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  • 管理人chaya

神の言はもろ刃のつるぎ


聖書に次のようにあります。

「もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、他の日のことについて語られたはずはない。こういうわけで安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。

なぜなら、神の安息に入った者は、神が御業をやめて休まれたように、自分も業を休んだからである。従って、私たちはこの安息に入るように努力しようではないか。そうでないと、同じように不従順の悪例にならって、落ちていく者が出るかもしれない。

というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄を切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志を見分けることができる。

そして、神のみまえには、あらわではない被造物は一つもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、私たちは言い開きをしなくてはならない」(ヘブル人への手紙4・8〜13)。

ここはユダヤ人にアッピールするための、有力なポイントになる箇所です。また、私たちが聖書の読み方についてどのような点を理解すべきかということについても、的確な鋭いポイントが示されている所です。

ユダヤ人の間違いは何か。ヨシュアによってユダヤ人の祖先がカナンに入った。ユダヤ人がカナンに入ったことが安息に入ったことであるなら、「おまえたちは他の日に安息があるのだ」と、「まだおまえたちは本当の安息に入っていない」という意味のことを言われるはずがないのです。

ヨシュアに率いられてカナンに入ったことが、ユダヤ人の目的であるのなら、もはや目的を完了したのです。ユダヤ人がカナンへ入ってそこで生活することが、神の約束の目的であったとすれば、それ以上のことは預言者を通して、神が語りたもうはずがないのです。

カナンへ入ったことは、神の彼らに対する約束の第一段階であったことは確かです。しかし、それだけで彼らに対する約束の本意が尽くされたというのではありません。約束がそれで完了したのではないのです。

彼らがカナンに辿り着くことができたのは、一応の区切りであったことは確かですが、それがアブラハムに与えた契約の本質そのものではなかったのです。

神がアブラハム対して、「私はおまえととこしえの契約をかわす」と言っています。とこしえの契約という言葉を使っておられるのです。

このとこしえという言葉の意味は、現世において絶えず守っているという意味に解釈できないことはないのです。とこしえという言葉自体が、常を意味するのですから、私はおまえたちを常に守ってやるという意味にだけ解釈すれば、現世で神にいつも守られている、常に守られている。これがとこしえの契約なのだという言い方もできないことはありません。しかし、神の神たる本意、本思というものは、神は霊なるお方ですから、神の約束が肉の現世の生活という限界で留まるという考え方は、間違っているのです。

これは神の神たることを知らない、極めて愚劣な低級な考えになるのです。神の約束の目的は、彼らを永遠の安息、神の安息に入れるためであったのです。神ご自身の安息に入れるためであったのです。

ただカナンの土地に導き入れることだけが、神の約束の目的ではなかったのです。

霊なる神が霊なる安息の状態に彼らを導くこと、彼らをして、本来の神の子であるという霊的な立場を自覚させて、神に生きるようにさせることが目的です。霊に従いて歩むことを、彼らが現世で体得することによって、天使長ルシファーの惑わし、悪魔の業を根本から見破って、神に栄光を帰することが目的です。そうして悪魔の業、悪魔の志、思想が、全宇宙からぬぐい去られて、消えることがない火の池に悪魔が閉じ込められるという神の業が完成するために、イスラエルが立てられたのです。永遠の栄光、朽ちることのない神の極めて大いなる限りなき栄光を彼らに与えるために、彼らに約束が与えられたのです。

このことをユダヤ人は全く悟っていないのです。ユダヤ人の選民意識は、この地球上における現象生活において、世界の中心になるという程度のことしか考えていないのです。

これを八節で言っているのです。「カナンの地に入る」ことだけがユダヤ民族の目的であるのなら、神は後になって他の日のことについて語られたはずはないのです。他の日についてというのは、カナンに入るだけではなくて、カナンそのものが神の都となる、キリストの本拠地となって、全世界がカナンによって治められるということ、つまり千年王国の実現がまず当面の目的になるのです。

その次には、新しいエルサレムが実現すること、そういう神の永遠の計画に従って、アブラハムに祝福が与えられたのです。このことをユダヤ人は知るべきなのです。ところが、ユダヤ人はこれを知らないし、知ろうともしていないのです。

私たちはカナンの地に入るということはありません。ユダヤ人は初めから霊なる国、神の国に入りたいのだという願いを持たされて、聖書の勉強をさせられているのですけれど、異邦人は本質的に愚昧であって、話にならないのです。

