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  • 管理人chaya

現前


イエスは次のように言っています。

「目は体の明かりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身が明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さはどんなであろう。

誰でも二人の主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」(マタイによる福音書6・22〜24)。

目は体の明かりであるというこの短い言葉ですが、これには非常に深い意味があるのです。体は三次元における人間存在の拠点を言い現わす言葉です。大体、体は三次元の人間にとって実体ではないのです。

体はあるかと言いますと、ないのです。人間の体は流動体であって、弁証法的に存在しているのです。従って、体というものは存在と呼べるものですが、実在と呼べるものではないのです。存在という言葉の真意は、存することと、在することです。存することというのは、本質的に言いますと、Be動詞になるのです。Be動詞というのは、実在ではないのです。動詞です。これが人間の存在です。存在ということはBe動詞です。人間存在は実体的存在ではなくて、動詞的存在です。また、流動的存在です。これが体です。

体の明かりとは何か。目というものが体という存在のシンボルである。体が存在するということは、目が存在するということと同じ意味なのです。

目は体の明かりである。この短い言葉の中に、非常に深い哲学的認識があるのです。「である」ことが、「がある」ことになっている。存と在です。であることがBe動詞であって、これが存在の当体です。存在の実物です。これは有形的な存在を意味しないのであって、どこまでも弁証法的な存在を意味するのです。

神がisであることを信じなければならないとあります。これはヘブル人への手紙の第十一章六節にある言葉です。must believe that he is となっています。これが信じられない人は神を信じていないのです。神がisであることを信じなければならないと、書いているのです。これをはっきり確認する必要があるのです。人間の肉体は有形的な存在ではなくて、流動的な存在です。弁証法的存在です。これが体です。

それでは、体の正体は何でしょうか。体の本質は何なのか。パウロは「キリストがこの世に来たもうた時、わがために体を備えたまえり」と言っています。ダビデの詩には、「わがために耳を開きたまえり」とあります。それをパウロは、「体を備えたまえり」と訳しているのです。そこで体を備えられたことは、耳を開かれたことになるのです。

耳を開かれたのは何のためか。これは言葉を聞くためです。言葉を聞くということと、目で物を見るということとは、両面を意味するものであって、目で言葉を見るのです。これが観自音です。耳で言葉を聞く。これが観世音です。言葉は両方から捉えることができるのです。見るという形で捉える言葉と、聞くという形で捉える言葉とがありますが、これは同じことです。

イエスの言葉は、いつも目に見て、耳で聞くと言っているのです。「あなたがたは見るには見るが認めない。聞くことは聞くが悟らない」と言っているのです。「見れども見えず、聞けども聞こえず」と言っているのです。見ることと聞くこととは、人間の五官の代表的な機能として、いつでもイエスに取り上げられているのです。両方とも、言葉を見たり、言葉を聞いたりしているのです。

これを仏教的に言いますと、観世音南無仏となるのです。観世音する時に、南無仏となるのです。これは十句観世経の一番最初の言葉ですが、これが人生の目的です。

肉体とは何か。これが見ることを意味しているのです。または、聞くことを意味しているのです。肉体を備えたもうたということは、耳を備えられたことだと、ダビデは見ていたのです。耳と肉体について、ダビデとパウロは同じ解釈をしているのです。肉体存在を耳の存在と同じに考えていたのです。言葉を聞くという意味で、そう言っていたのです。

ヨハネは、「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手で触ったもの、すなわち、いのちの言について」と言っているのです(ヨハネの第一の手紙1・1)。

人間の肉体は全身目です。全身耳です。これくらいのことが分からないといけないのです。ダビデは体を耳だと考えたのです。人生とは見聞することです。目は体の明かりであるという単純な言葉の中に、イエスが肉体的存在の人間をどのように見ていたかということの哲学的な原理がはっきり出ているのです。

人間は見るために生まれてきたのです。また、聞くために生まれてきたのです。私たちが見ているような、一メートル数十センチの体があるのとは違うのです。ライトがあるか、マイクがあるか、どちらかです。これが人間の肉体存在です。体全体で見ているのです。目がそれをシンボルにしているのです。

「人間の内にある四つの働き、即ち、推理、直感、判断、感受性は四つの生き物で、その前にも後にも一面に目がついている。また、四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼の回りも内側も目で満ちていた」とあります(ヨハネの黙示録4・6、8)。これを見ても分かりますが、人間存在の機能において、目がどれほど重大な役割を持っているかを示しているのです。

