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  • 管理人chaya

天地創造は神が発行した約束手形


聖書に次のように書いています。

「イエスはこれらのことをすべて、譬で群衆に語られた。譬によらないでは何事も彼らに語られなかった。これは預言者によって言われたことが、成就するためである。『私は口を開いて譬を語り、世の初めから隠されていることを語り出そう』」(マタイによる福音書13・34、35)。

神が言いたいことを、神ご自身の御心で、一つの筋道をおつけになったということが譬です。神は人間の魂にいろいろなことを教えたいのです。それを一度に言っても分からない。一つひとつ分かることから言わなければならない。それで全体の神の物語に筋道をおつけになった。これが譬をもうけたということです。

そこで神が口を開いたのです。神が口を開いたということが、天地が造られたということです。神は天地を造るという形で、口を開いたのです。言葉によって万物が造られたというのは、神が口を開いた証拠です。

「光あれ」と言われたので、光があった。これからすべての創造が始まっているのです。言葉が用いられたということは、天地の創造が始まった時に、すでにキリストが働きはじめていたということです。そこでもう一歩突っ込んで言いますと、天地が造られたということは、神の福音の初めが示されたということになるのです。これが福音の土台です。

天地が造られたということが、神の福音の土台になるのです。神の福音の土台というより、神が天地を造りつつ、その天地の完成をお考えになった。あるいは天地を造る以前に、天地の完成をお考えになっていたと言ってもいいかもしれないのです。

この神の大計画が地上に現われた。神の大計画というのは、こうすればこうなるという神の計画のすばらしい仕組みが成就する筋道をさしているのであって、神が予めご自分の御心の中でお決めになったのです。神が天地を造りはじめた時に、すでにその天地が完成されている方向が、神ご自身には分かっていたのです。これを約束というのです。

なぜ約束というかと言いますと、神ご自身が神ご自身に向かって約束したのです。これを経綸と言います。神が神ご自身に伺って計画した、約束したのです。神はこの天地宇宙の未来を見通して、未来はこうなるべきだとお考えになったそのこと自体が、自分自身に約束したことになるのです。

人間でもこういうことをします。来月の今頃にああしよう、こうしようと考える。自分で自分の行動について考えることは、その人自身が自分に約束したことになるのです。これを約束というのです。神ご自身の約束と同じです。

この神の約束をアブラハムに与えたのです。神が神自身に成したもうた約束を、アブラハムに与えたもうたのです。そこで、明瞭な形で歴史的な約束になったのです。

本来約束という言葉の中には、他人がいなければ約束とは言えないのです。アブラハムという神ではない人格が加わったので、約束となってはっきり現われることになったのです。それまでに、神ご自身の内に、約束はあったのです。

このことをアブラハムは約束を受けた後に分かったのです。神ご自身の内に本来計画があることが分かった。そこで、アブラハムは神が技師にして巧師におわす都が実現することを遥かに望み見たのです。間違いなしに、確実にそのようになるに決まっている都を、アブラハムは見たのです。神は天地創造を始めた時に、すでに見通しがついていたのです。

実はこの時に携挙される人も決まっていたのでしょう。その中に入っていると自ら確信できる人はそのようになるでしょう。神の計画は神的な方法で決められるのです。自分に対して自分が約束するのです。これが神的なやり方です。

神ご自身の約束をご自身に向かってなさったように、皆様方も皆様方自身の本来の自分に向かって、今日の自分が約束するのです。そうすると、成就するのです。神の約束どおりの計画を立てない者は、神の名簿から落ちるのです。

現在の神が未来の神に向かって約束した。実は神においては未来も現在も同じことです。人間の場合はそうではないのです。人間の場合は未来の自分と、現在の自分とは違います。そこで、現在の自分が未来の自分に向かって約束しなければならないのです。これができる人は、神の名簿から落ちません。

はっきりと自分で決めるのです。アブラハムはそうしたのです。だから、九十九才の奥さんに子供が生まれると信じたのです。九十九才の奥さんに子供が生まれると約束した。これが信仰です。

