかが分かるのです。

 キリスト紀元というのは驚くべき事実です。世界中の人間が誰も知らない事実です。

 皆様はイエスの復活と同じ体を持つ可能性があるのです。その可能性があるということは、既に持っているのです。

 目が見える、耳が聞こえる間は霊魂の本能性がありますから、命があるのです。そこで、命を利用して本当の命を見つけることができますと、死なないという可能性が出てくるのです。死ぬ可能性を裏切って、死なない可能性に裏返すことができるのです。

 今の人間の肉体には、死ぬ可能性と死なない可能性とが五分五分の状態にあるのです。死ぬ可能性を捨てて、死なない可能性の方へ引っ越して頂きたいのです。

 そのためには、女の勉強がどうしても必要になるのです。

恋愛

 恋愛とはどういうものか。これは夫婦の愛情とは違うのです。恋愛の本質が世界中の哲学者、宗教家に分かっていないのです。これは全く迂闊な話ですが、恋愛が分からないのです。文学者にも哲学者にも恋愛がどういうものか分からないのです。

 女の人が恐れ多くて尊い感じがするのです。この気持ちが恋愛の気持ちです。女の人が神聖な感じがするというのが本当の恋愛の気持ちなのです。

 なぜ女の人が神聖な感じがするのかということを指導してくれる人が世間にはいないのです。恋愛感情が何であるか分からないのです。皆様はこれをまず勉強して頂きたいのです。

 恋愛感情の本質が分かってきますと、神が分かってくるのです。頭で考えている神ではない、ハートで考える神が分かってくるのです。そうすると、頭で考えている命ではない、ハートで考える命が分かってくるのです。

 恋愛を正しく知るか知らないかということは、霊魂が死ぬか生きるかの大問題です。そういう貴重なものです。

 恋愛というのは潜在意識から噴き出すやむを得ない気持ちです。絶対に対する憧れです。

 潜在意識から噴き出す異性を愛したいという気持ちは、女を対象としているのではないのです。神を指しているのです。霊魂が見ている異性は神そのものです。ところが、人間の肉の思いでは神が分からないものですから、女で間に合わせておこうと考えるのです。これは間違っていないのです。間違っていないけれど、女を通して神を見なければならないのです。これが分からないのです。

 人間のハートの奥底の潜在意識は、まず女を好きになるのです。潜在意識が何を感じるのか。中学生くらいになると肉体的な発育が完了します。今度は精神的な方へ本能性が伸びていくのです。

 人間の命が精神的な方へ伸びようとする、その初穂が初恋です。これは魂の産声です。

 人間は二回生まれなければならないのです。肉体的に生まれるのが一度、霊魂的に生まれるのが一度と、二回生まれなければならないのです。

 皆様は肉体的に生まれたのですけれど、霊魂的に生まれたという経験がありません。これが不完全です。

 皆様の霊魂は実はまだ生まれていないのです。人間として誕生はしましたが、魂として誕生していないのですから、永遠の生命が分からないのです。私はこれをお話したいと思うのです。

初恋というのは何か。肉体の発育が成熟しますと、魂本来の方向に向って成長しようと考えるのです。肉体的に成長しただけでは淋しいのです。これが思春期です。

 思春期になると何か淋しいのです。親、兄弟だけでは物足りないのです。親、兄弟だけでは癒すことができない気持ちになるのです。そこで、本を読んだり、音楽を聴いたりするのですが、それくらいでは心の淋しさはなくならないのです。そこで異性を求めるのです。男性は女性、女性は男性という異性を求めるのです。ところが、異性は実は神なのです。

 魂の本能が求めるのは、神という異性です。それを肉体的に生きている人間は、肉の異性で間に合わせようと考えるのです。これが初恋です。初恋という感情は女に向けられてはいるけれど、女を通してその背後に神を見ているのです。女性の後ろに神が立っているのです。そこで、女性が神々しく見えるのです。天の使いのように見えるのです。

 人間は自分の霊魂の実体が分からないために、何を求めているのか分からないのです。女性に恋をするとしても、何を求めているのか分からないのです。

 例えば、おいしい饅頭を食べますと、嬉しさのようなもの、楽しさのようなものを感じますが、これが人間の脳細胞と味との関係がどうなるのか。また、脳細胞と人間の命にどのような連関関係があるのか。これが永遠の生命とどう係わりがあるのか。死んでいく肉体と死んでいかない体との間にどういう係わりがあるのかということです。人間の魂に対して、すばらしい父親の知恵と力、母親のような愛と慈悲の二つを持って人間を包んでいるものがいるのです。これと魂が接触したがっているのです。

