top of page
検索
  • 管理人chaya

意識革命


異邦人が救いを受けて、聖霊に満たされる状態に導かれることは、なかなか難しいことです。しかし、いくら難しくてもやらなければならないのです。また、できる事です。

できる事であるという事は、難しい事ではないのです。難しいと言いながら難しくないというと、変なことを言っているように思われますけれど、難しいと思っている人は自分自身の意識をどのように展開するかが分からないために、無駄な苦労をしているからです。

生活意識の革命が必要です。生存意識の革命と言ってもいいでしょう。生きている意識の具体的な革命を伴わなければ、信仰にはならないのです。

意識とはどういうことかと言いますと、現実生活における実感的なものの見方、あるいは、現実生活での物の見方としての実際感覚をいうのです。

例えば、食事に大根が出るとします。また、豆腐が出るとします。そうすると、豆腐に対する実感が伴うのです。食べる前に大根と豆腐を見ている。それは、実感を伴った見方をしていますから、大根の味、豆腐の味がこういう味であろうという実体感覚による意識が持てるのです。持とうと思わなくても、勝手に持てるのです。

私はこういう事を意識と言いたいのです。これを聖書的な言葉で言いますと、信じるという言葉になるのです。

信じるという事は、実感することです。意識することです。生活感覚的に実感すること、生存意識的に確認することです。これが信じることです。

例えば、イエスは母マリアに婚宴の席で酒がないと言われた。「女よ、汝と我と何のかかわりがあるか」とイエスが言われたのです。この時イエスはマリアに対して、「女よ」と言ったのですが、これはイエス自身の生活の実感として、生存意識として、マリアを母とは思っていなかったのです。

なぜ現実の親を母と思っていなかったのかと言いますと、イエスは霊に従って歩んでいたからです。霊的に生かされている自分を見ていたのです。父なる神によってこの世に遣わされ、御霊なる神によって現実に生かされていた。それをイエスは知っていたのです。

御霊なる神こそは、彼の母だったのです。遣わしたお方が父だったのです。父と母がこういう形でいるのです。肉体の両親の前で、両親以外を母と言えるのでしょうか。

般若心経に、遠離一切顛倒夢想という言葉がありますが、人間の意識というものは、すべて顛倒夢想である。逆立ちしている、そして、夢想である。夢見心地みたいなばかなことを、まともに信じていると言っているのです。。人間の思いは、ピンからキリまで五蘊です。

大体、現象を実体であると考えていることを初めとして、すべて人間の感覚、行動、意識、学問、常識、何もかも全部五蘊なのだと言い切っているのです。

そうすると、現世で考えている知識というものは、実体が存在しない。顛倒した夢想であるのです。夢を見ているような感覚です。

私たちは般若心経を読んでいますし、人に教えたりもします。そうしていながら、私たち自身が般若心経の思想を自分自身の意識にはしていないのです。

遠離一切顛倒夢想という字句を、目の前に大根が出された時のようには考えていないのです。目の前に大根を出されたら、口に入れるまでにその内容が分かっているのです。

顛倒夢想という字句を、大根を食べるように食べたみたらどうでしょうか。これができるかできないかによって、心を更えて新にしているかいないかが決まるのです。

心を更えて新にするとはどうすることかということです。これをやり損ないますと、永久に救われないことになるのです。

皆様の心象、イメージが間違っています。肉のイメージがそのままより集まって、皆様の精神構造になっているとしますと、いくら聖書を学んでも、いくら御霊を崇めますと言っても、皆偽善的な行為になるのです。

イエスは人間が霊なる者であると見ていた。父なる神によりてこの世に遣わされ、御霊の神によりて生かされている。目が見えることも、耳が聞こえることも、舌で味が分かることも、すべて御霊の神の官能であることを、イエスは知っていたのです。人間の肉体官能は、すべて御霊の作用です。御霊による神の機能です。それをイエスは知っていたのです。

従って、肉体的に存在する自分の母親は、肉体を借りて生まれてきたには違いないのですが、ちょっとした先輩になるだけなのです。

母親のマリアはイエスの集う会にはあまり出なかったようです。聖書にははっきり書いていませんから、何とも言えません。カトリックではマリアをマリア様としきりに崇めていますが、マリア讃歌などを見る限りにおいては(ルカによる福音書1・42〜55)、マリアはすばらしい娘さんであったようです。

