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命の木と善悪を知る木


エルサレムは神がアブラハムに約束された土地でありまして、約束されるだけの意味があったのです。中東は人間歴史発祥の地であって、人間文明がここから発生していると考えられるのです。エデンの園も中東地域のどこかに存在したと言われているのです。

エルサレムという土地は、ある特殊な地帯です。これはエゼキエル書の第五章五節に、「私はこのエルサレムを万国の中に置き、国々をその回りに置いた」と書いています。エルサレムというのは、地球の真ん中です。これは地質学的にも、また、心理的にも地球の中心になるのです。

エデンがこういう特殊な地帯に関係があると言われるのです。現在のエルサレムが、かつてエデンの園であったというのではありませんが、そういう意味での比喩が成立することは確かです。

地球は同じような状態で、同じように平等の条件で造られているのではありません。ある場所にはある特別の条件が存在するのです。特別によい条件の場所が存在しますし、また、ある場所には特別に悪い条件が存在するのです。これは神の処置ですが、地質学的に良い所が歴史的に決して良いという訳ではないのです。

エルサレムは地質学的、または地勢学的には非常に優れた場所ですが、歴史的にはこれほど悲惨な場所はありません。これほど悲しい場所はありません。日本では吉野の町は山の上の古い町ですが、この町は実に悲惨な歴史に彩られているのです。エルサレムはこの吉野山が世界的な規模で見られるような場所でありまして、全く悲惨な歴史をもった都です。地勢的に優れた場所ですが、歴史的には悲しい場所になっていますので、地勢的に優れた場所が、必ずしも良い歴史を持っているとは言えないのです。人間的に言いますと、悲しい歴史の連結であると言えるのです。今から四千年も五千年も前から悲しい場所でしたが、今もなお世界の悲しみの中心になっているのです。

エルサレムが本当に喜びの町になる時、また、平和の町になる時に、全世界に平和が訪れるのです。エルサレムに誠の平和がこなければ、世界に本当の平和は訪れません。エルサレムのために安きを祈れ、エルサレムのために平和を祈ることは、全世界の平和を祈ることになるのです。エルサレムのために平安を祈れ、エルサレムを愛する者は栄ゆべし。エルサレムを愛することは、地球の成立過程を愛することになりますから、必然的に祝されることになるのです。

エルサレムの歴史を日本人は全然知らないのです。これが日本民族の低俗さを示しているのです。日本人がいかにやくざな、屑みたいな民族であるかということが、証明されているのです。

「ああ、エルサレム、エルサレム」とイエスが嘆かれた。これは地球全体のために嘆かれたという意味の中心的な思想であると考えたらいいのです。しかし、私はエデンの園がエルサレムだと言っているのではありません。人間の地球上には、そのような特殊地帯が存在するということを言いたいのです。

エデンの園という固有名詞の土地が存在したのかと言いますと、そうではないのです。人間の魂の境涯として存在した。それを分かりやすく文章として綴られたのが、創世記の記事です。霊なる事がらを、肉なる事がらのようにして表明されているのです。

エデンの園に人間を置かれた。これが創世記二章八節に記されています。そして、九節に「見て美しく、食べるに良いすべての木を植えた」とあります。現世において楽しく生きるために、人間がこの世に送られたのではないのです。この九節をよく読んで見ると、それが分かるのです。見て美しく、食べるに良いすべての木というのは、人間が精神生活において魂の基礎となるべき霊なる糧を意味するのです。

木というのは、いわゆるツリー(tree)というのではない。精神主義的な意味で形而上的に理解しますと、元気の気、正気の気、生気の気になるのです。現世に人間が生きていることが、リビング・ソールです。リビング・ソールが食べるのは、目に見える食物ではありません。目に美しく見える形とか、色とかいうものが、そのまま人間の魂の糧になっているのです。皆様が着ておられる洋服でも、デザインとか、着物の柄とか色があります。これが一つの糧です。人間の心の糧です。

「この食べ物とあの食べ物を比べて、この食物が勝っているとかいうことを考えるな」とパウロが言っているのです。これが見て美しく、食べるに良いと同じ原理を持っているのであって、何を食べていいとか悪いとか、何が美しくて何が汚いとか、好悪美醜を考えるなというのです。人間の考えはすべて、欲望的な角度から発しているのです。何を見ても、見たものから教えを受ければいいのです。何を食べても、何を見ても、それはそれなりに人間の魂にプラスするようにできているのです。すべてのものは、目にうるわしいのです。食べるに良いものです。すべて美しい、すべておいしいという感覚で食べますと、食べたもの、見たものが、皆その人の魂にプラスになるのです。

