現在の日本の社会では、本当の女性を教えてくれる人はいません。本当の女を自覚している女性も珍しいのです。
聖書にある女性と現世の女性とは違います。聖書にある女性は、「これこそ、ついに私の骨の骨」と言われている女性です(創世記2・23)。これが現在では肉の肉になってしまっているのです。
肉の肉の女性は性欲の対象にはなりますが、恋愛の対象にはならないのです。本当の意味で恋愛ができる女性は、女性自身が女であることを認識する必要があるのです。
男性もまた、女性の見方を弁えて、永遠の命、命の本質に基づいて女性を見る。また、そういう気持ちで女性に見てもらう男性ではないと、本当の恋愛は分かりません。永遠の恋愛とはそれです。
恋愛は永遠のものです。人間が生きている間の恋愛は性の交渉であって、本当の恋愛と言えるものではありません。
小野小町は生きている間の恋愛が、嫌で嫌でたまらなかったらしいのです。それで彼女は逃げ回っていたのです。
原罪ということをよく調べていきますと分かることですが、現世の男性は根本的に神を見失っているのです。男は現世の中心的な人格です。現代文明が今日のように展開してきたのは男の功績によるのです。この世は男の世です。
この世の王を聖書は悪魔と言っています。この世の王が悪魔だとイエスも言っています。現世で威張っている男は、悪魔そっくりです。
現世にいる人間は死んでいく人間ばかりです。皆様は死んでいく人間のこと、また死んでいった人間のことはよくご存じですが、死なない人間のことはご存じないのです。
イエスは死なない命を経験していたのです。この人を勉強すると、本当の恋愛が分かるのです。本当の男性が分かれば、本当の女性が分かるのです。
女の人は本当の男性を見たいと思っています。また、本当の男性に見られたいと思っているでしょう。こういう男性はめったにいません。ですから、本当の恋、永遠の世界に通じる恋を経験している人は、ほとんどいないでしょう。しかし、そういう恋はなければならないのです。
この世に生きている人の恋愛はセックスのことを言っているのであって、本当の恋愛ではありません。死なない命に繋がるような恋愛、イエスが持っていた命の中にある恋愛を、掴まえなければいけないのです。
そのためには、人間観の不完全さをやめなければいけないのです。自分の見方の不完全さを持っているままでは、本当の恋愛は掴まえられません。世間並の恋はいくらでもあるでしょう。そんなものではしょうがないのです。
恋愛をして結婚する。喧嘩をして離婚する。そんなものは本当の恋愛ではないのです。人間の考えは皆五蘊ばかりです。肉の思いで生活していますから、肉の思いで恋愛しています。こんなものは恋愛とは言えないのです。
現在のキリスト教は、エデンの園が全く分かっていません。もし本当に分かったら、カトリックという教派が成立しなくなるのです。プロテスタントも同様です。
皆様の人生観が根本的に矛盾しています。根本的に矛盾したままの状態で、エデンの園のことを考えても、命の実体として認識することができないでしょう。
皆様が現在生きている生活は、昨日のことを考えなければ、今日の生活は成り立たないのです。昨日のこと、一昨日のことを無意識に知っています。だから今日の生活が成り立つのです。
今日の生活をしながら、明日のこと、明後日のことを考えるに決まっています。そのように、今日の生活が成立するためには、まず昨日のこと、一年前、十年前を踏まえて考えているのです。
過去、現在、未来という時間的配分を認識していなければ、人間生活の根本原理が成立しないのです。これをまず知って頂きたいのです。
これと同じ原理が皆様の生活において考えられていない。現世の生活を考える場合に、前世を考えない。これがいけないのです。
皆様がこの世に生まれてくるためには、生まれてくる原因がなければならないのです。生まれてくるまでの命がなければ、今日の命があるはずがないのです。
原因がなければ結果はない。現在の命を考える場合に、生まれる前の命を考えたのでしょうか。
宗教では絶対に分かりません。前世という言葉くらいはありますが、正しい意味で使われていないのです。具体的な意味で人間の前世があるとすれば、それはどのようなものであったのか。それがキリスト教では全然分からないのです。
創世記が分からない。エデンの園が分からないのです。聖書に次のようにあります。
「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた」(創世記2・7)。
「主なる神は言われた、『見よ、人はわれわれの一人のようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木から取って食べ、永久に生きるかもしれない』。そこで主なる神はエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。
神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと回る炎の剣を置いて、命の木の道を守らせられた」(同3・22~24)。
人間が土で造られたとは書いていません。創世記の二章七節では、土のちりで人を造ったと書いています。造られた土を耕さなければならなくなったのです。これが現世の人間の運命です。
創世記の一章、二章を見ても、人間が土で造られたとは書いていません。二章の十七節では、土で造った鳥や獣を連れてきたと書いています。人間が土で造られたとは全然書いていません。
キリスト教が間違っているのは、神学校へ行って勉強して資格を取ることです。こんな人に聖書が分かるはずがないのです。
神学校で教えるのは、キリスト教の教義であって、聖書の命ではないのです。神学校では神の言葉を正しく取り扱っていないのです。教義を学んだ者が免状をもらって牧師になっている。こんな人が神の命が分かるはずがないのです。
苦しんで、苦しんで、死ぬほど苦しんで、御霊と相撲をとって、本当に神の言葉が開かれた人間でなければ、人を教えてはいけないのです。神学校という制度がキリスト教を腐らせているのです。
ルネッサンス以降の文明には、本当の真理はありません。概念ばかりです。宗教も学問も概念ばかりです。真実は一つもないのです。
