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  • 管理人chaya

キリストにおいて「しかり」となる


聖書に次のように書いています。

「なぜなら、私たち、すなわち、私とシルワノとテモテとが、あなたがたに述べ伝えた神の子キリスト・イエスは『しかり』となると同時に『否』となったのではない。そうではなく、『しかり』がイエスにおいて実現されたのである。

なぜなら、神の約束はことごとく、彼において『しかり』となったからである。だから、私たちは、彼によって『アァーメン』と唱えて、神に栄光を帰するのである。

あなたがたと共に私たちを、キリストのうちに堅くささえ、油を注いでくださったのは神である。

神はまた、私たちに証印をおし、その保証として、私たちの心に御霊を賜ったのである。

私は自分の魂をかけ、証人に呼び求めていうが、私がコリントに行かないでいるのは、あなたがたに対して寛大でありたいためである。

私たちは、あなたがたの信仰を支配する者ではなく、あなたがたの喜びのために共に働いている者にすぎない。あなたがたは信仰に堅く立っているからである」(コリント人への第二の手紙1・19〜24)。

十九節で、キリスト・イエスは「しかり」となると同時に「否」となったのではないと、少し分かりにくい言い方をしています。パウロが言いたいのは、キリスト・イエスという事がらは、イエスがキリストであることです。イエスがキリストであるということが、キリストとしてのイエスであるということです。キリストは神が遣わした唯一無二の絶対的な救い主です。神が定めた絶対的な救いであり、同時に地球そのもの、人類そのものの王です。神が定めた王です。

神が定めたという言葉でも、皆様が今まで考えていたのは、ほとんど宗教観念です。皆様にはキリストが分からないのです。異邦人は腹の底では支障が起きれば、聖書の勉強をやめてもいいと思っています。キリスト・イエスが自分の命だということが、分かっていないからです。命は自分が今生きていることだと思っているのです。これはキリストが自分の命だと思っていないことです。

ところが、聖書では「あなたがたの命はキリストと共に、神の内に隠れている」と言っています。この命を皆様は信じていないのです。つまり、聖書を神の言として信じていないのです。あなたがたの命はキリストと共に隠れている。皆様はこの命を信じていないのです。思想的に理解していても、実感的に信じていないのです。だから、聖書を神の言として信じていないことになるのです。

思想的にはそうだと信じていても、生活の実感としてそれを受け止めていない。従って、聖書が絶対として受け止められていないのです。皆様の異邦人としての愚かさ、異邦人としてのやくざな感覚が、そういう本性になっているのです。

聖書が神の言であると信じることが、基本的な条件になるのです。聖書を神の言としてはっきり信じる気持ちがなかったら、キリスト・イエスが「しかり」となり、あるいは「否」となるのです。「しかり」となりというのは、都合のいい時にはキリスト・イエスを信じた方がいいと思う。都合の悪い時には、信じなくても私の命はここにあると思う。これが「否」となるのです。

「あるいは『しかり』となり、あるいは『否』となるものではない」とパウロはいうのです。人間が「イエス」とか「ノー」とか言えるものではない。神がイエスをキリストとし、神の約束のメシアとして遣わした以上、これは絶対です。神がナザレのイエスをキリストとしたということは、宇宙的に科学によって証明できるのです。イエスが十字架につけられてイエスの息が絶えた時に、雷がなったのです。これは何だろうか。地が震い動いたのです。これは何なのか。分厚い神殿の幕が真っ二つに切れたのです。

イエスがキリストとなったということは、科学的事実です。世界的な科学的事実です。自然現象であると同時に、歴史現象であり、霊魂的現象でもあるのです。自然と歴史と人間、つまり時間と空間と霊魂とが一つになって、歴史が造られているのです。時間と空間と人間の三つの間が、一つになって現前ができているのです。人間をイエスとして見たらいいのです。時間と空間とイエスの三つによって、現前ができているのです。

もしイエスがいなかったら、現前が存在するはずがないのです。宇宙に流れている電磁波とか電波、様々な周波数、波長、宇宙線の活動は、何を意味するのか。これはそのまま神の御座から発している稲妻と、もろもろの声と雷鳴を意味するのです。

皆様は大体キリスト・イエスをばかにしています。キリスト・イエスも、現象世界がある方が信じられるのです。異邦人はその程度のものです。皆様はそういう異邦人的な頭を捨てなければだめです。聖書は神の言であると私は言いますが、皆様の頭で聖書は神の言葉であると何百回言ってもだめです。

地球が自転公転しているという事実がキリストです。皆様の鼻から息を出し入れしているという事実がキリストです。キリスト・イエスということは、ある時は「しかり」という、ある時は「否」というものではないと言っているのです。絶対です。唯一無二の絶対です。人間が生きているという事がらから見て、唯一無二の絶対です。人間が生きているという事がらと、大自然の運行とは同じことです。大自然の運行なしに、人間が生きているという事実はありません。

