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  • 管理人chaya

永遠の辱め


人間は大変な考え違いをしているのです。聖書を信じれば、宗教になってしまいます。般若心経を信じれば、それがまた宗教になってしまうのです。人間の頭で信じたり、理解したり、読んだりしますと、皆曲がってしまうのです。

なぜそうなるのかということです。人間が手を加えずに放っておけばそのままです。手を加えると歪んでしまうのです。人間自身が意識して何かをしようとしますと、もうそれが歪んでくるのです。

罪が門口に伏しているのです。人間が何も思わずにいたらいいのですが、人間の思いが一歩出ようとすると、即ち人間の思いが発動しますと、門口を出るのです。その門口に罪が待っているのです。煩悩という犬が待っているのです。人間が門口を出たら、すぐに尻尾を振ってついてくるのです。そうすると人間はそれを放っておく訳にはいかないのです。どうしても、犬を治めなければならないのです。犬は汝を慕い、汝は犬を治めるということになるのです。

罪というのはそれです。人間が意識を働かしたら、すぐ犬が御用ですかと言って出てくるのです。何かしようとすると、御用ですかと言ってくるのです。

人間には三つの働きがあるのです。体の働きと、口の働きと心の働きです。これを身口意と言います。これを禅宗で言いますし、真言宗でも言います。人間にはこの三つの働きがあるのです。手で何かを持ったり、指で触ったりします。これが体の働きです。それから、食べたり話をしたりするのが、口の働きです。それと心の働きがあります。この三つの働きがあるのです。

この三つの働きが発動すると、罪が門口に待っているのです。何かをすると罪が必ず尻尾を振ってついてくるのです。そうすると、罪に御愛想をしなければならないことになるのです。罪を放っておいて、勝手に行動することができないのです。罪は汝を慕い、汝は罪を治めるのです。治めるというのは、満足させるということです。罪を満足させない訳にはいかないのです。人間は自分の欲望を満足させない訳にはいかないのです。

そこで、皆様が聖書を勉強すると、もう宗教観念になるのです。何かを思ったら、それが罪になるのです。これは厳粛なことです。だから、涅槃に徹底することなしに、聖書をどれだけ勉強してもだめです。究竟涅槃をすること、これしかないのです。

例えば、女という厄介なものを押しつけられたのです。これは厄介なもので、女は人間とは違うのです。こういう言い方をしますと、女性の人権を無視していると総攻撃されるでしょう。しかし、これは、聖書の正しい見解を述べればこういう事になるのです。

聖書によれば、女は人間のあばら骨から造られたのです。これは土のちりとは違います。人間と女とでは原料が違うのです。人間は土のちり、地球のちりで造られたのです。女はあばら骨で造られているのです。男は、「鼻から命の息を吹き込まれた」(創世記2・7)のですが、女は吹き込まれていないのです。そうすると、女は一体人間であるのか、ないのかという疑問が起きてくるのです。女は人間であるという事が言えるどうかです。厳密にいうと言えないことになるのです。

夫婦となるとおかしな事になるのです。男と女が一つになるのです。一つになるとはどういうことか。二人ではなくて一体となるのです。パウロは、「もしキリストにあるなら、男もなし、女もなし」と言っている。これはどういうことかです。こういうことが世界中の学者、キリスト教信者に、全然分かっていないのです。

女が人間であるのかないのか。これが第一の問題です。ところが、パウロは、「男もなし女もなし」と言っている。そうすると、「神は自分の形に人を創造した。神の形に創造し、男と女に創造された」とあります(同1・27)、これとの関係がどうなるかということです。

こういう基本的なことについて考えてみると、私たちが今見ているような、また人間が感覚しているような男とか女とかいうものはないのです。事がらがあるだけです。男という事がら、女という事がらがあるだけです。神の形に造られたという事がらがあるだけです。

こういう点を鵜呑みにして、常識で勝手に考えようとする。造化の原理、天地創造の原理、人間創造の原理から見ると、少しも分かっていないのです。人間の考え方の土台がずれているのです。

これを修正するためには、私たちはただ空しくなることです。現象意識で見ているという感覚を全くなくしてしまうことです。常識で見ているという感覚をいつも軽蔑することです。人間の思いをいつでも踏みつける癖を持つことです。

