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仏教と仏法


 皆様の目が見えるのは、自分の力ではないのです。日本人は聖書を信じている人々をキリスト教信者だと考えているのです。ところが、キリスト教というのはないのです。キリスト教の教義を教えている団体はありますけれど、これは宗教教義を教えているのであって、キリスト教という教えはないのです。それをあるかのように考えているとしたら、それはキリスト教の妄念に取り付かれているのです。

 仏教もないのです。本来、空です。釈尊の悟りは宗教を否定することでした。これが釈尊の悟りの第一眼目でした。

 イエスの信仰は宗教の神の信じ方を否定することでした。イエスが宗教を否定したために、宗教家に殺されたのです。ところが、現在のキリスト教はイエス・キリストをご開山のように崇め祀っているのです。これがおかしいのであって、もう一度イエスが地上へやって来たら、第一にキリスト教を叱りつけるに決まっているのです。

 釈尊も同様です。釈尊がもう一度やって来たら、今の寺を全部焼いてしまうに決まっているのです。嘘を伝えているからです。

 仏法というのは仏の則です。仏の則というのは悟りの則であって、悟りの則というものは人間の妄念が一切空であるということです。これが悟りの則の大原則であって、仏教を造って寺を建てて、衣を着て袈裟をかけて、宗教めいたことをしている。こういうものは妄念です。

 宗教は妄念です。人間の都合が良いように、人間が仏を利用して団体を造っている。これが宗教なのです。こういうものは仏の則に外れているのです。

 人間の観念から教えが出てくるのです。例えば、こういうものが善であるとか、こういうものが悪であると考える。これが妄念です。何を基準にして善と言うのか。何を悪と言うのか。自分の都合の良いことを善だと思うのです。自分の都合の悪いことは悪だと思うでしょう。こういうものが人間の常識です。

 常識で判断していると、本当に信じられるものは何もないのです。これを般若心経は五蘊皆空と言っているのです。

 仏教に自力とか他力という考え方がありますが、こういう考え方がおかしいのです。自力というのは人間の悟りの方法について自力的にすることを言うのです。

 他力というのは弥陀の本願により頼んで救われる。これを他力と言うのです。それでは自力とか他力とかいうのはどういう関係になるかと言いますと、他力を信じている人は他力がいいと言うでしょう。自力を信じている人は自力がいいと言うでしょう。

 宗教はお互いに自分が信じているものがいいのだと考えるのです。宗論にはどちらが負けても釈迦の恥という言葉がありますが、日本の宗教はこのとおりです。

 日本の仏教はそのとおりで、釈迦の恥をさらしているようなものです。

 例えば、他力本願の方で言いますと、阿弥陀経に阿弥陀如来の名号のいわれを心にとめて称名念仏するなら、阿弥陀如来がその人の臨終の枕に立ってくれると書いています。

 ところが、現在の浄土真宗にしても、また、浄土宗にしても、阿弥陀如来の名号を心にとめるということができないのです。だから、全然称名念仏になっていないのです。

 称名とは名を称えることです。念仏とは仏を念ずることです。今の仏教は称名にもならないし、念仏にもならないのです。ただ口先だけでナムアミダブツと言っているのです。宗教はこういうばかなことをしているのです。

 人間の本来というのは大無量寿経によりますと、法蔵菩薩という偉いお坊さんがいたのです。法蔵菩薩はダルマカラーと言いまして、釈尊のことを抽象的に言ったと思われます。

 法蔵比丘というお坊さんが悟りを開いた。何を悟ったのかと言いますと、無量寿と無量光を悟ったのです。これをアミダーユスとアミダーバーと言うのです。自分自身の中にアミダーユスとアミダーバーの二つがあることを悟ったのです。そうして、成仏して阿弥陀如来になったと言うのです。

 阿弥陀如来の名号のいわれというのはこういうことです。無量寿如来と無量光如来の二つの如来が人間の中においでになる。だから、人間存在の本当の姿は阿弥陀如来そのものだと言うのです。

 これは法蔵比丘だけの話ではありません。皆様も皆同じです。

 例えば、白隠禅師は誰でも皆、煩悩、愛憎を捨ててしまえば、その人は観世音菩薩になることができると言っているのです。

 煩悩とか愛憎を捨ててしまって、自分の命を直感する方法をとれば、その人は観世音菩薩になれるのです。これは大無量寿経や阿弥陀経に述べていることと同じことです。

 阿弥陀とは何かと言いますと、阿とは無という意味です。弥陀とは限りという意味です。阿弥陀とは無限、阿弥陀如来とは無限如来という意味です。

 如来とは真如の如く来るものです。真如とは真理そのものです。皆様の命の本体が如です。皆様の目が見えること、目の働きが如です。皆様の目が如来です。如来の力を持っているのです。