人を裁いてはいけないとイエスがいうのは、こういう感覚です。ある人の考え方が自分の考えと一致しなくても、その人にとっては、それでいいのですから、その人なりにプラスであればいいと思えばいいのです。

すべてのことを見て、どれもこれも皆美しい、どれもこれも皆おいしそうだという気持ちになることが、命の木の実を食べる秘訣になるのです。これはいい、これは悪い、これは好きだ、これは嫌だと考えることが、善悪の木の実を食べていることになるのです。人間は現世において、毎日、命の木の実を食べているか、善悪の木の実を食べているか、どちらかを食べているのです。

私たちが九節において一番学ばなければならないことは、人間の魂は現世にまず教育されるために生まれてきたということです。神によって遣わされたのです。教育されるためにということは、生活するためではないということです。現世は魂にとってのすばらしい学校です。または、教室です。私たちは神によって教室に入れられているのです。学校に入れられているのであって、神自らが教師となって、人間の魂を教えているのです。

今、私たちは教えられようとすべきです。自主的に生活しようとすべきではありません。もちろん生活の営みという道程においては、現段階の私たちにはそれぞれの仕事があります。これは教えられるためのものであって、仕事とか事情境遇というものは、それを通して教えられることが本来の目的です。生活すること、儲けることが本来の目的ではないのです。神に教えられるために、現在の職業があるのです。職場というもの、その人の勤めというものは、そのまま実は教科書の内容です。家庭も、対人関係も教科書の内容になるのです。

私たちは現世において、利益をあげようとか、楽をしようと考えてはならないのです。臨機応変に考えて、疲れた時には休んだらいいのですが、本来自分の生活目標を、利害得失においてはいけないのです。本来の自分の生活目標は、どこまでも神に教えられること、魂の認識、経験能力を向上させることが目的であって、現世に生きていることが目的ではありません。これを第一に考えるべきです。

人生は誰でも初めて経験します。それがそのまま本番ではありませんから、絶対に勝たなければならないとか、絶対に儲けなければならないとか、楽をしなければならないとか、目に見える形で幸福を受け止めなければならないということを考えるのはおかしいのです。

幸福になるとかならないとかということは、幸福とは一体何かということを、よくよく学んだ上で、それなら幸福になりたいというのなら分かるのです。幸か不幸かの原理を正しく弁えた上でいうことなのです。

それをこの世に生まれてきた人間が皆幸福にならねばならない。皆東大を卒業して、上級官吏にならねばならないと考える。現世に対する視点が、全く間違っているのです。現世で成功しなければならない。幸福にならなければならないと考える。これは全く正反対の考えに落ち込んでいるのです。

現世には幸も不幸もないのです。ただ人生経験のみがあるのです。従って、自分の身分が高いも低いもないのです。教える者も教えられる者もないのです。その時の状態によってそうなるだけのことです。ただ立場、立場が、その時によってあるのです。それは本質的にその人が偉い訳でもないし、また、劣っているのでもないのです。賢愚不詳であって、成敗利鈍は一切ないのです。

私たちはこの世で、自分自身のペースにおいて、神に教えられたらいいということだけです。学ぶということは、生きることではなくて、生かされることです。生きると考えるから幸福になろうと考える。不幸が嫌だと考えるのです。自分が生きていると考えるから、できるだけ良い条件で生きようと考えるのです。良い条件で生きようと考えること自体が、魂が方向判断を誤っていることになるのです。

私たちはただ、教えられよう、示されようとすればいいのです。見るにうるわしく、食べるに良いもろもろの木を植えたというのは、すべてのことを経験しなさいと言っているのです。どんな経験でも、経験はすべて見るにうるわしく、食べるに良いものです。すべての経験に良くないものは一つもないのです。どんな経験でも、振り返ってみれば、尊いものなのです。

人生に幸福とか不幸とか、喜びとか悲しみとか、善とか悪を決定的に言えるものは、一つもないのです。ただ神を信じるか、信じないかだけがあるのです。神を信じると初めて魂の本性が分かるのです。生かされているということが、魂の本性を知るための最も近道です。

人生というものは、主観的なものは一つもない。客観的なものだけがあるのです。生かされているということは、客観的な人生ということです。これがその人の人生の中心的なものであって、生きているのではないのです。

そこで、人生には二つの経験があるのです。経験と一口に言っても、見るにうるわしく、食べるに良い木が植えられたという段階があります。これが五官における生活の段階です。

