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女の創造


創世記第二章二十一節に、「そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた」とあります。

大体、人間存在というものは宇宙的に申しますと、全く不可解な存在です。神そのものでもなく、また、獣でもなく、天使でもないのです。天使はそれぞれの役目を持っていて、神の命令に従っています。悪魔に属する天使は、悪魔の命令に従うのですが、部分的な職務を分担する能力、働きがあるのです。

天使は自ら自由意志を持っていません。ところが、人間は自由意志を持っています。自由意志を持っているということは、非常にすばらしいことでありまして、神の栄光と誉れをそのまま象徴しているとさえ言えるものが自由意志です。権威とか力とかいうものは、自由意志そのものを意味するのです。自由意志を持つものは、権威を与えられた、また、力を与えられたことになるのです。それは、自分自身の営みの本源になることができるものです。

天使から見れば、これは全くうらやましい限りのものでしょう。ただ自由意志は、天使の長だけが持つことを許されているすばらしい権威なのです。それを現在の人間は与えられていながら、自由意志というものの尊さ、また、誉れの意味が分からないのです。誉れとは名誉と言ってもいいのですが、名誉とは一体何のことかということです。

名誉というのは、公認された位のことです。国家的な名誉と言えば、国家が公認しているその人の立場、位、品性、権威です。これが誉れ、名誉です。国や社会が公認していると言った所で、現象社会のことですが、神の栄光と誉れと言いますと、これはすばらしいものです。永遠無窮に宇宙そのものが公認しているものです。宇宙に公認されている位、立場、権威というのは、途方もなく大きいものです。

この自由意志が人間に与えられているのですが、自由意志を与えられていることの尊さ、その誉れを人間自身は知らないのです。自由意志を乱用して、欲望に走るという愚かなことをしているのです。

女の創造とはどういうものか。神はあばら骨を一本取ったのです。あばら骨とは人間の胸を意味します。胸はハートを意味するのです。ハートは愛を意味するのです。人間の本性は最も端的に、その人のハートに現われているのです。人間の本性の神髄と言えるものは、人間自身の性というものであって、これは愛することと愛されることになるのです。神の本性が愛なのです。

宇宙には本性と本質と本体の三つがあります。人間にもこれがあるのです。これは本源なるものの三位一体というべきものですが、これが人間存在の原点でありまして、哲学者でも本当に神を知っている人が、未だかつてこの地球上に現われたことがないのです。もし強いて現われたと言えば、イエスを除けば、ヨハネとタルソのパウロくらいのものです。神を知らなければ、本当の哲理、哲学が分からないのです。

本性は宇宙存在の最も重要な基礎になるもので、人間存在の基礎になるものは人間の本性です。現在の人間は、肉性に従って生きています。だから、自分の本性が分からないのです。肉性は人間の本性ではなくて、仮性です。仮性としての存在が肉性であって、本性と全然違ったものです。

アダムは本性を持っていた。これは本来愛すること、愛されることを意味しますが、アダムの場合はまず愛されることが中心になっていたのです。陥罪以前のアダムの内には、愛される感覚と、愛する感覚との両面を持っていたのです。愛することと愛されることの両面を愛というのですが、これがアダムの内にはあったのです。

骨は隠れたものですが、中核をなすもの、中心をなすものです。人間の人体構造の場合でも、人間の体は母親の胎内において骨が形造られるのです。聖書にそのように書かれていますが、まず骨が組み立てられるのです。

組み立てられると言いましても、大工が家を組み立てるというようなものではありません。小さなものからだんだん大きくなっていく。まず骨が成長するのです。骨が成長する段階において、当然骨髄が生育していくのです。骨髄の発育により、血肉が造られていくのです。血と肉は本来同じものです。一つは肉体的であり、もう一つは液体ですけれど、本来的には同質のものです。血肉は骨髄によって発生すると考えてもいいのです。