 阿弥陀如来というのは、皆様の命の本体のことです。皆様の心臓が動いているのは、地球が自転公転しているエネルギーが、そのまま皆様の生理現象になって現われているからです。これが皆様の呼吸機能、消化機能の働きになっているのです。

 地球が自転公転しているこのエネルギー、皆様の生理機能の働きを仏法的な言葉で表現しますと、如来になるのです。

 仏教とかキリスト教の宗教家が、宗教に捉われて見ていることが間違っているのです。真理は一つです。命は一つです。悟りは一つです。救いも一つです。

 無量寿如来、無量光如来がそのまま聖書に書いてあるのです。聖書の字句を仏法的に説明すると、無量寿、無量光になるのです。

聖書と仏典との違い

 聖書と仏典とただ一つ違う点は、聖書には天地創造という大事実があるのです。仏法にはそれがないのです。仏法では因縁生起と言っています。因縁とは何であるのか。これが分からないのです。

 宗教は人間が人間自身のために、人間の考え方を褒めているだけです。人間を幸いにするために宗教ができているのです。

 仏教は仏を教えているのです。日本の場合はご開山があるのです。日蓮上人、親鸞上人、法然上人と色々な上人がいますが、この人がご開山なのです。ご開山は自分自身の考えに従って仏を教えたのです。

 ご開山はそれでいいでしょう。宗教を信じている人々はご開山の悟りがあればいいのです。ご開山の伝承を信じているのです。こういう人々は般若心経が全く分かっていないのです。

 釈尊の見方には天地因縁についてのはっきりした根拠がなかったのです。ただ生老病死を悟るというところから出発しているのです。

 般若心経の一番良い所は、人間の常識が空だということを繰り返し言っていることです。遠離一切顚倒夢想はそれを言っているのです。

 人間の常識は逆立ちしているようなものだから、そういうものを一切捨ててしまえと言っているのです。そうして、究竟涅槃をする。涅槃を突き止めよと言っているのです。

 仏教のお経の中で一番有難いのは般若心経です。なぜかと言いますと、皆様が空になってしまうからです。空になってしまうことが有難いのです。

 空になるとなぜ有難いのかと言いますと、皆様が死んでいくことが空になるからです。死んでいくことが消えてしまうのです。

 皆様は自分がいると固く思い込んでいるから死んでいくのです。

 自分がいないということを正しく受け取ることが五蘊皆空の念力です。我空、自分がいないということが分かれば、死ぬということがなくなるのです。死ななくなるのです。死ぬことがないことになるのです。

 だから、般若心経は何よりも有難いのです。極楽へ行くよりも天国へ行くよりも、死なない方が有難いのです。これが般若心経の功徳です。

 般若心経の特長は空を自覚すること、自分自身を空じることを言っている。これが悟りであって、これが仏法の根本原理なのです。

 自分というものをどのように読むのかということが大切です。これを自(みずから)と読むか、おのずからと読むか、どちらでしょうか。

 人間は自分が生きていると思い込んでいるのです。自分が生きているというのは、誰が生きているのでしょうか。

 人間は自分が生まれたいと思って生まれたのではありません。みずからというのは主観的ということです。自分自身の思いを言うのです。

 人間は自分はみずからの分だと思っています。自分の主観的認識に基づいて、自分が損だ得だと考えている。

 ところが、人間は自分が生まれたいと思って生まれたのではありません。また、自分が生まれたい国に生まれたのでもない。例えば、乞食の家庭、極貧の家庭に生まれたいと思って生まれた人はいないでしょう。

 人は偶然に生まれたと言います。偶然ということがあるのでしょうか。この世の中に偶然はないのです。すべて必然です。かくなればかくなるという因縁があって、因縁がなければ蚊一匹も生まれないのです。

 天然自然には理法があります。仏法でいう所のダルマです。法があるのです。それでは因縁とかダルマとは一体何なのか。これが仏法で分からないのです。大乗仏教でも分からないのです。

