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  • 管理人chaya

信仰


パウロは次のように述べています。

「こういう訳で、私たちはこのように多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、一切の重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、私たちの参加すべき競走を耐え忍んで走りぬこうではないか。

信仰の導き手であり、またその完者であるイエスを仰ぎみつつ、走ろうではないか。彼は自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである」(ヘブル人への手紙12・1、1)。

信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎみつつ、走ろうではないかと言っていますが、信仰ということについての考えが、土台から間違っているのです。

人間の考え方は皆間違っていることになるのですが、特に信仰についての間違いが、人間の致命傷になっているのです。

信仰の導き手とありますが、イエスは何を導いたのであるかということです。信仰というのは、神の思想です。思想というより、思考方式と言ったほうがいいでしょう。神の思考方式、または思索方式が信仰です。

人間の魂が理性というあり方、または良心というあり方において、神の思考方式の原理をそのまま植えられているのです。人間の心の中に種がまかれているのですが、芽を出していないから分からないのです。これは、何万人のうちの一人か、何十万人のうちの一人、あるいは何百万人のうちの一人いるかいないかという位の確立になるでしょう。本当の芽を出す人は、それくらい少ないのです。

例えば、イエスの十一人の弟子がいますが、タルソのパウロが入れば十二人になりますが、このわずかの人たちが、全世界の人間の中で信頼を得て、キリストの使途として立てられたのです。

今の時代にも、やはりそのような比率になるのではないかと考えられるのです。皆様はその人に該当する本当の意味でのプライドを持つべきなのです。これは人間の自尊心ではありません。神の子としてのプライドですが、これを持つべきなのです。

弟子たちがイエスに、「私たちの信仰を増して下さい」と言いました。それに対してイエスは、「もし辛子種の一粒程の信仰がおまえたちの内にあるのなら、この桑の木にうつりて、海に植われと言ったら、その通りになるだろう」と言っているのです。

桑の木の根がごそっと抜けて、海に植われと言われたら、その通りになるだろうと言っているのです。イエスはこういう奇妙なことを言っているのです。これは本当に奇妙なことですが、これが信仰の真髄をずばりと言い切っているのです。これが分かれば、信仰という言葉の意味が分かるのです。

実は、辛子種一粒程の信仰があったら、桑の木に移って、海に植われというに決まっているのです。それを言わない人は、やはり辛子種一粒の信仰がないと言わなければならないのです。

私は神から、絶対に信仰を安売りしてはいけない、神の言葉をまっすぐに扱えと厳命されていますので、聖書の言葉を値引き致しません。原価どおりに扱っているのです。絶対に値切ったらいけないのです。

それを皆様は値切ろうとしているのです。御霊を受けるということは、一年生になったということです。正式に聖書を学ぶ心理状態の発端を捉えたということです。正しく聖書が学べるような心理状態の発端を教えられたのです。ここをたぐっていけば伸びて行くのです。これをしなければ伸びないのです。

信仰はまず第一に、人間の思想ではありません。ところが、人間が神を信じることが信仰だと思っているのです。だから、弟子たちが私たちの信仰を増して下さいという妙なことを言い出すことになるのです。

弟子たちは自分では信仰があるつもりでいたのです。イエスから見ると、弟子たちは信仰を持ってはいたが、彼らの意識にはあがっていなかったのです。彼らの顕在意識で信仰を増したまえと言っているのは、本当の信仰ではないのです。

すべての人間は生まれながらにして、信仰を与えられているのです。ある死刑囚が、死の直前に話したということですが、その人は心が非常に澄んでいたということです。この世の欲、この世の雑念、肉の思いを放棄せざるをえない状態におかれた。そして、死刑の執行を待つという境遇におかれて、その人の心は澄んできたのです。

肉の思いから離れて見ることができる心境になったのです。その時にその人は、一滴の朝露を見たのです。じっと見ていて、その透き通った美しさに感動した。この世の中にこんなに美しいものがあったのかと感嘆したのです。これが信仰です。

この人は信仰がちょっと顕在意識になりかかったのです。そうすると、はっと驚くのです。これは露に限りません。鳥の鳴き声でも、一輪の花でも、何とすばらしいのかと思うのです。

