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  • 管理人chaya

神のまにまに


パウロは「主にまで生きている。主にまで死ぬ」と言っている(ローマ人への手紙14・8)。英訳では、We live unto the Lord. We die unto the Lord.となります。主にまで生きるということが分からないのです。それで宗教観念になるのです。

皆様は現在、主にまで生きているのです。これはどういうことかと言いますと、皆様が生きているという事がらが、エホバの御名にありて生かされているのです。

人間は自分が生きていると思っているのです。また、地球が回っていると思っているのです。確かに、地球は回っています。それが神ということなのです。私たちの心臓が動いていることが神です。目が見えることが、神の御霊の働きです。目が見えること、耳が聞こえること、五官の働きということが、御霊の働きであり、神の言の働きです。

これが「神が共にいます」ということです。神が共にいますということを、私たちに証したのはイエスです。神が私たちと共にいますことを、身をもって説明して下さった人が、私たちの主なるイエスです。私たちが主にまで生きているということは、私たちの主イエスが生きておられたのと、同じように生きているのです。同じようにということを簡略して言いますと、私たちが生きているのは、主そのものを生きていることになるのです。

主そのものに生きているということを英語で言いますと、live unto the Lordになるのです。主にまで生きているという日本語は、ぎこちない訳になりますが、これを分かりやすく言いますと、主そのものに生きているとなるのです。

なぜ主そのものにというもって回った言い方をするのかと言いますと、人間は自分は自分、主イエスは主イエス、神は神だと思っているのです。神と共にいる事がインマヌエルだと理屈では分かりますが、それが実感的に分からないのです。

神が共にいますというのは、私がいるということが自動的に消滅するのです。神と人間が共にいると言いたいのですが、実は神に対立すべき人間存在はどこにもないのです。

生理的にも、心理的にも、神の機能がそのまま人間という形をとっているにすぎないのです。感覚的、経験的には人間がいると思えます。しかし、原則的、原理的に言いますと、人間がいるという事実はないのです。神がいるということだけがあるのです。私はあってあるものであるということだけがあるのです。

ありてあるというお方の他に、必要なものはないのです。何も必要がないのです。ありてあるお方だけがあるのであって、それ以外に、人間が必要であるとか、天使が必要であるとかという訳ではないのです。

もちろん天使も人間もいますけれど、神がそのように存在させているのであって、原理的に言えばあるのは神だけです。あらしめられている被造物はありますが、神がなければ被造物もないのです。そうするとあるのは神だけです。神が千変万化の形で、己自身を万物という形で現わしておいでになるのです。天使も人間も、実は神の現われというのが原点的な実体です。

私たちが生きているということは、私たちが生きているのではなくて、生きているという神がいるのです。それだけのことです。生きている神を認識する人間がいるのですから、神にまで生きているという言い方が成就するのです。神にまで生きている。つまり、神そのものを生きているということを意味するのです。神にまで生きている。人間は神そのものを生きているのです。これをインマヌエルというのです。

これをもう少し分かりやすく言いますと、例えば皆様のお茶の飲み方を見てみますと、理性的に飲んでいます。コップに入れて、お茶をひっくり返さないように持って飲んでいるのです。この格好は、理性のある者でなければできないのです。理性があるから、きちっとお茶が飲めるのです。お茶が濃いとか薄いとか、おいしいとかまずいとかを感じるのです。人間の行動はピンからキリまで、すべて理性的な行動になっているのです。お茶を入れる人も理性的に入れている。飲んでいる人も理性的に飲んでいるのです。理路整然たる理性的行為をしているのです。

女の人が台所で料理を造っている姿を見て下さい。肉とか野菜を使っておいしい料理ができるということは、極めて理性的な行為です。人間の立居振る舞いは、理性的に行動しているのです。ところが、その人の思いは全くの肉です。そこで、思いを捨ててしまえば、そのままで神の子になのです。

その人の思いが勝手にその人を肉の人間にしているのです。男の人が商売していることも、読んだり書いたり計算したり電話をかけたり、得意先の人と商談をしているしかたは、理路整然としています。ところが、気持ちは儲けようとして、嘘を言ったり駆け引きをしたりしている。行動は整然として理性的に行動しながら、考えていることは肉です。車を運転している人の有様は理性そのものです。理性がなければ、車は絶対に運転できません。ところが、運転しながら肉の思いで考えているのです。

人間は客観的には純粋に神の子ですが、主観的にはどこまでも悪魔の子です。肉の思いで生きているからです。

そこでパウロは、そういう生き方をしてはいけないのだと言っています。「肉の思いで生きているけれども、客観的な状態を見なさい。人間はすべて皆、神にまで生きているのです。神そのものに生きている。主そのものに生きている。イエス・キリストそのものに生きている。それなのに、なぜ自分が生きていると思うのか」と言っているのです。

皆様がしていることはすべて理性的行為です。魚を釣ることも、極めて理性的な行為です。人間は理性がなければできないことばかりをしているのです。ところが、肉の思いのことばかりを思っているのです。

生きている状態と生かされている状態とが、全く矛盾しているのです。生きているのは自我です。生かされているのは神の子です。神の子である状態に目をつけようとせずに、自我である自分の状態にだけ目をつけている。人間は自分の思いではなくて、あるがままの自分自身の状態を見れば、そのままで御子です。生ける神の御子です。

ところが、自分自身の思いでなければ見られないように考えているのです。自ら神の敵に回っているのです。人間が被造物であるということを考えればいいのです。被造物であるという簡単なことです。分かり切ったことです。これを考えさえすればいいのです。

周りの杉の木を見て下さい。庭の木を見て下さい。彼らは自分が被造物であることを、十分納得しています。自分の思いで枝を伸ばそうとか、根を張ろうとかを考えていません。神のままに生きているのです。

「紅葉の錦神のまにまに」という歌がありますが、紅葉は神のまにまに生きているのです。動物も神のまにまに生きているのです。人間だけが自分のまにまに生きている。これが悪魔の子の状態です。

神のまにまにに生きている動植物を目の前にしながら、人間自身は己のまにまに生きている。これが間違っているのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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