 因縁とは何であるのか。これが説明できないのです。この根本原理を勉強したいと考えるなら、どうしても聖書を勉強しなければならないのです。

 聖書でなければ天地創造の秘密が解明できないのです。聖書以外のどんな書物にも書いていないのです。たった一つ、旧約聖書の創世記に書いてあるだけです。

 かつてアメリカで「天地創造」という映画が製作されました。その映画は全くのお伽話でした。信用できる内容ではありませんでした。

 聖書は人間の常識で読んでも分からないのです。全然分からないのです。現在のキリスト教会で、天地創造の原理を説明できる先生は一人もいないのです。

 仏教界でも釈尊の本当の悟りを説明できる人は、日本には一人もいないのです。釈尊の悟りの根本原理は、明けの明星を見たということです。一見明星というすばらしいことがあるのです。これが仏教では分からないのです。

 仏法の根源が日本では分からないのです。あらゆる偉いお坊さんが分からないのです。

 皆様は寺や教会で色々な話を聞かれたでしょう。それはキリスト教の聖書、仏教の経文であって、これは本物とは違うのです。

 私が宗教ではないというのは、皆様が今まで考えてこられなかった般若心経と聖書を勉強したいという意味です。

 皆様が今まで考えてきた般若心経と聖書なら、私がわざわざお話しする必要がないのです。宗教のことなら宗教家に聞いたらいいのです。

 私は宗教の話をしているのではありません。皆様は放っておけば必ず死んでしまうに決まっているのです。これが気の毒なので、こうしてお話ししているのです。神の命の実物をお話ししたいのです。

 皆様にはもう少し命のことを考えて頂きたいのです。そのために、宗教ではない般若心経と聖書のことを申し上げているのです。

 神とは何かと言いますと、皆様の目が見えるということです。心臓が動いているということが神です。人間の命はおのずから来たものであって、みずから来たものではないのです。

 おのずからが天然自然ということです。皆様の命は天然自然から流れてきたものです。天然自然の根源を支配するものが絶対者です。これは絶対者と言わなければしょうがないのです。これが神です。

 神はいつでも皆様と一緒にいるのです。皆様の目が見えることが神です。耳が聞こえることが神です。この神が皆様の命を造ったのです。

 皆様の五官が命の働きです。これは神の機能です。

 まず自分の常識を棚上げすることを考えて頂きたいのです。常識を持ったままで私の話をお聞きになっても無理です。これが五蘊皆空です。

 皆様の命は一回だけです。ある宗教では七回生まれ変わると言いますが、これは宗教の意見であって、嘘です。ある宗教の偉い人が七回生まれ変わると言うのです。ではあなたは今何回目ですかと聞いたら答えられなかったのです。そういういいかげんなことを言ってはいけないと注意しておいたのです。

 天地の法が皆様の命になって働いているのです。見るということ、聞くということが法の働きです。理性は法ですし、法は命です。ですから、命そのもののあり方をよくご覧になれば分かるのです。

 五官の働きは神妙不可思議なものです。目は見えるに決まっていると思っていますが、勝手に見えるのではありません。皆様の目に天地万物が映っているだけです。皆様が見ているのではありません。

 見ているという考えがもう間違っているのです。これは主観主義の考えです。私たちの命というのは客体的に存在しているのです。本質的に客観的なものです。自分が見ているという主観的な考えが間違っているのです。

 人間は法蔵であって、天地の命が法になって五官の働きになっているのです。人間はすべてダルマカラーでありまして、自分が存在していることをよくよく見れば、神がおのずから分かるのです。

 皆様は時々絶対という言葉を使います。絶対に本当ですかとか、絶対正しいとか、絶対に行けます、絶対にあるはずだと言います。絶対ということが神ということです。

 人間は知らず知らずのうちに、神をいつも経験しているのです。ところが、神が分からない。

 神は永遠に死なないものです。神は絶対に自由です。幸福です。自由の本源です。幸福の本体です。神が分かれば全く自由になるのです。

 皆様は神を信じれば自由が束縛されるような気持ちを持っています。これは宗教の考え方です。宗教の神を信じると自由が束縛されるのです。

 キリスト教に入れば、お酒を飲んだらいけないとか、タバコを吸ったらいけないと言います。これはキリスト教が勝手に決めた掟です。聖書はお酒を少しくらいは飲みなさいと書いています。イエスは水をぶどう酒に変えたのです。

 キリスト教で言っていることと、聖書に書いていることとは全然違うのです。イエスは自由そのものを生き抜いたのです。自由そのものを生き抜いて宗教を否定したのです。そこで、宗教家に殺されたのです。これがイエスの生き方です。

 神は自由そのものです。これを掴まえたらいいのです。これを掴まえるために人生があるのです。

 皆様の目の働きは神の働きであり、皆様の生理機能は神自身の機能です。宇宙物理が人間生理になっているのです。だから、皆様の心理機能と生理機能をよく理解すれば、神が分かるのです。そうして、死なない自分がはっきり分かるのです。死なない命は宗教では絶対に分かりません。