聖書にありますが、血漏の女がいまして、この人がイエスの衣に触れたら、病気が治ると信じていたのです。そういう直感があったのです。だから、怒られようが、踏みつけられようが、人のことを一切かまわずに、人を押し退けて、イエスに触りにいったのです。強引とも、むちゃくちゃとも言える熱意が尊いのです。五十五才の死刑囚は、一滴の朝露に触れたのです。ああきれいだと思う心について行ったらいいのです。そうしたら神が見えるのです。

イエスは血漏の女の信仰を見て、「その信仰があなたを救った」と言ったのです。自分の本音です。魂が無限の真理を求めているその本音です。それに耳をかすのです。それに目をつけるのです。魂の本音で考えるのです。魂の本音が目を覚ましただけでは信仰にはなりません。信仰とは魂の本音がその人の顕在意識にのぼることをいうのです。辛子種そのものを意識することです。

辛子種は誰にでもありますが、それを意識することが信仰です。辛子種を意識するようになりますと、桑の木に移って海に入れと言いたくなるのです。桑の木とは、人間の自我意識です。自我意識がごぼっと抜けて、海に植わるのです。自我意識が大地という肉の世界から離れて、海という霊の世界に入るのです。水の中に入るのです。そうすると、全く違ったものになるのです。

自我意識の悪さと全然違ったものになるのです。桑の根っ子が土地に植わっている間は、大地をしっかり抱きしめているのです。地にしがみついてびくともしないのです。この根っ子を水の中に入れると、曲がりくねった根っ子が伸びるでしょう。真っ直ぐになるでしょう。地面を抱く必要がないから伸びやかになるのです。

この世の中で抱くものがある間はだめです。商売を抱いたり、家庭を抱いたり、地位を抱いたり、財産を抱いたり、自我意識、自尊心、自分の考え、自分の主張を抱いているのです。こういうものから出てしまって、海に植われば、新しい養分を吸収して、どんどん伸びるのです。これが本当に救われた魂の状態です。これがなければならないのです。

信仰というのはそういうものだと承知した上で、イエスに目をとめるのです。信仰の導き手というのは、模範的な信者とは違います。キリスト教信仰の模範的な状態をさしているのではありません。イエスとキリスト教とは、何の関係もないのです。

キリスト教は主イエスを売っているのです。売り物にして商売をしているのです。こんなものと、イエス・キリストは何の関係もないのです。「イエス・キリストは水と血によりて来たりたもうたお方」です(ヨハネの第一の手紙5・16)。これとキリスト教とは何の関係もないのです。

パウロは「からみつく罪をかなぐり捨てて、私たちの参加すべき競走を走りぬこうではないか」と言っています(ヘブル人への手紙12・1)。これは参加しなければならない競走です。この箇所を文語訳では、「目の前に置かれたる馳場を走る」と訳しています。

目の前に置かれた馳場というのは、ランニングコースのことです。目の前に馳場が置かれているということは、その人が走らなければならないということです。その人が走らなければならないから、その人の前にランニングコースが置かれているのです。

それを口語訳では、「参加すべき競走」と訳しています。つまり、目の前にコースがあることは、参加すべき競走があることだという考え方なのです。私たちの目の前に置かれているレースを、忍耐と共に走ろうではないかと言っているのです。そうすべきであるし、そうしようではないかという、励ましの意味を含めているのです。

人生を信仰的研修道場として見るのです。神との交わりの道場として見るのです。これはしなければならないことです。禅では人生そのものを道場と言っています。家庭を道場と見ているのです。職場を道場として見ているのです。これが禅の良いところです。

今の日本の禅は、こういう見方をしていないかもしれませんが、中国の達磨はそう見ていたのです。また、日本でも白隠禅師はそういう考えをしていました。生きていることがそのまま禅です。行もまた禅、座もまた禅です。これでなかったらいけないのです。行禅を考えるのが本当の禅ですが、これがヘブル人への手紙の第十二章一節に当てはまるのです。