 花は人間の霊魂に対して、形、色、香りが、もう一つの命があることを訴えているのです。宇宙の神の御霊が、花という格好になって現われて、人間に死ぬべき命、死ぬべき体ではない、もう一つの死なない命、死なない体があることを教えているのです。

 これは地球が造られた原因から、命がある原因を勉強すると分かるのです。プラスのエネルギーの本質は何なのか。マイナスのエネルギーの本質は何なのか。プラスとマイナスの関係はどうなっているのかということです。こういうことを霊魂は知りたいのです。

 ところが、自分の常識で考えるから、さっぱり分からないのです。生まれつきが本当です。後天性が間違っているのです。それはこの世で覚えた知恵、この世で経験したものであって、味覚とか女が好きという感情は、生まれる前からのものなのです。

 男女のことは教えられなくても知っているのです。教えられなくても知っているということは、生まれる前から知っているということです。そうすると、女に惚れるということは、生まれる前の命に関係があるに決まっているのです。

 男が女を抱くということが、生まれる前の知恵で抱いているのです。そうすると、女が好きということは、現世の問題ではないということが分かるはずです。それを現世のこととして女に惚れるのですから、間違ってくるのです。

 命には性(さが)があるのです。単純な命に生きているだけではないのです。食べ物にも、洋服にも好き嫌いがあるように、男女の場合にも好き嫌いがあるのです。

 好き嫌いとは一体何なのかと言いますと、魂が持っている本質的な性(さが)なのです。性がなぜあるのかと言いますと、性は今ある命を脱皮して、経験しない新しい命を捉えるために、どうしても必要なものです。性の働きがどうしても必要なのです。

 命だけではだめです。命だけがあっても性が働かなければ新しい命を産むことはできないのです。現在の人間が持っている肉体の他に、イエスが復活によって現わした完全なボディー、死なないボディー、病がないボディー、永遠のボディーが既にあるのです。それを本当に知りたいという強い意欲が皆様にあるかどうかです。それによって、その人の霊魂の質が分かるのです。

 私が述べていることは、すべての人に妥当するかというと、そうにはならないのです。

 例えば、自分は知識があると自惚れている人がいるとしますと、その人には分かりません。イエスが復活したということが、既にまやかしのように思えるのです。永遠の命があることが、インチキのように思えるのです。素朴な感覚を持つことができない霊魂がいるのです。そういう人が相当たくさんいるのです。特に日本人にはそういう人が多いのです。

聖書に対して拒否反応を示す日本人

 なぜかと言いますと、日本の国体が分からないのです。天皇陛下ご自身がご存じないのです。その上、日本は三百年以上もの長い間、聖書を拒んでいたのです。だから、聖書に対して根本的なアレルギーがあるのです。私が聖書の話をしても、ほとんどの人が拒否反応を示すのです。日本は鎖国によってキリストの復活のボディーがあることを拒んでいたのです。キリシタンバテレンを禁じていたのです。

 私が言うことはキリシタンバテレンとは違いますが、幕府は聖書が日本へ入ることを拒んでいたのです。これはイエスの復活の記録を拒んだことになるし、キリストの復活そのものを拒んだことになるのです。これは日本民族が地球の原理に反抗していたことになるのです。

 ところが、これが良かったのです。日本はキリストに反抗していた最後の文明国です。日本が聖書を法律によって認めた時に、全世界が初めて新約時代に入ったのです。日本がそれを認めるまでは、キリスト紀元が地球全体に及んでいなかったのです。日本が聖書を認めたことによって、地球全体にキリスト紀元が執行されたのです。

 今年が二○一八年であるということは、大変なことです。全く大変なことですが、日本にはこれが一番分かりにくいのです。聖書に縁が遠いからです。

 聖書に縁ができてからまだ百年くらいです。だから、日本人は実に不幸な国民です。未だに聖書を真正面から受け取ろうとする人がいないのです。

 人間は今の命と肉体の他に、もう一つの命と体を持っているのです。こういうことをキリスト教では全く言いません。女の実体は分かりません。キリスト教では女のことを全く説明しようとしません。鬼門金神として忌避事項になっているのです。だから、女の説明は一切しないのです。

