ヨハネの黙示録の四章四節に次のように書いています。
「また、御座のまわりには二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた」。
御座の回りに、二十四の位があるのです。これは二十四の人が座する位ですが、この二十四の位に、二十四人の長老がいる。頭に金の冠をかぶって、白い衣を身にまとう長老です。
御座の回りとは何か。虹も御座の回りにあるのです。虹というのは円形ですから、御座の回りにあるのです。これが希望の約束です。
ところが二十四人の長老がやはり御座の回りに座っている。まず二十四の位とは何かです。
御座の回りと言いますと、神の前が十二、神の後ろが十二です。前と後ろと合わせて二十四です。御座の前は霊なるもの、御座のうしろは肉なるものです。極めて大ざっぱに分類すると、このようなことが言えるのです。
二十四という数字については、色々の考え方がありますが、一番分かりやすい単純な解明の仕方をすれば、十二プラス十二ということになるのです。
十二というのは完全数です。御座の前は、霊なる意味での完全数です。これが十二です。御座の後ろは、肉なる意味での完全数です。これも十二です。
霊なるものの裏には肉なるものが必ずあります。反対に肉なるものの裏には必ず霊なるものがなければならない。この両面があるのです。十二が御座の回りということになる訳ですが、位というのは事がらと見てきますと、霊的には十二の事がらがあります。数義的に言いますと、十二は完全数でありまして、宇宙には霊的な完全数と、肉的な完全数が、三次元の世界においてはなければならない訳です。ただ今の世界では、十二が御座の回りという形において現われているのです。
すべて一つの事がらは一つの位を意味するのです。仏教では十二因縁と言っていますが、これも一つの分け方と言えるのです。
また、是非とか、利善得失とか、喜怒哀楽とかいうものを集めているとも言えるでしょう。色々な形で有形無形に生理的に心理的に精神的に両面のものが霊的にもありますし、肉体的にもあるのです。
十二の事がらというのは、十二という数でもありますが、また、完全数という一つのものでもあるのです。
十二というのは一つでもあると言ってもいいですし、十二であると言ってもいいのです。十二が御座の回りです。そういう事がらが御座の回りにあるだけだとしますと、何のためにそういう事がらがあるのかという説明をしなければならないのですが、四節には、二十四の位に二十四人の長老が座っているとだけ書いているのです。
これは非常に聖書らしい書き方でありまして、一つひとつの事がらを、一人ひとりの長老が経験しているのです。事がらが二十四あっても、ただその事がらが存在しているというだけでは、何の意味にもならないのです。
そこで、事がらを経験するべき人間、人格がいるのです。二十四人の長老とは、二十四の人格です。この二十四の人格が、それぞれの位について、神に経験をさせられている。
長老という言葉は、経験するという意味の語法を端的に、言い現わしたものです。名詞的に言いますと、経験するということが、長老という言葉になるのです。これが人間の魂の原形です。まだ地球上に現われない、現世に現われない人間の霊魂の原形のようなものだと言えるのです。
魂というものは、何のためにこの世に来ているかと言いますと、魂の生態は経験することです。これは白い衣をまとっていることによって現わされているのです。
人間の原形というものは、なければならないに決まっています。マタイによる福音書の第十三章の三十五節にあるように、神が口を開いて譬を説けた。それは世の初めの前から隠れている事がらを現わすためなのです。
現在の天地創造というのは、神が口を開いて譬を説けられたことなのです。それは世の初めの前から隠れている事がらを現わすためです。
これはパウロも言っているように、現われている事がらは現われていない事がらが示されているのだといっているのです。
現われているのは、現われていないものからできているのです(ヘブル人への手紙11・3)。
皆様は神に、人間として現わされた存在であって、自分というものがあるべき道理がないのです。
神は本来御座の回りにあるべき長老を、今人間として現わしているだけです。皆様は自分でもないし、他分でもない、ただの長老です。それがこの世に現われているのです。だから経験しているのです。
そうしますと、ひがまなければならない自分とは、一体誰のことでしょうか。威張らなければならない自分、自惚れなければならない自分は誰のことでしょうか。
皆様はとんでもない考え違いをしてしまいます。身を引かなければならない自分もいませんし、威張ったり、自惚れなければならない自分もいないのです。ただ神が皆様をこの世に送り出して、福音を皆様に知らせているという事実があるだけです。
客観的な事実があるだけです。皆様の主観は、根っから葉から、全部嘘です。
二十四人の長老の一人が皆様と考えて、何が間違っているのでしょうか。これが人間の原形です。
もし皆様が潔い心を持っているなら、黙って神に頭を下げたらいいのです。
私という気持ちをなぜ持っているのかと言いますと、これが金の冠です。私という意識が冠です。金というのは神の心理状態、または心理状態の属性です。これと同じものが冠として与えられているのです。そこで皆様は神の心理機能そのままの気位で、そのままの尊さで、神の心理機能そのままの栄光で、考えているのです。だから私、我という意識があるのです。
これがないと、経験ができないからです。経験の当体となるためには、一人称の人格がいるのです。
ですから、これから主我的な意味で私というのをやめて頂きたいのです。私が悪いとか、私がいいとか、私の経験とか、私の立場とか、私の利害得失をなぜ考えるのでしょうか。
もし考えなければならないと思ったら、その時、天使長ルシファーのことを考えて下さい。ルシファーは自ら「我あり」という意識を発明したのです。この発明が今の人間の全員に伝承されているのです。へびの霊を受けた人間は、自らへびになりきって自我をしきりに意識するのです。それでひがむのです。
自我を意識するルシファーが神に愛されていないことに対して、ひがまざるをえなかったのです。ひがみというのはルシファー独特の人格意識でありまして、私みたいなものはと言いながら、その反面は、自主意識が非常に強いのです。
人間は色々なことを経験するために、この世に遣わされたのです。これは何かと言いますと、悪魔の反逆という事実があったので、悪魔そのものを裁くべきものが現われなければならなかったから、人間が現われたのです。
神ご自身が裁くのは何でもないことですが、神自身が裁いたのでは悪魔が承服しないのです。そこで悪魔よりもいくらか低い者が悪魔の間違いを指摘することができるとすれば、悪魔と争うことがなくなるのです。
人間を悪魔よりも低い者としてこの世に現わして、これに栄光を与えて、悪魔を裁かせるという方法をとられたのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)