人間は一生涯訓練であって、だらけていてはいけないのです。楽しむためにマイホームがあるのではない。その人を訓練するために、神がマイホームを与えているのです。マイホームを道場として見るのです。そういう意味での結婚ならいいのです。結婚したらだらけるのがいけないのです。人生の見方が甘いのです。間違っているのです。ヘブル人への手紙第十二章のような見方をしなければいけないのです。

私たちはこの世において、楽しもうと考えてはいけないのです。楽しむのは天へ行ってからでいいのです。携挙されてからゆっくり楽しんだらいいのです。永遠の楽しみが与えられるからです。世々限りなく王として楽しむのです。神を目的とする人間完成を見事に果たしたら、その褒美としてその人に永遠の命が与えられるのです。永遠の栄光が与えられるのです。その時、ゆっくり楽しんだらいいのです。

現世で楽しもうという根性がいけないのです。私たちは現世に、神の訓練を受けるために来ているのです。だから、月給が今より多くなることを望んだり、家庭が円満であること、妻がサービスしてくれることを望んではいけないのです。それなら妻と喧嘩ばかりしていたらいいかというと、それはなおいけないのです。喧嘩をするのではない。キリストの教会の譬のように、己の体のように妻を愛したらいいのです。自分の体は一番自分の思うようにはならないのです。そのように妻を愛したらいいのです。一番自分の思うようにならないものだと思って、愛したらいいのです。

例えば、教会はキリストの思うようには絶対にならないのです。キリストに逆らってばかりいるのです。それをキリストは二千年も愛し続けているのです。へそを曲げた教会ですけれど、未だに御霊を引き上げないで、御霊が何とかしてしてあげようと思って助けているのです。この大いなる愛を見なければいけないのです。背いてばかりいる教会を、キリストの御霊は助けておいでになるのです。

私はできればキリスト教の人々に、本当の福音を説きたいと思っています。それでも、彼らは言うことを聞かないかもしれません。今は異邦人の時代ですから、キリスト教の教会に、本当の福音の呼びかけをしたいと思っています。異邦人の時が終わったら、今度はイスラエルに伝道をすべきです。これが私たちに与えられた使命です。

私たちは日本人伝道をしていますが、これはキリスト教会に対する呼びかけの方法です。出来たら現在のキリスト教会の人々に、キリスト教が間違っていることを自覚して頂きたいのです。恐らく自覚しないかもしれませんが。

聖書を学んでいる者は、聖書が穴になるのです。ご飯を食べるとご飯が穴になるのです。結婚すれば結婚が穴になるのです。すべて人間はすること成すことが、全部穴になるのです。すべてが落とし穴になるのです。

重荷と罪をかなぐり捨ててと書いていますが、かなぐり捨てることができないのです。できるものなら簡単でいいのです。ヘブル人への手紙というのは、パウロがユダヤ人に対して書いたのです。ユダヤ人は自分が生きていると考えていました。ユダヤ人は罪と喧嘩をしようとする癖があるのです。重荷を背負わなければならないと思い込んでいるのです。

かなぐり捨ててとありますが、これは英訳ではlay aside です。かなぐり捨ててというおおげさな言い方をしていないのです。lay aside というのは、横にちょっと置いておくということです。脇にちょっと置いておけというのは、何気ない言い方です。かなぐり捨ててという日本語訳よりもずっといいのです。

かなぐり捨てるというのは、力んでしなければいけないとなるのです。力んではだめです。力むということが、既に罪の虜になっているのです。英訳のレイ・アサイドを承知して頂きたいのです。

生まれながらの自分を、自分だと思う必要はないのです。それを自分だと思うことをやめなさいというのです。実はこれは古き人に対する痛烈な復讐です。これが十字架を受け取るやり方です。十字架は力んで受けたらいけないのです。力んでいること自体が、すでに失敗しているのです。レイ・アサイドでいけばいいのです。ちょっと横に寝かしておくのです。

肉体的に生きている自分、生まれながらの自分はホモです。ホモであるものを人間だと思ってはいけないのです。ホモを人間と思わない。そうすると、一切の重荷、一切の罪がすっと消えるのです。完全になくなってしまうのです。そうすると、霊において歩むことができるのです。

