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  • 管理人chaya

神と富に兼ね仕えることはできない


イエスは言っています。

「誰でも、二人の主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは一方に親しんで、他方を疎んじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」(マタイによる福音書6・24)。神の国と現世の両方を生きることはできないと言っているのです。

霊と肉とに兼ね仕えることはできないというのは、誰でも分かる簡単な原理です。ところが、現在の人間は霊と肉とに兼ね仕えようとばかりしているのです。幸せになりたいので、自分の境遇が肉的に恵まれたいと考えるのです。これは霊と肉とに兼ね仕えたいという考えなのです。

幸せになりたいから立派な家に住みたい、たくさんの月給を取りたいと考えるのです。幸せになりたいので財産家になりたいと考えますと、幸せというのは霊的なものです。心の平安、安定、喜びを第一にするのです。心が満ちたりた状態をいうのです。

そうなるために、肉体的に恵まれた状態に置かれたいと考えるのです。肉体的に恵まれた状態に置かれますと、心は絶対に平安にならないのです。それに伴う煩雑さが必ず起きてくるのです。肉体的な贅沢さに伴う煩雑さが必ず起きるのです。この煩雑さが重荷になって現われるに決まっているのです。

他人から旦那様とか奥様とか言われることになると、自分はそうだと思います。そう思うことが重荷になるのです。心に重荷が生じると、人の態度をいちいち咎めたくなるのです。そうすると、必然的に心の平和が乱れてくるのです。

お金がたまってくると、泥棒を警戒するようになるのです。玄関のドアーを叩くとか、呼び鈴を押されると、泥棒が来たのではないかと思うのです。貧乏人はそんなことは絶対に思わないのです。玄関のドアーをいつも開けっ放しにしていても平気です。金持ちになって贅沢な暮らしをすると、何かに警戒するようになるのです。税金に脅えたり、使用人に脅えたり、親戚が金を借りに来ないかと脅えたり、年中被害妄想に悩まされているのです。富に仕えて幸せになろうとしたら、必ずそうなるのです。

幸福になりたいというのは、心の平和が与えられることです。心の平和がなければ、どんなおいしいものを食べても、どんな豪邸に住んでも、幸福に思えないのです。

ところが、心の平和を犠牲にしてお金儲けに一生懸命になるのです。社長になりたいと考えるのです。幸福になりたいから、金持ちになろうと考えるのです。

もし、幸福になりたいのが本当の願いなら、金持ちにならなくてもいいのです。こんな簡単なことが、今の人間には分からないのです。

幸福というのは、霊の問題です。金持ちというのは、肉の問題です。心の平和、喜び、心の寛大さが、幸福なのです。これは霊の問題です。ところが、肉の問題で、それを得ようとするのです。その結果、願っていたのとは正反対の境遇におかれることになるのです。生きているうちにそういう結果になりますが、死ななければならない時が来ると、財産を残して死ぬのが辛いのです。

それにしても、中年以後の老後の人生というのは短いものです。あっという間に、現世の終わりが来るのです。現世において悩みを持っていると、老後が短くなる。現世において望みがないと、老後が長くなるのです。人間が幸福になろうと思ったら、必ず不幸になるのです。心が平和で、人に寛大であって、無頓着で呑気に暮らそうと思ったら、あまりお金持ちにならない方がいいのです。

一番いいのは、イエスのようになることです。現世で神の勤めをさんざんさせられて、何の報いも受けないで死んでいったら、一番得です。パウロみたいに大先生になると、いくらか損です。最後には、磔になって死んでいく事になったからです。

神と富とに兼ね仕えることが間違っていることは、少し冷静に考えれば分かるのです。霊と肉の両方を持つという訳にはいかないのです。しかし、そういうことが分かっていながら、人間は両方を追求したがるのです。

私たちも、無意識にそれを求めようとする矛盾した感覚があるのです。人に指導されないでおこうとか、人に悪く思われないでおこうと考えるのです。

わざわざ人に悪く思われるようにしなければいけないのではありませんが、良い事は良い、悪い事は悪いと、はっきり言わなければいけないのです。人になるべく悪く思われないで、人に憎まれないで、良い人だと褒めてもらうことは考えなくていいのです。