 人生は八十年か九十年くらいのものです。その間に本当の自由、本当の幸せ、死を乗り越える本当の幸福を掴まえることができるのです。そのための人生ですから、人生は尊いものです。

 「成せばなる。成さねばならぬ何ごとも、成らぬは人の成さぬなりけり」という上杉鷹山の言葉があります。やる気さえあれば必ずできるのです。

 その気になれば、釈尊の悟りとかイエスを信じることは誰でもできるのです。イエスも釈迦も皆様と同じ人間です。イエスと釈迦と同じことができるに決まっているのです。

 現在、自我意識による私が生きていないことはよく分かっています。実は、私という格好で神が生きているのです。これは私の思想ではありません。

 もし現象が空、色即是空と言うのなら、なぜ地球ができたのか。この説明が仏教ではできないのです。

 現象が空であるということは物理学でも説明できるのです。ところが、空がなぜ色になって現われたのかが分からないのです。色即是空は分かりますが、空即是色が分からないのです。

 空が色であるとはどういうことなのか。この説明が仏教では全くできないのです。聖書を正しく勉強しなければ、現象がなぜ存在するのかが分からないのです。

 仏教には魂という言葉がありません。大乗仏教には魂という言葉がないのです。仏教は無神論です。だから、魂の説明のしようがないのです。

 仏教では人間が死んでから極楽へ行くと言いますけれど、死んでから誰が極楽へ行くのかということです。おまえさんが行くと言います。おまえさんの肉体は消えるのですが、そうすると、誰が行くのかということになるのです。肉体ではない誰かが行くと言っても、その実体が分からないのです。私はお坊さんと長時間話し合ったのですが、魂がどうしても分からなかったのです。

 聖書を見ればすぐに分かるのです。仏教は無神論ですから魂という言葉がないのです。魂の実体を知りたければ、どうしても聖書を勉強しなければならないのです。

 宗教は絶対に信用できません。信用できるのは皆様が生きているという事実だけです。もし生きているという事実を信用しなければ何を信用するのでしょうか。

 皆様は生きていながら生きているという事実を知らないのです。生きていながら命を知らないのです。だから、死んでしまうのです。皆様はせっかく生きているのですから、この命の実体を掴まえて頂きたいのです。

 命は一つしかありません。私も皆様も同じ命で生きているのです。皆様が私と同じ命で生きていながら死んでいくのを、黙って見過ごしにできないのです。だから、こうしてお話ししているのです。

 とにかく、森羅万象はすばらしいものです。神が天地を造った。これを見れば自分の本体が分かるのです。だから、人生は尊いものなのです。

 般若心経は日本には千年以上も前からありました。ところが、般若心経の本当の意味を正しく悟った人は、日本にはいないのです。一人もいないのです。それは空が分からないからです。

 宗教家の人は空が分からないのです。宗教には空がありません。宗教では空が説けないのです。宗教ではないということを教えているのが、般若心経です。色即是空、空即是色を考えますと分かるのですが、宗教は人間のご利益を説いているのです。

 現代の文明は肉体的に生きている人間を人間だと考えているのです。死んでしまうに決まっている人間が集まって文明を造っているのです。こういう文明を信じている人は、必ず死ぬのです。

 必ず死ぬことが分かっていながら、その命をやめようとしない。自殺するというのは命をやめることではなくて、生存している命を否定することになるのです。

 生存している命と精神的な命とは違うのです。人間は生活はしていますけれど、実は生きてはいないのです。これが般若心経の言いたい所なのです。

 般若心経は日本に来てから千年以上になりますけれど、本当の般若心経が説かれたことがないのです。人間が生きていることが空だということを、思想的にいう人はいます。思想的に理解する人はいますけれど、これを自分自身の命とすることができないのです。命として生きることができないのです。

 五蘊皆空、色即是空がいくら分かっても、空を自分の命にすることができなければ、結局、心経読みの心経知らずになってしまうのです。

 空が自分の命において実感できる所までいかなければ、般若心経の本当の精神を捉えているとは言えないのです。これを実行した人が日本にはいないのです。

 現在生きている自分を空じてしまうと、すべてなくなってしまうのです。生きている自分を空じてしまうと、自分自身が消えてしまうのです。これが怖いのです。これが怖いので、寺で仏教を教えている人たちは、自分を空じることができないのです。従って、般若心経を教えてもらっている人に、空が分からないし、空を実行できないのです。

