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  • 管理人chaya

世の光


モーセは消え去るべき肉体を持っていた。この肉体の死骸を、イスラエルの人々に見られたくなかったのです。デスマスクを見られたくなかった。そこで、神はモーセの願いに答えて、モーセのデスマスクを誰も見ないようにしたのです。

彼はピスガの山上に登っていった。杖をヨシュアに残して山に登っていった。それきりモーセを見た人はいないのです。彼は死んだのか、死んでいないのか、分からないのです。このモーセがイエスと共に現われているのです(マルコによる福音書9・1〜8)。

皆様はやがて消えるべきものです。消え去る肉体を持っているのですが、これはしょうがないのです。パウロでもヨハネでもペテロでも、皆死骸を残したのです。しかし、彼らは生きているうちに、永存すべきものを見ていたのです。永存すべきものの実物を見ている人は、肉体がある状態で魂が完成していますから、肉体は関係がないのです。肉体がある間に永存すべきものに移り変わっておきますと、消え去るべき肉体を脱ぎ捨てて、永存すべき体を上から着せられるのです。

こういうことの秘密については、少しずつお話ししていきたいと思います。

イエスが十字架につけられて、神に霊を渡した時に、不思議なことが起きたのです。イスラエルの墓の中にいた、預言者が目を覚ましたのです。それから、イエスが復活した時に墓が開いて多くの人が出てきて、エルサレムの町を歩いたとあります。人々が彼らに出会ったとはっきり書いているのです。

この時甦ってエルサレムの町を歩いた人々は、どこへ行ったのか。こういうことが今のキリスト教では全く分からないのです。だから、キリスト教では福音が分からないのです。イエスの復活が全く分かっていないのです。

この宇宙には裏と表があるのです。皆様が見ている現象的な地球は、宇宙の裏側です。宇宙の表は神の国です。

例えば、タルソのパウロはダマスコの門外において、宇宙の表を見たのです。そして、びっくりしたのです。宇宙の表からの声を聞いたのです。「おまえは刺のある笞をけることはするな」と言われたのです。「あなたは誰ですか」と問いかけると、「私はあなたが迫害しているイエスである」と天から答えがあったのです(使徒行伝9・1〜19)。

パウロは宇宙の表からの声を聞いたのです。こういうことが、今の世界にあったのです。この宇宙は人間の常識で考えているようなものではないのです。

そこで夫婦とはどんなものか。親子とは何か、兄弟とは何かをよく考える必要があるのです。人間の常識は皆間違っているからです。

人間の常識は宇宙の裏しか見ていないのです。現象的な地球しか見ていないのです。こういう見方で夫婦とか親子を考えているのが間違っているのです。

キリストの福音は不思議なことを書いています。新約聖書は不思議な書物です。こういうものをよく発売禁止にしないで売っているものだと思われるのです。

しかも全世界の永遠のベストセラーになっているのです。聖書は今の世の中を全部否定しているのです。宗教も哲学も政治も経済も否定しているのです。そして、宇宙の裏と宇宙の表をすべて現わしているのです。このように、ありありと聖書を読むべきです。

消え去るべきものが、永存すべきものに変わるためには、どういう気持ちを持てばいいのか。どういう方法でどういう段階を経なければならないのかということです。地球の裏側から地球の表側へ出るためには、どうすればいいのかということです。

聖書に次のような記事があります。

「イエスが道を通っておられると、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った、『先生、この人が生まれつき盲人なのは、誰が罪を犯したためですか、本人ですか、それともその両親ですか』。

イエスは答えられた、『本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神の御業が彼の上に現われるためである。私たちは私を遣わされた方の御業を、昼の間にしなけけばならない。夜が来ると、誰も働けなくなる。私は、この世にいる間は世の光である』」(ヨハネによる福音書9・1〜5)。

生まれながらの盲人の上に、神の業が現われたためだと言っています。この業は神の色々な働きを意味するのです。神が人間を生かしておられる色々な業があるのです。ところが、生まれながらの盲人は、それを全然知らないのです。現在自分が生きていながら、命を知らないのです。

自分は神に生かされているということを、しきりに言う人がいます。人間は自分の力で生きている訳ではない。空気を造っているのでもないし、水を造っているのでもない。ましてや、太陽の光線は神が与えたものに決まっている。雨を降らし、日を照らすということが山上の垂訓にありますように、私たちは神によって生かされているのだと言います。

これは一般の理論です。一般の概念です。お天道さんによって生かされていると言いますが、これは日本人が昔から常識的に持っている概念です。明治、大正までの日本人なら誰でも知っていたことです。

