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  • 管理人chaya

人間とは何か


聖書を学ぶ、特に新約聖書を学ぶということは、ナザレのイエスという人を学ぶことです。イエスという人を学ぶことは、実は自分自身を学ぶことになるのです。

「すべての人を照らす誠の光があって世に来た」とありますが(ヨハネによる福音書1・9)、これはイエスが来る前からあったのです。すべての人を照らすというのは、人間存在の実体を明らかにするという意味です。人間存在の正しい実体を明らかにするために、どうしても客観的な光がいるのです。人間の主観に任せておいたのでは、人間とはこういうものだ、ああいうものだという理屈を考えますけれど、それは個々の人間の意見であって、どれが正しくて、どれが正しくないのか、その判定ができないのです。

例えば、禅の悟りがそれであって、無門関とか、碧厳録とかいう禅の悟りの原形があることはありますが、その悟りに対してはっきりした基準がないのです。曹洞宗の禅にもありません。

人間が仏の子であるという概念はあります。人間は本来空であるという概念はありますけれど、空であるという人間の内容が何を意味するのか。空という文字の内容が何かが分かっていないのです。私が分かっていないと言っても、彼らは分かっているというでしょう。分かっているように思ってはいるが、実は明確には断定されていないのです。

人間自身の悟りにおいては、人間存在の正真正銘の実体を確認できないのです。そこで、神はもろもろの人を照らす誠の光を予め備えておられたのです。備えておられたというより、神が人間を創造した時に、既にできていたのです。神自身の人間創造の大目的は確定していたのです。その原理に基づいて人間が造られたのです。人間創造の大原理というものが、そのままもろもろの人を照らす誠の光そのものになっているのです。

人間が造られた大原理、または、大原則があって、これに従って人間は現在存在しているのです。この大原則はどういうものなのか。これは具体的な形で現わさなければならないのです。単なる論理とか、単なる譬でははっきりしたことが分からない。そこで、肉体を持ってこの世に生きている人間を照らすために、誠の光が自ら肉体的存在を持った人間として現われたのです。これがナザレのイエスです。

人間創造の大原則が人間になって現われた。この大原則は実にすべての人間に当てはまるべきものであって、私だけはその原則の範囲に所属していないという人間はいないのです。ナザレのイエスがこの世に現われたということは、もろもろの人を照らす誠の光として現われたのです。従って、これはイスラエルだけが信じておけばいいというものではないのです。

現段階で言いますと、全世界の人間がすべてイエスを信じなければならないのです。二〇一〇年現在、地球上にいる人間は六十八億人ですが、過去に死んでしまった人間を合計しますと、七百億人とか八百億人とかいう膨大な数になるでしょう。これらの人がすべて、イエス・キリストの具体的な人間存在として現われた人間自身の典型に従って自分自身を見るのでなかったら、その人は本当にこの世に生まれてきたことの意味がなくなってしまうのです。

今までに死んだ人について言えば、彼らはイエスと自分とを並べて、これは同じものだということに気づかないで死んでいったのです。こういう人たちは、実はこの世に生まれてきても、自分自身の存在原則を捉えずに死んでしまったのですから、何のために生まれてきたのか、何のために生きていたのか分からないままで、現在黄泉で眠っているのです。

私たちはイエスを学ぶために生まれてきたのです。これがすべての人間存在の大原則を学ぶことになるのです。

私たちは私たち自身の意志に関係なく、神に召され、神によりて選ばれて、すべての人間存在の大原則を確認するという使命を持たされているのです。イスラエルに代わって、この使命を持たされているのです。本当はイスラエルが第一に人間存在の使命を確認して、全世界の人間にそのことを教えるべきであったのですが、今イスラエルはそのような自覚を持たずに、現世で肉的な思いで生きているのです。

だから神は彼らに代わって、私たちを起こして、イスラエルの目を覚まそうとしておられるのです。「汝らもし叫ばずば、石叫ばん」とバプテスマのヨハネが言ったように、ユダヤ人が今沈黙しているので、石ころであるような私たちが彼らに代わって、叫ばされているのです。

そこで皆様は、全世界の人間に代わって、代表者として、イエス・キリストを正しく、明らかに学ばなければならない責任があるのです。これを自覚して頂きたいのです。自分がこう思うとか、自分の都合はこうであるというのは、第二、第三の問題でありまして、皆様が今ここに生きているということは、イスラエルに代わって人間存在の原点を学ぶためなのです。そのために生きているのです。人間存在のルーツを学びますと、万物が存在することのルーツが分かるのです。同時に、宇宙全体の原点が分かるのです。これはとんでもない大きなことです。