二人の自分

 皆様の中には二人の自分がいるのです。二人の人格がいるのです。目に見える自分と、目に見えない自分と二人の人格がいるのです。

 目に見えている自分は人間である自分です。目に見えない自分は魂であって、魂の自分は目に見えない自分です。見ることができない自分です。有難い自分と恐ろしい自分と両方いるのです。

 死んでしまうに決まっている自分から考えますと、死なない自分は有難い自分と思えるのです。

 皆様はこの世を去ったとして、一体どこへ行くのでしょうか。これが分からないのです。目に見えない自分をしっかり持っていないから、そういうことになるのです。

 般若心経が空をしきりに言うのは、色は間違っていると言いたいからです。色というのは物質、または現象を言うのです。目に見えるものです。目に見える自分と、空である目に見えない自分が、皆様の中にあるのです。

 目に見える自分は分かっていますが、目に見えない自分が分からないために、死んでからどうなるかが分からないのです。

 仏教では死んでからどうなるのかが、絶対に分かりません。西方極楽浄土という言葉が阿弥陀経にありますけれど、これが本当にあるのではないのです。

 西方極楽浄土の実物は仏教にはないのです。観無量寿経という経典に極楽のことを書いていますが、これは実物ではありません。

 仏教は死んでから行きたい世界を、希望的観測に従って書いているのです。そういう世界があったらいいなあということを書いているのです。これは人間の想像による産物なのです。本当のものではありません。

 仏教に般若波羅蜜多という思想はありますが、般若波羅蜜多という事実はありません。仏法には即ち釈尊の考えの中には、波羅蜜多ということがあったようです。しかし、今の日本の仏教には波羅蜜多は全くありません。

 彼岸へ渡るということが、今の寺院仏教には絶対にないのです。今の仏教のお坊さんが仏教を人々に売り込むために、彼岸へ渡るという理屈を言っているだけです。

 本当の波羅蜜多というのは、衣を着て金襴の袈裟をかけているお坊さんでは絶対に分かりません。仏教という宗教を認めてしまうと、向こう岸へ渡れなくなってしまうのです。これが痛し痒しになるのです。

 般若波羅蜜多は本当のことです。本当というのは仏教ではないという意味です。仏法のことです。

 仏教と仏法とは全然違います。仏教は皆様を食い物にする宗教です。仏教は日本人を食い物にしているのです。長い間日本人を食い物にしていたのであって、本当の命を皆様に与えていたのではなかったのです。

 仏典の中には本具の自性という言葉があります。これは言葉としてはありますが、実体としてそれが分からないのです。これは生まれる前の自分のことです。

 本具の自性というのは生まれる前の自分のことです。生まれる前の自分というのは、皆様の中に目に見えない自分としてあるのです。生まれる前の自分は生まれる前のことですから、死ぬことはありません。人間はこの世に生まれたから死ぬことになったのです。

 生まれなければ死ぬはずはありません。生まれる前の命のことを永遠の命と言うのです。これが皆様の中にあるのです。これを本具の自性と言うのです。

 これが分かれば死ななくてもいいのです。ところが、現在の文明はこれが分からないようにしているのです。これが分からないように教育してしまったのです。

 人間が人間を教育しますと、魂が死んでしまうのです。教育によって仕事をする人間ができます。科学や法律を学ぶ人間ができるのですが、こういう人間は死んでしまうのです。現世に役に立つ人間、現世の生活に一生懸命になっている人間は、死んでしまうに決まっている人間であって、皆様の中にはもう一人、死なない人間がいるのです。

 仏教では本具の自性という言葉を使っていますけれど、本具の自性の本当の姿を見せることができないのです。これをはっきり証明することができないのです。ここが宗教の悪い点です。

宗教は教えであって事実ではありません。宗教ではない般若心経とは、教えではない般若心経ということです。事実であるということです。

 目に見える自分と、目に見えない自分とが、皆様の中に一つになってあるということです。生まれる前の皆様が、目に見えない自分になって自分の中にあるのです。目に見えない自分が、目に見える自分の中に入っているのです。このように二重構造になっているのです。

 目に見えない地球と、目に見えると地球とが、一つの地球の中にあるのです。目に見えない地球のことを、聖書は神の国と言っているのです。

 本具の自性という言葉を仏教では使います。思想的には永遠の命と言いますけれど、それを実感していないのです。実感していないから、皆様に永遠の命の実物を与えることができないのです。

 仏教のお坊さんが永遠の命の実物を持っていなくても説教ができるのです。キリスト教の牧師さんが永遠の命の実物を持っていなくても説教くらいはできるのです。そういう話を聞いて分かるかと言いますと、分からないのです。