自分が生かされているという事がらに目をつけるのです。生かされているというのは、事がらです。生きているというのは、自分自身を確認しているのです。いわゆる自前の人生です。自前の人生は全部嘘です。

人間が存在しているというのは、肉体的存在を意味しないのです。肉体的存在というものはないからです。なぜなら、人間の肉体は本来流動体であって、食べたり飲んだりしていることが、そのまま人間の肉体現象になって現われているのです。

人間存在とは何かと言いますと、生かされているその状態を意味しているのです。例えば、鼻から息を出し入れしていること、心臓が動いていること、見ていること、聞いていること、五官の働きがあることが人間です。

五官が働いている。心臓が動いている。働いている、動いていることが空です。心臓は空ではありませんが、心臓が動いていることは空です。動いているのは色ではありません。動いているというのは運動であって、物質ではないのです。心臓は動いているから心臓の意味、価値があるのであって、動いていなければ意味がないのです。動いていなければ、単なる肉の塊です。

人間というのは顕在意識において、動いている状態をいうのです。顕在意識で動いているということが、生かされているということです。これが人間存在の実体です。これは罪とは何の関係もないのです。罪の虜になっているのは、生まれながらの肉体人間です。ホモである自分です。ホモである自分を自分だと思わないことです。ホモである自分は、既に十字架によって、死んでしまっているということに、気がつくことです。

固有名詞の自分は、重荷を負うている自分です。罪に誤魔化されている自分です。それは自分とは違います。そんなものに責任を負う必要はないのです。

皆様が今まで自分だと思っていたものを横手において、生かされている自分だけを見ていくのです。これ以外に信仰の導き手に近づく方法はないのです。そこで、イエスに目をとめるのです。イエスは自分とは違う人間です。他人です。自分は重荷を背負っている生まれながらの人間です。これを放っておいて、イエスに目をとめるのです。

イエスに目をとめると、他人である自分が分かるのです。これが生かされている自分です。これに気づいて頂きたいのです。これが魂です。リビング・ソールです。これが人間の実体です。本当の自分です。

本当の自分に立ってイエスを見ると、イエスが生きていたあり方が、そのまま自分が今生かされているあり方になっているのです。これが信仰の導き手であり、完成者なのです。イエスを仰ぎ見ると、イエスと自分が同じだということが分かるのです。「イエスは自分の前に置かれている喜びの故に恥をもいとわないで、十字架をしのんだ」とあります。そして、神の御座の右に座したのです。この意味が分かるのです。自分もこの通りに生活できるのです。

これが分かれば、この世を去るということは、苦しみでも悲しみでもないのです。むしろこの世を去るというのは楽しいことです。なぜなら、父の元にはっきり帰れるからです。

ですから、自分の前に置かれている喜びのために、私は伝道しているのです。私には神の元に帰れるというすばらしい喜びがあるのです。この喜びの故に、イエスは走ったのです。私もイエスほどではないにしても、そういう喜びの感覚があるのです。

生きているということがパラダイスです。生きているということがパラダイスですから、この続きがあるに決まっています。私の心臓が止まっても、私が見ているパラダイスは少しも変わりません。生きているうちにパラダイスを見るのです。そうすると、心臓が止まっても、パラダイスは止まらないのです。目の前に置かれた喜びの故に、馳場を走るのです。これをして頂きたいのです。

本当の人生というものがあるのです。この世に生まれた以上、神にまかされている自分を認識しますと、初めてこれが本当の人生だということが分かるのです。

魂が見るパラダイス、リビング・ソールが経験するパラダイスはすばらしいものです。永遠のパラダイスです。これが見えるのです。これが見えたら、この世にしがみついている必要はないのです。肉の体を脱いだら、そこへ行くに決まっているのです。

キリストを見るのです。現在キリストは神の右に座して祈っているのです。そのために、人間は百%救われるのです。そういう仕組みになっているのです。ただホモを横に寝かしておけばいいのです。条件はこれだけです。

古き人に相手になってはいけない。これを相手にしたら落とし穴に入るのです。これをよくよくご承知頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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