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  • 管理人chaya

古き人


造化の主と被造物との関係は明瞭です。人間は造化の主によって生かされているのです。万物は皆そうです。人間が被造物だということを正しく理解し、この事実を生活すればいいのです。

動植物は、被造物というあり方で生きているのです。被造物のあり方を正しく生きているのです。分かりやすいのは、動物よりも植物です。植物をごらんになれば分かるのです。杉の木がはえている状態、杉の木の姿を見れば分かるのです。雨が降れば降るまま、雨がなければないように、枯れようと、人が切ろうと、知らん顔をしているのです。厳密にいえば、杉の木の意志はありますが、神の処置に対して逆らおうとは少しもしません。杉には自分の意志がありますから、根を張ったり、葉をつけたりするのです。しかし、その意志を主張しようとはしないのです。

人間も杉の木のように生きれば、とこしえの命が分かるようにできているのです。天地万物がどのように生きているのかを見ればいいのです。人間も天地自然のように生きるべきです。現在人間が生きているのは、理性に従っているのです。しかし、人間は松の木や杉の木のように、ただぽかんとして生きている訳にはいきません。それぞれ仕事をしなければならないのです。与えられた条件に従って、与えられたように生活しなければならないのです。

人間は理性を与えられていますから、理性を用いて仕事をすることができるのです。杉の木は理性がありませんから、理性がないように生きているのです。人間は理性を与えられていますから、理性を与えられているように生きるのです。そこが違うだけです。ただ、杉の木が生きている原形、生息の原点においては、人間も変わらないのです。同じ被造物なのです。

ところが、杉の木や松の木がなければならない理由はないのです。犬や猫がいなければならない理由があるのでしょうか。いなけばならない理由がないのに、いるのです。地球がなければならない理由があるのでしょうか。地球はあるのですが、なければならない理由はないのです。

私たちは地球があるから、地球があるのは当たり前だと思っているのです。しかし、地球があることが、なぜ当たり前なのでしょうか。森羅万象という雑多な、奇怪な現象がある。私たちは目の前にそれを見ているから、それに対して何の不思議も感じない。当然だと考えているのです。

それが当然だというのは、どのような論理からくるのでしょうか。被造物が存在しているということ、これが存在しなければならない理由はどこにあるのでしょうか。ことに人間存在です。こんなおかしなものが、どうして存在しなければならないのでしょうか。

自分の我欲に生きないで、森羅万象についての責任をスムースに感じて、善悪と好意を持って、万物を統括するような責任意識をもっているならいいのです。正しく宇宙に対処できるような生活態度がもし人間にあるとするなら、なぜ万物があるのだろうかということを、殊更考えなくてもいいのかもしれないのです。

その場合には、また、別の疑問が出てくるであろうけれど、とにかく人間の状態が正当であるなら、なぜ万物があるのだろうかというようなことを考えなくても、人間が現在、万物の長としての責任を自覚しているのなら、自ずから万物の存在についての認識があるはずです。

万物の存在についての理由の認識がなければ、万物を統括することができるはずがないのです。もし人間に正確な正当な意識があるとすれば、わざわざ万物がなぜ存在するかについての疑問を提出する必要はないのです。

ところが、現在の人間はただ欲のために生きている。自分の我念、妄想のために生きている。自分の欲望を果たすということに対してだけ意義を考えるという、ばかばかしい生き方をしている。そこで、なぜ万物があるのかという質問を提起しなければならないことになるのです。

一体、森羅万象がなぜなければならないのか。なぜこんなものがあるのかということです。これに対して、現在の哲学も科学も、また、それ以外の宗教でも、どうしてこういうものがなければならないのかということについて、それをまともに取り上げようとする思考方式がないのです。

宗教でも、神とか仏とか言いながら、万物がなぜあるのかということを、真正面からはっきり取り上げようとしないのです。色即是空ということでも、なかなか難しいのです。ただ理論物理学的に、物質は存在しないという。これは非常な幼稚な論理です。そういう論理によってでも、色即是空が説明できないことはないとは言えます。

つまり、物はないのだ、運動があるだけだという理論物理の考え方でも、物は存在しないという理論づけはできないことはありませんが、これは非常に薄っぺらな、幼稚な理論です。色即是空はもっと大きい角度から、もっと基本的な角度から取り上げるべき問題です。