信仰とは約束です。こうなるに決まっていると決めるのです。そうするとそうなるのです。自分はこうならなければならないし、なるに決まっていると信じるのです。アブラハムは望めない時に、なお望んで信じたのです。これが約束です。自分自身に約束したのです。望めない時に、なお望んだのです。この気持ちがあれば、必ず実行できるのです。

御霊を与えられるというのは、約束を与えられることであって、御霊とは約束のことです。約束が御霊です。だから、御霊を受けなければだめです。絶対に救われないのです。

例え二十年かかろうと、三十年かかろうと、御霊を受けなければだめです。救われないからです。神の裁きから逃れようと思えば、どうしても御霊を受けなければいけないのです。

神が天地を造られた以上、人間は絶対に救われるのです。そうして、天地の支配にならなければならないのです。固有名詞の人間が救われるのではありません。皆様の魂が救われるのです。魂と人間とは違うのです。

皆様は自分の魂が携挙された後の神々しい姿を一瞬でも見たら驚くでしょう。それくらい神々しいものです。皆様はそういう位に引き上げられるのです。

旧約聖書の創世記にありますが、ヨセフがエジプトへ売られていきましたが、その人が総理大臣になったのです。

皆様にもそういう経験があるはずです。救われる前の皆様のことを考えてみて下さい。最初の人は一匹の精子でした。それが今立派な大人になっているのです。これを考えてみて下さい。人間の元は一匹の精子でした。人間が完成すること、精子が一人前の人間になることを経験してきたはずです。一匹の精子と一人前の人間とを比べてみると、格段に違います。そこで、今の皆様が携挙された後の姿を見たら、びっくりするのです。精子と人間が違う程、違うのです。

肉の人間と完成された人間は、それほど違うのです。完成された人間の神々しい姿は、黙示録の第一章に、「そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝く真鍮のようであり、声は水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは鋭い諸刃の剣が突き出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった」(同14〜18)と書いています。

ヨハネのような大聖徒でも、それを見た時に、倒れて死人のようになったのです。ヨハネほどの大人物でもそうなるのです。皆様の未来の完成はそのようなものなのです。恐ろしく荘厳なものです。ですから、今の自分を見て、この自分が救われると決して思ってはいけないのです。

顔は強く輝く太陽のようであった。足は炉で精錬された真鍮のようであったとあります。神が譬をもうけて口を開いたこと、それが約束だったのです。天地宇宙がそれ自体約束です。天地が存在すること、地球が現在回っていることが、神の約束の形(担保)です。

天地があることが、救われることの保証です。天地があることが嘘なら、私たちの信仰はだめです。天地があることが、私たちの霊魂の救いの保証です。担保です。こういう気持ちで、神の約束を受け取って頂きたいのです。これは約束手形以上に確実です。人間の約束手形でも、迂闊に発行できません。迂闊に発行したら自分の首を自分で絞めることになるからです。

神の約束は手形ではなくて、口形です。神の約束は言葉です。これを発行した。これが天地の創造です。これはとんでもない大きな手形です。これは絶対に不渡りにはならないのです。私が述べている言葉も、絶対に不渡りにはならないのです。

この手形は何が目的で発行されたのか。天地創造ということが神の手形であるとしますと、世の初めから隠されていることを語り出すためなのです。

世の初めから隠されていることを語り出すためとありますが、一体誰に語るためなのか。こういう疑問がわいてくるのです。これは魂に語るためです。魂というのは、本来神の内にある神の子たちでありまして、この世に現われるべきものではないのです。ところが、天使の長(ルシファー)が神に反逆するという事件が起きたのです。そこで、本来表に現われるべきはずのないものが、表に現われるような形になったのです。

では現世に現われるまでの魂はどこにいたのか。神の睾丸の中にいたのです。この秘密はすべて、この現象世界の中で経験しているのです。

人間は、特に男は子供として現われるものをどこに持っているのかと言いますと、睾丸の中に持っているのです。女は卵子を卵巣に持っているのです。そういう形で、神の子たちが神の内にいたのです。

こういう話は俗っぽいと言われるかもしれませんが、元来きれいとか汚いということはないのです。不生不滅、不垢不浄です。ところが、きれいとか汚いものがあると考える。そこで間違ってくるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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