ところが、聖書がいう生かされているという意味は、そういうこととは違うのです。抽象的な概論としては、そういう意味もないことはないのです。

聖書がいう神の働きの中には、空気を提供しているとか、水を提供しているということも入りますが、もっと本質的なことを言っているのです。

神の業というのは、第一に人を生かすこと、第二には万物を生かすこと、第三にはそれを通して天地の経綸を行うこと、大ざっぱに言ってこの三つがあるのです。

神が人間を生かしているというこの単純なことでも、まず時間の問題があります。空気の問題があります。意識の問題、心理機能、生理機能の問題がある。生理機能といっても、千差万別な色々な問題があります。呼吸機能、消化機能、排泄機能の中にも色々な働きがあります。心理機能についても、四つの生き物とか、長老とか、色々な働きがあるのです。

人間と神との接続関係だけでも、複雑なものです。それに加えて、万物を生かしている神の働きがあるのです。これが御霊の働きです。さらに、宇宙経綸の問題があるのです。

地球は万物を乗せ、人間を乗せて、ぐるぐる回っていますが、地球の自転、公転は何のために回っているのか、地球の完成のために回っているのです。ただ自転、公転しているのではありません。ついでに人間を生かしている。万物を生かしているだけのことです。そういう雄大な宇宙の輪廻、進展、完成に向かって地球は回っているのです。宇宙は完成に向かって動いているのです。

こういう事は、現在の学問では全然分かりません。目に見える世界、裏の世界しか見ていないので、神の国の世界、表の世界が全く見えないからです。

近世学、現代学は、現世に生きている人間にとって価値はあるのです。しかし、本質的な意味における学と言えるものではないのです。

例えば、科学は人間の肉体生活には幾分寄与する所はありますが、人間の魂を害する所も多いのです。毀誉褒貶相半ばする所がありまして、決して科学が人間に幸福を与えるものではないのです。ましてや、歴史学とか、考古学、人類学、生物学、政治学、経済学、地質学、海洋学と、無数の学がありますが、現世における人間の生活に寄与したり、害になったり、色々な働きをしているのです。

ひっくるめて考えますと、文明は本質的には虚像です。嘘です。やがて、文明は滅びていきます。地球そのものが、火に焼かれていく運命にあるのです。

ペテロは、「主の日は盗人のように襲ってくる。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けて崩れ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつきされるであろう」(ペテロの第二の手紙3・10)と言っています。これは太陽が大爆発を起こして、地球が呑み込まれる状況を書いていると思われるのです。これはそんなに先の事ではありません。科学者は何億年も先の事だと言っていますが、そういう言い方で責任逃れしようとしているのです。

地球は近いうちに、艱難時代が現われてきて、人間文明は未曾有の大混乱に陥るでしょう。その後、一時的に地球に平和が訪れます。千年間の絶対平和が実現するのです。その終わりに、人間がまた神に反抗する。その結果、徹底的に人間は神に叩き潰されるのです。

地球が火で焼かれるのです。聖霊と火によってバプテスマを与えられるとは、このことを言うのです。キリストは地球を焼いてしまうのです。

それから本格的に地獄が始まるのです。地獄はこれから千年程先のことです。このように地球には地球の運命がありますが、こういうことを今の学問は全く知りません。文明の終末を知らないのです。もう近々数十年間先に、歴史が大転換するのです。

文明は世界連邦に向かってどんどん進んでいくでしょう。これが成就しますと、世界歴史ががらっと変わります。三年半の間、平和が訪れるのです。次の三年半で人間歴史が大混乱に陥るのです。

一番大きな問題は、イエス・キリストが復活したということです。人間が死ななくなったのです。イエス・キリストが死ななかったのです。人間が死ななくなるという大問題が発生したのです。ところがイエスの復活という大問題を、学問は全く対象にしていません。

イエス・キリストが復活したのは、歴史的事実です。聖書は世界のベストセラーになっているのですが、この聖書にイエス・キリストが復活したという事を、堂々と書いているのです。イエス・キリストの復活を学の対象にしないということは、学者の驚くべき怠慢です。死から逃れるためには、どうしても永遠の生命の勉強をしなければならないのです。そのためには、今までの自分の誤りを潔く撤回する必要があるのです。

神のもろもろの業とは何かと言いますと、宇宙全体に係わること、地球全体の事、人間の事など、数え切れないほどの複雑な業を神がしておいでになるのです。これがワークス(works )です。神のもろもろの働きが、彼(盲人)の上に現われると言っているのです。この日本語訳が良くないのです。彼の上に現われると言いますと、神の恵みが生まれながらの盲人に現われて、目が開くと受け取るのです。これがキリスト教の考えです。これは間違っているのです。これは宗教観念の考えです。