神の経綸というものは、宇宙の物理的、または心理的機能の根源です。これは宇宙人格である神の御心です。神の御心によって、ナザレのイエスがキリストとせられたのです。今地球が自転公転していることがキリストだと思えない人は、信仰をやめた方がいいのです。こういう感度で信じるのでなければ、皆様の信仰は本物にはなりません。

私は若い時に考えました。現世に人間がいるというのは、どうもおかしい。根本的に妙なことだ。死んでいくのを平気で見ているし、死ななければならないと考えている。そのくせ人間は一人ひとり、死ぬのが嫌だと考えている。死んだらどうなるのかということを、すべての人間は皆気にしているのです。気にしていながら、死ぬということを真面目に考えようとしている人は、一人もいないのです。極楽へ行きたいとか、天国へ行きたいという人はいますが、死という問題を真正面から真面目に考えようという人は、一人もいないのです。

異邦人は真面目に生きていないのです。この世に生まれてきたから、ついでに生きているようなものです。この世に生まれてきて大人になったから、しょうがないから生きようとしているのです。そう考えているのです。こんなばかなことはないのです。なんとかして、人生の目的をつきとめなければいけないのです。

皆様は思春期に、こういうことを考えなかったようです。まずこのことを悔い改めなければいけないのです。皆様は生まれながらの異邦人であって、未だに異邦人の根性が直っていないのです。本当のことが分かったらいいのですが、分からなければ仕方がないと考えているのです。

羊飼いが打たれると、羊の群れは散ってしまうのです。イエスの時にそうであったのです。イエス・キリストという羊飼いが打たれた。その結果、十二弟子がばらばらになって、元の漁師になってしまった。そういうことになるのです。とにかく異邦人根性が皆様の腹の中にある間は、聖書をまともに信じることはできないのです。

異邦人が考える基本は、完全に肉の思いです。従って、肉の思いで考えていますから、キリストが信じられるはずがないのです。肉の思いというのは何であるのかということを分かりやすく言いますと、現象を実体だと考えること、現実を真実だと考えることです。

釈尊のような冷静な、また、英邁な思想を持っていた人でも、異邦人という範囲から抜け出してはいないのです。彼は現象を実体だとは考えていなかった。つまり、色は空であると言い切ったのですけれど、色即是空を喝破する前提条件が何だったのかと言いますと、現象があると考えていたのです。現象があるというところから悟り始めたのです。

悟った結果としては、五蘊皆空である、色即是空である、諸法無我であるとなったのです。そのスタートラインがどこにあったのかと言いますと、現象が存在するというところからスタートしているのです。現象が存在するというところからスタートしますと、色即是空、空即是色ということを徹見できたとしても、なおそこには、物質的現象なるものが存在するという根本的なイメージが、はっきり消し去られるという訳にはいかないのです。

例えば、自分という人間がここにいるというところから出発して、イエス・キリストを信じるとします。その結果、自分という人間はいないということが分かって、自分の本質、本性というべきものは、イエスの御名そのものであるのだ、従って、自分というべきものはいないということが分かるのです。しかし、分かってもだめなのです。自分が分かっているからです。自分が分かっているからだめです。

自分という立場から出発するというスタートラインがあるために、自分の存在の当体は、実はイエスの御名であるということを悟らせられたとしても、悟らせられた本人が自分です。これが不徹底です。

これが異邦人の信仰の一番上等なレベルです。釈尊が色即是空を徹見した。これをそのまま信じるとします。ところが、彼は人間が存在する、万物は存在するという場に立って、悟りを開いたのです。諸行無常、諸法無我を悟ったとしても、自分が存在する、万物が存在するというスタートラインから出発したということはなくならないのです。ここに異邦人の限界があるのです。これが異邦人の最高の悟りです。

そこで、仏法に悟りはあっても、救いはないということになるのです。救いというのは何かと言いますと、神の約束そのものです。神の約束とは何かと言いますと、天地が存在する以前、人間が存在する以前から出発しているのです。人間が存在するところから出発していないのです。

初めに神が天と地を造ったというところから出発しているのです。天地が造られる以前に、まず神の御心の内に、約束が立てられたのです。「光あれと言いたまいければ」ということが、約束の発端です。この出発なしに、創造は有りえないのです。この発端なしに天地運行の大原則は樹立しないのです。

大自然に運行の大原則があります。大宇宙に格率が存在する。なぜ格率が存在するのかということです。格率がなかったら、運行の法則は成立しません。運行の法則が成立しなければ、物理的原理は絶対に有りえないのです。