 女の説明ができないようでは、キリストの命の説明は絶対にできません。

 皆様の霊魂が本気になって勉強してみようという気持ちになるかならないかを、皆様ご自身で決定して頂いたらいいのです。もし私が言うことをお受け取りにならなかったら、永遠にだめになるのです。

 皆様は死んでしまうに決まっている自分のことを、自分だと思い込んでいます。死んでしまわない自分があることを全く考えていないのです。これは皆様の世界観のレベルが低いからです。物事の考え方のレベルが低いのです。価値観のレベルが低いのです。神の霊によって命を見ることができないのです。

 花が咲いているとします。なぜ花が咲いているかという説明ができないでしょう。この説明ができなかったらだめです。そこに神の命がはっきり現われているのです。見ていながらその説明ができないというのは、皆様に本当の命が分かっていないこと、皆様の魂の目が開いていないからです。

 皆様の目には肉のうろこが貼り付いているのです。目からうろこが落ちたら分かるでしょう。私が分かったことが皆様にも分かるに決まっているのです。ただその奇縁があるかないかだけです。縁があるかないかは、皆様ご自身で勝手にお決めになればいいのです。

 縁があると思いたい人は思われたらいいのです。嫌だと思われたらおやめになったらいいのです。その代わりに永遠に命とは縁切れになるのです。

 神は今、私たちに永遠の命を教えつつあるのです。これは何のためかと言いますと、ユダヤ人を覆すためです。ユダヤ人を覆すためには、日本人が発言しなければならないのです。ユダヤ人は日本人の言うことなら耳を貸すのです。アメリカ人やイギリス人がいくら言ってもだめです。日本人の言うことなら耳を傾けるでしょう。ここに日本の国体のすばらしさがあるのです。

 私が言うことが男の人はなかなか定着しないと言われます。頭で分かったような気がするが、心に停まらないのはなぜかということです。これは女の勉強が足らないからです。男の人は自分が女であることが分かっていないのです。

 男の皆様は、自分は男だと思っているのです。皆様が女である証拠は、人間がいくら偉そうに言っても、空気を自分で造ることができないということです。太陽光線を自分で造ることができないのです。

 太陽光線を造り、水を造り、空気を造っている男が恋しいはずです。太陽光線は男性によって造られているのです。永遠の命という男性によって造られているのです。その男に寄り添うことが人間の霊魂の本当の喜びです。

 男性を慕って慕ってやまない気持ちが、女のハートに現われているのです。女のハートというよりも、女の性器に現われているのです。女の性器の秘密を人間は全然知らないのです。これを聖域にしてしまっているからです。神聖にして犯すべからずと言って、敬遠しているのです。

 訳が分からないものだから敬遠しているのです。この宇宙にあるもので、敬遠すべきものは何もないのです。神の実物でさえも触れていかなければいけないのです。話をしてはいけない、そういうことを考えてはいけないというような聖域を、人間が勝手に造ってしまって、女のことを勉強できないように、今の社会がしてしまっているのです。この世が女をそういうものにしてしまったのです。

 今の人間には女を真正面から勉強することはできないのです。だから、皆様の気持ちが頑なになっているのです。その頑なな気持ちがある間は、私の話をお聞きになっても長続きしないのです。

 女の勉強を本当に考えるなら、私が言うことがどんどんお分かりになるでしょう。

皆様の今までの勉強はただの情報です。今までの皆様の経験とか、今までの皆様の気持ちがじゃましているのです。

 今までの皆様の気持ちは何かと言いますと、死ぬに決まっている自分を自分だと思っていた気持ちです。まずこれをやめて頂きたいのです。今まで生きてきた自分の経験とか、理屈を捨てなさいと言うのではありません。捨ててしまおうと思っても捨てられないからです。

 今までの自分は死んでいくに決まっている自分だということをはっきり認めて頂きたいのです。この自分を脱ぎ捨てようとするのです。脱ぎ捨てようという決心ができるかどうかということです。

 今までの皆様の勉強は、世間の情報の勉強ばかりでした。知識、常識は人間が造った情報です。これは命を与えてくれません。理屈を与えるだけです。理屈の勉強だけで満足できるのか、命を知らなければ承知しないのか、どちらなのかということです。

