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善悪を知る


創世記第三章でへびは、「おまえたちがそれを食べても、決して死なない。それを食べると神のようになって目が開け、神のように善悪を知ることになるだけのことだ」と言っているのです(同3・4、5)。

神のようになって善悪を知るだけのこととへびは言っていますが、これが死んだことなのです。死ぬことなのです。へびはこれを当たり前のように言っているのです。ここに人間の迷いの深さがあるのです。

現在の人間の思いは、へびの思いそのものです。従って、人間が考えていること、思っていることは、そのままへびが思っていることであって、今の人間から見れば、善悪を考えるのは当たり前のことです。利害得失の判断が一人前にできてこそ、人間だと思っているのです。ところが、人間として当たり前だと思っていることが、決定的に死んでいることなのだという事実に、気がつかなければいけないのです。

六十年、七十年とこの世に生きていますと、世の中の常識という垢がハートにへばりついてしまうのです。ハートよりも垢の方が大きくなるのです。垢というスイカの中の種が良心になっているのです。

年寄りの人はひどいもので、聖書を学んでも学んでも、身に付かないのです。面の皮ばかりが厚くなって、十字架をまともに受け取ることをしないのです。そういう状態で、救われたいとだけ思っているのです。救われたいと思うこと自体が、善悪の木の実を食べていることなのです。それに気づかないのです。そういう悪循環を無限に繰り返しているのです。今の人間は、決定的に死んでしまっている。これが分からないのです。決定的に死んでしまっているから、分からないのです。

般若心経は、「一切顛倒夢想」と言っています。人間の考えは、全部逆立ちしていると言っています。人間が考えていること自体が夢想であって、夢幻である。夢幻が真実だと思い込まされていて、顛倒夢想にがんじがらめにされているのです。顛倒夢想から遠く離れることが般若心経の心境であって、人間の思いから遠く離れることが、究竟涅槃であると言っているのです。

般若心経を毎日読誦している人、また、写経している人はたくさんいますが、誰一人として遠離一切顛倒夢想を実行していないのです。これが人間が死んでいることの確実な証拠になるのです。

とそれらの文明とが一致しない面があると言います。歴史の記録は肉体人間の記録です。肉体人間の記録と魂の記録は、次元が違う世界ですから、当然一致しない面があるのです。

魂の人間は神と交わっている人間です。この神と交わっているということはどういうことかと言いますと、実は与えられている五官を通して、皆様はいつでも神と交わっているのですが、五官を通して神と交わっているとは、なかなか思えないのです。自分がご飯を食べている。自分が果物を食べていると考えているのです。

魂とは、神に生かされている状態をそのまま受け止める機能です。人間は自分の力で生きているのではありません。神に生かされているのです。神に生かされている事実があるだけなのです。これを素直に受け取れば、その人は魂の存在になるのです。肉体的な人間ではなくて、魂としての人間存在になるのです。こういう角度で自分の生活を名づけることになりますと、お茶を一杯飲んでも、肉体が主体となって飲んでいるのではなくて、魂で飲んでいることになるのです。

生きているというその事がらがお茶を飲んでいるのです。現象的には肉体が飲んでいるように見えますけれど、実体的にはお茶の味を味わっている、喉の乾きが癒されたことを認識するのが五官であって、五官は神の言であり、神の心理機能です。これがお茶を味わっているのです。この状態をリビング・ソールというのです。

神が与えた五官を用いて、お茶を味わっているのです。この状態を客観的に観察すれば、それはそのまま魂の働きになるのです。神が人間に植えつけた五官の働きが、飲むという行動に活用されているのです。五官の働きが飲むということを味わっているのです。肉体が飲んでいるのではなくて、生かされているという事がらが飲んでいるのです。ですから、霊に従いて見るのは当然です。こういうように受け止めることができれば、生きている魂になるのです。リビング・ソールです。

落ち着いて冷静に判断すれば、誰でも分かることです。魂の記録がそのまま聖書となっている。人間が名づけたものが、すべての名になるとあります。すべてのものに名をつけたが、ふさわしい助け手が見つからなかったとあります。人間が生き物を名づけたそれが、すべてのものの名となったとありますが、これが恐ろしいのです(創世記2・19)。

