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  • 管理人chaya

神の作品


パウロは次のように述べています。

「私たちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は私たちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」(エペソ人への手紙2・10)。

良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたとあります。この訳が全く間違っているのです。間違っているという言い方をしますと酷評になりますが、良い行いとは英訳で、グッドワークス(good works)になっています。グッドワークスとは良い業になるのです。良い仕事です。良い行いではないのです。

それではどういう仕事が良い仕事なのかということです。良い行いという言葉は、聖書の中にたくさんあります。ところが、根本的に言いますと、グッドワークスであって、良い業をいうのです。

良い行いと言いますと、人間的な道徳行為と解釈されてしまうに決まっているのです。人間的な道徳行為というのは、肉的なものになるのです。現世的なものになるのです。この世につけることになるのです。そんなことを奨励するために、イエスが十字架にかかったのではないのです。この世の人たちに褒められるために、いわゆる良き証をするために、十字架にかかったのではないのです。

年末になると、救世軍の人々が街頭に慈善鍋を置いて募金運動をしています。こういうことが良き行いと考えているのです。これをすることが悪いと言っているのではありませんが、これが聖書がいう良き行いではないのです。

新約聖書に書いている良き行いというのは何かということです。ペテロは「神が清いように、あなたがたの行状を清くしなさい」と言っています。行状を清くするというと、悪いことを考えずに行儀よくしなさいという意味かと思うのです。行状を清くするというから、キリスト教の人々は、だんだん栄養不良の青瓢箪のようになっていくのです。くすねた格好をして、不景気な顔をした人間になってしまうのです。これがキリスト教信者です。

こういうことのために、イエスは十字架にかかったのではないのです。日本語訳の間違いは本当に困ったものです。良き行いはグッドワークスです。良い仕事です。良い働きなのです。良い働きをしなさいと言っているのです。良い行いと良い働きとは全然違うのです。それでは良い仕事とは何か。どういうことを目標にしたら良い仕事になるかです。

私たちは神の作品であると言っています。神の作品を英訳では、ヒズ・ワークマンシップ(his workmonship)になっています。ワークマンシップを作品と訳していますが、この訳は間違ってはいないのですが、間違っているのです。

ワークマンというのは、働き手です。仕事師です。シップというのは、心構えとか心持ちになるのです。ワークマンシップとなりますと、職人気質による作品という意味になるのです。名人気質の職人が、こつこつと自分の思ったとおりに、時間と手間をかけて、自分が思ったとおりに仕上げた作品です。これが本当のグッドワークマンシップです。名人気質の職人が、自分の思ったように造りあげた最高の作品が人間存在です。私たちは神の作品であると訳しますと、全く意味がなくなってしまうのです。

なぜグッドワークマンシップかと言いますと、創世記の第一章二十六節を読んだら、はっきり分かるのです。神は我々(神)のかたちに、我々にかたどって人を造り、これに全地を支配させようと考えたのです。これがワークマンシップです。空の鳥、海の魚、家畜と獣、つまり神の被造物のすべてを治めさせようと考えて、神のかたちのように、神にかたどって人を造った。これを男と女に造った。これがワークマンシップの内容です。これが皆様に分かっていないのです。皆様だけでなく、全世界の人に分かっていないのです。神に造られたことの意味が分かっていないのです。

人間の尊厳性というのは何か。神にかたどって、神のかたちのように造られたということが、人間の尊厳性の意味なのです。このことを自覚してこそ、初めてその人は自分の尊厳を理解していることになるのです。

ところが、現在の人間は神にかたどりて、神のかたちのように造られているということを、全く理解していないのです。信じてもいないのです。そういう人間は、人間としての尊厳性を自ずから意識する資格を失っているのです。

神のかたちのごとく造られていない人間、神にかたどりて造られていない人間に、なぜ尊厳があるのでしょうか。そういう人に、なぜ尊厳性という尊いものがあると言えるのでしょうか。

神にかたどって造られていない人間は、欲望の奴隷であり、道徳の破壊者であり、脱税の常習者であり、嘘つきであり、焼きもちやきであり、疑い深い、喧嘩早い、欲深い人間であり、犬や猫がしないような罪悪をし続けているのです。こういう人間になぜ尊厳があると言えるのでしょうか。人間の尊厳性が存在する理由はどこにあるのでしょうか。

動物がしない悪いことを、人間は常日頃行い続けているのです。人の悪口をいうとか、裏をかくとか、裏の裏をかくとかということを平気でするのです。法律は破るためにあるということを、堂々という人さえいるのです。そういう人間に尊厳性と言える価値がどこにあるのでしょうか。人命は貴重であると言いますけれど、そんな人間の命がなぜ貴重なのでしょうか。