皆様の生活には、疑問点がたくさんあるはずです。ただ見ている時と、じっと見ている時とでは違ってくるのです。例えば、星をじっと見ていると、星と星との間に無数の星があることが分かるのです。私たちが見ている宇宙は、何もない空間ではなくて、物質でほとんどつまっている状態にあるのです。ただ大空を漠然と見ていただけでは、星と星との間は何もない空間のように見えますが、実際には目に見えない物質で一杯です。

対人関係で、全く初対面の人を見ても、無意識に良い人か悪い人かを見た瞬間に決めるのです。道ですれ違った人でも、瞬時に判断するのです。そのように判断するのは、なぜかということです。

私たちは現世に生きているということで、神を学ぶために色々な疑問を神から与えられているはずです。ところが、疑問らしい疑問を持とうとしない。ただぽかんと生きているのです。そして、死にたくない、死にたくないと考えているのです。

なぜ死にたくないと考えるかということを、まともに考えようとしないのです。死にたくないというこんな明々白々な疑問でさえも持とうとしないのです。なぜ死んだら困るのか。これをじっくり考えて見ると、生きているうちには、よほど良い事があるらしいのです。だから死んだら困ると考えるのです。

では生きていて良い事とはどんな事か。人間には疑問がたくさんあるはずです。色々な疑問があっても分からないのは、肉の思いで考えているから分からないのです。味とは何か。形とは何か。生とは何か。死とは何か。命とは何か。神とは何か。死んだらどうなるのか。こういう色々な疑問が出てくるのに、そういうことが分からなくても構わない。生活するのに不自由ではないと考えるのが、肉の思いというのです。

分からないままで、自分の本心をごまかして生きている。世間の人間と同じような感覚で生きている。こういう人は必ず死ぬのです。死んだら、必ず裁かれるのです。裁かれるに決まっているのです。人間は裁かれるために死ぬのです。

裁かれない人は死なないのです。裁かれるために死ぬのです。褒美をもらうために裁かれるという事も全くないとは言えませんが、ほとんどないでしょう。褒美をもらうとしても、地獄へ行く状態が少し違うという程度のことです。褒美をもらうというのは語弊がありますが、地獄の刑罰を若干軽くしてもらえるという人はいるでしょう。しかし、地獄へ行かなければならないということは間違いないのです。

現に人間を生かしているのは神です。皆様の中にある心理機能は全部神の機能です。神の機能を持っていながら、肉の思いでその機能を使っている。これは全部神に喧嘩を売っていることになるのです。全部神に逆らっているのです。だから、神に裁かれるに決まっています。

死ぬのは裁きをうけるためです。泣いても叫んでもだめです。これはどうでもいいことではない。間違っていると警告しなければならないのです。放っておいたら、世界中の人は皆死んでしまうからです。

今の人間の心は病気になっているのです。腐っているのです。その状態が自分には分からないのです。自分の体の悪さ、臭いが分からないのです。世間の人がそういう状態だから、自分もそういう状態でもいいと思うのです。世間の人は皆地獄へ行く事に決まっているのですから、それと同じ考えを持っていれば、自分も地獄へ行くに決まっているのです。

地獄とはどういう所か。皆様が一番嫌なことです。それが地獄です。皆様が一番嫌なこと、一番嫌いなことを思い浮かべて下さい。一番辛いことを羅列してみて下さい。本当に一番嫌なこと、本当に自分が苦しいこと、本当に悲しいことを思い出して書いてみて下さい。それが地獄です。

地獄の刑罰があることを、神は人間が生きている間に知らせているのです。その中で最もひどい、嫌な刑罰は、辱められるということです。しかも聖書には、とこしえの辱めと書かれている。尋常一様なものではない、念入りのものです。年がら年中、のべつ幕なしに永遠に辱められるのです。

結局、聖書を勉強するということは、現在人間が生きているということの実状を一つひとつ会得して、本当の命、本当の生き方を確立するだけのことです。人間が何かをしようとします。何かをしようとするまでは良いことですが、行ったら途端に罪になるのです。

例えば、誰かを褒めようと考えている。そう思っている時はいいのですが、褒めたらもう罪になるのです。仕事をしようと思う。これはいいことですが、自分の思いで仕事をすると、もう悪になるのです。することなすことが、全部罪です。自分がしているからです。

