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  • 管理人chaya

過去が未来になる


人間は本当に幸せになりたいと願っていますが、本当に幸せになるとはどういう事なのかを、正しく知らないのです。そのために、みすみす宝の山に入っていながら、それを捉まえずに死んでしまうという、誠に愚かなことをしているのです。手っ取り早く言いますと、人間は救われるに決まっているのです。いや、救われているに決まっているのです。

これはどういう事かと言いますと、すべて過去が未来になるからです。過去は未来になるに決まっているのです。

時というもの、宇宙の輪廻というものは、ぐるぐると循環しているのです。ニーチェが永劫回帰という言葉を使っていますが、これは完結していない思想ですから、これをあれこれ評価するのはどうかと思いますが、彼は自分の哲学にピリオドを打つ前に、頭がおかしくなったのです。

過去が未来になることがニーチェに分かったら、正直な彼は、それほど苦しまなくても良かったのです。ニーチェは正直な人でした。正直だからこそ、キリスト教の教えが信じられなかったのです。

イエス・キリストによって自分の罪が救われているというキリスト教的な贖いの思想、非常に安易な思想は、あまりに話がうますぎるのです。天理教なら家も倉も売って神さんにあげなければいけないのに、キリスト教はただ洗礼を受けて、アーメンと言えばいいと言っている。これは話がうますぎるのです。

これがニーチェにはどうしても信じられなかったのです。人間が正直だったから、信じられなかった。神は死んだと言わなければならなかったのです。原理は過去が未来となるのです。この原理さえ分かれば救われるのです。

例えば、皆様が生まれてきたということは過去です。これがそのまま皆様の未来になるのです。未来になるとはどういうことかと言いますと、死んでいくということです。生まれてきたという過去があるために、死んでいくという未来が発生します。過去が未来になるというのは、このことです。

生まれてきたから死んでいくのです。こんな簡単なことが分からないのです。生まれてきたということは、明白に過去的事実です。この過去的事実が、死んでいくという未来的事実を造りあげていくのです。

もし皆様に昨日までの経験がなかったら、明日、明後日の仕事ができるでしょうか。皆様方の昨日までの経験が、明日以後における仕事の基礎になっているのです。

イエスは「蒔く所が刈る所になる」と言っていますが、種を蒔いて、刈り取るような事が人生だと行っているのです。これは過去がそのまま未来に振り替えられるということになるのです。このような簡単明瞭な事実が宗教では分からないのです。

生まれてきたから死んでいかなければならないのです。この事実さえはっきり分かれば、人間は救われるに決まっていることが分かるのです。生まれてくる前の命(世界)を見つければ、死ぬことがない。生まれてくる前ですから、死なないのです。これが未来になればいいのです。

実はイエスはこのことを私たちに証明するために、地上に来たのです。パウロは、「万物は神からいで、神によりて成り、神に帰するのである」と言っています(ローマ人への手紙11・36)。

この万物という言葉の中に、もちろん人間も含まれます。人間はと言っても、人生、魂と言ってもいいのです。万物はというのを、魂にして読んでみますと、魂は神から出て、神によりて生かされており、また、神に帰るのです。これが救いです。

このことをイエスが証明して見せたのです。イエスは現世に生きている間に、「私は父の元に帰るのだ」ということを何回も言っているのです。「私は父によりて遣わされた。そうして、父の元に帰るのだ」と言っているのです。これをそのまま証明してみせたのです。

イエスを信じるということは、彼と同じコースを通って、同じように完成されることを意味するのです。イエス・キリストの復活、甦りという事実は、完全に死を破ったという事実です。これを実現したのはイエス一人ですが、一人であっても、これは歴史的事実です。これは宗教ではないのです。これはキリスト教だけが信じていることでもないのです。イエス・キリストが復活した、甦ったということは、歴史的事実です。