 今までの考え方をしていたら、皆様は死んでしまいます。これを考えて頂きたいのです。今までの考え方にこだわっていると死んでしまうので、考え方を変えて頂きたいのです。

 花を育てている人はたくさんいますけれど、水や肥料を与えて育てていたのですが、花そのものを造ったのではないのです。

 人間は自分を取り巻いている自然現象と、自分自身の存在とを対立的に考えたのです。これは今から四千年位前に、ユダヤ人が考えた思考方式です。ユダヤ人が間違いに入っていたのです。

 人間は自然現象を研究の対象にしました。動物学とか、植物学とか、生物学という考え方をしているのですが、これが間違っているのです。

 自然と人間は一つのものであって、花と人が一つでなければ花を育てることはできないのです。花が肥料が欲しいとか、水が欲しいのかが分かるのです。それは、花の心が人の中にあるから分かるのです。

 どんな利口な犬でも花を育てる犬はいないのです。犬と花は別々の存在です。一つにはならないのです。人間は万物の長であるためには、森羅万象がすべて分かるのです。

 人間の中には万物の要素がすべて入っているのです。ダイヤモンドも鉄も、動物も植物も魚類も、森羅万象のあらゆる要素が人間の中に入っているのです。

森羅万象のあらゆる要素が人間の中に入っている

 人間は森羅万象に通じる奇縁を持っているし、精神的な奇縁も持っているのです。万物を造ったその人が、その人の頭と同じようなものとして人間を造ったのです。そこで、人間の霊魂は万物をすべて内包しているのです。

 逆に、人間の霊魂は万物の中へ入って行けるのです。万物全体と人間の霊魂は一つになっているのです。人間一人が万物全体と同じ値打ちがあるのです。この意識を皆様も持てば、万物の長としての資格を持つことができるのです。

 空を見れば雲の流れが分かるのです。明日の天候がどうなるかも分かるのです。人間の心というものは、時間、空間の全体に広がっているのです。だから、何十キロの体重と、一メートル何十センチの肉体存在が、人間であるという考え方が間違っているのです。

 姿、形はそのとおりですが、これは人間の思考能力のポイントです。全体ではないのです。人間は万物に通じるような思考能力を持っているのです。だから、人間は神にはなれませんけれど、神と同じ仕事ができるのです。神がしようとしていることならだいたい分かるのです。神の番頭くらいはできるのです。

 イエスは神の番頭です。こういう考え方で見ていきますと、万物と人間は一つのものであることがよく分かるのです。

 男と女は一つです。一つだから女の気持ちが分かるのです。一つだから、女を口説きたいと思うのです。男と女が別々のものなら、女を口説けるはずがないのです。

 人間の男として女を見る場合と、万物存在の一つとして女を見る場合とでは、女の見方が変わってくるのです。霊において女を見るのです。生まれる前の本能性が肉的に働きますと、女を肉的に抱いてしまうのです。生まれる前の本能性が霊として働きますと、女の肉が霊に見えてくるのです。霊の女が見えるのです。

 男の皆様がなぜ女を愛したくなるのか。例えば、彫刻の裸体像があるとしますと、これは肉欲の対象にはならないのです。しかし、女体が立っているのは分かるのです。

 肉欲の対象にはならないのですから、まさかそれを抱こうという男はいないでしょう。ところが、やはり色気があるのです。彫刻になぜ色気があるのか。

 油絵の裸婦があるとしますと、そこにも色気があるのです。絵を抱こうとしても抱けませんけれど、色気があるのです。

 抱けない彫刻や絵画にも色気を感じるのですが、色気とは一体何かです。これが皆様が本当の素直さを求めている証拠になるのです。

 女の体(woman body)には、受け入れたくて仕方がないという表情が出てしまっているのです。女の人がそれを感じても感じていなくても、女の体そのものが抱いてもらいたいという表情になっているのです。これが女の人が化粧をする気持ちになっているのです。

 愛されたいという気持ちが、そのまま女のボディーに出ているのです。これが男に分かるのです。これが色気です。愛されたいという気持ちが色気です。

 愛されたいとは何かと言いますと、愛を受け入れようという気持ちなのです。無限に愛されたいと思うのです。無限に愛されたいというのは、無限に愛を受け入れようという気持ちです。これがウーマンボディーに現われているのです。これが色気です。