例えば今人間は、ライオンと名づけています。ライオンという言い方は、人間が与えた名前です。だから、ライオンになったのです。名前というのは、本質、実質、本体といういう意味があるのです。ギリシャ語ではオノマと言います。名は体を現わすと言いますが、ライオンという名はそのまま百獣の王という野獣を現わしているのです。

ところが、ライオンを造った神の御心は、果たして人間が名づけたような野獣であったかどうかです。人間がライオンと呼んだ。だから、彼はライオンにならなければならなかった。やがて千年王国が現われますと、三、四歳の幼児が、ライオンの口の中に手を入れても構わないのです。耳を引っ張っても怒らない。猫のようになってしまうのです。ライオンは人に害を与える猛獣ではなくなるのです。聖書の預言には、ライオンと子供が遊ぶ光景が、奇々として書かれています。

「全地はエホバの御名のみになる」という預言が実現しますと、エホバの栄光が全地に満ちるのです。そうすると大変なことになるのです。いにしえ、神が造りたもうたエデンの園の状態が、彷彿として全地球に現われるのです。その時ライオンは、今の人間が名づけているようなライオンではなくなるのです。毒蛇の穴に手を突っ込んでも、決して噛まないのです。幼児が蛇と遊ぶのです。

神が造った空の鳥、野の生き物は、このようなものだったのです。ところが、エデンにおけるアダムは、これが分からなかったのです。アダムは今の人間が名づけている名づけ方と、大体同じような名づけ方をしたらしいのです。もし、本当にライオンと呼んでいる面が大きいライオンを、アダムが神が造りたもうた目的を本当に見通して、神の御心に従って名をつけたとすれば、ライオンと呼ばずに他の名前で呼んだでしょう。非常に柔和な名前で呼んだでしょう。そうしたら、そういう性格を与えられたはずです。

動物は人間が名づけたとおりになるのです。人間が思っているとおりになるのです。例えば、飼い犬は主人に似ると言います。そのようになるのです。

現在の人間は、天然資源に対して、動植物に対して、すべて名をつけているのです。この名のつけ方が、人間の肉の思いで名づけているのです。例えば、金を金と名づけているのですが、これは人間の名づけ方が悪いのであって、本当の金は、人間の欲望を刺激するようなものではないのです。それを金と名づけ、ダイヤモンドをダイヤモンドと名づけたことによって、神の栄光を現わしているはずの貴金属が、かえって人間の欲望を刺激することになっているのです。

見るもの聞くものがすべて、人間の名づけ方が誤っているために、すべて人間の運命を毒することになっているのです。人間が名づけたものはすべて、そのものの名となったとは、本性となったという意味です。人間が名づけたために、鉱物、植物、動物は、皆人間の肉の思いの本性がそのまま万物に移ってしまったのです。

万物がそのまま肉性のようになってしまった。これが人間の欲望を刺激したり、あるいは人間に恐怖を呼び起こしたり、毒蛇、猛獣に恐れおののいたりしなければならなくなった。幽霊に恐れたり、地震や疫病に震え上がったり、台風や津波を恐れたりしなければならない。人間が大自然に名づけた名が、一つひとつ間違っているために、このような悲惨な暗い陰をおとしているのです。

イエスは波に向かって、「波よ静まれ」と言ったのです。イエスは波にそのように名づけたのです。波はイエスに従ったのです。

人間は本来万物の長であって、人間の指導によってどうにでもなるのです。このことをよくお考え頂いて、聖霊を受けた人は何としても、人間本来の生き方を証すべきです。これが実は万物を救うことになるからです。

万物は今、人間に間違って名づけられたために、虚無に帰せられている悲しい運命にありますけれど、神の子たちが現われて、万物に名を与えることができますと、栄光の自由に入る望みが出てくるのです。神の御心に従って、万物に新しい名を与えることができるようになりますと、天地万物が救われるのです(ローマ人への手紙8・19〜22)。

皆様にはこのためにも、本当に神を信じる信仰を持って頂きたいのです。自分の魂だけではありません。全人類が救われる、全地が救われるのです。空の鳥、海の魚、家畜、野の野獣、地に這うもの、全地、全人類がことごとく、人間の信仰によって救われるのです。

その時、皆様方は全地の王となるべき素質が与えられることになるのです。そこで、固有名詞の現在の皆様と、何の関係もないすばらしい栄光に包まれた、神の子としての皆様が、完成されることになるでしょう。