般若波羅蜜多の彼岸は、ルネッサンス以降は一つもありません。聖書は彼岸ばかりを書いています。神の国へ入れとばかり言っているのです。
キリスト教では神の国は分かりません。神の国という言葉はありますが、その実体が分からないのです。美しい花を見てとても嬉しい気持ちがします。これは神の国を見ているのです。イエスが「野のユリを見よ、空の鳥を見よ」と言っています。空の鳥が生きている姿の中に神の国があるのです。
人間は過去、現在、未来を区分して認識する性能を持っています。これを理性というのです。過去、現在、未来を認識しなければ命は分かりません。ところが、現世の人間は現世に生きていることは分かりますが、前世のことを知りません。エデンの園という前世が全然分かっていないのです。
人間が善悪の木の実を食べて、我々のようになったと神が言っています。我々というのは三位一体の神をさしますが、人間が三位一体の認識を持つに到ったというのです。
これはどういうことかと言いますと、善悪を考えることができるのは、神しかいないのです。神以外のものは善悪を考えてはいけないのです。神以外のものが善悪を考えると、必ず自分の都合のよいように考えるのです。そして死んでしまうのです。
人間は善悪の木の実を食べた結果、善悪を考えるようになったのです。これが死んだということです。神以外のものが神と同じように善悪を考えることが悪いのです。これは宇宙的な非違(ひい)です。非違とは間違ったこと、正当ではないことをいうのです。
かつて、日本の平安朝の時代に検非違使がいました。律令制下の令外官の一つで、非違(非法、違法)を検察する天皇の使者でした。
非違とはしてはならないこと、考えてはならないことです。人間が善悪を考えること自体が非違です。これを犯したのです。
非違を犯すことは死を意味するのです。どれが良いか、損か得かを考えたら、必然的に自我意識が発生するのです。
善悪の木の実を食べた結果、アダムとエバに自我意識が発生した。そうして、神から独立した人格を認めたのです。
神とは命そのものです。神から離れたとは命から離れたことです。神以外のものが独立した人格を認めることが、死を意味するのです。
キリスト教の人々は、自分が天国へ行きたいと思うから教会へ行くのです。自分が救われたいと思うから教会へ行くのです。自分が救われたいと思うから聖書を勉強するのです。
自分が救われたいと思うことは、自分の人格を自分が認めていることになるのです。これが間違っているのです。カルビンとルーテルが甚だしいイージーゴーイングなことを考えたのです。義人が信仰によって救われるという聖書の言葉を変えて、自我意識を持った自分が救われると言い出したのです。
義人とは自我意識の自分を持っていない人間のことです。ノアは義人でした。なぜならノアは神の意識で生きていたからです。神の命と同じ命で生きていた。ノアは神から離れて生きていたのではないのです。この状態を義人というのです。
キリスト教の人々は、義人という意味を全然知らないのです。義とせられるとは、神と同じように認められることです。アブラハムは神と同じように認められた。だから義とされたのです。
これは山上の垂訓でも言っています。「天の父が完全であるように、あなた方も完全でありなさい」と言っているのです(マタイによる福音書5・48)。神と同じように完全になることが義とせられるという意味であって、人間が義と認められるとは違うのです。この点をルーテルやカルビンはすり替えたのです。
キリスト教は見事に真理を宗教にすり替えてしまいました。カトリックもプロテスタントも根本的に間違っているのです。
皆様の人格が神の中に入ってしまうことを、義とされるというのです。天の父が完全であるように、あなた方も完全になれというのは、自分が消えてしまうことです。
アダムは善悪の木の実を食べて善悪を考えた時に、自我意識が発生した。神から離れた人格を持つようになったのです。これが陥罪です。
神から離れた人格を持っている人は、全部罪人です。固有名詞の自分がいると考えた人は、もう死んでいるのです。
神の内で、神の中で自分を見ることを、神の国に入るというのです。神の国に入って自分を見ることができなければだめです。神の国に入らないで神を信じたと言っても、それは宗教観念にすぎないのです。
前世が分からず、来世も分からない。現世だけを認識して生きている人の生き方は、根本的に不完全です。
時間を、過去、現在、未来に区分して認識していることが理性の本質ですが、これと同じことが皆様の霊魂にも要求されているのです。
アダムとエバが善悪を知りました。これによって神から離れて、自分が生きているという認識を持つようになりました。そこで、エデンに住んでいられなくなったのです。
エデンは前世です。皆様が現世に生まれたというのは、前世から追い出されたからです。
この世に生まれたのは、前世から追い出されたからです。そこで肉の命を負わなければならなくなった。自分が生きているという変則的な命を持たなければならなくなったのです。
現世に生まれた人間は、全部死ななければならないのです。現世だけしか分からない人間は、全部死んでしまうに決まっているのです。
人間が天国へ行けると考えるのは、もっての外です。キリスト教の人々がいうことは全部間違っているのです。死んだら天国へ行けるというのは真っ赤な嘘です。
現世に生きている間に前世を見つけるのです。来世を掴まえるために、現世でどのように生きたらいいのかを、各自考えて頂きたいのです。
とにかく、どんな方法でもよろしいから、前世を見つけて頂きたいのです。
花が美しいというのは、皆様が前世で学んできたのです。女性に惚れるというのも、前世で認識していたからです。男女の問題は生まれる前に習っていたのです。
実は皆様は今、生まれる前のあり方に従って生きているのです。そして前世を今もう一度意識的に経験しているのです。
前世では神と命を無意識に経験していたのですが、それを現世でもう一度有意識的に経験しているのです。これが分かれば誰でも神の国に入れるのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)