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肉の思いは死である

新約聖書のローマ人への手紙に、「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは命と平安とである」という言葉があります(8・5、6)。まずここから始めて頂きたいのです。

肉(人間の思い)に従いながら、聖書を学んでいてもだめです。現世に生きている肉体人間を自分であると考えながら、固有名詞の自分を信じ、宗教を信じている状態で聖書を勉強してもだめです。キリスト教はこういう間違いをしている。だから、聖書が全部宗教になってしまうのです。これは神の前には通用しないのです。

 霊(大自然のあり方)に従って学ばなければだめです。ところが、霊に従って学ぶことがなかなかできないのです。

 そこでまず般若心経によって五蘊皆空の原理を学ぶこと、色即是空の原理を学ぶことです。自分自身を空じることができるような柔和な気持ちを持たなければ、霊に従うことはできません。私が般若心経と聖書の両方を学びなさいというのはこういう意味なのです。

 般若心経に従って、肉体的に生きている自分を解脱することです。これを承知しなければ聖書をいくら勉強しても、観念の遊戯になるだけです。色即是空をいくら理屈で知っていても、生活で実行できなければ無意味です。

 キリスト教は般若心経を勉強していませんから、自分の肉の思いをどのように空じるのかが分からないのです。常識を持ったままで聖書の勉強をしているからだめなのです。まともな信仰には絶対にならないのです。キリスト教を50年勉強しても、60年勉強しても、まともな信仰になりません。これははっきり言えるのです。

 そこで般若心経に基づいて、人間の常識、知識を捨ててしまうのです。これが五蘊皆空です。自分が肉体的に生きていることが、カルマであることをはっきり認めるのです。カルマを鵜呑みにした状態で神を信じようと考えてもだめです。

 聖書はカルマと言わず、罪と言っています。「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなった」と言っています(ローマ人への手紙3・23)。常識で生きているということが、罪を犯していることなのです。心にもないおべっかを言ったり、駆け引きをしたりする。そういうことをすることが罪なのです。人間が普通に生きていることが罪なのです。だから、神の栄光を自分自身の経験の中に取り入れることができないのです。

 原罪という常識が皆様の頭にこびりついている以上、聖書を勉強しても空転するだけです。思想的に分かっても実質は分からないのです。本当の信仰にはならないし、命になりません。

 肉の思いというのは肉体的に生きている自分を認めることです。霊に従って生きようと思えば、肉体的に生きている自分を認めないことです。例えば、今まで甘いものが好きだった人でも、その自分と別れてしまうのです。男性の性欲と別れてしまうのです。

 今までの皆様は死ぬに決まっています。聖書の勉強ができないくらいに肉の思いは強いのです。魂が腐っています。文明も腐っています。こんな人間の意識状態では、聖書が信じられるはずがないのです。

 肉の思いは死です。肉体的に生きている自分を認めるという思想を持ったままで聖書を信じますと、永遠の命は分かりません。肉体的に生きているという考えは騙されている考え方です。だから、肉体的に生きているという自分の気持ちが、騙されているということに気づけばいいのです。

 砂糖をなめて甘いと感じる。それは肉の思いとは違うのです。霊の思いです。甘いという感覚は霊の思いです。味覚は生まれる前からの感覚です。皆様は生まれる前から味覚を持っていました。それで甘いと感じるのです。生まれた後のことは肉の思いです。

 生まれる前の霊の感覚が皆様の舌にあるのです。前世の感覚がそのまま働いているのです。これは味覚だけではありません。聴覚も、臭覚、触覚もすべて前世の感覚です。それを肉体の感覚と思うから間違ってしまうのです。そういう教育が間違っている。常識が間違っているのです。親兄弟姉妹の考えが間違っていた。親戚の人が間違っていた。社会全体が間違っていたのです。だから、皆様はすっかり間違った考えを持たされてしまったのです。

 皆様は生まれる前の五官というすばらしい霊の感覚を与えられていて、それを生活で体験している。だから皆様のリビング(living)の実体はとこしえなのです。それを肉の思いで受け取っているから、肉の思いになってしまうのです。

 ケーキを食べれば甘く感じます。それを肉体的な自分が食べて甘いと思うからいけないのです。受け止め方が悪いのです。現世の常識が悪いのです。甘いという感覚が悪いのではない。感覚に対する感じ方が悪いのです。ですから五蘊皆空になるのです。