 彫刻家は女性の体に魅力を感じるのです。それがどういう魅力か分からないけれども、自分が感じている魅力を彫刻に現わしているのです。

 彫刻家が感じている魅力は何かと言いますと、万人に共通する魅力です。万人に共通する魅力ですから、展覧会の作品になるのです。自分だけの魅力なら、自分は分かっているけれども人には全然分からないのです。そうしたら、展覧会の出品用にはならないのです。

 彫刻の魅力は何かと言いますと、愛されたい、愛して欲しいという魅力です。これが男性に感じられるのです。

 男性には愛されたい、愛して欲しいという願いがないのです。これが男の欠点です、何が尊いかと言いましたら、愛されたいという程尊い気持ちはないのです。人間のあらゆる考え方、精神構造の中で、愛されたいという気持ちが一番すばらしく輝いているのです。一番素直で、一番尊い気持ちです。これを男性は知っているのです。知っているから女が慕しいのです。

 ここまでは男は分かるのですが、女が愛されたいという気持ちを自分自身のものにしなければならないということが、普通の男に分からないのです。

 これは女を食べてしまうことです。女はそうして欲しいのです。ただ抱いてもらうくらいでは困るのです。ダイヤモンドを買ってもらうとか、指輪を買ってもらうだけでは満足しない。食べて欲しいのです。男に完全に食べられたら女の本望です。

神に完全に食べられたイエス

 これが分かった男は卒業するのです。初めて神が分かるのです。神に食べられたいのが人間の本根です。

 神に食べられたら、死んでしまう自分は消えてしまいますから、永遠に神と一つになるのです。これが人間の本望です。

 イエスの復活は神に完全に食べられた男の話です。女を見て色気を感じるのなら、女の色気をもらってしまったらいいのです。女の色気をもらってしまいますと、その女の人は初めて、自分の本当の願いが分かった男を見い出したのです。

 こういう男はめったにいませんが、皆様はそうなろうと思えばなれるのです。

 普通の女の人は、体を与えますが心は与えません。与えないと言って頑張っている訳ではないのですが、与えたいという男がいないのです。

 女の本性は愛を求めることです。奥さんは夫に心を与えたいけれども、夫が愛の塊ではないから与えられないのです。夫は人間の塊です。だから、いくら尊敬している人でも、男に完全に自分の心を与えることはできないのです。

 男は女の気持ち、本当の願いは何処にあるかを知らなければいけないのです。女自身はそれを知らないのです。愛されたいという気持ちは何処からくるのか。なぜこんなに愛されたいと思うのか。その気持ちが何処から沸いてきたのかということが、女自身に分からないのです。これは女を造った神に聞かなければしょうがないのです。

 アダムはどうしても神に愛されたいという気持ちにならなかったのです。そこで、アダムの中の潜在意識を引き抜いたのです。潜在意識というのは魂の本性です。これを引き抜いて女にしたのです。

 女は男の霊魂の本性です。それが女の格好になって現われているのです。だから、すばらしい芸術作品になるのです。花よりも富士山よりも、松の木の枝ぶりよりもすばらしいのです。

女の裸身像が一番すばらしいのです。

 ところが、今の女の精神状態は良くないのです。なぜかと言いますと、罪を犯すきっかけになったのが女だからです。そこでこの女を本来の女にしなければならない責任が男にあるのです。女は男のあり方如何によって、本来の姿に帰ることができるのです。これが男の責任です。

 男は女を抱いたらその責任を回避することができないのです。これが天地の掟です。抱いたらその女を完全なものにしなければならない責任があるのです。

 男は神に造られたのですが、神に造られたということが男自身に分からないのです。造られてしまってからふっと目を覚ましたら、神に造られて生きていたのです。

 アダムは神に造られたという過程を知らないのです。だから、神はエデンの園に人間を置いたと言っていますけれど、この時のエデンはすばらしいものでした。現在の地球は、人間が罪を犯した後の地球ですから、汚れているのです。

 「地はあなたのために呪われる」とありますように(創世記3・17)、今の地球は人間の罪悪によって呪われてしまっているのです。地震、病気、砂漠がありまして、本当に安心して住んでいることができないのが、今の地球です。人間は明日をも知れない状態で、戦々恐々として生きていなければならないのです。

 本当に人を信じることができないのです。いつも不安と不信とが人間の根底にあるのです。この状態になった原因は何かと言いますと、アダムが神に愛されたいという気持ちを持ち損ねたからです。