 宗教の話を聞いて宗教の外へ出てしまうのです。そうすると、宗教ではない自分を見つけることができるのです。親鸞はそれを実行したのです。

親鸞

 親鸞は三十三歳まで比叡山で勉強していたのです。三十三歳の時に法然の話を聞いて、その弟子になったのです。それから、六十三歳までの間、浄土真宗を教えていたのです。そうして、六十三歳になって浄土真宗をやめてしまって、都へ帰り九十歳まで乞食みたいなことをしていたようです。

 三十三歳までの親鸞と、六十三歳までの親鸞と、九十歳までの親鸞と三人の親鸞がいるのです。本当の親鸞は浄土真宗をやめてしまった親鸞ではないかと思われるのです。今浄土真宗で説いている親鸞は三十三歳から六十三歳までの親鸞であって、六十三歳から九十歳までの親鸞は浄土真宗の親鸞ではないのです。

 これは歎異抄を読んだら分かります。宗教を卒業してしまうと、初めて本当のことが分かるのです。しかし、親鸞の場合は、浄土真宗をやめて本当の永遠の命が分かったのかと言いますと、分からなかったのです。

 死なない命は自分の中にあるに違いない。これは分かっていたようですが、それをどうして見つけて、どのように人々に伝えたらいいのか。その時の親鸞には聖書がなかったのです。

 キリスト教ではない聖書を読みますと、初めて人間が死ぬべきものではないことが分かるのです。仏教経典の中には、死ぬべきではない命がはっきり書いてありません。仏性という言い方で書いていますが、仏性である人間がどういうものであるかを説明していないのです。

 釈尊が言ったのは一切空です。現在生きている人間は空だと言っているのです。空である人間がなぜいるのかについては釈尊も分からなかったようです。

 イエス・キリストが復活した。死を破ったことによって、人間が死ぬべきものではないことが証明されたのです。人間が死ぬべきものではないことがはっきりしたのです。これが西暦紀元の元年になっているのです。

 今年は二○一八年ですが、イエス・キリストが復活してから二千年にもなるのに、未だに日本人は死なない命が分かっていないのです。

 仏教もキリスト教も死なない命が全く分かっていないのです。

 般若心経と聖書をなぜ一緒に勉強すべきかについてですが、一緒に勉強しないと彼岸が分からないからです。日本に般若心経が伝わってから、本当に般若波羅蜜多を説いた人は一人もいなかったのです。彼岸はこういうものだということを言って、自分で実際に向こう岸へ行った人は一人もいないのです。

 私はこれを実行しています。できるので実行しているのです。

 西洋文明と東洋文明と二つあると思うから間違っているのです。仏教とキリスト教と二つあると思うのが間違っているのです。こういう常識を捨ててしまうのです。文明的な常識を捨ててしまって考えて頂いたら分かるのです。

 宗教は文明構造の中の一翼です。政治、経済、教育、法律、宗教は文明構造の中の一つを言うのです。現世に生きている人間に宗教の教義を教えるのが宗教です。永遠の命の実物を与えることを目的にしていないのです。

 だから、宗教をいくら勉強しても永遠の命は分かりません。宗教思想は分かります。しかし、命は分からないのです。

 宗教は現世に生きている人間を相手にしているのです。しかし、皆様が現世を去ってしまいますと、宗教は一切役に立ちません。寺で言っていること、教会で言っていることは、現世の人間にだけアピールしているのです。

 ところが、皆様はやがて現世を去ってしまわなければならないことになるのです。現世を去ってしまいますと、キリスト教も仏教も一切当てになりません。

 現世を去っても役に立つものは何かと言いますと、死を破って復活したということです。この事実だけしか役に立たないのです。

 宗教は現世に生きている人間に教えを説いているのです。命を説いていません。宗教には命がないのです。思想を教えるだけです。

 般若心経の説明をたくさんの人が書いていますけれど、これは現世の人間の思想を書いているのです。そういうものはなるべく読まない方がいいでしょう。読んでもプラスにならないからです。

 皆様は五十年、六十年この世に生きていて、死なない命、永遠の命が分かったのでしょうか。これを考えて頂きたいのです。この世に生きていても命は一切分かりません。肉体人間としてただ生活を経験しているだけであって、肉体人間というのはこの世に生きている人間です。ところが、魂は永遠から永遠に生きているのです。

 一万七千六百巻と言われる膨大な大乗仏教の中に、魂という文字が一字もないのです。だから、仏教では霊魂の説明ができないのです。それは、仏教には永遠の生命がないからできないのです。