これは目が見えても、見えなくても、現在彼の魂が神によって生かされているということは、明白な客観的事実です。この客観的事実を生まれながらの盲人が認識することです。そうすると、彼が生きているという事において、彼自身に神の業が現われるのです。彼が生きているその事がらを通して、彼自身の心に神のもろもろの業が現われるのです。

彼自身が神の業を認識するようになることです。英訳ではbe made manifest in him となっています。彼に現われていると言っているのです。彼自身の本心に、このことがはっきり確認できるようになるのです。自分の内臓機能に関すること、心理構造に関すること、天地万物に関すること、天体に関すること、自分を取り巻くことはすべて神の業です。

自分自身が存在するのも、ピンからキリまで全部神の業であるという事実を、生まれながらの盲人が認識するようになる。これは魂の眼が開くことです。

生まれながらの盲人に、魂の眼が開く。そうすると、神の業が見えるようになるのです。目に見えるように顕現するのです。ですからこれは、私は神によって生かされていることが分かっていますという概念的なものとは違うのです。

例えば、リンゴを食べたとしますと、おいしい味がします。この味というのは何なのか。また、色があります。また、歯ごたえがあります。歯ごたえとは何なのか。色とは何なのか。食物を舌にのせると、思わず快感を感じるのです。これは一体何なのか。実は神がこういう形で、人間の魂にすばらしい刺激を与えているのです。大脳細胞にすばらしい刺激を与えているのです。味が舌の上を通過するという微妙なことは、大脳細胞に生き生きした刺激を与えるのです。こういう方法で神は人間の大脳を教育しているのです。これが魂の教育です。

魂を養育するのはこういう方法です。神は魂を育てているのです。栄養価においては肉体を育て、感覚においては魂を育てているのです。両方を一度にしているのです。

神が人間を育てるやり方は、すばらしい方法です。母親が子供におっぱいを与えるという単純な方法とは違います。実に複雑な形で、あらゆる角度から五官を通して、味とか香り、栄養価とか、色、形によって人間の魂を養育しているのです。

人間の魂は非常に敏感に神に反応しているのです。ところが、人間の意識はそれを見落としているのです。肉の思いはそれを見落としているのです。魂は敏感に反応しているのですが、生活感覚はそれを見落としているのです。これを生まれながらの盲人というのです。感覚的な盲人です。

この感覚が目を覚ましますと、脳髄と同じような感覚で、人間の生活感情が神に驚くのです。生活感情が神を褒め出すのです。神を賛美するのです。土に属する人間は、生まれながらにして天に属する人間の素質を持っているのです。そこで、この素質を開発すれば、土に属するものが天に属するものに変化する、変貌、変身する可能性を十分に持っているのです。

第四節に、「私たちは私を遣わされた方の業を、昼の間にしなければならない」とありますが、これが何かです。イエスは盲人の目を開くために、地上にやってきたのです。このことを生きているうちにしなければならないのです。昼のうちというのは、生きているうちということです。生きているうちに、魂の目を開くことをしなければならないのです。神が望みたもう所は何か。イエスを通して行っておられる業は、人間の心に光を与えることです。

「私は世の光である」とイエスは言っています。すべての人間に光を与えることが、私の業であるとイエスは言っています。だから、人間は生きているうちに、神の光の業を自分自身の魂に対してしなければならないのです。

自分自身の魂の眼を開かなければいけないのです。これが父の業です。そうして、イエスが世の光であったように、皆様も世の光とならなければいけないのです。

神は人間の目を開くために、イエスを遣わしたもうたのです。そこで、イエスは世の光であったのです。イエスがこの世にいる間は、イエスが世の光ですが、イエスがこの世にいなくなれば、聖霊、真理の御霊が世の光になるのです。そうして、真理の御霊によりて立てられた預言者が、また、世の光になるのです。

そこで、皆様が真理の光によりて育てられた預言者として、人々の心に光を与えなければならない。この業を生きているうちにしなければならないのです。

私は聖書が分かりました、理論的に分かりましたと言っている人は、実は盲人です。

聖書に次のように書いています。

「そこで、イエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、『それでは、私たちも盲人なのでしょうか』。イエスは彼らに言われた、『もし、あなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」(ヨハネによる福音書9・40、41)。

パリサイ人は聖書がよく分かっていると考えたのです。そこで、聖書がよく分かっていると考えているお方に言いたいのです。自分の生活をどう思っているかです。生ける神とどのように交わっているかということです。