 神に愛されたいという気持ちを持ち損ねたために、今の人間ができたのです。

 神は一番最初にアダムを造った時に、神に愛されたいという気持ちが、アダムに起こることを期待したのです。

 その前に考えなければならないことは、神はなぜ人間という奇妙なものを造ったのかということです。それは死の法則が宇宙に発生したからです。死というマイナスのエネルギーが宇宙に発生したので、それを自滅させなければならなくなったのです。

 神は圧倒的なプラスのエネルギーによって、マイナスのエネルギーを滅ぼすことはできるのですが、それでは再びマイナスのエネルギーが宇宙に噴き出してくる危険があるのです。そこで、マイナスのエネルギーが自滅する状態に追い込まなければならないのです。

 マイナスのエネルギーが悪魔です。悪魔を征伐することは良くないのです。悪魔を征伐しても、完全に息の根を止めることはできないのです。悪魔自身が自分はだめだということがはっきり分かって、自分の権利を完全に放棄するように仕向けなければならないのです。これが人間を造った原因です。

 人間に本当のことを分かってもらって、神の番頭になってもらって、悪魔が完全に間違っていると断定してもらいたいのです。

 悪魔が持っていた力はどんな力かと言いますと、神に代わって万物を支配する力を持っているのです。聖書は彼を天使長と言っています。天使の長です。この位を持っていた者が神を裏切ったのです。

 最初に造られたアダムは素直ではなかったのです。神に愛されたいという気持ちがなかったのです。愛されたいという気持ちは極めて素朴な、極めて素直な魂の本性です。

 魂の本性が自然に発露しますと、愛されたいという気持ちになるのです。人間の潜在意識には、愛されたいという気持ちがびっしりと詰まっているのです。そこで、適わぬ時の神頼みということになるのです。人間はどうにもしょうがないお手上げの状態になったら、「神よ助けたまえ」と思わず叫ばざるを得ないのです。

 次の瞬間に大地震が起きたら、「神よ助けたまえ」と叫ぶことになるのです。人間の心のどん底には、神頼みという気持ちがあるのです。これが神に愛されたいという気持ちの名残です。神に愛されたいという気持ちが、未だに人間の根性に貼り付いているのです。

 これを男が積極的に持つためには、どうしても女の勉強をしなければならないのです。

 神は神に愛されたいという気持ちを、女のボディーとして現わしたのです。アダムは女を見て一遍に惚れたのです。惚れたけれども、女をどのように扱ったらいいのか、扱い方が分からなかったのです。ただぽかんとして女を見ていたのです。

 「二人とも裸であったが恥ずかしいとは思わなかった」という言葉がありますが(同2・24)、裸のままで恥ずかしいとは思わないで生きていたのです。

 そこで、陥罪という事件が起きたのです。神はアダムに、「善悪を知る木から取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」と忠告しているのです(同2・17)。

 これがいわゆる禁断の木の実です。禁断の木の実というのはどういうものか。これがキリスト教では全然分からないのです。禁断の木の実は何であるかということです。これが実は女の悪さに関係があるのです。

 女が本来あるべき自然の用を不自然なものに代えてしまったのです(ローマ人への手紙1・26)。人間の霊魂の本当の姿が女に現われているということに気付かないままで、自分自身の姿に気を取られてしまったのです。

 女には人間の「骨の骨である」ということと、「肉の肉である」ということと、二つの面があるのです。

 骨というのは霊のことです。皆様の霊魂の本体は骨です。皆様の肉体は骨があるから保っているのです。病気は骨が治れば治るのです。骨は人間の根本原理です。表からは見えないのです。

 筋肉を造るのも、血液を造るのも全部骨の働きです。骨の髄が血液を造る根源になっているのです。プラスのエネルギーの根本は、肉体的に言えば骨になるのです。これが全身に働いているのです。神経は全部骨から出ているのです。

 人間の内臓も骨が支えているのです。骨がだめになったら内臓がだめになるのです。

 「骨の骨」というのは、人間の霊の霊ということです。普通の霊は魂の本性です。普通の霊が本当に願っているものが霊の霊です。

 人間の魂は霊ですが、魂が本当に願っている焦点が、霊の霊です。これが女です。

 女の肉体には魂の願いがそのまま現われているのです。これが愛されたい、愛して欲しいという気持ちですが、これが女のボディーになっているのです。これは地球上で一番すばらしいものです。だから、男が惚れざるを得なかったのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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