異邦人は存在が全く分からない民です。神の御名が全く分からないのですから、この愚劣蒙昧な民に、神の約束の本質を悟らせるということは、野良犬を猟犬に仕立てるよりも難しいことなのです。野良犬は元々犬ですから、相当訓練すれば猟犬にできないことはないのですが、野良犬と猟犬では生まれ性が違いますから、中々野良犬は猟犬にはなりにくいのです。

異邦人というのは、野良犬よりまだひどいのです。本当にひどいのです。ただ欲望を満足させるためにこの世で生きているということしか考えていないのですから、神の大経綸を悟らせて、霊なる神の御名を知らせ、霊に従い歩み、現世においても神の御心を行い、また、来るべき時において神の御旨に従って、キリストと共に千年の間、王となるという事を教えることは至難の業です。そうして、新しいエルサレムにおいて世々限りなく王として、神の宇宙経綸に参画するというほどの、極めて大いなる限りなき重き栄光を与える。こういうことは、中々異邦人に分かるはずがないのです。

異邦人は聖書を学んでいますけれど、神の言葉を学んではいないのです。聖書の文句は学んでいますけれど、神の言葉を神の言葉として正確に正当に学んでいないのです。

十一節に、「神の安息に入るように努力しなければならない」とあります。もし努力しなければ不従順の悪魔に習って、結局神の約束から脱落していくことになるのです。

脱落していくという言い方は、ヘブル人に対する言い方です。異邦人には元々脱落はないのです。異邦人は初めから、地獄へ行くのが当たり前なのです。ばかは死ななければ直らないと言いますが、ばかは死んでも直らない、むしろ、死んでからの方がばかの値打ちがはっきりするのです。これが地獄です。

しかし、異邦人だからと言って、分からないのは当たり前と肯定するのはやめて頂きたい。自分の罪を軽く見るような感覚は、絶対慎まなければならないのです。

神は皆様に理性と良心を与えています。皆様にとって理性や良心は、シナイの山上におけるモーセの掟と同じ役をしているはずです。

皆様は理性と良心を持っていながら、神の掟に関係がないと考えることは、けしからんことです。やる気があれば分かるのです。やる気があれば、誰でも分かるのです。やる気があれば誰でもできるのです。表面上は、私たちは選民ではありません。神なく、キリストなく、神の約束に係わりがない愚劣蒙昧な民です。

聖書の建て前から言えばそういう愚か者ですが、私たち自身の存在をじっと眺めてみると、人間は明らかに理性と良心に従って生かされているのです。生かされているのは理性的ですが、生きているのは肉的です。こういう二重人格になっているのです。

生かされているのは、霊的、理性的です。生きているのは肉性によっているのです。生かされているという客観的事実と、生きているという主観的事実とが、全然違うのです。

皆様は自分の理性を裏切って生きているのです。自分の良心を裏切って生きているのです。良心の命令に従って生きていないのです。理性に従って行動してはいません。自分の欲望に従って行動しているのです。知性に従って行動しているのです。知性と理性とは全然違うのです。

理性が肉性によって歪められたものが知性です。自然科学の万能主義という考え方を持つのは、また、法律万能のように考えるのは、皆理性が盲目になっている証拠です。そこで知性という肉の思いになっているのです。

理性が霊的でなくて肉的にだけ働くようになりますと、知性になるのです。理性が現象意識と自我意識によって踏みつけられてしまいますと、理性の働きの効力を失って、知性に下落してしまうのです。これが学問になって現われているのです。

学問は百%現象意識です。従って、学問は皆悪魔的なものばかりです。基本的人権という概念、自由平等、博愛という概念は、すべて自我意識と現象意識に基づいているものです。これは理性が否認されて、知性だけが横行闊歩している状態です。

神の言葉として聖書を学ぶのです。皆様は聖書を学んではいるが、神の言葉として学んでいないのです。聖書を学ぶということは、論理的に学ぶこと、または、思想的に学ぶこと、これが聖書を学ぶということです。

論理的、また、思想的に聖書を学ぶということは、ごく初歩の段階としてはやむを得ません。皆様のように長年勉強していながら、相変わらず思想的にしか学べない、字句の理解としてしか学べないという人は、本当に困ったことです。どうか真理の御霊によって肺腑をえぐるようなや学び方をして頂きたいのです。皆様自身のはらわたをえぐり出すような聖書の学び方が必要です。