アダムが野の獣、空の鳥に名前を与えたが、アダム自身には助けが見出せなかったのです。アダムにぴったりする助け手が見つからなかった。万物に対する名づけ方が間違っていたから、見つからなかったのです。

神は野の獣、空の鳥を土で造って、アダムのところに連れてきた。彼がそれをどのように名づけるかを見ておられた。大体、野の獣や空の鳥をアダムのところに連れてこられたのは、人が一人でいるのはよろしくないから、彼のためにふさわしい助け手を造ろうという神の考えによるものでした。従って、神の御心が分かれば、鳥や獣を見れば、そこから、アダムは助け手を見つけ出すことができたはずです。

助け手という言葉の意味を、男に対する女のように限定して考えますと、また、恋人のような存在が助け手であると考えますと分からなくなるのです。鳥や獣を恋人にしなければならないのかと思えるのですが、そうではないのです。それは、欲望的、性欲的に女を見ているからそうなるのです。女は本来性欲の対象ではなくて、神が与えたすばらしい助け手です。しかし、そうは見ていない。性欲の対象として女を見る。これはイエスが山上の垂訓で言っているように、情欲を抱いて女を見ることになるのです。これが全然間違っているのです。

神が鳥や獣を連れてきて、アダムがその中から助け手を見出すようになるだろうとお考えになったのは、果たしてどういうポイントからかということです。

例えば、その一端を申し上げますと、アダムの前に一番最初にすばらしい馬を連れてきたとしましょう。アダムはそれを見て、勇気のシンボルを与えてもらったように見ることができたでしょう。そこにアダムは自分に与えられるべき勇気の雛形を感じたに違いないのです。その時アダムは馬に対して、勇気という名前を与えたかもしれないのです。そうすると、勇気という名にふさわしい本性を馬が持つようになったかもしれないのです。

神は色々な生き物をアダムの前に連れてきたとあります。これは一列縦隊に動物を並ばせたというように解釈する人もあるかもしれませんが、そうではないのです。エデンの園のあちこちに、動物の姿が散見できるような、動物の生態がそのまま見えるような状態におかれたに違いないのです。ですから、名づけたと言っても、一日や二日で名づけたのではありません。三百年かかったか、五百年かかったのか分かりません。非常に長い時をかけて、ぼつぼつ名づけていったのです。

狼の遠吠えを聞いた時、万物の哀れさを感じることができたでしょう。アダムは狼に対して、哀れと名づけたかもしれないのです。そうすると、狼は決して人食いにはならなかったでしょう。どんな動物にもそういうことが言えるのです。牛であろうと、カバであろうと、サイであろうと、皆霊的な長所を持っているのです。その霊的な長所を一つひとつ取り上げて見れば、キリンには柔和そのものが見えるでしょうし、カバには大きな体にもかかわらず、得も言われぬ謙遜の情が彷彿として現われているのが見えるでしょう。

そのように、人間の持つべき霊的な特性、知的な特性、または人間の感情的なもの、理性的なものが、アダム自身にも分かったはずです。

しかし、結果的にはアダムの助け手は見つからなかった。これはアダムの名づけ方が神の御心に従ったものではなかったからです。このときのアダムはもちろん罪人ではありませんが、イエスほど神を父として、間近に父なる神と交わっていたのではなかったのです。海のものとも山のものとも分からない状態であったのです。

罪を犯してはいないけれど、神から善悪の木の実を食べるなと念を押されたところを見ますと、神が御子イエスを愛しておられたような、これは私の愛するものであると神が言われたような、近い関係ではなかったのです。従って、神の御心をそのまま直感的に弁えて、すべてのものを名づけるという、理想的な感覚を持つことができなかったのです。

野の獣、空の鳥に対する名づけ方が神の御心にそわなかったので、アダムの助け手となるべきであろうと考えてお造りになった動物の中からは、助け手を見出すことができなかったのです。これは動物の名づけ方が神の御心どおりではなかったからです。御心に適わなかったという言い方をしますと語弊が生じますが、神のご期待にそえるものではなかったということができるでしょう。

その前にもう一つ考えなければならないことは、「人が一人でいるのはよろしくない」という神の独り言です(同2・18)。本来、エデンの園にアダムがおかれたこと、エデンの天然現象、または、天体運行の状態、秋の紅葉、春の桜、夏のそよ風というものは、すばらしいものでした。アダムに罪が発生する以前の地球は、想像を絶するものがあったのです。カナンが乳と蜜が流れる土地であったように、エデンにはそれ以上のすばらしさがあったのです。従って、そのような自然現象を見れば、植物を見ても、花の美しさ、香りを見れば、造り主の栄光と知恵を感じることができたはずです。神の全能と全知を、直感的に理解できたはずです。