イエス・キリストの復活という事件は、ユダヤのエルサレムで起きたのですが、この時エルサレムを治めていたのはローマ政庁で、総督のポンテオ・ピラトがいた時の出来事でした。これは、ポンテオ・ピラトの統治記録の中に、はっきり書き残されているのです。これはローマ政庁による公認記録です。その証拠に、ローマ皇帝コンスタンチン大皇がキリストの復活後、三百年程経過した時のことですが、イエス・キリストが復活したという明白な政治上の記録が残っていますので、コンスタンチン大皇はイエス・キリストを信じて洗礼を受たのです。その時、ローマの文武百官は、全部洗礼を受けたのです。そして、キリスト教がローマの国教になったのです。これがローマ・カトリックです。

ローマの政治の領域内において、イエスの復活、甦りという事件が発生した。それをローマ政庁が認めざるを得なかった。事実だからしょうがないのです。本当は、人間が甦って永久に死なないということを、政治上の記録に記載することはできないはずですが、これは事実だからしょうがないのです。政治記録として、はっきり残されたのです。

新約聖書には、イエスの甦りが堂々と記されていますが、それが現在に到るまで、毎年、全世界の超ベストセラーになっているのです。永遠のベストセラーになっているのです。

今やイエスの復活という事実は、日曜日を守るという形で世界中の常識になってきました。これは歴史的事実であるよりも、人間の生活的事実になっているのです。歴史であるよりも、生活そのものであるという、明白な事実になっているのです。そのような形で、イエスは父の元に帰ったのです。

人生の過去とは一体何なのか。皆様の過去とは何でしょうか。この世に生まれてきたということも過去ですが、生まれてきたということは、実は現在の中に入るのです。生まれてきたことによって現在の人生がありますが、この世に生まれてきたことは、現在の中に入るのです。人間にとっての本当の過去は、この世に皆様が生まれる前になるのです。これが過去です。生まれたことは現世に属することですが、生まれる前の何かが、皆様にとっての過去になるのです。

仏教では前生の因縁と言います。私は前生の因縁の話をしようと思っているのではありません。仏教でいう前生の因縁というのは、祖先代々、子孫代々といった形での前生の因縁を言っているようです。これは輪廻転生の思想から来ているのです。生まれ変わり、生き変わるという思想です。

聖書で言いますのは、そのような前生ではありません。転生輪廻による人生というものは、一つの魂が生まれ変わり生き変わるというものですが、これだとすると、聖書から見れば全くの迷信になります。

世界の人口はだんだん増加しています。西暦二〇一〇年現在、人口は全世界で六十八億人いると発表されています。もし人類発祥時において六十八億人いるなら、それが生まれ変わり、生き変わりしているのなら、輪廻転生は有りうるでしょう。

ところが、人口は最初はアダムとエバだけでしたが、現在六十八億人にもなっている。日本人はアダムとエバの子孫ではないと頑張っている人もいますが、そういう人は日本の八百万の神の思想でそういうことをいうのですが、そんなことは世界では通らないのです。世界に二種類の人間の紀元があるのではないのです。アダムやエバの他に人間の紀元があるという考えは、ただの島国根性なのです。

世界の人間の血液は一つです。また、理性も一つです。ですから、黒人と白人とが結婚できるのです。もし人類の発祥が複数あるとすると、血液の種類、染色体も違っているでしょう。理性と良心のあり方も相違しているはずです。心理構造の原点が違うはずです。

ところが、全世界の人間が結婚できますし、言葉も翻訳して通じるのです。全世界は一つの人間から生まれているという証拠になるのです。

人類は一人の人から始まって、だんだん増加して、六十八億人になっている。もし輪廻転生というなら、人口は増加しないはずです。絶えず生き変わり生まれ変わりしているなら、人口は増加せず、平行線をたどっているはずです。これから、六十八億の人類が八十億、九十億、百億に増加していくでしょう。この説明が輪廻転生ではできないのです。

輪廻転生ということを盛んに言って、何十万人もの人々が信じているようですが、こういうバカな迷信が日本では繁盛しているのです。全く愚かな現象です。

私がお話ししたい人間の大過去というのは、イエスによって証明されたことです。これは父なる神の元から魂が遣わされたということです。父なる神という宇宙の絶対者から、人間の魂は生まれてきたのです。こういう考え方しかないのです。

ヤコブは次のように言っています。

「だから、すべての汚れや甚だしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、素直に受け入れなさい。御言にはあなたがたの魂を救う力がある」(ヤコブの手紙1・21)。