私たちが現世を去って神の国へ行くということは、非常に厳粛な問題でありまして、福音の目的はここになければならないのです。

新約の教会の総合的なしかも最高の目標は、黙示録の二十一章に書いています。「小羊の婚宴があって、花嫁はその備えを全うした」とあります。「小羊の婚宴に迎えられるものは幸いだ」と記されていますが、これが新約の救いの具体的な完成を示唆しているのです。

それを目標にして学んでいるのは、当然のことです。携挙を目標にして聖書を学んでいるのです。現在の新約の教会でありながら、携挙を目標にしないで信仰している人がいるとしますと、黙示録をばかにしている信仰です。そんなものは信仰と言える程の価値はありません。

死んでから天国へ行きたいと考えて信仰をしている人々がいるとしますと、全くの宗教観念であって、キリストの信仰ではないのです。

私たちはイエス・キリストの信仰を学んでいるのでありまして、キリスト教の信仰を学んでいるのではありません。従って、聖書の言葉を絶対として取り扱わなければいけないのです。

イエスが私たちに命じたもうたことを、そのまま実行するのです。駆け引きなく、誤魔化しなく、まっすぐに聖書の言葉を実行するのです。

「己を捨て、己が十字架を負いて、我に従え」というのが、イエスの命令です(マタイによる福音書16・24)。イエスに従って生きたいと思うのなら、自分の生活を捨てることです。自分の経験を捨てるのです。また、自分自身の立場も捨てるのです。一切合切、自分自身に属するものを何でも捨てる決心をするのです。

捨てると言いましても、家庭生活をやめるとか、商売をやめると言っているのではありません。家庭生活があっても、商売をしていても構わないのですが、それを神のものとして扱っていくのです。

もし家庭生活や商売が、神やキリストに反するものであれば、家庭生活や商売をどんどん改造すべきなのです。商売や家庭生活は、神の前には極めて小さいものです。イエスは、「右手がおまえを躓かせるものであれば、それを切ってしまえ」と言っているのです。手があって地獄へ行くより、手がなくて神の国へ行くのがいいのではないかと言っているのです。「もし右の目がおまえを躓かせるなら、目を抜き出してしまえ」と書いているのです(マタイによる福音書5・29、30)。

なぜイエスがこういうきつい言い方をしているのかと言いますと、命と引き換えの信仰でなければ役に立たないからです。私自身もこれを一生懸命に行おうとしていますし、皆様にもそうして頂きたいと思っているのです。

家庭生活よりも霊魂の救いの方が大切です。今生きている命よりも、とこしえの命の方が大切だからです。今の命を差し置いても、とこしえの命を受け取るべきだということを、断固として申し上げたいのです。

イエスが来たのは、目明きを盲人にするため、盲人を目明きにするために来たのです。聖書が分かっていると言う人は目明きです。「その人を盲人にする」とイエスはあえて言っているのです。宗教家とか、律法学者、哲学者は見えているつもりです。神が分かっているつもりです。いわゆる目明きです。そういう者をイエスは盲人にすると言っているのです。

なぜ盲人にするのかと言いますと、命と引き換えでなければ神が信じられないからです。自分を捨てなければ、キリストを信じることができないからです。自分を捨てなければキリストを信じられないということは、さっぱり訳が分からないと思う。これが目が見えなくなっているということです。自分の信仰が行き詰まる。自分の信念が混乱する。自分の宗教信念、哲学的信念が行き詰まる。これが盲人にされたことになるのです。

ところが、「私は全く分かりません。本当に何も知りません」とはっきり言える人は、目明きになるのです。これが言えるかどうかです。こう言える人は幸いです。言えない人は滅びるのです。

現世における自分の生活を捉えるか、来世におけるとこしえの命、誠の命を捉えるか、どちらかを選べと神はいうのです。

御霊を与えられた人は、「あの人はよろしい、あの人は悪い」とはっきり裁くことになるのです。「ある人は良い、ある人は悪いというように、おまえが言ったように神もそうする」と言っているのです。これは人にとっては厳しいことかもしれませんが、御霊を受けた者として、キリストと同じような裁きを執行しなければならないのです。

こういう人は人から見れば、非常に傲慢に見えるのです。イエスも傲慢な気違いだと言われたのです。パウロもそう言われたのです。聖書をまともに信じる人は、皆傲慢な人だ、気違いだと言われるのです。これはしょうがないのです。

今、イエスは現世にいません。しかし、イエスがかつてした行いも言葉もはっきり聖書に出ているのです。私はこのことを、聖霊によってあたかもイエスが現世においでになるかのように説明しているのです。ですから、私たちは光であるイエスを弟子たちが見ているのと同じ感覚で、今キリストを見ることができるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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