そこで、「目が明らかであるなら、全身も明るいであろう」と言っているのです。目が明らかというのは、英訳では、be single となっています。これは単純であるならとか、まっすぐであるならという意味です。

シングルとは一つですが、これは正しいことを意味するのです。また、初めであることを意味しているのです。移り気がないことを意味しているのです。単純であること、正確であること、迷わないことを意味しているのです。これがビー・シングルです。ビー・シングルであるということは、正しいこと、単純であること、一本調子であること、迷わないこと、目的に向かって直進することです。これが、ビー・シングルです。

皆様の目がビー・シングルであれば、すぱっと神が分かるのです。ところが、ビー・シングルではない。目がうろうろしているのです。今の人間の目の働きは、複眼のようになっているのです。ビー・シングルになっていないのです。だからビー・シングルが分からない。何のことか分からないのです。「あなたがたの目がビー・シングルであるのなら」と言っていますが、この意味が分からないのです。的をしぼって一本調子になって、すぱっと見ることができないのです。神の愛が分からないのです。

生かされていること、生きていることが、神の愛です。これがビー・シングルでないと分からないのです。実は、天地はことごとく愛だけです。天地を絞ったら愛だけになるのです。これをすぱっと見るのです。これがビー・シングルです。

全身も明るいとあります。全身とは、whole bodyです。all bodyではないのです。ホールボディーとは、ただのボディーとは違います。

ユダヤ人はモーセの掟を見ていた。そのために目が病んでいたのです。異邦人は全くの盲目です。ユダヤ人は眼病にかかっているのです。せめて私たちだけは、ビー・シングルでなければならないのです。神だけをすぱっと見るのです。そうすると、初めて、喜び、平和、人生の平安が分かるのです。霊的にも生活的にも、絶対安全になるのです。きょろきょろしているからいけないのです。

ホールボディーは、今見えている体だけとは違います。イエスは目に見えないボディーを見ていたのです。目に見えるボディーだけをボディーだと考えていなかったのです。これが分からないと、地のちりで造られた人間が分からないのです。

イエスは、どのように自分を見なければならないのか、どういう気持ちで生きていかなければならないのかを、身を持って私たちに教えてくれたのです。さすがに信仰の導き手であり、完成者です。彼は変貌山において、人間が持っている肉体ではない、もう一つの肉体を信仰によって現わしたのです(マルコによる福音書9・1〜8)。

ホールボディーというのは、そういうボディーを含んでいるのです。現世に生まれてくる前のボディー、現世に生きているボディー、現世を去ったあとのボディー、過去、現在、未来のボディー全体を、ホールボディーというのです。ホールとはそういう意味です。

変貌山におけるイエスの肉体と、復活後におけるイエスのボディーとはどう違うのかということです。これは興味津々たる問題です。

目がビーシングルになると、人生全体が分かるのです。生まれる前の人生、現世の人生、この世を去った後の人生が分かるのです。イエスは分かっていたのです。イエスは「私はどこから来て、どこへ行くのかを知っている」と言っています。「おまえたちはこれが分かっていないから、一人前の顔をするな」と言っているのです。

大体、魂が肉体を取ってこの世に現われているということは、あるべき事ではないのです。これは宇宙の大異変によるのです。今私たちはこの宇宙の大異変を、今千載一遇のチャンスとして経験しているのです。こんなことはめったに経験できることではないのです。

魂がこの世に出てくるということは、ありえないことです。これは大宇宙における瞬間的なできごとです。瞬間的な出来事に巡り会ったという事は、すばらしいことです。川に魚が泳いでいるということは、全く瞬間的な出来事です。大宇宙全体は驚嘆すべき精密機械です。こんな所へ肉体を持って現われてきたということは、本当にすばらしいことです。

「全身が明るいだろう」と訳していますが、この訳はどうも良くないのです。全身が光だらけになる。光で一杯になる。全くの光そのものになるのです。私たちがボディーを持って、地上に生きているという意味が、すべて分かるということです。

人間の魂が肉体を持ってこの世に出るということ自体が、あるべからざる不思議なことです。この経験をした者は、世々限りなく王となるのです。なりそこなった者は、全部地獄へ行くのです。魂が肉体を取って現われたという経験をした者は、世々限りなく王となる。なりそこなった者は皆地獄へ行く。これが別れ道です。だから肉体を取ってこの世へ出てきたということは、すばらしいことです。本当にすばらしいことです。