「私は全能である」と自ら言われたお方の全知全能のすばらしさ、栄光の尊さ、賢さがアダムには感じられたはずです。そうすれば、アダムはイエスのような信仰が持てたかもしれないのです。空の鳥、野の獣を造りたもうまでに、天地自然の現象がそのままアダムの助け手になりえたはずです。朝日のすばらしさ、夕焼けのすばらしさ、四季の移り変わりの状態を見て、助け手が分かったはずです。

罪がなかった時の自然現象は、今では考えられないすばらしいものだったでしょう。現在でさえも、天体現象、自然現象の中には、すばらしい宇宙の大ロマンが感じられるのです。罪の下じきになっている人間でさえも、風流の感覚を持つことができる程、自然現象はすばらしいのです。

これが当然アダムの助け手になったはずです。ところが、助け手にはならなかった。自分自身の中から命の木がはえ出した。また、善悪を知る木がはえ出した。これが恋する頃の人間の心理的発育状態を意味するのです。そういうことを通してでも、アダムは自分自身の助け手を見ることができたはずですが、彼にはそれができなかった。

そこで神は、土をもって野の獣、空の鳥を造ってアダムの前に連れてきた。ところが、空の鳥、野の獣に対する名づけ方が、神の期待にそえなかったのです。それで助け手が見つからなかった。助け手が見つからなかったということは、神を見る縁となるものが、アダムにはなかったということです。

助け手というのは、神を見るためのヘルパーでありまして、神を見るための手がかりとなるべき直感が、彼にはまだ働いていなかった。だから、神が分からなかったのです。これは助け手が見つからなかったというのではなくて、見つけることができなかったと言うべきです。もしアダムに心があれば、神の処置に気づいて、連れてこられた生き物を通して神の御心を弁え、自分自身の助け手をその中から見つけることができたはずです。ところが、それができなかった。

これはアダムの精神的な幼稚さによるのです。彼の神に対する傾倒がなかったからなのです。だから、彼にふさわしい助け手を見つけることができなかったのです。そこで神は次の手段を実行することになったのです。

「そこで、主なる神は人を深く眠らせ、眠った時にそのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。主なる神は人から取ったあばら骨で一人の女を造り、人のところへ連れてこられた」(創世記2・21、22)。深い深い眠りがアダムにやってきたのです。

神の御心をなかなか弁えることができない場合、アダムのハートの状態をもう一度出直させる必要があるのです。このままでいくらおいていても、神の期待どおりにはならない。天然現象を見せても、天体の状態を見せても、動物、植物を見せても、まだ造り主が分からない。今の人間でも、天体現象を見て、また、自然現象を見て、ああすばらしいご来光だとか、すばらしい夕陽だとか言います。すばらしいとは言いますけれど、そこに造り主の栄光を感じる人はめったにいないのです。

陥罪以後の人間だからしかたがないとは言えますけれど、実は犬が犬であるということは、神の栄光に決まっているのです。犬は猫にはならないのです。犬は犬の習性をずっと守っているのです。これは造り主が秩序整然たる規定の根源であることを示しているのです。犬は自ら犬でなければならないと思っている訳ではありません。ただ自分の本能に従って動いているだけでありますが、それがきちっと犬は犬らしい規矩を守っているのであって、そこに少しも乱れはありません。

例えば、アユ釣りと、フナ釣りとでは釣り方が違います。アユはどこまでもアユの釣り方をしなければ釣れないのです。どんな昆虫でも、鳥でも獣でも、魚でも、神の秩序がきちっと守られているのです。こういうすばらしい神の秩序、宇宙にある大自然の整然たる状態を見れば、そこに造り主の並々ならぬ叡知と栄光とを認めることができるはずです。

例えば、岩の形を見ても、そこには言うに言われぬ玩味津々たるものがあるのです。一つひとつの岩は、それなりに造り主の栄光を現わしているのです。もし造り主に芸術性がないようなお方であったとすれば、天然自然に芸術性が現われるはずがないのです。岩一つひとつに趣があるのです。岩の色、形、そのたたずまい、これに得も言われぬ趣があるのです。これがそのまま造り主の栄光を証明しているのです。