まず人間は十五、十六歳までは、大体五官によって生活することを学ばせられるのです。五官による訓練をまず受けるのです。これが幼年期から少年期への、神の指導原理です。幼年期から少年期までの間には、何が良くて何が悪い、他人と比較して自分が損をしているとか、得をしているという概念は、ほとんどありません。お金持ちの子供でも、貧乏人の子供でも、ほとんど同じ格好で遊んでいるのです。子供の状態では、全く利害得失はありません。善悪ももちろんありません。ただあるのは、見るに美しく食べるに良いという感覚だけがあるのです。これを五官による直接指導の時というのです。

ところが、十五、十六歳になりますと、変化が起きるのです。恋を知る頃になるのです。それからややこしくなるのです。桜の実の熟する頃になるのです。恋したこと、恋されたことがあったのです。これは誰にでもあるのです。こういう時期から、人生の第二段階に入るのです。これに対する神の導きが、園の真ん中に、命の木と、善悪を知る木を植えたという事になるのです。これが人生の後段に対する神のやり方なのです。

まず私たちは、五官による直接感覚によって、神に人間の常識を教えられるのです。生活形態におけるノーマルな感覚を、まず教えられるのです。普通の感覚が一応分かって、人間はこんな格好で生活をするのだ、こういう態度で人と交際するのだという基礎的な訓練ができてから、思春期が訪れてくるのです。

その時にどうするかです。そこで運命の岐路に立つことになるのです。現在では性教育をどうするのかと色々問題にしていますが、性教育の根本原理は、命の木と善悪を知る木はどういうものか、どちらを選択することが正しいかを、まず勉強しなければならないのです。セックスの面から入っていこうとしますと、なかなか難しいのです。現在の一人前の大人が、セックスが分かっている人が全くいないからです。

人生の後段とは何かと言いますと、園の中央に二本の木が植えられたことです。園というのは、人間の魂の状態、魂がおかれている条件、または、魂の生態、魂が生活している状態を示しているのです。

アダムの場合は、全く罪がない汚れがない状態でしたから、エデンと言われるにふさわしいような状態でした。そこで、エデンの園となったのです。園の真ん中に木がはえたというのは、人間の魂の生態の真ん中に、自然に木がはえたということです。見るにうるわしく食べるに良いということは、神がはえさせた木です。命の木と善悪を知る木は、その本人の心の園に、自然に生えてくる木です。女の園とか、青春の園という言葉がありますが、人間の心にある園の真ん中に、自然に木が生えるのです。

第一に生える木が命の木です。第二に生える木が善悪を知る木です。命の木が最初に生えます。幼年期の間、少年の間には、生かされている事実があっても、その生命意識を明確に持つことはできません。例えば、五、六歳の頃に、瀕死の病気になっても、死の恐怖を全く感じません。痛いとか、息苦しいという気持ちはありますが、死が恐いという気持ちは全くないのです。三、四歳の幼児は道路の真ん中でも、平気でおもちゃ遊びをしているのです。バスがこようが、ダンプカーがこようが平気です。彼らには死の恐怖、つまり死がないのです。だから、道の真ん中で遊んでいるのです。そんなことをしていたら死ぬよと言われても、死ぬとはどういうことなのか分からないのです。命の木が生えていないからです。

命の木が生えていないから、死ということが全然分からないのです。こういう状態は、まだ命の木が生えていないことを意味するのです。命の木とは、恋する頃になると生え出すのです。命の木というのは、人間にはっきりした生命意識が発生してから生えるのです。はっきりした生命意識というのは、異性に対する感覚が生じると同時に、生命意識が起きるのです。この時に命の木が生え出してくるのです。

命の木が生え出してきますと、その人の魂が父なる神と、直接の係わりを持つようになります。驚くべきことですが、セックスの目覚め、性の目覚めというのは、父なる神との係わりの目覚めなのです。これは全く人生の秘密、奥義です。

魂と神との連関関係の目覚めが、性の目覚めでありまして、この時に本当に上手に神に導かれていく人があるとすれば、すばらしいのです。これが人生の重大な転機です。もし初恋と信仰とが、同じような方向に導かれる人がいるとすれば、これは幸いな人です。

小倉百人一首に、「筑波嶺の 峰より落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる」という、陽成院の有名な歌があります。みなの川の源が、山の頂きから落ちてきて、それがみなの川になって淵になる。これが人間の恋心の状態だと言っているのです。