条件は何か。ただ汝の目が正しければという事だけです。目がビーシングルであるかどうか。これだけの事です。

「あなたの内なる光が暗ければ、その暗さはどんなであろう」とあります。人間が生きているということが光になるのです。人間が生きていることが光です。これが内の光です。生きているという状態は言です。命が言になっているのです。言が命になり、光になっているのです。生きているというその事がらは、ロゴスの働きです。それが命であり、光です。これが内の光です。

これが暗かったらどうなるのか。大体、命という言葉は、ごく自然に光という言葉を含んでいるのです。生きているということは、昼を意味します。イエスは「昼の内に仕事をしなさい」と言っています。これは見えるうちに、生きているうちに、仕事をしなさいという意味です。見えること、生きていることは、大体命を意味するのです。ビーシングルではないということは、生きていながら見えていないことになるのです。だから、これは生きていないことになるのです。

目の働き具合と、命の真義とは不可分の関係であって、本当に生きている人は本当に見ている人になるのです。この意味で観世音という言葉は、なかなか良い意味であると思います。

それができない者は暗いのです。現世においてまず暗いのです。その光が闇であったら、その暗さはどんなであろうとあります。その暗さはどんなであろうというのは、二重に意味があるのです。大体、人生というのは過去世と現世と未来世全体をさしているのです。これがホールライフです。ホールボディーでもあるのです。

暗いというのは、三世に渡ることなのです。命の光が暗ければ、現世に生きているということが、いつも暗いのです。生活に本当の喜びがないこと、生活が本当に明るくないということは、目が見えていない証拠です。

腹が立つとか、悲しいとか、苦しいとか、行き詰まった状態は、皆暗い状態です。夫婦がお互いに本当に尊敬できないことは暗いしるしです。夫が妻を尊敬すること、妻が夫を尊敬すること、お互いに尊敬し、愛するということが、明るくなった証拠です。ただ、仲が良いくらいではないのです。内なる光が暗ければ、現世においても暗いし、来世においても暗いのです。現世の生活が暗いような状態なら、死んでからは暗いに決まっています。

目が見えれば、神の愛が分かってきます。そうすると平和にもなるし、喜びにもなるし、寛大にもなるのです。これは目が見えるか見えないかだけのことです。内の光が明るくなれば、命の光が明るくなるのです。そうすると、御霊の実が自然に結べていくのです。御霊の実を結ぶようになりますと、その人の人生に実が結んでいることになるのです。魂の実が結べるのです。

救われる人には救われるという確証があるのです。救われると信じますというのではないのです。その人の中に自ら、御霊が結ぶ実があると同時に、預言の光が与えられてくるのです。そうして神に対する奉仕ができるのです。

働く時も、生活する時も、全身が明るくなるのです。ただビーシングルになればいいのです。目が単純に働くというだけです。条件はそれだけです。人生全体が暗くなるか明るくなるかは、大変な違いです。

人間は神と富とに兼ね仕えることはできないとあります。神と富を、霊と肉と言ってもいいのです。人間は霊と肉とに兼ね仕えることはできないのです。神は霊の代表です。富は肉の代表です。人間は霊と肉の両方に兼ね仕えることはできないのです。どちらか一方しか仕えられないのです。

人間は何のために生きているのか。生きているとはどういう事なのか。生きているとは簡単なことです。今の人間はこれについて全然間違っているのです。生きているということは、人間の一次状態です。これが生かされているという事です。これは現前の事実です。これがこのまま福音です。

例えば、誰かと誰かが結婚した。これは一次状態です。これには理屈も何もないのです。見るがままのこと、あるがままの状態です。これが福音です。福音は最も単純な、簡単なことです。だから、ビーシングルでなかったら分からないのです。

生かされているという事の他に、何にもないのです。それを人間は何か他にあると思っているのです。自分の生活があると思っている。境遇があると思ったり、月給の多い少ないがあると思ったり、幸福とか不幸があると思ったり、喜びとか悲しみがあると思ったりしているのです。善悪の木の実を食べているのです。何が良いか、何が悪いのか、何が好きか何が嫌いかということがありうると思っているのです。これが間違いです。

信心銘に「現前を得んと欲すれば、順逆を損するなかれ」という言葉があります。現前を得ようとしたら、善悪、好き嫌いを言ってはいけないのです。順逆があると思っているのです。好き嫌いがあると思っている。良いことと悪いことがあると思っているのです。これが間違いです。ただ生かされているということがあるだけです。これが福音です。生かされているということの他に、isということはないのです。生かされているということの他に、Be動詞はありません。このBe動詞が神です。Be動詞が福音です。Be動詞が命です。これがビーシングルです。