 仏教には思想はありますが、命がないのです。宗教と宗教でない違いは、命があるかないかの違いになるのです。

 般若心経は五蘊皆空を第一番に説いていますが、五蘊というのは、人間のあらゆる常識、知識を言うのです。人間の精神状態は全部間違っていると言っているのです。

 皆様は現世に生きていると、肉体的に生きている自分のことしか頭にありません。肉体的に生きている自分だけしか考えていないのです。だから、魂が全く分からないのです。

 仏教は魂のことを説明しません。説明ができないからです。釈尊は現世に肉体的に生きている人間は空だと言い切ったのです。ところが、日本の仏教は一切空だと言い切っていないのです。一切空だと言い切ってしまうと商売にならないからです。

宗教は商売

 宗教はすべて商売です。大きな寺を建てたり、仏像を置いたりしますと相当なお金がいりますので、自然に商売になってしまうのです。お金がなければ仏教は成立しません。そこで、やむを得ず商売になってしまうのです。

 これは良いか悪いかの問題ではなくて、現世において教えを説こうとすれば、結局商売になってしまうのです。

 大学も商売です。大きな学校を建てて学生を集めるとしたら、商売になってしまうのです。そこで、日本人は般若心経の五蘊皆空、色即是空をどうしても勉強しなければならないのです。

 皆様は花を見たら美しいと思います。美しいというのは、生まれる前の皆様の魂によって見ているのです。ところが、見ている人間の目の意識は、現世に生きている人間の意識です。美しいという感覚は魂の感覚ですが、見ている意識は人間の意識になっているのです。

 男は女を姦淫の念によって見ているのです。なぜこうなるのかと言いますと、女はいないのです。女がいると思うから性欲によって見てしまうのです。

 本当の愛とは何か。太陽が地球を愛している。太陽の力とエネルギーが地球に放射されている。これは太陽が地球を抱いている状態です。これが本当の愛です。この愛が女になって現われているのです。

 女という人間があるのではありません。太陽系宇宙に存在している愛を形で現わすと女になるのです。

 日本人は聖書を知らないのです。本当の聖書の読み方を知らないのです。太陽と地球の関係ということが分からないからです。

 皆様は生まれる前に花が美しいということを経験していたのです。だから、現世で花を見て美しいと思えるのです。

 皆様は花が美しいということを、誰かに教えてもらったのでしょうか。学校では花が美しいとは教えていないのです。美しさを人間は教えることはできません。

 皆様は子供の頃に美しさというものを教えてもらったのでしょうか。花を見て美しいというのは人間の直感です。直感というのは、生まれる前の感覚を言うのです。これによって見たり聞いたりしているのです。

 皆様は命の勉強をしていません。このままで死んだらどうなるのでしょうか。死んだらどうしますか。このことをよく考えて頂きたいのです。

 宗教では命のことは分かりません。宗教は肉体的に生きている人間の教えです。この世に生きることだけを教えているのです。この世を去ったらどうするのでしょうか。

 皆様の霊魂は生まれる前に経験していたのです。生まれる前の感覚が五官という形で働いているのです。だから、おいしいということが分かるのです。女性が美しいと思えるのは生まれる前の感覚です。人間の五官の働きは生まれる前の感覚です。おいしい、美しいというのは生まれる前のことを感じているのです。現世に生きている人間の意識ではないのです。これをよくよく考えて頂きたいのです。

 現在のキリスト教は、キリスト教の教義に基づいて聖書を見ているのです。キリスト教は教義を教えているのです。本当の聖書を教えているのではありません。

 聖書は神の言葉ですが、キリスト教の人々も聖書は神の言葉であると言っています。これは宗教的な角度からそう言っているのです。

 「人は神にかたどりて造られた」と書いています(創世記1・26)。現在の人間は神にかたどりて造られていながら、神が分かっていないのです。キリスト教でも神が分かっていません。

 神とは何かと言いますと、皆様が生きているということです。皆様の目が見えること、心臓が動いていることが神です。キリスト教ではこの神が分からないのです。

 キリスト教は聖書を読んでいながら神の実物を知らないのです。「天にいますわれらの父よ、御名が崇められますように」と祈っていながら(マタイによる福音書6・9)、天にいますということが分からないのです。御名を崇めるとはどういうことなのか。これが分からないのです。

 人間は過去、現在、未来を考えなければ生きていけないような精神構造になっているのです。これが実は皆様の生命構造になっているのです。精神構造と生命構造は同じものなのです。