しかし、イエスを産んでからのマリアはどうだったのかということです。いわゆる聖母マリアはどうだったのかということです。イエスを身ごもって、産んで育てる期間までは、すばらしい女性だったと思われます。「誠に汝は祝される女だ」と言える状態だったでしょう。天使がマリアに終生つきまとったのですから、マリアの信仰が悪かったということは言いたくありませんし、また言うつもりもありませんが、しかし、新約聖書には母なるマリアの記事はあまり良くないようです。

さすがに、イエスが十字架につかれた時には、皆イエスから離れていったのですが、聖母マリアだけはイエスの所へ時々行っています。その時はヨハネも行ったようですが、とにかく新約聖書に関する限りは、イエスを産んだということは果たしたとして、それ以後、イエスの伝道に対しては、マリアはあまり賛成していないようです。

このことはイエスには分かっていたでしょう。だから、手厳しくマリアの信仰を咎める意味もあったのでしょう。「女よ」という言い方を敢えてしたのです。

ですから、イエス自身が肉体的に存在する親を認めていなかったということは、事実です。霊に従いて歩む人間は、肉なる者を認めないのは当たり前です。

私たちもそういうことが、自分自身の生活感覚の板につくようにして持ちたいものです。そう願うことによってそういう感覚を持たされるでしょう。しかし、肉体に生きていたことの懐かしさというものがありますから、肉体的に生きていたことが、全部嘘にならなければならないということではないのです。

例えば、エノクは三百年神と共に歩んだと書いてあります。この記事をよく見ますと、エノクの生活は常人とあまり変わっていなかった所が、表面的にはあったのです。アブラハムの場合もそうです。イサクでもヤコブでもそうでした。父祖三代の信仰を見ても、彼らの生活は常人と飛び離れたものではなかったのです。私たちはこの点について、もっと深く考えなければならないと思います。肉体的な生活における感覚をどのように考えるべきかということについては、軽々しくは発言できないのですが、申し上げたいことは、原則的な意識革命に重点をおきたいのです。これがまず皆様の当面の問題です。

肉体感覚のあらゆることから離脱しなければならないということになりますと、問題が起こってくるようになるでしょう。

聖書は人間が肉体的に生きていることを無視するような、否認するような感覚を持たなければならないと言っているのではありません。信仰というのは、どこまでも意識の問題であって、意識に関する限りは、はっきり神を信じるという信仰がそのまま人間の生活意識、生存意識の原点にしっかり据えられなければならないと言っているのです。

例えば、マルクスは弁証法的唯物論を樹立しました。弁証法というのは、流動することを原理にしています。流動するという原理を捉えることになりますと、個体的なものが、固定的に存在する物質はありえないことになります。

従って、経済論と言いましても、物があることを建て前にした経済理論は、成り立たないことになるのです。物を建て前としない経済論にならなければならないのです。分配を論じるにしても、生産を論じるにしても、すべて物を離れた弁証法的状態を原理にした、経済理論にならなければならないはずです。

ところが、マルクスは物を認めていたのです。有形的、固定的、実体的に存在する物を認めていたのです。そこで、唯物論というイメージが、マルクスの理論には非常にはっきりしているのです。

弁証法的という言葉はありますが、マルクスの理論には非常に影が薄くなっています。弁証法的という言葉はいつか知らない間に忘れられてしまって、唯物主義的理念だけが非常にはっきりしているのです。

物がある、目で見ている物があるとはっきり考えているのです。マルクス主義者はすべて、目で見ているような物があると、非常に強く主張します。目で見ているような物があるというのは、素朴実在論であって、これは正当な正確な唯物論の根底だと言っているのです。

こういう考え方は弁証法的という言葉と全く矛盾することになるのです。彼はこの矛盾に気がつかないで、唯物史観を立ててしまったのです。そういう史観が現在もなお、未だに多くの人をリードしているのです。

人間はそういう浅はかな者です。弁証法的唯物論というテーマに対する解釈でさえも、正当にはできないのです。マルクスが弁証法的唯物論と言いながら、その言葉の意味が彼自身に分かっていなかったように、また、彼自身に実感されていなかったように、皆様もまた、悔い改めるという言葉が実感されていないのです。