心に植えつけられている御言とありますが、これは聖書の訳しすぎで、英文には心にという言葉はありません。植えつけられている御言でいいのです。心にという言葉は口語訳聖書だけにありまして、文語訳にも元訳にもありません。口語訳をした人が、自分自身の宗教観念で訳したのです。原文では植えつけられている御言を素直に受け入れなさいとなっているのです。

植えつけられているというのは、心に植えつけられているのではありません。人間存在に植えつけられているという意味です。植えつけられている言葉とは何かと端的に言いますと、五官の機能です。五官の機能というのは、肉体機能と意識機能とを連結したような形で働いているのです。ところが、五官は五つの機能があるのではなくて、一つの機能です。一つの機能が五つになって働いているのです。

例えば、五葉松があります。一つの葉が五つに開いているのです。五官も同じような状態になっているのです。人間の官能感覚の機能というのは、一つのものです。それが五つの感覚に受け止められるようになっているのです。

これを代表するのが目です。見るということです。見るということが、五官を代表するのです。その証拠に、聞いてみる、匂いをかいでみる、舌で味わってみる、手で触ってみると言います。足で踏んでみる、体を動かしてみる、走ってみる、泳いでみる、歩いてみるというように、何でも「みる」という言葉を使います。

歩くという動作が、実は見る動作なのです。見るというのは、物事を理解することを意味するのです。理解するという一つの意識が、五つの形になって現われているのです。理解するというのが、五官の原理です。

これは何かと言いますと、神の言です。神の言がこの世に肉体をとって現われた。これをインカーネーション(受肉)と言います。言が肉体をとって、この世に出てきた。これがイエスそのものです。それと同時に、イエスと皆様は同じものです。イエスがこの世に出てきたことは、「もろもろの人を照らす誠の光としてやってきたのです」(ヨハネによる福音書1・9)。

イエスが来たことによって、彼はもろもろの光として、すべての人間を照らして、人間とは本来こういうものであるということを、実物的に見せるため、実際的に証するために、イエスがこの世にやってきたのです。実は人間はすべて、イエスと同じものです。だから、もろもろの人を照らす誠の光として、彼がやってきたのです。

神の言が肉体となって、この世に来たのがイエスです。私たちもまた、それと同じものなのです。イエスをつくづく見ますと、私たち自身の本体が分かるのです。これをイエスを信じるというのです。イエスをじっくり見れば、この人にそうなっていることは、私たちにもそうなっていることだということが、分かるようにできているのです。

イエスの理性と皆様が持っている理性とは、同じものです。理性は理解する力です。これが皆様の五官になって働いているのです。理解する力が肉体をもって現われたのです。

イエスは「私は父の元からやってきた」と言っています。「父が私を遣わした」と言っています。そのように私たちもまた、父から遣わされたということになるのです。もし父なる神から遣わされないとすると、五官とか、理性、良心という恐るべき理解力が、どうして人間にありうるのでしょうか。

人間自身は理解する力、また、見る力、聞く力、食べる力、触る力、こういう五官の働きという感性を人間自身が製造することは、とてもできないのです。親がそれを持っているから、子供にもそれが伝承したと言いますけれど、それなら祖先の一番最初の親は、誰からもらったのかと言いたいのです。一番最初の祖先は自分で造ったのではないに決まっているのです。

聖書は「鼻から命の息を吹き込んだ」という言い方をしていますが、粘土細工のような人間を造って、鼻からふっと息を吹き込んだのかと言いますと、これは大変な認識不足なのです。土のちりで人間が造られたのはどういうことかと言いますと、現在地球が存在していることと、土のちりによって人間が造られたということは、寸分の誤謬もないこと、また、いんちきもないということを、合理的に説明ができるのです。

神の言が人間の五官の元になって、人間に植えられているのです。植えられた神の言が五官の元素になっているのです。五官の元素は神の言ですから、当然神から出たものであるに決まっているのです。

五官というのは実は、人間自身の機能ではなくて神の機能です。神自身の機能です。それが人間に与えられたのです。ですから、神が人間の父です。神は自分の機能である五官を、そのまま人間に植えたのです。五官の本性は人間に現在植えられています。植えられていますからこそ、甘いものを甘いとして受け取ることができるのです。丸いものを丸いとして認識できる。おいしいものをおいしいと味わうことができる。こういう機能が人間に備わっているのです。これは神の機能ですから、人間は神の子になるのです。神が父であって、人間はその子になるのです。