人間は生きている間に、地獄にいるのです。肉の思いというのは全くの地獄です。ここから逃れなければ、私たちは救われようがないのです。

とこしえの辱めとは何か。とこしえというのは年がら年中、常時継続してということです。なぜなら、私たちは年がら年中、常時継続して罪を犯しているからです。これと同じことを、死後にされるのです。死後の世界には時間がありませんから、無限に辱められるのです。

死んだらただではすまないことを、人間は皆知っているのです。生きているうちは大したことではないのです。生きているうちなら、どんな厄介な問題でも解決することができるからです。

理性と良心を難しい理屈をつけずに、極めて当たり前に考えてみると、理性があるために、人間はもっと訳を知りたいと考えるのです。しかも、その訳を知りたいというのは、ただの説明だけではなくて、真実を知りたいという条件をつけるのです。本当の事は何なのか。それをもっと知りたい。もっと本当の事を知りたいと無限に願うのです。

人間の理性は、天理の理、命理の理であって、大宇宙の格率そのものを意味するのです。そうでなければならないこと、絶対にそうであるべき事が格率です。

大宇宙は物理的にも、また心理的にも、すばらしいという言葉では言えない程、精密広大な、極端にミクロと極端なマクロがぴたっと一致して、あらゆる組織、あらゆる計画、あらゆる運行が全知全能という言葉にふさわしいような形で行われているのです。これが理です。この理が人間の理性になっているのです。

宇宙の理が、人間の本性になっているのです。これが理性です。ですから、理性が宇宙の本質、本源、本理を求めるのは当然のことです。無限に、絶対最高の理を、とことん追求してやまないのです。理性は絶対最高の心理を求めているのです。

良心とは何か。これはすばらしい善を求めるのです。最善でなければならないと思うのです。良心はどこから来たのか。これは宇宙人格の特性です。宇宙には絶対的な徳性と、絶対的な真理性とがあるのです。絶対的な徳性がアガッペー(愛)です。

これにもまたミクロ的なものと、マクロ的なものがあるのです。最高の善であり、最高の徳であるものを、良心が求めてやまないのです。

皆様の理性と良心は、こういう性質を持っているのです。宗教ではない聖書の勉強を真剣にすると、やむにやまれない願望が、いくらか果たされるのです。そういう魅力が聖書にあるのです。

人間には最高の真理と最高の善を求めざるを得ないような、魂の本性があるのです。求めずにおられない本性というものがあることを、皆様の魂は知っているのです。このような形で完成されなければならないことを知っているのです。

それに邪魔をしているのが常識です。第一に親の教育です。第二に社会の教育、第三に学校の教育です。教育が全部間違っているのです。親が子供に教育する。これが間違っているのです。人間の魂を教育できるのは、神以外にはないのです。

人間の魂は最高の善と最高の真理を求めているのですが、最高の善と最高の真理は、神以外にはないのです。神以外のどんなものを持ってきても、魂の教育はできないのです。神によって教育されること、これが人間完成です。人間の魂は、神に教育されたいと願っているのです。

無限に神を求めていながら、皆様の心はそれを裏切っているのです。いつまででも無限に自我に執着していたいと思っているのです。皆様の心には、二つの無限があるのです。一方は、どこまでも自分を守ろうと考えている。もう一方はどこまでも神を慕おうと思っているのです。だから、だんだん自己分裂を起こすのです。自己分裂を起こして、苦しくなるのです。苦しくなって蒸発しようと思うのです。

右足が乗っている所と左足が乗っている所とが、だんだん開いてくるのです。股裂き状態になるのです。一方で自我という無限に立っていて、もう一方で神という無限を求めている。股裂き状態になるのです。両足をどちらかに乗せなければいけないのです。肉の方がいいと思ったら肉の方にしたらいいですし、霊の方がいいと思ったら霊の方へ乗ったらいいのです。

股裂き状態になると、どちらかへ乗り移ることができなくなるのです。宗教観念に固まってしまうと、救いがたい人間になってしまうのです。あちらこちら宗教を渡り歩いた人は、皆こうなっているのです。

人間の本性は無限を求めています。人間の魂は無限という形で完成しなければ、本当に納得できないのです。どんな幸福な結婚をしてもだめです。

理性と良心を満足させようと思ったら、人間は携挙されなければいけないのです。携挙される以外に、魂は満足しないのです。魂は神だけに満足するのです。神以外のどんなものを与えても、知らん顔をしているのです。少しも喜ばないのです。

神だけが魂に満足を与えるのです。神は無限の善であり、無限の真理だからです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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