例えば、その一端をお話ししますと、一本の柱でも何十年か何百年かの年数を経なければ、立派な材木はできないのです。そんなことはすぐに分かるでしょう。その材木は何百年かの時間があったことを証明しているのです。時間がなければ、どうしてその木ができるかです。そうしますと、物質があるということは、時間があるということを証明しているのです。従って、物があるところには時間があるに決まっているということを、科学者なら誰でも知っているはずです。

ところが、奇妙なことに、時間は存在しないのです。時間はどこにあるのか。木が太るには三百年の時間が必要だった。だから、時間はあるのではないかと言われるかもしれません。その三百年が本当にあったのかというと、あったのではない。ただ瞬間だけがあるのです。瞬間瞬間が連続して、三百年があったという理屈は言えるのです。しかし、三百年という固定した時間があったのではないのです。

私たちは今鼻から息を出し入れしています。これは瞬間という命に生きているだけです。たとえ、一分間という時間であっても、固定した時間はどこにもないのです。瞬間瞬間に時間は流れている。時は流れている、時間は流れているのです。時が流れているのを人間は測定します。それによって、時間という概念が発生する。しかし、それは時の流れを測定して初めて時間という概念が発生したのであって、初めから一分間、一年間という時間がある訳ではありません。ただあるのは、現前、現実という時だけです。これしか時はないのです。

もし五分間という固定した時間、動かない時間があるとすると、川は流れないのです。風は吹かないのです。時間が瞬間瞬間流れているから、川が流れているのです。もし時間が固定したら、川が止まってしまうのです。五分間という固定した時間があると、五分間地球が止まるのです。時間が止まると、川も止まるかといういうと止まらない。その瞬間に川が消えてしまうのです。時間が流れているからこそ川がある。

地球が回っているから存在する。もし時間が五分間止まったら、地球は消えてしまうはずです。万物は流れているから存在している。地球は回っているから存在しているのです。自転車は車輪が回っているから動いている。止まったら倒れてしまうのです。人間の心臓もそのとおりです。心臓が動いているから生きているのです。止まったら死んで人間ではなくなるのです。もし固定した時間があるのなら、万物がなくなってしまうのです。時が流れているから万物が存在するのです。

そうすると、時間はないのです。ところが、時間がなければ木は成長しない。苗木が材木に成長しないのです。時間がなければ木は成長しないが、時間があれば木は消えてしまうのです。それをどう考えたらいいのでしょうか。

仏説阿弥陀経では、阿弥陀如来の本願によって救われると言います。仏説阿弥陀経本来の真意はそんなものではないのでしょうけれど、現在の浄土真宗で受け取られている感覚ですと、死んでから極楽へ行くということになるのです。

キリスト教も同様で、死んでから天国へ行くと考えるのです。死んだ人は天へ帰ったというのです。天へ帰ったという言い方が間違ってはいないという言い方ができるところもありますが、現世に生きているうちにはっきり天を見ていなかったら、天へ帰れるはずがないのです。

天へ帰って何をするのか分からない人間が、天へ帰れるはずがないのです。天へ帰るのは仕事をするために帰るのです。果たすべき使命があるから天へ帰るのです。聖書の場合はこうなるのです。仏教の場合には人間が業を果たして、その上に人間がなさねばならないことがあるかと言いますと、分からないのです。三世諸仏が集まって、大集会を開いているという光景は、華厳経や維摩経、法華経に出ていますが、大集会を開いて何をするのか、何のために会議をするのかということです。釈尊を中心に、如来と菩薩が話し合いをしているのですが、その他に何かあるかというと、何もないのです。

罪ということがらが分からないから、救いが分からないのです。罪があるところに救いがあるのですが、罪に対する明確な認識がないところに、明確な救いはないのです。これは罪に対する認識が上っ面であって、本当の罪というものを捉えていないことを示しているのです。罪の本質を認識していないのです。こういう甘い考え方が、極楽浄土へ行くという考えになっていくのです。