 人間はただこの世を去るだけではありません。現世に生きている人間は死んでしまいますが、霊魂は死んでしまったら終わりではないのです。

 皆様は五十年、六十年の間、この世に生きていました。その記憶があるのです。皆様の記憶は現世に生きている常識の記憶ばかりですが、これが死んでからでも残るのです。

 イエスは言っています。

 「目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう」(マタイによる福音書6・22、23)。

 内の光というのは、皆様の中にある先天性のことです。持って生まれた知恵です。先天性の命です。これによって味わったり、音や光を感じているのです。性と食をしているのです。

 人間は先天性がなければ生きていけないのです。先天性は肉体を持つ前の機能ですから、肉体がなくなっても消えてしまわないのです。

死なない自分

 皆様の中に目に見える自分と、目に見えない自分があると言いましたが、目に見えない自分は先天性の自分です。五官の感覚が先天性です。これが死なない自分です。

 肉体はなくなりますが、皆様の記憶はなくならないのです。これが裁きの対象になるのです。

 人間は時間を知っている。空間を知っている。食物の味が分かる。これが人間の霊魂の働きです。この霊魂の目を開くことが必要です。

 皆様が持って生まれた命が霊魂の本体であって、これが肉体がなくなっても残っていくのです。霊魂不滅と言いますように、霊魂はなくならないのです。

 まず般若心経によって五蘊皆空を知って頂きたいのです。そうして、究竟涅槃によって、現世に生きている自分の気持ちを否定してしまうのです。

 仏教は現世を解脱することが目的です。究竟涅槃を体得することによって、現世を解脱することはできますけれど、死んでからどうなるのかについては、一切説いていないのです。ですから、皆様は霊魂の勉強をして頂きたいのです。

 皆様は過去、現在、未来を考えて生活しています。これが皆様の精神構造ですが、皆様の生命構造も同様です。生まれる前の人生と、現在の人生と、現世を去った後の来世があるのです。これが皆様の生命構造です。

 死んでからが必ずあるのです。だから、生活の問題よりも魂の問題を第一に考えて頂きたいのです。

 向こう岸とは何か。皆様が持って生まれた先天性が向こう岸です。これが仏性です。これが皆様の中にあるのです。

 まず皆様は自分が生きているという思いを解脱する必要があるのです。自分が生きているということの向こう側があるのです。

 皆様の中に先天性というすばらしいものがあるのです。赤いものを見たら赤く見える。甘いものを食べたら甘いと感じる。これが皆様の霊魂の働きです。これが皆様の命の実体です。

 これが今の人間には全然分からないのです。人間の知識、常識のために分からなくなっているのです。そこで、般若心経の五蘊皆空、色即是空、究竟涅槃を体得して頂きたいのです。

 生きているということが光になるのです。イエスはこのことを、「目は体のあかりである」と言っているのです。「あなたの目が澄んでいれば全身が明るいだろう」と言っているのです。

 皆様は自分の常識で生きていますが、これは生活の知恵です。生活の知恵は生活に関することなのです。皆様はやがてこの世を去ることになりますので、魂の光を勉強しなければならないのです。

 皆様の中に先天性の機能があるのです。これが死んでからの命になる。これが永遠の命です。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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はじめに

人間が死んでいくということほどばかばかしいことはありません。人間はなぜ死ぬのか。考え方が間違っているから、勝手に死んでいくのです。 命に対する考え方が間違っている。だから、死んでいくのです。ただこれだけのことです。 自分の命のことを考えようとして、宗教や学問を勉強するために、ますます分からなくなるのです。これは全くばかなことをしているのです。 皆様は自分が生まれたいと思って生まれたのではありません

たくさんの書と命の文

人間が空だということは道元も一休も言っていますけれど、空ではない自分は何かということが分からないのです。実である人間が全く分からないのです。 これについては釈尊も全然言及していません。実の人間とは何であるか。釈尊の場合にはかろうじて明けの明星という言い方で、人間の実をちらっと覗かせる程度のことはしているのです。 明けの明星が人間の本体だということが、世界では全然明らかにされていないのです。人間の歴

附家老

人間が生きているということは、良心と一緒に歩いているということになるのです。良心とはどういうものかが、日本人はよく分からないのです。 これは欧米社会でも言えるのですけれど、良心は自分自身の考え方ではないのです。だから、良心というのですが、人間の常識から良心は出てこないのです。倫理、道徳という考え方の中からも出てこないのです。 むしろ人間の倫理道徳を良心は批判しているのです。このことをよくご承知頂き

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