内臓の諸器官は、骨髄の働きの現われと考えられるのです。五臓六腑も骨の働きの分派機能のようなものです。脳髄細胞も脊髄、または延髄も一つの系統的なものであって、これが骨の働きです。

骨は表面には現われていません。隠されているものですが、これが人間の人体構造の中心になっているものです。あばら骨というのは、愛の中核的存在をシンボルにしているのです。これを一本抜いたのです。胸の骨はハートの中心になるものです。人間のハート活動の中心になる骨の一本を抜いたのです。

一本抜いたということは、アダムを不完全なものにしたという意味になるのです。一本という数にこだわる必要はありませんが、全部揃っているべきものが、一本欠けたのです。十二本あるべきあばら骨が十一本になった。十二という数は神的な完全数です。神の計画に基づく完全数が十二です。十一というのは不完全そのものを意味する数です。一本抜かれて十一になったということは、アダムの愛に対する感性が、不完全そのものになったことを意味するのです。

アダムの場合は、エデンの園で神と共にいました。神と初めから共にいたのです。だから、神に愛されていたのです。愛されているということは、初めからその状態に置かれているため、自分では分からないのです。愛されっぱなしですと、自分が愛されているのだという自覚を持つことができないのです。

これは皆様も経験があるはずです。子供の時に皆様は両親に愛されていた。両親に愛されていたという条件が初めから存在する場合は、愛されているという気持ちはないのです。持てないのです。従って、愛されているという気持ちがない者は、愛するという気持ちが起きないのです。愛するということは、愛されているという自覚を基礎にしなければ、愛する気持ちが起きないのです。

何でも分かったと思っている人には、分からないことの恵みが分からないのです。分からないことは、実は大きな恵みです。もし本当に神が分からないということがハートで感じられるなら、その人は幸いな人です。神を知りたいと感じる人があるなら、幸いな人です。

世間並の人は、神が分からないということが分からないのです。キリスト教の信者は、神が分かっていると思っています。自分は神に愛されていると、勝手に思っているのです。それに自惚れていますから、自分が神を愛さなければならないことが分からないし、神に愛されているということ、愛の本質がどのようなものかを、実は知らないのです。マンネリズムの夫婦がこうなるのです。いわゆる夫婦の倦怠期がこれです。愛されていることが分からないし、愛していることも分からないのです。肉で塞がれてしまっているからです。ただ常識的に、義理的に夫婦生活をしているだけなのです。感激も刺激もないのです。お互いに冷め切ってしまっている。死骸と死骸が共同生活をしているようなものです。

そこでアダムは、はたと行き詰まった状態になったのでしょう。これは文字には現われていませんが、肉で塞がれたという言葉の中に、アダム自身の心理状態が昏迷状態に陥りはじめたということが、ほのかにうかがい知られるのです。行間の文字を読んでいけばそうなるのです。肉で塞がれたという言葉の中に、文字に現われていない文字が浮かんでいるのです。

アダムは昏迷に陥らなければ、解明を味わうことができないのです。昏迷に陥ることを前提としなければ、開眼することができないのです。本当に開眼するためには、どうしても昏迷を通らなければならないのです。仏教に煩悩即菩薩という言葉がありますが、煩悩がなければ、菩薩を願うことはできないのです。苦しむということが、楽しみ喜ぶことの前提になるのです。苦は楽の種です。これをアダムは味わされたのです。

神の愛というのはこういう処置でありまして、アダムが罪を犯して、人間全体が罪の中に閉じ込められた。昏迷の中に閉じ込められたということも、実は神のすばらしい大計画が存在したのです。

もちろん神は、アダムに罪を犯させたというのではありません。罪を犯したのはアダム自身でありますが、アダムが罪を犯したことが、却って今日になれば、私たちがキリストを求める、本当の神の救いを求めるための踏み台になっているのは、見逃せない事実です。