宇宙になぜ格率があるのだろうかと言えば、格率は言葉によって発生しているのです。格率の原理はロゴスです。ロゴスの原理は何かと言いますと、御心です。こういうことが異邦人には絶対に分からないのです。天地創造の根本原理が分からないために、異邦人がいくら自分が虚しいとか、自分の実体はイエスであるとか言ってもだめです。皆宗教観念になってしまうのです。

皆様は若い時、自分が生きていることについて、根本的な疑いを持っていなかった。自分が生まれてきて当たり前、生きていて当たり前、基本的人権があって当たり前という考え方を持っていた。自尊心というつまらないものを、初めから持っていたのです。これに対する疑いを持たなかった。腹を立てる権利があると考えた。自分自身を弁解する権利があると考えた。やきもちを妬く権利があると考えた。こういう考え方がすべて、基本的人権を認識しているところからきているのです。

アブラハムはそういうことを全部捨ててしまったのです。「我は全能の神なり。汝わが前に歩みて全かれ」と言われて、アブラハムはひれ伏したのです。ひれ伏したというのは、自分自身が全くの無能であることを承認したのです。約束はここからきているのです。アブラハムは自分に対して与えられた約束をも、神の言葉によって否定したのです。おまえに約束を与えよう。一人子を与えようと言って、わざわざ与えられた一人子のイサクを殺そうと考えたのです。アブラハムは神の御心であるなら、神の約束を取り消されてもいいと考えたのです。

あらゆる意味における自分自身の思想の根本を、全部神に捧げつくしてしまったのです。これが信仰です。皆様には、根本的に心備えができていません。だから、自分を捨てます、信じますと言っても、本当にそれを実行しないのです。一切の言い分を捨てなさいと言えば、口では「はい」というでしょう。しかし、心では場合によっていう条件をつけているのです。

異邦人は二十歳になるまで、あるいは三十歳になるまで、甘やかされていたために、この世が存在する、この世の家庭が存在する、個人が存在すると思っています。すべて社会や個人があると思っているのです。この考えを全部捨てるのです。こういうものは嘘です。何にもないところから出発するのです。自分はない、家庭もない、自尊心もない、自分の境遇も事情も何もかも一切ない、権利も義務もない。ここから出発できる人はいいのです。

私はできそこないで、暗愚そのもの、愚鈍そのものですが、恵みによって、若い時に基本的人権が存在していないことを悟ることができたのです。自分の生涯を捨ててもいいという気持ちがあったのです。何のために生きているのか分からない人生は、あっても仕方がないと思っていました。

ユダヤ人問題という不思議な秘密があるのです。神がアブラハムに約束を与えたという絶対原則です。これがなかったら、地球の歴史はあってもしょうがないのです。今の人間の歴史があって、一体何になるのでしょうか。日本という国があって何になるのでしょうか。現在地球上に百八十以上の独立国がありますが、こんなものがあって何になるのでしょうか。国家の主権とか民族の主権があって、何になるのでしょうか。人間があると勝手に考えているだけです。道徳も文化も、法律も宗教も、皆嘘です。神の国と神の義を求めようとしないで、現世における合理性を求めようとしている。これがいけないのです。

現世を認めるということは、神の国を否定していることになるのです。こういう考えがある間は、神の国と神の義が分かりません。「あなたがたはまず、神の国と神の義を求めよ」と言っています。これはイエスがユダヤ人に言った言葉ですが、この言葉を自分自身に言われたものとして、本当に心から正直に実行できる人は、自ら自分を約束の民として認めていることになるのです。「あなたがたはまず、神の国と神の義を求めよ。そうすれば、なくてはならないものは、天の父が与えたもう」という、人間生存の根本原則がこれです。

「命のことを思い煩うな。糧のことを思い煩うな。何を食べようか、何を着ようと思い煩うな。ただ神の国と神の義を求めよ」と言っています。皆様には、これができていないのです。何を食べ、何を着ようと思い煩うのが当たり前だと思っているのです。これがいけないのです。

仕事のことは神に一切を委ねて、神の処置に任すのです。そうすれば、神が責任をもってくださるのです。とにかく、一切を神に委ねなければ、約束の民の自覚は与えられないのです。神は約束の民を養うのです。異邦人を養ってくださるかどうかは分からないのです。

霊的にも肉的にも神に養ってもらいたいと思うのなら、また、神を味方にしようと思ったら、神の約束を自分の命にしなければいけないのです。

あなたがたはまず神の国と神の義を求めなさい。これさえも実行できる人が、今の世界にはいないのです。これが実行できなくて、どうしてイスラエルに伝道ができるのでしょうか。私たちがイスラエルに向かって言わなければならないことは、「あなたがたはまず、神の国と神の義を求めなさい」ということです。一切の理屈はいりません。まず神の国と神の義を求めようというのです。

神の国と神の義の中心はキリストです。「キリストはある時は『しかり』であり、ある時は『否』ではない」とパウロがいうのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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