水と霊から新しく生まれなければならない。そして、神の国に入るのです。水と霊とから新に生まれることが正確に体験されなければ、神の国に入ることはできません。
常識的に生きている人間は神の国に入れません。新しく生まれると神の国に入れるのです。
山や川があるはずがないのです。人間もいるはずがないのです。これはマタイによる福音書の十三章三十五節に書いてありまして、すべては譬としてあるのです。
大体、地球があるはずがない。私たちはあるはずがないものを見ているのです。そうすると、何を見ているかです。
般若心経はヨハネによる福音書までいっていませんが、般若心経を実感的に捉えると、ヨハネによる福音書の三章の入口が分かってくるのです。そのために、もっともっと般若心経を実感的に捉えて頂きたいのです。
般若心経はすべて人間の行き着く所です。まずこれを体得しなければいけないのです。
聖書は何を書いているのか。神の国を書いているのです。神の国へ入ろうと思ったら、イエスの言葉が実感になることです。パウロは神の国をそのまま説いているのではありません。神の国に入るための心得みたいなものを述べているのです。神の国に入るためには、イエスの言葉が実感にならなかったらいけないのです。
聖書の言葉は思想ではありません。聖書の言葉が命になることが必要です。聖書の言葉が実感にならなければ、信仰にならないのです。
般若心経は五蘊皆空と言っています。これを了解していないとすれば、やはり五蘊の世界にいるのです。五蘊の外に出て見ることができなければいけないのです。
神は日本で何をさせようとしているのか。神の御心が今どのように働いているのか。これをよく考えて頂きたいのです。
神が口を開いて譬を語っている。神が海とか山という形で発言しているのです。だから、これを仏典は世音と言っているのです。
この世の中のあり方がすべて神の声です。これを見るのが観世音です。十句観音経には、朝念観世音、暮念観世音と言っています。朝にも夕にも、観世音を念じなさいと言っています。観世音が仏典の入口です。
自分に立つことをやめなければいけない。神を信じるのです。神の信仰を持つのです。神は日本から万国の預言者を起こそうとしているのです。このことをよく考えて頂きたいのです。
人間は自分がいると思っているから、どうしても肉の思い、人間の思いから離れることができません。人間はこの世に生まれて五十年生きていた、六十年生きていたという思いがどうしても離れません。これは死ぬに決まっている人間の考え方です。
生きているというのは今だけです。今という時間と、ここという空間の他に何もありません。これが神の立場です。山を見るのも、花を見るのも、今という時間とここという場から見たらいいのです。
神が万物を通して語っている言葉は、地球だけしか聞こえません。地球以外では絶対に聞くことができないのです。しかも、今とここでしか聞こえないのです。神の言葉は今とここで聞こえるのです。
地球の将来に対して、また、神に対して責任を負いたいという気持ちを持っただけで、もう御霊が助けてくれるのです。神はそれだけ私たちに期待しているのです。
好きな女性の手を握って感じる感覚は何か。骨の骨の感覚です。男の霊魂に味が出てくると、その霊魂が骨の骨になる。そうすると、神の言葉がどんどん入ってくるのです。
色気は人間の脳細胞にインプットされているセンスです。神には驚くべき色気があるのです。女性の手に触るとこれが分かるのです。女性の体があるかというと、ないのです。しかし、触ると感触があるのです。
創世記の二章七節に、「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた」と書いています。これはものすごい内容を現わしているのです。
日本語訳では、土のちりで人を造ったとなっていますが、これを英訳で見ますと、formed man the dust of the groundとなっているのです。フォームドとは形を与えた、形を造ったということです。
例えば、体操競技の時に、ある動作をすることをフォームと言いますが、これは瞬間的なことです。これは神の霊が水の表を動かしているということになるのです。
人間とは何か。地のちりであるものに形を与えたのです。形は与えているが実体を与えていないのです。
人間の欲望は実体がなければ発生しません。実体があるから発生するのです。自分が生きているという実体、人間の肉体という実体がなければ、欲望が発生するはずがないのです。性欲、食欲も、宗教欲も、すべて実体がなければ欲望は発生しないのです。
ところが、神は人間に実体を与えていない。これをどのように考えるかです。
神は人間に形を与えているが、実体を与えていない。ところが、人間は欲望があると思っている。食欲とは何か。性欲とは何か。ここに人間生活の根本的なペテンがあるのです。これはペテンです。これを女性は直感しているのです。
女性は性欲の対象にされるとばかみたいに思うのです。ところが、またそれが好きになっているのです。困ったものです。これが人間存在のばかばかしさです。
女性はいつでも求めて求めてやまないのです。何を求めているかというと、愛を求めているのです。女性は愛の実体を形容する格好で生きているのです。愛がそのまま女性の性器になっている。愛がそのまま格好になっている。これが困るのです。
神は人間に形を与えたのですが、実体を与えていない。ところが、人間は実体があると思っている。これを肉の思いというのです。人間は肉の思いという実体を造ってしまっているのです。
パウロは「欲情に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨てて」と言っています(エペソ人への手紙4・22)。この訳が良くないのです。欲情をthe lusts of deceitとなっていますが、これは詐欺の欲情という意味です。
詐欺の情欲とは何かというと、情欲そのものが詐欺です。嘘です。ありもしないのです。なぜなら人間の実体がないからです。肉体という実体がないから欲望があるはずがないのです。ところが、欲望があると考える。あると考えさせられているのです。
今の人間の命は詐欺にかかっている命です。火の池に引きずり込まれる詐欺にかかっているのです。
神は人間に形を与えただけです。地のちりである人間に形を与えたのです。人間を造ったのではない。日本語では人間を造ったと勝手に訳しているのです。
人間を造ったという言い方をすると、人間という実体が造られたことになるのですが、原語には実体を造ったという言葉がないのです。形を与えただけです。実体はありません。実体がなければ欲望があるはずがないのです。欲望は人間が肉の思いによって勝手に造り上げたイマジネーションです。
人間は詐欺にかかっているのです。性欲の虜になるという詐欺にかかっているのです。
万物が存在するとはどういうことか。神の霊が水の表を動かしているだけです。万物があるはずがないのです。原子運動、電子運動を継続的に動かしているから、万物が固定的にあると思えるのです。
ところが、万物が継続的にあるのではない。今、今、今という瞬間だけがある。神の霊が水の表を瞬間、瞬間動かしているのです。
こういうことが本当に分かってくると、肉体が存在する、万物が存在するという考えが嘘だということがはっきり分かるのです。現象が実体であるという考えほどばかなものはない。これはただ人間の肉のイマジネーションにすぎないのです。
人間の常識で昨日があった。一昨日があったと思うのです。ところが、犬や猫はそう思わない。ただ人間だけが勝手にそう思っているのです。だから、人間だけが火の池へ行くのです。犬や猫は火の池へ行かないのです。
なぜ犬や猫がいるのか。人間の狡猾さが犬や猫になって現われているのです。猿がいるのではない。猿的な狡猾さが現われているだけです。狡猾さが何千種類の動物になって現われている。その中でヘビが最も狡猾だったのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)