二十二節に、「主なる神は人から取ったあばら骨で一人の女を造り、人の所へ連れてこられた」とあります。ここに女を造りという言葉が出ているのです。あばら骨で女を造ったのです。女とは何であるのか。造られたままの女は、宇宙の本性がそのまま一人の人間として現わされていたのです。

宇宙の本性は愛です。これが一人の存在として現われていたのですが、あばら骨を一本抜かれたことで、愛としての存在であったアダムが、不完全な愛の意識を持たざるを得なくなったのです。そうして、神はそのあばら骨で女を造ったのです。女とは何であるのか。これは非常に深いことなのですが、女というのは、今日の人間が考えているようなものとは違うのです。人間が肉の思いで考えているような女ではないのです。

これは宇宙の本性の片ひらです。片ひらとは一片です。いわゆる宇宙の本性の一片が女です。これは女ではなくて、女性です。英語ではフィメール(female)を意味するのです。フィメールというのは、一番分かりやすく言いますと、雌雄の雌です。メール(male)は雄を意味します。雌雄というよりは、陽性と陰性と言った方がいいかもしれませんが、この二つがなければ、本当の性はできないのです。

宇宙の性というものは、一つの和合的な形をもって成立しているのです。性は愛です。愛するものと、愛されるものとの両面がなければ、愛という言葉が発生しないのです。神は「愛なり」と言いますが、神は愛する対象を持っているから、神は愛でありうるのです。全知全能の神と言えども、愛する対象がなければ、神が愛であるということが成立しないのです。

そこで、神は愛するという本性、つまり男と、愛されるという本性、つまり女を別けて造ることによって、愛そのものを現わそうとしたのです。アダムの心の内に、愛を現わそうと考えたのです。アダムはアダム自身の心の中に、愛がほのぼのと分かる時に、アダムは必然的に神が分かるようになっているのです。

恋に目覚めることによって、本当の神が分かるのです。本当に恋が分からなければ、惚れるという気持ちが分からない。だから、信じるという気持ちも分からないのです。本当の信じ方、惚れ方が分からない人は、自分の心が自分自身から見て完全であるように見えるために、私はこれでいいのだというように、一人よがり、独り合点してしまうからです。

そのように心が貧しくないような状態ですと、本当に神を信じるという気持ちが起きません。だから、自分の境遇や自分の感覚に、自己満足するという人は、非常に不幸なことです。神において満足するのでなかったらいけないのです。自分自身に満足しているような状態では、本当の満足ではないのです。神において満足するのです。神において見るということが、一番幸せな気持ちになるのです。

神はアダムにこのような心理的状態を与えるために、宇宙の本性の片ひら、一片であるフィメールというものを、形において現わして女を造ったのです。女をアダムの所へ連れてきた時、アダムは次のよう言ったのです。

「これこそ、ついに私の骨の骨

私の肉の肉。

男から取ったものだから、

これを女と名づけよう」(創世記2・23)。

アダムは女と名づけたのです。この名づけ方は、アダムが陥罪以前において、成し遂げた唯一無二の成功であったと言えるかもしれないのです。二十三節におけるアダムの言葉は、二つに分けて説明しなければならないのです。これは非常に難しい箇所です。陥罪以前のアダムが、愛によって発言したこの発言こそは、キリストの言葉とほとんど同じ意味があるのです。キリストが教会に対して持っておられる言葉と、ほとんど同じです。これは古今に絶するという月並みな言葉では言えないほどの、宇宙に冠絶すると言えるほどのすばらしい名言です。

まず前段の「これこそついに」というのは、これこそ今やといって、アダムが踊り上がった感覚が出ているのです。アダムが言ったというより、叫んだと言ってもいいでしょう。「ついに」という言葉が、叫びそのものを現わしていると言えるのです。「男から取ったのだから、女と名づけよう」というのが後段になるのです。アダムの叫びは、イエス・キリストの叫び、教会の頭であるキリストの叫びと言ってもいいくらいの叫びです。