例えば豚を殺せば、四、五十人のテキができるでしょう。人間を殺しても、テキ一つ作れないのです。お葬式をしてお墓を建てるお金がいるのです。一体人命がなぜ貴重なのでしょうか。人間は貴重である。人間の命は地球より重いということを、迷信のように信じている。こういう迷信を誰が作ったのでしょうか。人間の自惚れが勝手に作ったのです。フランス革命の時に、人間の尊厳が言われたという説がありますが、それ以前から人間の尊厳が言われていたのです。

神にかたどりて、神のかたちのごとく造られて、神の被造物全体を神に代わって支配するという自覚を与えられた人だけが、人間の尊厳性を正当に具有しているということができるのです。

これ以外の人間は、へびの子孫です。へびにかたどりて造られた人間、天使長ルシファーによりて造られた赤き竜の落とし子です。基本的人権を考える人間は、初めから人間の尊厳性とは何の関係もない、自惚れ人間です。現在の文明が考えている人間は、へびの子孫であって、へび自身が自分自身の尊厳性、偉大性、重要性を人間自身に言わせているのです。へびは自分でそれをいう術がないものですから、人間に代弁させているのです。

現在の基本的人権という思想や、人間の尊厳性という考え方は、すべてへびの代弁であって、悪魔の弁護をしているのです。キリストの敵にまわっているのです。今の学問は、全部キリストの敵にまわっていて、悪魔の弁護、弁解ばかりしているのです。人間の肉体的生活ばかりを尊んで、肉体生活をピンからキリまで擁護して、この世を尊んでいるのです。

この世のあり方を無二のもののように考えて、この世を要塞にして、神と戦争をしているのです。これが現在の人間です。皆様はそういう人間の中に住んでいるのです。皆様は神のワークマンシップであることを良く知って頂きたいのです。

皆様の五官のすばらしさを良く考えて頂きたいのです。とにかく、おいしいものが食べたいのです。おいしいものがあれば、どこへでも飛んでいくのです。焼き鳥よりもすき焼きがいい、すき焼きよりもカツがいい、カツよりもテキがいい、テキよりも上等のものがいいと考えるのです。とにかくぜいたくです。

おいしいものが食べたいというのは、味が分かるからです。味が分かるということは、すばらしいことです。味が分かるというのは、宇宙の構造が分かるということです。香りが分かるのです。味というのは、周波数の波長です。それが味になっているのです。皆様は味をどこで味わっているのでしょうか。舌でしょうか。これは旨いと感じるのは、どこで感じるのでしょうか。皆様が味わっているのは、脳波です。脳波で波長を味わっているのです。波長というのは、宇宙構造における第一の運動原理です。これはそのまま神の働きを意味しているのです。

実は人間は知らずして、食べるということだけで、神の業をそのまま味わっているのです。神を褒めているのです。これは旨いというのは、神の業を褒めているのです。それをただ旨いと思って食べている人は、神の栄光を踏みつぶしているのです。旨いと感じるのは、神の栄光を賛美するものでなければならない。ですから、これから旨いという時には、旨いという言葉のニュアンスに、神を褒めるという気持ちを込めて言わなければいけないのです。「身においても霊においても、神の栄光を褒めまつれ」とパウロが言っています。食べることにおいても、飲むことにおいても、すべての行動において神の栄光を褒めまつるのです。

宇宙の電波の波長が味になっている。香りになっている。色になっている。音になっている。一体人間の五官は何を感じているのでしょうか。何を味わっているのでしょうか。神の創造における第一原理を、そのまま味わっているのです。それを見たり、聞いたりしているのです。

電波には、周波数とか、波長とか、短波とか、長波とか、色々なものがあります。ヘブル人への手紙の第一章七節で、「神は御使いたちを、風とし炎とする」とあります。風とは何か。波長のもっとも大きいものを風というのです。波長の小さいものはマイクロ波とか極超短波です。小から大に到るまで、被造物はすべて波長でできているのです。

もう一つあるのはエネルギーです。炎です。これは波長に伴って起こるものです。風と炎の二つしかないのです。風は波長、炎はエネルギーです。この宇宙には風と炎の二つしかないのです。これを空というのです。

旧約聖書の列王紀にありますが、「大風の中にはエホバはいましたまわざりき」とあります。「そよ風の中にエホバがいたまえり」とあります。エリアはそよ風の中に、神を見たのです。御霊の声を聞いたのです。

皆様の五官の働きというのは神のそよ風です。神が皆様方に植えつけた御言葉の働きです。御言葉から出る霊が五官の働きです。御子から出る霊です。御霊は御子からもいでたもうし、父からもいでたもうのです。御言葉は御子であって、御子からいでたもうた霊が、五官になって人間に感じられるのです。