これは罪に対する認識の甘さの面です。人を憎むとか、恨むということが悪いことは分かります。そうすると、憎みさえしなければいいのか。道徳でいうように、丸い気持ちで生活していればそれでいいのか。世間でいわゆる善人と言われている人は、罪人ではないのかということになるのです。皆考えが甘いのです。現実が真実だと思っている人が皆罪人なのですが、これが分からないのです。

現実を真実だと思わずに、何を真実というのかと言われるでしょう。現象が実体ではないとして、何が実体なのかというでしょう。そういう考え方が罪なのだということが、今の人間には分からないのです。犯罪とか、犯罪行為とか、積極的な意味での人間の罪業を表に出す生活が罪であることは分かるのですが、しかし、まともに生活していて、世間の人間から信用され、信頼され、尊敬されている人は罪人ではないと考えます。これが普通の世間一般の考えです。

神や仏に厄介になるほど悪事をしたことがないと考えている人が多いのです。ところが、この人が悪人なのです。猫かぶりです。宗教を信じている人間は皆猫をかぶっている人間です。猫かぶりです。これは偽善者です。イエス・キリストが一番痛烈に非難したのは、宗教家です。むしろ泥棒や人殺しは、人に言われなくても自分が悪人であることを知っているのです。世間でいう善人という人たちは、自分では悪いことをしていないと考えているでしょう。宗教家とか、倫理道徳を実践している人とか、慈善行為をしている人は、神の御名を汚しているのです。そういう罪に対する認識の甘さが、現在の人間にあるのです。これは罪を知らない甘さです。

もう一つは、罪の本質に対する評価を決定的なもののように思い込んで、自分はだめな人間だと思い込んでいる人がいるのです。これがひがみ根性です。本人はひがんでいるとは思っていないのです。自分はひがんでいると思っていないから、ひがんでいることになるのです。心を明け渡して、神を信じることができない人間の心理状態は、実は全部ひがんでいるのです。

現在肉体的に生きている固有名詞の人間を自分だと思っています。聖書で読みますと、イエスの生活態度、また、パウロの思想の状態は、自分の現在の気持ちとは、あまりにレベルが高すぎるのです。そのように思えるのです。

実はそのように思えるだけであって、イエスやパウロは客観的に言えば、私たちと同じ条件で生きていた人なのです。聖書だけで見ると、すばらしく高いレベルで生きていたように思えるのです。自分たちとは人間の出来具合が違っていると考えるのです。

パウロはそのように考えたでしょう。イエスはそのように生活したかもしれない。とても我々にはできるはずがないと考えるのです。自分の思い煩いの習性といい、年中何かいらいらしている気持ちといい、また、聞いてもなかなか悟れない人間だから、私みたいなものはだめだと考えるのです。こういう自分を自分だと思い込んでいる。だから、自分はだめだと思うのです。

これがひがみであって、肉なる自分とイエスを比較すれば、問題にならないのは当然です。イエスは四十日四十夜、肉性と闘った後に、初めて飢えに気がついた。断食をして、信仰によって肉性と闘っている間は、イエスは飢えを忘れていたのです。そんなことを考えなかったのです。飢えとか渇きを感じない程、霊的に没頭していたのです。ようやく闘いが終わって、勝利の確信を与えられて、ふっと我に帰った時に、飢えに気がついたのです。

こういうことはとても私たちにはできないと考える。これは当然のことです。とても及ばないものを自分だと思っているのです。固有名詞の自分を自分だと思っているからです。イエスのように潔い、心一筋に神の御名を崇めることは、とても自分にはできないと思う。そして、私はだめだと思うのです。

だめだと思うのはいいとして、だめだからどうするかです。だめだからどうなるのかです。だめなら放っておくのか、だめだとして、それが神の前に通るのかです。私はだめだと思っている人が、そのまま死んでしまうとする。そうして、キリストの前に立った時に、私はだめでしたと言う。私はだめだということは、初めから分かっているのです。肉体を持って生きている人間が、だめなことは初めから分かっているのです。分かっているから十字架があるのです。

十字架によって人間は死んでいる。洗礼もあるのです。だめな人間がこの世から消えてしまうように、洗礼を受けるのです。洗礼を受けても、だめな人間がやはり生きている。これは洗礼を信じていないのです。