私たちがまず考えなければならないことは、人間という妙な存在がいることがおかしいという事です。大体、肉体を持っている生物なら、動物と同じ原理で生息すべきなのです。人間は、猿や犬、熊と同類ですから、彼らと同じ原理で生活すべきものなのです。ところが、人間の生活を見てみますと、文明とか経済、法律とか宗教、芸術ということを言っているのです。哲学とか科学とか、生意気千万なことを言っているのです。熊や狸の中に哲学を考えるものはいません。彼らはただ肉体的に現世に生きているということのためにだけ存在しているのです。

人間は肉体的にだけ現世に生きていないのです。哲学とか、歴史とか、芸術を考える。自分自身がこの世に生きているためだけなら、そういうことを考える必要はないのです。歴史を考える必要がないのです。この世に七十年、八十年生きていて、死んでしまうものなら、宗教とか、法律、倫理、道徳、文化を考える必要はないのです。

実際人間というものは、考えなくてもいいような伝統、習慣、法律、宗教を考えるのです。考えざるを得ないのです。そうするとこれは、動物ではないことになるのです。ところが、存在している形態を見ますと、明らかに動物です。しかし、人間が行っていることを客観的に評価すると、動物ではできないことをしているのです。これは一体何かということです。

そこで、What is man? 人間とは何者かということになってくるのです。これはヘブル人への手紙第二章の六節の言葉ですが、ここには「人間は何者だから、これを御心に留められるのだろうか」と、問いかけているのです。その次には、「人の子は何者だから、これをかえりみられるのだろうか」と書いています。

人間は何者だから、これを御心に留められるのだろうかとありますが、御心に留められるというのは、英訳でmindful of himとなっています。なぜ神が注目しているのだろうかという意味です。人間は何者だから、神が注目しているのか。マインドフルは注意する、注目する、心して取り扱うという意味です。これには良い面と悪い面と両方あるのです。

注目する、注意するというのは、それを尊重して注目するという意味と、警戒して注目するという意味と、どちらの場合でも注目しているのです。例えば、ガスの取扱いには注意しなさいと言います。注意しなさいということは、ガスは便利なものですが、扱い方を間違えると家を燃やしたり、人を殺すことになるからです。注意をする、注目するということは、非常に良いものだから注目する場合と、危険なものだから注目するという場合と、両方あるのです。

人間は何者だからという言い方には、二つの意味があるのです。神が人間を愛している、尊重しているという意味と、非常に警戒しているという意味と、両方あるのです。神に愛されて、また尊重されて注目されたいと思うのなら、まず神が私たちを何のために造ったのかということを、考えなければならないのです。人間が神に造られた目的、理由がはっきり分からなければいけないのです。

人間は、歴史とか文化とかを考える。神があるとかないとかということを考えるのです。被造物には有りえない考え方をするのです。そういう能力を持っているのです。こういう妙な人間という生物が存在することについて、正しく理解しようとすれば、人間が造られたという原点を知らなければならないのです。

その前に考えなければならないことは、神が人間という不思議な生き物を造らねばならなかった理由は、何かということです。これについてはヘブル人への手紙の第二章五節に、次のように書かれているのです。「一体神は、私たちがここで語っている来たるべき世界を、御使いたちに服従させることはなさらなかった」と言っているのです。

ここで語っている来たるべき世界というのは、ここには具体的にこういう世界であると言われていませんが、ヘブル人への手紙の第一章全体を貫き、第二章の一節から四節までの状態を見てみますと、神の創造の不思議、創造の秘密に関する原則的なこと、また、万物を創造した理由が書かれているのです。

現象的には神の創造原理、神が万物を保存し、それを経営しておられるところの原理というものは、見たところでは分からないのです。現象的な形では現われていないのです。隠れているのです。ここで物語っている新しい世界というのは、隠れている世界と、今はまだ見えていないけれども、やがて来たるべき世界ということを語っているのです。

やがて来たるべき世界というのは、現在目の前に現われている現象世界ではないということを、まず知らなければならないのです。これは来たるべき世界です。神がそう定めている世界ですから、来たるに決まっているのです。

どんな世界が来るのだろうかということについては、一般の人間は誰も知らないのです。聖書はこのことを、神の国という簡単な言葉で表現していますけれど、地球の将来が誰に委ねられるのかということです。これについて、ヘブル書の記者は、「神はその世界を御使いたちに服従させることをしなかった」と述べているのです。御使いたちに服従させるつもりなら、人間を造る必要はなかったのです。御使いたちというのは、神に向かって反逆を企てた天使長ルシファーの一族です。天使長ルシファーの一族に、来たるべき世界を委ねることをしなかったのです。それをするなら簡単です。ルシファーの言い分を神が了承すれば、それですむのです。

仮に、天使長ルシファーに許したとしても、なお神が神であることには変わりはないのです。神が天使長を許すからです。従って、ルシファーが世界を指導する。つまり、神の国の王となるにしても、神がなくなる訳ではないのです。場合によっては、神がそうしてもいいくらいのお方であるかもしれないのです。しかし、神はそうしなかったのです。