そのように、すばらしい神の言が人間に植えられているのですが、五官を人間は現在用いていながら、実は五官の本性を知らないのです。五官がまさか神ご自身の機能だとは思わないのです。私が食べているから、私の舌の力で食べていると思っているのです。私の目で見ているから、私の力だと思っているのです。とんでもないことです。

実は、神と人との距離は非常に近いのです。神の機能がそのまま人間に植えられている。ですから、神と人間は全く親子関係にあるのです。

そこで、自分が現在見たり、聞いたりしているこの五官の機能の効力、機能の力、働きを素直に受け止めなさいと言っているのです。これを素直に受け止めますと、その五官が魂を救う力を持っているということが分かるのです。

皆様は自分の五官を素直に受け取って頂きたいのです。自分の五官がどういうものか、これを素直に直感して頂きたい。素直に直感することは、誰でもできるのです。そうしたら神と自分との関係が、非常に近いものであることが分かるのです。

イエスが神を父と呼んだのは当然です。当たり前のことです。イエスは神を「父よ、父よ」と本当に心やすく呼んでいます。万物の造り主である全知全能の神を、父よと呼んでいるのです。これが本当の人間の姿です。

皆様には神が非常に近くにいますことを信じて頂きたいのです。イエスがこれを皆様に教えてくれた、証明してくれたのです。それでこのことさえ分かれば、イエスが父の元へ帰っていったこともまた、素直に信じられるはずです。今はこういうことが信じられないかもしれませんが、もっと目が見えること、耳が聞こえること、手で触って感覚できることを、もっともっと大事にして頂きたいのです。

肉体を通して五官が働いている事がらを魂と言います。魂に備わっているすばらしい機能を、自分で実験して頂きたいのです。毎日、毎日実験しているでしょう。食べたり、飲んだり、夫婦生活をしたりして、どんなに神に近く、目のあたりにしているかをご覧頂きたいのです。ですから、神を知らぬ存ぜぬとは言えないのです。

「目で見ること、聞くこと、手で触ること、これがすべて神の言の命である」とヨハネが言っているのです。そのように、神と皆様とは非常に近いのです。

このことが皆様に実感できるようになったら、皆様はイエスと同じように、天に帰ることができるのです。魂は父から出て、父によりて成っている。現在こうして生きているということが、父の働きをそのまま経験しているのです。父が見ているように、父が聞いているように、私たちも見たり聞いたりしているのです。

父は肉体を持ちたまわないのですが、私たちは肉体を持っているだけ、父よりももっとはっきり父を知ることができるのです。父ご自身よりももっとはっきり父ご自身を知っているかもしれないのです。

こういう素直な気持ちで父に触れていくなら、皆様は自分とイエスが同じであることが、よく分かるでしょう。「私を信じる人は私がしたことを必ず行うであろう。それよりももっと大きいことを行うであろう」とイエスが言ったのですが(ヨハネによる福音書14・12)、皆様は自分が生きていることがそのままイエスであると思えませんか。思いたくないでしょうか。そう思った方がずっと都合がよいのです。ただ都合が悪いのは、自我意識だけです。自我意識の正体は蛇でありまして、自我意識とか自尊心さえ棚上げにしてしまえば、皆様は自分が客観的に存在する姿が、そのままイエスそのものだということが、極めてスムースに分かるでしょう。

そうすると、イエスが天に帰ったように、皆様もまた父の元に帰るに決まっているのです。それ以外にどこか帰るところがあるのでしょうか。万物は神から出て、神によりて存在する。また、神の元に帰るのです。「すべてのものの元初であり、終点である、始めであり、終わりである神の御名は住むべきかな」とパウロが言っているのです。

神は始めであり終わりである。皆様もまた、自分自身の始めであり、終わりである神を誉めるべきです。神から出てきた皆様は、皆様の五官が皆様方自身が神から出てきたことを、はっきり証しているのです。これは五官をよく見て頂いたら分かるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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