私たちは人間に尊敬されようと考えてはいけないのです。神に祝福されたらいいのです。その結果、人には憎まれることになるかもしれないのです。

ただ神に従うということが大眼目であって、これをすればいいのです。結局、神に仕えることが人間の心の平和です。このことを知らないで、神にも仕えたいが人にも仕えたいと考える。そうすると、不幸にならざるを得ないことになるのです。

一方に望んで他方を疎んじ、一方を憎んで他方を愛することになるのです。人間的に幸福になろうと思えば、必ずこのようになるのです。二人の主人に兼ね仕えようとする訳ではないけれど、そうせざるを得ないのです。お金に仕えようと思っている時には、魂の悪口を言わなければならない。魂に仕えようと思っている時には、お金の悪口を言わなければならなくなるのです。

例えば、魂に仕えようという人があるとして、その人がお金を持っているとします。その人が聖書の勉強を熱心にしたら、お金の悪口を言わなければならないことになるのです。最近の金持ちは本当にばかになったと、金持ちの悪口を言わなければならないことになるのです。

金持ちの仲間と一緒にいると、神の悪口を言うことになるのです。世間には物好きな者がいて、神のため神のためと言って金儲けを考えないばかがいるのだと言わなければならないのです。そうすると、一方に親しんで、一方を疎んじる結果になるのです。

その場その場で、あっちへ行けばこっちの悪口を言い、こちらではあっちの悪口を言うことになるのです。その結果、その人が真面目に信仰をしようと考えていても、その信仰が真面目なものにはならないのです。悪魔からも愛されず、神からも愛されず、生涯不幸に終わらなければならないことになるのです。ですから、とんとん拍子にお金が儲からない方がいいのです。

今の人間は、ホモと魂の二重人格になっているのです。このことを考えないで、ただ幸福になろうとか、ただ信仰的に一生懸命になろうと考えるから、両方に仕えることになるのです。

ホモ的な感覚を持ちながら、御霊を受けたいと思う。または、携挙されたいと思う。これが二人の主人に兼ね仕えることになるのです。

ホモを人間だと思い、肉体生活を自分で肯定する気持ちがありながら、携挙されたいと思うとすれば、必ずその人は二人の主人に仕えることになるのです。肉体人間を肯定しているという立場から見れば、絶対に携挙されるはずはありません。絶対に携挙されたいと考えるなら、肉体人間は否定されなければいけないのです。

携挙されたいと思うが、自分の生活も捨てたくないと思う。どちらかにしなさいと言われると困るのです。商売を捨てる必要はないのです。聖書を学ぶ方に重心を向けて、商売の事は神に任せなさいと言うのです。商売を捨てる必要はない。捨ててはいけないのです。しかし、自分の商売と考えたらいけないのであって、神の商売と考えたらいいのです。

ところが、商売は自分で握り込んでいたいし、携挙もされたいと思う。神と富のどちらかにしようかと迷うのです。

これは全くばかなことであって、現世を本当だと考えている人は、皆こういう考えになるのです。現世で不幸になりたくないと考えている人は、知らず知らずのうちに、こういう矛盾に引っ張りこまれるのです。

目がビーシングルでないから、そうなるのです。目がダブルになっているのです。目がビーシングルであれば、そういう混乱は起きないのです。ダブルで物を考えているから、肉体生活を肯定しながら、また、霊的に救われたいと考えるのです。

まず、神の国と神の義を求めることに決めたらいいのです。そうすれば、全身が明るくなるのです。全身が明るければ心が平和です。全部見通せるのです。生まれてくる前の状態から死んだ後のことまで見通せるのです。

そうすると、滞りとか、悩みとか、躓きがなくなります。現世の重荷がどれ程のものか、良く分かるようになります。その結果、現世のことに対して、躓かないようになります。どんな地位や財産があっても、死んだら持っていけないのです。どうせ取られるのですから、生きている間に神のために使った方がいいのです。