何をしているのかと言いたいのです。ある人がある人と結婚した。主人は奥さんを愛して、愛妻家だと思っていた。愛妻の方は、どうも結婚した気がしないというのです。愛してもらっているのですが、一年経っても、二年経っても、自分が愛されている気がしないというのです。一緒に暮らしていながら、自分は奥さんのような気がしないというのです。そういう気がしないとしても、現在生活している内容は奥さんになっているのです。具体的、実際的に奥さんとして生活していながら、本人はまだ奥さんのような気がしないというのです。

皆様は洗礼を受けた。長年聖書の勉強をしている。だから自分はクリスチャンだと考えることは間違っていないのです。クリスチャンというのは、キリストの持ち物という意味です。ところが、本人はキリストの持ち物のような気がしないのです。自我の自分をしっかり持っているのです。自分はキリストの持ち物であるという自覚が持てないのです。

固有名詞という古き人の人格が、自分であると思っている。これはキリストの物ではありません。自分の物です。洗礼を受けて、聖書を信じ、御霊を受けたという人は、自分の物ではありません。ところが、実際にはそういう感じがしないのです。そう信じないから、そういう感じがしないのです。

肉体的に生きている自分を自分だと思い込んでいるのです。いつまでもそう思い込んでいるのです。洗礼を受けたその時は、そう感じたかもしれないのですが、二、三日もすると元のもくあみで、やはり固有名詞の自分に戻っているのです。

結局、肉なる自分、固有名詞の自分を自分だと思い込んでいるのです。そして、自分はだめだと思っているのです。

そうすると、だめだという自分はどうなるのか。だめだと思ったままで、死んで地獄へ行くことになるのです。だめだという自分はすでに死んでいるのであって、そんなものは自分とは違うのです。それを信じるために十字架が立っているのです。自分がだめなのは、初めから決まっているのです。だめだから十字架を信じるのです。

だめな自分は死んでしまって、新しい人生がイエスによって提供されている。このことを神は十分ご承知の上です。古き人はもう死んでしまっているのです。今いる人間は洗礼を受けたので、全く別の新しい人になっている。霊的にも別の人になっている。自分が犯した罪がきれいになくなっていることを、神が認めているのです。ところが、これを自分が信じられない。

ご主人は奥さんを愛して、奥さんだと思っていますが、奥さんは「私は奥さんのような気がしない」と頑張っているのです。いつまでもこういう気持ちがなくならないとすれば、困ったことになるのです。

洗礼を受けて、聖書を信じて生活していながら、なお肉の自分を自分だと思い込んでいることになりますと、神の救いが無効になるのです。これがひがみ根性です。私はだめだと、いかにもへりくだっているように思えるのですが、実は自分自身の根性を絶対に明け渡そうとしない、非常に強固な神に対する反抗です。

神の処置を信じようとしないのです。洗礼を受けたことを信じようとしないのです。十字架という事実を信じようとしないのです。そうして、固有名詞の自分を自分だと思い込んでいるのです。自分の思いを自分自身だと思い込んでいるのです。肉の自分を自分だと思い込んでいるのです。自分の肉の思いで家庭を握り込んだり、職業を握り込んだりしている。それを自分だと信じているのです。

そうしますと、何回聖書の話を聞いても、何年聖書の勉強をしても、やはり自分はだめだと思うのです。だめな人間はもうこの世にはいないのです。イエスが自分の本体だということを信じるために、イエスを学ぶのです。

パウロは「キリストが私の内において生きている」と言っているのです。キリストを自分の内に住まわせていたパウロの気持ちに同化するために、パウロを学ぶのです。

ところがどこまでも、パウロはパウロ、自分は自分だと考えている。従って聖書を学んでいることが、ただの宗教になってしまうのです。聖書が自分の命になっていないのです。これがひがみ根性です。

ひがみというのは、私はだめだというように、肉の悪い自分、罪人である自分を自分だと思い込んでいるために、そこから一歩も出ようとしないのです。自分という古き人から一歩も出ようとしないのです。自分という家の中に閉じこもったままで、じっとすくんでいるのです。そして、私はだめだと言っている。外へ出ようとしない。キリストを信じようとしないのです。神の処置を素直に受け取ろうとしないのです。

十字架によって、すべての人は死んだのです。そして、イエスを甦らせたように、すべての人を甦らせたのです。この神の処置を黙って受け取ればいいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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