アダムにはそれが分からなかったのです。ものの哀れを感じ始めたのは、人間の運命が死に閉じ込められるようになってからのことかもしれません。従って、無原罪のアダムにはものの哀れというもの、風流を味わう能力が、まだ発芽していなかったかもしれないのです。

だから、アダムばかりを責めていることはできないのですが、とにかくアダムは大きい見落としをしたのです。この見落としをしたものに最後の手段として、神がアダムに助け手を与えるためには、アダムの心理状態を一新してしまわなければいけなかったのです。やり替えなければいけなかったのです。

そこで、アダムを深く深く眠らせて、眠りの底に落としてしまって、そうして乾坤一擲と言えるほどの大きい神業をされたのです。これがいわゆる女人の創造です。女の創造です。この女の創造こそは、実にすばらしいことなのです。造られた女とは一体何であろうか。深く眠らせたということは、アダムの心的状態、ハートの状態を、全くやり直させるためなのです。彼の精神状態が改まってしまわなければ、とても神からの助け手を見つけることができなくなった。神は最後の手段をとったのです。

彼のあばら骨から女を造るという、このすばらしい処置でさえも、理解できないばかばかしいことになる恐れがあったので、神は思い切ってアダムを深く眠らせた。これは一時全く死なせたことと同じことになるのです。アダムを殺したのです。これは救い主イエス・キリストが霊にて地獄へ落ちたことのシンボルになっているのです。

アダムとイエスとは同じ者です。第一のアダムと第二のアダムは同じ運命を辿らされたのです。キリストが肉にて殺され、霊にて生かされた。彼の霊がそのまま人屋にまで下りたもうた。キリストがはっきり殺されたのです。イエスがはっきり殺されたことによって、教会が造られたのです。キリストの妻である教会が造られたのです。ということは、アダムが眠らされて、アダムの妻が造られたことと、軌を一にしているのです。同じことです。

アダムが眠らされたということは、キリストが十字架にかかって一時死んでしまわれたことと、同じような状態であったと言えるのです。アダムの場合は、彼の心的状態を一新するため、出直させるために、神がこういう非常手段をお取りになったのです。アダムの生命を一時中断するような大手術を施して、そうしてアダムの心的状態をがらっと変えてしまうという思いきった処置をお取りになったのです。

これがパウロがいう心を更えて新にせよということになるのです。本当に私たちがとこしえの命をつかまえるため、異邦人の肉なる固有名詞の自分から、霊なる神の子としての目覚めるためには、心を更えて新にしなければならない。新にするというのは、レニュード(renewed)であって、出直すこと、やり直すことを意味するのです。

まさにアダムはこの時、神から出直すことを命じられたのです。深く深く眠らされたということは、もう一度出直せという処置を神にさせられたということです。アダムの今までの考え方では、こうしてもああしても、どうしても分からなかったのです。善悪の木の実を食べるなと言っても、太陽を見せても、夕陽を見せても、花や鳥を見せても分からないのです。神の全能を見せても分からないのです。

この時神は、全能の何を悟らせようとしたのか。神が一番アダムに知らせたかったのは、自然現象や動植物を通して、何を知らせたかったのかと言えば、宇宙の本性を知らせたかったのです。神の本性を知らせたかったのです。性を知らせたかったのです。

性とは愛です。自然現象にあるすばらしさ、美しさということは、実はそのまま愛を現わしているのです。これがアダムに分からなかったのです。神の栄光とは、知恵、知識ということよりも、まず人間が第一に感受すべき神の愛です。アダムはこれを悟るべきだったのですが、できなかった。できなかったので、彼はついに深い眠りに落とされたのです。そこで神は、アダムのあばら骨の一本を抜いたのです。

アダムの中には何となく自己満足があったのです。彼は自分の現在の状態に、勝手に満足していた。そこで神は思い切って、あばら骨を一本引き抜いたのです。あばら骨とは、自分自身に満足する気持ちです。自分自身の中に愛みたいなものを見出して、それに勝手に満足している状態があばら骨です。彼自身の心理状態の中から、愛と言えるようなものを一本抜いたのです。

愛が感じられないような状態にしたのです。あばら骨とは愛そのものです。愛をシンボルにするものです。これを抜いたのです。そうして、女を造ってアダムに見せたのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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