皆様が二重人格で生きていることをやめて、肉体的な自分を問題にしなくなると、心に平和が流れ込んでくるのです。大自然に同化すれば、その人は死ななくなるのです。大自然の命は死なない命です。大自然のあり方が理性的なあり方です。大自然のあり方に魂が同化すれば、死ななくなる。これが一番幸福です。一番平和で喜びに満たされる状態になるのです。寛大な気持ちになるのです。

魂と大自然は元々一つですから、一つになるのは当たり前です。このことに成功すれば、死ななくなるのです。何と言っても、死ななくなることが一番幸せです。私は死ななくなるということが、はっきり分かっただけで、どんな誘惑にも勝てるのです。どんな悩みにでも勝てるのです。どんな苦しみがこようと、どんな悲しみがこようと、死ななくなっていると思えば、問題にならないのです。死なないということほど強いことはないのです。

こういう状態になるためには、自分の目の働きがビーシングルであることが必要です。一つになるのです。両方のことを考えないのです。神と富に兼ね仕えようと考えないことです。

聖書は現代人が陥っている妙な錯覚があることを指摘しているのです。現世が本番だと思うから、そういう錯覚に巻き込まれてしまうのです。肉体的に生きているこの人間が本当の自分だと思うから、必然的に人屋の中に引きずり込まれてしまうのです。現在の人間はホモを人間だと思っているために、感覚全体が間違っているのです。

人間の魂というのは、神にかたどりて、神のかたちのように造られたものです。魂は元々神の元に置かれていたのです。天において神の元に置かれていたのです。パウロは、「世の初めの前に、愛によってキリストの内に選ばれていた」と言っていますが、そういう特殊な待遇を受けていた魂が、今肉体を持ってこの地上に遣わされています。このことを真面目に考えたら分かるのです。

皆様の理性の中に、神のすばらしい知恵と徳が隠されているのです。「神のもろもろの徳性は、キリストの中に隠されている」とパウロが言っています。「神の知恵と知識の宝は、キリストの内にある」と言っているのです。

神の知恵と知識の宝、神のもろもろの徳性は言葉では言い現わせないくらいにすばらしいものです。全知全能の知恵と力です。これがキリストの内に隠されているのです。

キリストの内に私たちは選ばれていたのです。そうすると、魂の中に隠れている神の知恵はどれほどすばらしいものでしょうか。どういうものが隠されているのでしょうか。

アブラハムは新天新地を見たと言っています。神が技師にして巧師である都を見たと聖書に書いています。どうして見たのでしょうか。アブラハムは新天新地の実物を見たのです。皆様は肉の自分を自分だと思っていますから、こういうすばらしい自分が分からないのです。皆様が肉にしがみついているために、皆様の魂の内に隠されているすばらしい本質が、全部見落とされているのです。

この尊い生ける神の子である自分を見ようとせずに、悪魔の子である肉の自分だけを見ている。これが自分だと信じ込んでいるのです。

とにかく、人間は神の大期待を受けて神にかたどりて、神のかたちのように造られたのです。そうして、神に代わって天地万物を治めるために造られたのです。天地万物というのは、今目に見えている天地万物だけではない。もっとスケールの大きいものです。これを治めることが人間の役目です。

肉体人間だけを人間だと思っているために、くだらない苦労をしているのです。勝手に苦労をしているのです。ただ信じたらいいものを信じないで、勝手に苦労をしているのです。肉の人間を人間だと思い込んでいるこのばからしさを、少しでも分かろうとして頂きたいのです。

皆様が今自分だと思っている自分は、必ず死ぬ自分です。必ず死んでしまうに決まっている自分です。死んでいく人間ばかりが考えている常識的な自分を自分だと考えれば、死ぬに決まっています。死ぬに決まっている自分を脱ぎ捨てて、死なない神の子を着る方が得ではないでしょうか。絶対に死なない神の子を着た方がいいのです。

絶対に死なない神の子を着たら、その時からすぐに平和になるのです。これを実行して頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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