ところが、おかしいのは、筑波嶺の峰より落ちるとありますが、筑波嶺の峰に川があるはずがないのです。峰とは山の頂上ですから、ここから水が落ちることはないのです。山の頂上から川が流れ落ちるということはおかしいのです。陽成院の歌としてはこれでもいいのですが、峰より落ちるとは、天から落ちてきて峰に雨が溜まるのです。天から落ちた雨が峰に溜まって、それがちょろちょろ流れて、だんだん川となってくるのです。最初の雨のしずくは天から落ちてくるのです。これは筑波嶺の峰から落ちてくるのではないのです。

実は恋心というのは、天から落ちてくるのです。峰から落ちたのではなく、天から落ちて、峰からまた下へ落ちるのです。このように恋心というのは、天からくるのです。自分の中から発生するのとは違うのです。恋心は自分の気持ちから出てくるものとは違うのです。

人間の生理が熟す時に、心理も自ら熟すのです。生理と心理が性的に熟した段階において、自ら恋心が天から宿るのです。人間存在の命の根源が、そのまま恋心になって宿ってくる。これが性教育の第一原理でなければならないのです。このことを、性教育の大眼目として取り上げれば、性に関する非常に正常な指導が自然にできるのです。

聖書には、創世期第二章の段階において、問わず語らず示されているのです。「園の真ん中に命の木が生えた」とあるのです。園の真ん中に、神が命の木を生ぜしめたと言っているのは、神が生えさせたのです。

命の木に恋が芽生えてきた時に、自然に好き嫌いができてくるのです。恋が芽生えなければ、好き嫌いはできてこなかったのです。恋が芽生えた時に、好き嫌いができた。これが、いわゆる善悪を知ることになったのです。命の木が生えなければ、善悪を知る木も、また生えなかったのです。命の木が生えた時に、善悪を知る木も、また生えたのです。あの人は好きだ、この人は嫌いだという気持ちが、自然にわいてくるのです。

命の木、善悪を知る木は、正に二本であって一本です。一本であって二本です。二本なのか一本なのか。言葉としては、命の木と善悪を知る木と書かなければならないでしょう。これは確かに違う木です。違うけれど同じ木です。

目にうるわしく、食べるに良いという感覚が、実は幼年期から少年期への感覚ですが、この感覚もやはり性に結びついたものなのです。私たちが目で見ている、また、耳で聞いている、口で食べているという、自然に発育してきた五官の感覚が、性の感覚になるのです。

だから、性の感覚というのは、五官的感覚の正常な発育過程において、必然的に発生する官能的ピリオドであると言えるのです。五官の発育に従って、自然に生じる官能的ピリオド、結論は、さらに延長しますと、目で見て、耳で聞いて、生命意識がだんだん目覚めてくる。生きているという意識が、自ら恋心に変化する。その段階において、今までただ一人ぽつんと生きていたものが、一人ぽつんと生きていることに耐えられなくなって恋心が起きるのですが、異性に対する恋というものは、実は、神に対する恋の肉体的な意識状態を意味するのです。

人間は異性に恋しますが、異性のバックには神がいるのです。そこで、初恋の相手がすばらしく見えるのです。実際の女性の二千倍も三千倍もすばらしい、光輝く天使のように見えるのです。それは女性を見ているのではなくて、女性の背後にいる神を見ているのです。

ある人がある人に恋をする。なぜその人に恋をするのか。なぜあの人が好きになったのかをよくよく考えてみますと、その時、女性は無意識に恋をした相手に命をかけているのです。どうしてそうなるのかと言いますと、この人についていけば、自分の魂に保証が与えられるのではないかと思うのです。この人と一緒になれば、自分の魂についての保証が与えられる。一生を託す気持ちは、永遠を託すという気持ちにつながっていくのです。だから、女性は恋をする時は、よほど考えてしなければいけないのです。現世の生活だけを考えて恋をするとばかを見ることになるのです。

女性の恋というものは、現象生活だけでなくて、永遠の命にかかわるということを無意識に意識しているはずです。受動的な恋心というのは、そういうものであるべきなのです。

そこで、女の恋を男性は非常に深く学ばなければならないのです。これがアダムにエバが与えられた理由です。

好きとはどういうことなのか。善とは何か、悪とは何か。純真な素朴な感覚で見ていきますと、命があることを基礎にした善です。命をとこしえに保つことが善です。心の眼を開き、魂の眼を開いて、神を見る方向に進められることが善です。善だから好きになるのです。女性は善でなければ好きにはなりません。善とは自分が生きているという生命意識に基づいての意識ですから、これは必然的に永遠の生命につながっているのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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