そこで皆様は、五官というすばらしい性能を持っているのです。皆様はそれを何に使っているのでしょうか。何と思っているのでしょうか。自分の肉体の五官だから、使うのが当たり前だと思っている。目があるから見えるのは当たり前だと、耳があるから聞こえるのが当たり前だと思っている人は、神の栄光を虚しくしているのです。神を神として崇めていないのです。このことをパウロは、「人間は神を知りながら、神として崇めず、感謝もしていない。そのために心が暗くなり、愚かになっている」(ローマ人への手紙1・21)と言っています。

皆様が今生活に用いている五官は、神の機能です。五官は波長の働きを受けとめる受信機です。五官は脳波と直結しているのです。これを視覚とか、聴覚とか、味覚とか触覚と言っています。これは皆脳波のあり方です。皆様の脳波は、宇宙の大脳波、神の脳波につながっているのです。

皆様の存在は、一メートル七十センチ前後、体重七十キロ前後のものではないのです。これは神の宇宙構造における受信機が人間として現われているのです。人間一人ひとりは、誠にすばらしいワークマンシップです。神の職人芸です。神は一人ひとりの人間を、職人気質でこつこつと造りあげているのです。皆様の事情境遇は、神が造りあげている職人芸の手先です。これによって、一人ひとり造られているのです。

人間は良い行いのために造られたとあります。良い行いというのは、グッドワークス、つまり良い仕事です。良い仕事とは何でしょうか。一人ひとりの人間存在が、神の名人芸によって造られた、宇宙の最高傑作です。すばらしい作品です。神の名による作品です。これがする良い仕事というのは何か。良い仕事をするために、キリスト・イエスの内に創造されたのです。従って、良い仕事というのは、キリスト・イエスに関係があるに決まっているのです。キリスト・イエスに関係がないのなら、キリスト・イエスにあって造られたというのはおかしいのです。

良い仕事、良い業というのは、キリストの業を意味するのです。実は皆様は知らず知らずの間に、キリストの業をさせられているのです。皆様はキリストの業を行うために、キリストの内に創造されたのです。

良い仕事、良い業は、キリストの業です。私たちはイスラエルに本当の福音を伝えるために学んでいるのです。そのために前進しているのです。目標ははっきりしているのです。私たちはキリスト王国が現われるために、前進しているのです。もし私たちの職業がキリストの業ではなくて、私たち自身の生活のためだとすると、つまらないものになるのです。全くつまらないものです。

毎日、神の業、キリストの業をしているとしますと、毎日の生活がとても豊かな、楽しいものになるのです。皆様は客観的には、神のワークマンシップになっているのです。たった一つ欠けているのは。その自覚がないということです。神の業を委ねられているのだという気概が弱いのです。

皆様の仕事は、イスラエル伝道の推進力に変化していくのです。皆様の仕事は、一つも地に落ちません。ところが一般の人々がしていることは、ただ生活するために働いているのですから、虚しく地に落ちる場合が相当あります。皆様の仕事は、そのまま神の国を実現するための、唯一無二の目的であるイスラエル伝道に方向が定まっているのです。その実が着々とあがっているのです。皆様が自分の仕事がイスラエル伝道であるというはっきりした自覚をお持ちになれば、皆様の仕事と魂はもっと神に接近するでしょう。もっとすばらしい栄光が現われるのです。

キリスト王国をこの地球上に実現するということは、人間文明最高の、最終の目的です。人間文明唯一の目的です。この唯一、最高の目的に向かって、皆様の努力が必要なのです。私たちは大変なことをさせられているのです。この努力は必ず実を結ぶでしょう。その前に具体的に花が開くのです。神がさせていますから、必ず成功するのです。

皆様の一挙手一投足は、そのまま神の国を実現するための、非常に有能な働きになっています。これがグッドワークス、良い仕事なのです。

これをしているのは御霊です。皆様の仕事はすべて集約されて神の国を実現するため、イスラエルの悔い改めのために、神のエネルギーとして蓄積されつつあるのです。

私たちに少しの力があれば、神は大いなる力をそれに加えて下さるのです。私たちに全く力がなければ、神は力を加えることはできませんけれど、少しの力があれば、神が力を与えて下さるのです。「あなたには少ししか力がなかったのに、私の言葉を守り、私の名を否まなかったので、私はおまえたちを助ける」と、神がはっきり言っているのです(ヨハネの黙示録3・8)。

今私たちには少しの力がありますが、これに対して神の大いなる力がプラスされるに決っているのです。やがて、驚天動地の大活躍を神がさせるでしょう。このことを神とキリストにありて、大いに期待して頂きたいと思うのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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