アダムは、「これこそついに、私の骨の骨、肉の肉」と言った。神はアダムにぴったりの助け手を与えるつもりで、女を造られたのです。ヘルパーを与える目的で造られたのです。それに対してアダムは、これこそ私が求めていたものだと感激したのです。私の骨の骨と言っていますが、これは一体何か。これは聖書の中の非常に難解な言葉の一つです。すばらしい言葉ですが、極めて難解です。私の骨の骨とはどういうことか。非常に簡単な言い方ですが、意味が全く不明です。

アダムは女を見た時に、ハッと思ったのです。「これこそついに、私の骨の骨」と言った。骨の骨という言い方は、アダムは自分に骨はあるけれど、このように目に見える形であるのではないはずだという意味です。自分に骨はあるけれど、このように目に見えるものではないと思っていたのが、現われた。私に骨はあるが、このように目に見える形であるのではないと思っていた。それが目の前にすっと現われている。このすばらしい、美しい女神の姿を見たのです。

つまり、アダムは無意識に、ちりで造られた自分を意識していたのです。土で造られた自分は意識していなかったのです。陥罪以前の人間なら、当然そうあるべきなのです。今、聖霊の恵みによって私たちもちりで造られた、人間創造という秘密が開かれようとしているのです。二章七節に、「地球(土)のちりで人間が造られた」とありますが、アダムはこのことを無意識に意識していたのです。そういう意識は潜在的に感じていたのです。そして、自分に骨があるようだということも意識していたのです。

目に見えない霊なる自分と、目に見える肉なる自分とを感じていたけれど、自分の目で自分が形をとっているとは意識していなかったのです。アダムには肉の思いが全くなかったのですから、肉の思いがない人間は、有形的に存在する自分自身というものを意識することはないはずです。

ところが、目の前にすっと立っている愛の女神を見た時に、アダムは驚嘆したのです。自分の理想像が目の前に立っていたのです。そこでアダムが叫んだ。「これこそついに、私の骨の骨だ。肉の肉だ」と。この自分の自分、自分のさらに自分、自分以上の自分が目の前に立っているのです。骨の骨は自分以上の自分です。そのような感嘆あたわざる大感銘が、彼の腹の底からわきあがったのです。恋というものは、特に男性が女性を恋する場合の恋は、自分以上の自分をそこに見ているのです。これがアダムの心境です。

これは実は、イエス・キリストが教会をご覧になる時に、自分以上の自分をご覧になっているのです。その意味で、皆様は自分自身を自重して頂きたいのです。

キリストはおっしゃいます。「これぞ私の骨の骨、肉の肉」。今、第三の天で、絶えずキリストは「骨の骨、肉の肉」のために祈っておられるのです。神から見てイスラエルは、誠にこれこそ、神ご自身の骨の骨です。教会はイエス・キリストの骨の骨です。こういう秘密がこの宇宙にはあるのです。

神と人間の霊魂の交わりはすばらしいものです。親から見て子供は、自分以上にかわいいのです。自分以上の自分として、子供が現われているからです。男以上の存在が、女として現われているのです。自分以上の自分が、愛の女神として現われている。これが感嘆あたわざる言葉になって出たのです。「ああ、これぞついに、私の骨の骨、肉の肉」。どうぞ女性の皆様は、男性らしい恋心を承知して頂きたいのです。これが女性にはなかなか分からないのです。

例えば、教会にキリストの愛が分からないように、男性が女性をどのように愛しているのかが、女性には分からないのです。女を愛する男の愛は、自分以上のものだと思えばこそ、叱りもし、どなりもするのです。男が叱るのは、実は愛の現われだと受け止めて頂きたいのです。キリストが私たちを戒め、聖霊が私たちを戒めて下さるのは、愛の現われなのです。

「これこそついに、私の骨の骨、肉の肉」。この短い言葉こそ、人間が造ったあらゆる詩を乗り越えた、冠絶無類の詩です。女性賛美の詩です。女性賛美であると同時に、自分自身の存在を賛美しているのです。