ヨハネは次のように述べています。

「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手で触ったもの、すなわち、いのちの言について この命が現われたので、この永遠の命を私たちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠の命は父と共にいましたが、今や私たちに現われたものである  。

すなわち、私たちが見たもの、聞いたものを、あなたがたに告げ知らせる。それは、あなたがたも私たちの交わりにあずかるようになるためである。私たちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである」(ヨハネの第一の手紙1・1〜3)。

ヨハネはどういう交わりをしていたのかということです。ヨハネは父なる神と子なる神イエス・キリストとの交わりにあずかっていたのです。この交わりに自分自身が入れられている。その交わりにおまえたちもあずからせようと思って、この文を書いたと言っているのです。

初めからあったものとは何かと言いますと、命の言葉です。命の言葉が初めからあった。一節には、私たちが聞いたものと書いているのです。それから見たものと言っている。それから、よく見て手で触ったものと言っています。聞いたものという言葉をなぜヨハネが一番最初に書いたのかということです。

人間が見たり、聞いたり、手で触ったりしているものは、実はすべて命の言です。物ではないのです。だから、聞いたものという言葉を第一に取り上げているのです。

人間の感覚で言いますと、また、官能的な意識で言いますと、存在しているすべてのものは、まず目に入ります。耳に入ることもありますが、ほとんどすべて目に入るのです。それを見たものという言葉を先に使わないで、聞いたものという言葉を先に使っている。つまり目で見るということは、耳で聞くのと同じ意味になるのではないかと思われるのです。なぜかと言いますと、目で見ていても、それを我々は脳髄によって聞いているのです。脳髄の細胞で受け止めている。見ることも聞くことも同じような受取方をしているのです。例えば、雨が降る音を聞いていても、それは見ているのと同じ感覚で聞いています。初めからあった命の言葉を伝えるとすれば、まず聞くという言葉をヨハネが用いたのも、これは当然だと言えるのです。

キリストがこの世に来たりたもう時に、私たちに肉体を与えたもうたとあります。ダビデは詩篇で、私のために耳を聞きたもうと言っています。肉体を与えられたということは、官能を与えられたということです。官能ということは、見ることも聞くことも、交わることも、匂いを嗅ぐことも、手で触ることも、同じことです。これを分析しているのが理性です。これが神の言葉です。

神の言葉が植えられて、それが理性、五官、官能として人間に働いている。その目的は何かというと、初めからあった命の言葉を聞くためなのです。

私たちが目で見ている森羅万象、また、耳で聞いているもの、手で触っているものを通して、人間は物があると思っている。これは物があるのではなくて、現象感覚を与えられているから、そのような意識があるのです。家がある。道路がある。木があると思いますが、ヨハネはそれは物ではないと言っているのです。

物の形をした命があるのです。大体、この地球上にあるものは、すべて皆生きているものばかりです。有機物はもちろんのこと、無機物でもすべて、弁証法的に存在しているのです。

弁証法的ということの実体は何かというと、生きているということです。新陳代謝ということが弁証法的ということです。流動的に存在しているのです。流動的に存在しているということは、生きているということです。

このことをヨハネは、「命の言」と言っています。これを受け取るために、人間は生まれてきたのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

閲覧数:26回0件のコメント

最新記事

すべて表示

はじめに

皆様は死ななければならないことが分かっていながら、死ぬべき命をそのまま生きておいでになる。死にたくないと思いながら、死なねばならないという気持ちに屈伏している。これがいけないのです。本当に死にたくないと思うなら、死にたくないという頑固な気持ちを持ち続けなければいけないのです。死ねば必ず霊魂の審判を受けるに決まっているからです。だから、霊魂が死なない方法を見つけなければいけないのです。 人間の霊魂は

善悪を知る

創世記第三章でへびは、「おまえたちがそれを食べても、決して死なない。それを食べると神のようになって目が開け、神のように善悪を知ることになるだけのことだ」と言っているのです(同3・4、5)。 神のようになって善悪を知るだけのこととへびは言っていますが、これが死んだことなのです。死ぬことなのです。へびはこれを当たり前のように言っているのです。ここに人間の迷いの深さがあるのです。 現在の人間の思いは、へ

bottom of page