 人間の感じ方、考え方は全部間違っているのです。人間の行動が悪いのではなくて、行動についての思いが間違っているのです。そこで思いを変えるのです。「心を更えて新しくせよ」とパウロが言っているように、人間の精神の霊を新しくしていけば、生まれた後の感覚ではなくて、生まれる前の感覚で見ることができるのです。

 肉の思いが一番悪いのです。釈尊の思想の一番重要な点は肉を否定していることです。聖書は「肉は益なし、肉の思いは死である」という言い方で否定しているのです。

 釈尊は「肉は空である」と言っているのです。「肉」とか「肉の思い」というのは聖書独特の言い方で、聖書に馴染みのない人には不可思議な言葉です。「肉」というのは目に見える物質的現象です。般若心経はこれを「色」と言っています。「肉の思い」は目に見える物質が実在するということを踏まえた、人間の思い、考え方です。人間の常識、知識、学理学説はすべて肉の思いです。

 肉は幻です。皆様方に肉体があること、地球があることが幻です。時間、空間の世界が幻です。

 皆様は肉体がある世界へ生まれてきました。これがカルマです。これから抜け出さなければ絶対に救われません。肉の思いは死であると言っている。肉に従う者は肉のことを思うとあります。そこで肉体的に生きている自分が肉体的な感情を持っている以上、その人は罪の虜になっているのです。だから肉の思いからどうしても抜け出さなければならないのです。これが色即是空です。肉の思いから勇敢に踏み出すのです。踏み出せるのです。

 肉の思いというのは、皆様を縛りつけるだけの力はありません。皆様方さえ自分の肉に反抗すれば、肉の思いから出ることはできるのです。

 肉の思いで何回悟ったり信じたりしてもだめです。肉体を与えられたことが皆様のカルマです。これから出てしまうのです。肉の思いを捨ててしまうのです。奥さんに対する肉の思いを捨ててしまうのです。

 マグロの刺身を食べる時、刺身についての肉の思いを捨てるのです。刺身の味は生まれる前の味です。生まれる前の味覚で刺身を食べているから、現世の意識とは違うのです。生まれる前の感覚で食べると、霊に従いて歩むことができるのです。これを性に適用するのです。

 今皆様が持っている命は必ず死ぬ命です。死ぬ命を捨ててしまうのです。五官は生まれる前の感覚ですが、皆様の意識が間違っているのです。

 自分自身を見切ってしまうのです。マグロの刺身を食べているのは、前世の自分が食べているのです。生まれる前の自分が生まれる前の感覚で食べている。従って現在の自分は空なのです。これがはっきり分かれば、だんだんイエスと同じ心境になれるのです。

 イエスもパウロもヨハネも霊に従って生きていたのです。そのように新約聖書の中へ入って行けるのです。これが神の国へ入ることなのです。誰でも水からと霊からと新しく生まれて、神の国へ入らなければいけないのです。

 皆様のリビングは前世です。五官の働きも前世です。生きていることが救われている証なのです。リビングが救われていることなのです。現世で生きているのではない。前世のものがちょっと顔を出しているだけのことです。

 天にいるイエスが地上にちょっと顔を出したのです。イエスは天から下ってなお天にいたのです。それと同じように生きることができるのです。姿形は現世にいますけれど、気持ちは現世にいません。住んでいる世界が違うのです。だから永遠の命を現世で経験できるのです。死なない命をはっきり経験できるのです。

 死なない命を掴まえるためにどうしたらいいのか。前世に生きていた自分を引っ張り出せばいいのです。前世に生きていた自分というのは五官の働きです。五官の働きの自分を引っ張り出せばいい。これがリビング(living)の実体です。死なない命です。これを受け取ることがリビングのシールを受け取ることです。生ける神の印を受け取るのです。

 赤いものを見て赤く感じることが、皆様が生きている証拠です。これが神です。神はそこにいるのです。

 聖書を理屈で勉強するのではなくて、命をしっかり掴まえるような、神の実物を掴まえるような勉強をして頂きたいのです。

 人間が生きているのは、神と一緒にいるのです。一緒にいる神が、じっと見ているのです。神にいつ気が付くかと、じっと見ているのです。神は皆様と一緒に生きています。人は神と共にいる。インマヌエルの状態にあるのです。それにいつ気が付くかと、気長に見ているのです。

 生きていることは、神そのものです。神の実物が、皆様の霊魂と一緒に生きている。だから丸いものが丸い、甘いものが甘いと分かるのです。五官の働きは、そのまま神の実物になるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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