十二節のような学び方をして頂きたいのです。「神の言葉は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭い」とあります。聖書の言葉が生きているとはどういうことなのかということです。生きているとは、生ける御霊が言葉になって働いているのです。力があるというのは、働くこと、活動していることです。

このことは、イエスがヨハネによる福音書第八章三十二節から三十七節で、「私の言葉は真理である。真理は自由を得させるであろう」と言っているのです。自由を得させるとは、神の言葉、イエス自身の言葉が人間の中に留まりますと、人間の中で縦横無尽に働き出すのです。フリーコースを取るのです。そうして、人間の暗い所を片っ端からえぐり出していくのです。

そこでおまえたちは罪から解放され、肉の思いから解放される。自由になるであろうという意味です。真理は汝に自由を得させると言っているのは、そういうことです。

皆様の自我意識が一向に切られない。現象意識が一向に切られないのは、聖書の言葉が神の言葉のつるぎとして、皆様の魂の中に働いていないからです。神の言葉を神の言葉として学んでいない。従って、キリスト教思想のようなものになってしまっているのです。そうならざるを得ないのです。

神の言葉そのものは、本質的にもろ刃のつるぎのような偉大な力を持っているとしても、それを受け取る方の人間が、御霊を崇めて学んでいないとすると、神の言葉が一方的に人間の心を支配するということはできません。

人間の心にはそのものの本質を受け止めるか受け止めないかについての、自分自身の意志的な力があるのです。これは神が人間に与えておられる非常に尊い栄光なのですが、その栄光を悪魔に売ってしまっているのです。へびに売ってしまっているのです。だから、現在の所、人間の聖書に対する受け止め方が、極めて肉的になっているのです。肉の思いで聖書を学んでいるのです。へびが聖書の勉強をしている状態になっているのです。ですから、いくら学んでも、聖書の言葉が神の言葉としての鋭さを持たなくなっているのです。

例えば、悔い改めて福音を信じよというごく初歩的な言葉がありますが、悔い改めというのは、パウロによれば、心を更えて新にすることだという言い方をしているのです。これは人間のマインドをやり直せ、レニュード(renewed )せよと言っているのです。

つまり人間の精神を全く質的に変化させるような、断固たる態度を取るという決心を持っているとすれば、福音を信じることが初めてできるのです。

へびの思いを踏みつけるのです。これが般若波羅蜜多です。般若波羅蜜多を基盤にして、それから聖書を学べば、学んだ聖書の言葉が、すべて身につくのです。魂のプラスになるのです。魂のエネルギーになるのです。こういう学び方をして頂きたいのです。

般若波羅蜜多を覚悟して、毎日生きるのです。色即是空、空即是色を生きるのです。毎日実行するのです。

従って、人間の粗を捜すとか、心にもやもやしたものがあるとかということは、あってはならないのです。暗い気持ちになるとか、ヒステリックな気持ちになるとか、いらいらするとか、やきもちを妬くとかという感覚があるのは、すべて五蘊の中に迷い込まされているからです。

般若波羅蜜多の境地においては、明瞭な生き方が当然できるのです。これは人間完成ではありませんが、キリスト教よりはよほどましです。

そこで悔い改めてというのは、簡単に言いますと、般若波羅蜜多ということになるのです。これが悔い改めるということです。つまり、自我意識と現象意識を捨てることが、悔い改めの標準です。これだけでも実行したら楽になるのです。

これが涅槃です。涅槃を毎日実行するのです。しかしこれだけでは、人間は完成されません。イエス・キリストが十字架についたこと、復活したこと、昇天したこと、聖霊が降臨しておられることをしっかり勉強しなければ、イスラエルに伝道はできません。

そうしなければ千年の間、キリストと共に王となることはできません。王となる人間でなかったら、本当に自己完成をしたのではないのです。命にありて王となるのです。自分の肉性を平気でどんどん踏んでいける人間です。そういう人間であって初めて、自分自身の目の中にある梁を取ってしまった人です。自分の目の中にある梁を取ってしまった人は、他人の目の中にあるちりを取ることができるのです。まず、自分の目の中にある梁を取るのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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