天使長ルシファーが反逆したことに対して、神はその言い分を認めなかったのです。その変わりに、人間という不思議な生物を造ったのです。天使長の一族には任せたくない。それなら誰に任せるかというと、まだはっきり確定していないのです。

もし人間が人の子として自分自身を認めるとすれば、神は人の子を顧みて、人の子たちに神の国を治めさせようとお考えになったのかもしれないのです。「人間は何者だから、これを御心に留められるのか。人の子は何者だから、これを顧みたもうか」と言っているのです。顧みるというのは、その人を訪れて、その人と共に懇談するとか、親しくするとか、非常に仲の良い状態において一つになる、後ろ楯になるという意味です。

人の子に対して、そうしてやろうとお考えになった。さて人間を造って、その人間が人の子として己自身を確認するような状態になるであろうか、どうであろうかということを、今の時点において見ておられるのです。これが人間と人の子との違いです。

イエスは人の子としてこの世に自分を現わしたのです。人間としてではなくて、人の子として現われた。人の子としての自覚を持って生きているのです。そこでもし私たちが、イエスをキリストとして信じるとすれば、人の子としての扱いを受けるのです。イエスをキリストとして信じるとは、神の約束の中心であり、また、神の約束そのものを完成する中心人格です。これがキリストです。

イエスをキリストとして認めるとすれば、また、信じられるとすれば、その人は神の子として神に認められることになるのです。これが救いということになるのです。このことは、原則的には承知していても、なかな具体的な認識にはなっていないのです。

イエスという人は、私たちに何を教えたのか。イエスを信じる場合、どのように彼を受け取るべきなのかということです。これについて、ヨハネによる福音書の一章十二節をみますと、「彼を受け入れる者、すなわち、その名を信じた人々には、神の子となる力を与えられたのである」と言っています。彼の名を信じた人には、神の子となる力を与えられたのです。皆様がもし彼の名を信じたとすれば、神の子となる力を与えられているはずです。

「私の実体は神の子である、私の実体はイエスである」ということを概念的、抽象的にいう人がいますけれど、概念的、抽象的に言ったとしても、もしその人が神の子となる力を持っていなければ、また、与えられていなければ、それはただの宗教観念になるのです。

そこで、私たちは彼を受けて、彼の名を信じた以上、どうしても神の子となるだけの力を与えられなければならないのです。神の子となる力を私たちが持っていなければならないのです。神の子となる力というのは、神の子であることを証明できる力のことです。自分が神の子であるということを、具体的に証明できるような力です。具体的に証することができる力です。

例えば、イエスはそのことを証しました。「私は生ける神の子キリストである」と言って、自分がキリストであることを証したのです。パウロも証しました。ペテロもヨハネもしました。十二使途は使途行伝において証したのです。伝道者ピリポでさえもしているのです。

皆様にこれができるかどうかです。聖書が分かったといくら言ってみても、聖書が分かっただけでは、神の子になる力を与えられているかどうかは、未知数です。聖書を信じるということは、また、神を信じるということは、思想的な意味での訓練を受けることではありません。精神的に知識を涵養することでもないのです。知識を蓄えることでもないし、思想的に自分の文化意識を向上することでもないのです。自分自身が生きているという事がらが、そのまま神にありて生きているということを証できることです。自分として生きないことです。人間として生きないのです。人の子として生きるのです。ナザレのイエスのように生きるのです。これが彼の名を信じるということです。

名というのは、実質を意味します。ナザレのイエスの実質を信じるとすれば、自分自身が肉的に生きてきた実質は消滅して、新しい自分の実質が生まれているはずです。自分だと思っている人間が消えてしまって、自分でないものが今ここにいるということを、自ら発見することになるはずです。もしこの事実が具体的に現われなければ、その人は彼の名を信じているとは言えないことになるのです。

第一にまず私たちがしなければならないことは、聖書が神の言であることを信じることです。「物事には言うに時あり。言わざるに時あり。成すに時あり。成さざるに時あり」と伝道の書にあります。すべて時があります。イエスも「私を信じる者は、私がしたことをするであろう。また、それよりも大きいことをするであろう」と言っています。「イエスが生きていたように、その人も生きるであろう」と言っています。これが第一です。

イエスが生きていたように、私たちも生きるのです。もしそのような生き方をしないとすれば、私たちはイエスを信じていないことになるのです。この標準に達しない人は、イエスの御名を信じていないことになるのです。

昨日までの自分のあり方に何かの形で後ろ髪を引かれているとすれば、もはやその人はイエスを信じていないことになるのです。そのためには、聖書が神の言であることを信じなければならないのです。

「聖書は破るべからず。天地は過ぎ行くであろう。しかし、私の言は過ぎ行かない」とイエスは言っています。天地が過ぎ行くとも、現在の地球が消えてしまっても、聖書の言は絶対に消えないのです。そういうものとして、皆様は聖書を学んでいたかどうかです。こういうことをもう一度お考え頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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