「男から取ったのだから、女と名づけよう」とありますが、この名づけ方がすばらしいのです。女を見た時アダムは、「これこそわが骨の骨、肉の肉である」と叫んだ。自分の骨肉が自分以上の状態で、端的に現われている。これは全能の神でなければできないことです。父なる神の愛というのは、自分を自分以上のものとして見せて下さるのです。

例えば、本当の自分であって、自分以上のものであるというのが、私たちの救い主です。救い主イエス・キリストは、実は私自身の本性、本質そのものですが、私以上の本質、本性そのものです。

結論的に言いますと、女は男から取られたのです。それなら男はどこから取られたのか。キリストという女から取られたのです。聖書に「女から生まれたものの中で最も大いなるものは、バプテスマのヨハネである」とあります。男はキリストという女から取られたのです。そこでまず女は男から取られたというのが、創世記の第二章の定石になるのです。女は男のために造られたのです。このことを女が自覚する時に、本当の恋心が分かってくるのです。そこで、本当に女が幸せになる道を見出すことができるのです。

男から取ったということは、女の命の源泉が男にあるということです。男が女の命の源ですから、男に惚れるのです。人間の命の源は神ご自身にあるのです。神の御名の内にあるのです。これを自覚する時に、神はその人を必ず救うのです。女性がこれを自覚する時に、その男はその女性をはっきり愛することができるのです。そこで男は女に対して、絶対に責任を持たなければならないのです。女は男から取られたものだから、男に責任があるのです。

女は霊なる自分を意識することができないのです。そこで男がまず霊なる自分、地のちりで造られた自分自身を認識して、その認識によって女を愛する時に、女はまた男の愛に同化されて、男の信仰と同じ信仰を女が持つことができるようになるのです。これが女性に対して、男性が責任を持っているという愛し方です。肉的に愛するのではなくて、霊に従いて愛するということが、本当の男性がなすべきことです。女は男から取ったのです。だから、女の源泉である男が責任を持たねばならないことは、当然のことです。

女は現象的に存在する自分のことが、大変気になるのです。例えば、女性がお化粧をすること、自分に似合う服を着ること、立ち居振る舞いなどにおいて、男を意識しています。ちょっと歩く時でも、ちょっと座るにしても、女の挙措動作が、いつでも男性の目を意識しているのです。それは女性が今現象的に生きているのが、自分だと思っているからです。だから、自分のなりふりに非常に注意しているのです。

恐らくエデンの園においても、エバにそういう気持ちがあったのではないかと思います。エバは自分自身の存在がアダムに見てもらうためのものであることを、直感的に知っていたのでしょう。アダムが「わが骨の骨、肉の肉」と言ったのは、自分自身をそのまま見ているという理想的な恋愛関係であったことを示しているのです。

男はどうかと言いますと、男は自分のなりふりをあまり問題にしません。行儀作法にしても、あぐらをかいても平気です。挙措態度にしても、それほど女性のことを気にしていません。少々頭が禿げても、余り気にしません。現象的な自分を気にしないというのが、男性の定石になっているのです。女性は気にすることが定石になっているのです。

女性は現象的に生きている自分を自分だと思っている。男性はちりで造られた人間が自分だと思っているのです。肉体的ではない自分、霊なる人間としての自分を男は何となく知っているのです。だから、現世におけるなりふりよりも、自分自身の本質を向上させよう、本性をもっと良くしようという気持ちが、女性よりももっと強いのです。

男は自分の仕事、自分の人生目的、自分の精神的な名誉、位、力を尊ぶのです。これはちりで造られた人間の本性です。女性は目に見えた形で男性に愛してもらおうと考える。女性の存在は男性の責任において、はっきり女性の存在をマスターし、女性の感性を考えることなしに、男性は自分自身の感性はありえないのです。

パウロが、「この奥義は大きい。キリストと教会の関係をさしている」と言っているのです。これが男と女の関係の秘密です。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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