パウロは「私たちには一つの祭壇がある」と言っています(ヘブル人への手紙13・10)。ここで神に会えると言うのです。神はモーセに、「祭壇を設けて捧げ物をしなさい」と言っています。そこで、「私はおまえに会う。私はおまえに話をする。おまえも私に話すことができる」と言っています。祭壇は神と人が交わる場です。話をする場です。旧約の時代には祭壇が必要でした。新約の時代には、現前が祭壇です。ここで神と会うのです。これがすばらしいのです。

エルサレムでもない。この山でもない。どこにおいてもあなたは神を拝むことができる言っているのです。あらゆる場所、あらゆる時、あらゆる事がらが現前です。これがすべて祭壇です。ここで神と会うことができるのです。

現前が祭壇です。これはあまりにも簡単すぎて、人間には分からないのです。だから、徹底的にビーシングルが要求されるのです。徹底的にビーシングルでなかったらだめです。要するに、単純ではないからいけないのです。自尊心とか、思い煩いとか、喜怒哀楽の情とか、むかっとするというのは、皆単純ではないからそうなるのです。

現前が人生です。現前はいつでも続いているのです。現前は永遠に続いているのです。現前をはっきり捕まえたら、永遠を捕まえたことになるのです。現前の他に永遠はありません。常が現前です。同時に、とこしなえとも読みます。とこしえとも読みます。現前がとこしえです。とこしえが現前です。これだけでいいのです。

今の人間が一番迷いやすいことは、現前が分からないことです。人生とは現前です。現前の他に人生はありません。明日、明後日の予定計画も、現前として捉えたらいいのです。今日という日に、明日の計画を立てていること、これを今日という日に持っている。これが現前です。

現前の他に何もないのです。もし救いがあるとすれば、現前に救いがあるのです。現実と現前がありますが、現前の方がもっと厳しいのです。この現前に従って歩んだらいいのです。そうすると、肉と霊とに兼ね仕えるというばかなことはしなくなるのです。

現前だけに歩んでいる人は、神だけに仕えているのです。ビーシングルで生きているのです。従って、現在の政治、経済、思想、生活という考えが全部間違っていることが分かってくるのです。これは一次現象ではない。二次現象、または三次現象です。

今、私たちが考えなければならないのは、一次状態です。今日いかにあるべきかです。神と人との対話は、今という時点で行われるのです。これが祭壇です。生きているのは祭壇の前に立っていることです。

パウロは、「清き聖なる捧げ物として、自分自身を神の前に捧げなさい」(ローマ人への手紙12・1)と言っています。これが霊的な礼拝です。これが現前です。

イエスの言っていることと、パウロの発言とが、はっきり一致するのです。現前を正確に捕まえるのです。正確に、単純に捕まえるのです。ここに救いがあるのです。ここに救いがなければならないのです。ここに救いがなければ、救いはどこにもありえないのです。

「明日の事を思い煩うな。一日の苦労は一日で足り」。現前しかないと言っているのです。「一次状態だけを見よ」と言っているのです。一次現象、一次状態しかないのです。

目が見えること、耳が聞こえること、これが一次状態です。五官が働いていることが一次状態です。これが救いです。政治とか経済とか、生活とかは、明日のことを思い煩っているのです。今日のことだけを見ていけばいいのです。これが一番崇高な生活です。神ご自身がそう生きているのです。

神ご自身と同じ生活をしたらいいのです。天の父が今日だけに生きているのです。もちろん預言はありますが、これは今日だけ生きる人に成就する預言なのです。今日だけを生きるというこの神の生き方だけが、預言を成就するのです。今日だけを生きるという生き方をしていない者には、預言は成就しないのです。現前を信じて喜んだらいいのです。暑い時は暑い時を喜ぶ、寒い時には寒い時を喜んだらいいのです。

政治、経済、生活というのは、付帯条件です。生きているそのこととは違います。こういう二次的、三次的条件に頭を使う必要はないのです。今私たちが神を見ているか見ていないかだけです。今、神を見ていたら神はその人に幸福を与えるに決まっています。神を見ているということが幸福そのものです。

どういう生活の形でも構わないのです。生かされているという事だけが、一次的な事実です。命の実体がここにあるのです。これが永遠の命です。

永遠の命とは、命の実体です。それが目の前にあるのです。これ以外に命はどこにもないのです。これが福音です。この福音に生きる者が、限りなき命に生きる者になるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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