top of page
検索
  • 管理人miwa

現前

神というと、一般の人はすぐに宗教の話かと思うのです。ところが、造化ということが神です。現実に人間が生かされているということが、神の御名(実体)です。

これは人間のつくり話ではありません。宗教は人間が造った教義を教えているのですが、現実に人間が生きているということが、神の御名です。神の実質の働きです。

ところが、人間はこのような当たり前のことをなかなか信じようとしないのです。自分自身の穴蔵のような気持ちの中に閉じこもって、なかなか外へ出ようとしないのです。

自分自身に本当に確信が持てるような生き方をしていませんから、そのような自己不信が、他のことにも影響しているのです。自分が信じられないのですから、神が信じられないし、他人が信じられないのです。

 そうして、果てしない疑心暗鬼に自分の魂を閉じ込めていくことになるのです。こういう人間の考え方が、悪魔にたぶらかされた原罪の本性です。

 悪魔の本性が人間に乗り移っているために、悪魔自身が自分の気持ちを自分で押し曲げて、自分の命運を自分で暗くしているように、人間も同じことをしているのです。

 人間は自分の外へ出ることが恐いのです。神の前に出ることが恐いのです。神の前へ出ることは光の前に出ることですが、光が命なのです。その命は神の言葉ですから、もし人間が思い切って自分の暗い穴蔵から出て光の中へ歩み出すなら、そこには神の命の言葉の働きがあるのです。

 現前において生かされているということは、新約の恵みに係っていますから、このまま救われているのです。

 人間はこれを信じようとしないのです。悪魔の本性が乗り移っているからです。自分の中に閉じこもってしまうという精神状態に置かれているのです。そのような精神状態が、そのまま人間の死後の予表になっているのです。死後の状態を予め現わしていることになるのです。

 自分自身を閉じ込めるという感覚が黄泉(よみ)の感覚です。自分で黄泉を造っているのです。人間が自分の穴蔵に閉じこもって、神の光から自分自身を遮断していることは、黄泉にいることを楽しんでいる状態になるのです。

 この結果、必ず魂の裁きがあるのです。あるに決まっているのです。

 神の国と神の御名というと、すぐに宗教の話だと考えて、本質的に神に反抗しようとするのです。これが人間の思いの中に悪魔の習性が巣くっていることを証明しているのです。

 そうして人間は死んでいくべき人間の思いを信じているのです。死んでいくべき人間の思いを、死んでいく人間が信じていて、一体何になるかと言いたいのです。こういう暗愚な考え方、陰湿な考え方が自ら黄泉を造っていることになるのですが、自分の心を神に明け渡そうとしないで、どこまでも自分の思いにしがみついているのです。

 人間は現前に神の救いの手が伸ばされているという事実を、どうしても信じようとしていない。そういう愚かなことをしているのです。

 何が恐ろしいと言っても、馬鹿ほど恐ろしいものはありません。自分で自分の命を呪うことをしていながら、神の救いの手を振り切っているのです。ただ自分の肉の思いに引っかかって、神の救いを拒否しているのです。こういう愚かなことを人間がしていることについて、深く反省していただきたいのです。

 ただ自分が生かされているという事実に、淡々として目を向ければいいのです。自分の思惑、自尊心、自分自身の穴蔵に捉われていることをやめて、生かされているという事実に、単純な感覚で目を向けさえすれば、そこに救いがあることが分かるに決まっているのです。 

 もし人生に本当の救いがあるとすれば、それは現前にあるに決まっています。現世に生かされているということの中に、救いが見い出せないとしたら、人間の魂に永遠の救いがないことになるのです。

 本当に信じることができるのは、現実に生きているということだけなのですが、この現前に生きていることを人間は信じようとしないのです。これを明らかにしようとしないで、勝手に自分の思いに閉じ込められて、自分の墓穴を掘っているのです。

 私たちが生まれる前の未生の我、この世に生まれる前に神と共に生きていた時に植えられた、人間の魂の本性が現実において花開いて、色々なことを理解することができるのです。

 人間の五官の本質は、生まれる前に植えられた父なる神からの感性なのですが、この感性に従って見ているのです。自分自身の肉の思いに捉われないで、五官が何を感じているのか、何を目で見て、何を耳で聞いているのかを正しく理解することができるなら、本当の命が分かるのです。

 イエスの言葉にありますように、「あなたの目が正しければ全身は明るいであろう」となるのです(マタイによる福音書6・22)。全身が明るいというのは、人生全体の見通しが明るくなるというのです。生まれる前のことから現世を去った後のことまではっきり分かってくるのです。これは現世をどのように見るかによって決定されるのです。

 救いがあるなら現前にあるに決まっています。

 現前で神を受け止めることです。現世に生活させられていることを通して、神を受け止めることが、人間が現世に生まれてきた目的です。

 もし私たちが現実に生活で神を知ろうとせずに、自分の生活だけを過ごしていて、ただ衣食住の営みを繰り返しているだけなら、一体人間として生きている意味、価値はあるのでしょうか。ただ食って寝て、子供を産んで死んでいくなら、動物と全く変わらないのです。

 「神の国と神の義を求めよ、神の御名を崇めよ」と言われると、すぐに宗教の話かと考える人がいますけれど、これは自分自身が現実に生きていることを知らないで、ただ肉の思いに従って考えているためにそう考えるのです。

 肉の思いに立って考えれば、必然的に神に反抗しようという気持ちになるのです。

 神という言葉を聞くとすぐに宗教だと考えるのです。そうして、宗教の厄介になりたくないという気持ちになるのですが、これは自分が死ぬべき人間の立場に立っていることを自覚していないからです。

 今の状態で生きていれば必ず死ぬに決まっているという分かり切ったことを、正直に認めようとしていない。そうして、神を信じることを避けているのです。これは無自覚、愚かという言葉では言い切れないほどの人間の無知なのです。

 肉の思いに立っているために、神という言葉、キリストという言い方に対して、いちいち反感を持つようになる。そうしてみすみす自分の命を自分で汚すようなことをしているのです。

 現世に生かされているということが、神の働きなのです。神に反抗する気持ちは、自分自身の命に反抗していることになるのです。自分の魂に自分が傷をつけているのです。こういうばかなことをしているのです。

 そうして、自分の無意味な肉の思いにこだわって、影法師のような思いを持って、自我意識という穴蔵の中に閉じこもっている。そうして、自ら黄泉(よみ)を造っているのです。死後の運命を自分で造っているのです。黄泉から地獄への霊魂の裁きを自分の思いで造っているのです。

 肉の思いで生きていることが全く愚かな無価値なものであることをよく知って頂いて、世界観と価値観の根本的な変革を志すべきです。

 キリスト教の教義は宗教観念であって、人間の命の実体を究明しようとしていません。神の御名を究明しようとしていません。こういうキリスト教の欠陥が、そのまま聖書の欠陥であるように考えるのは、とんでもない間違いです。

 キリスト教の間違いよりもっとひどい間違いは、肉の思いを信じ込んでいるということです。肉の思いに基づいて神に逆らうという愚かなことをしないようにして頂きたい。

 自分の思いで自分を傷つけているという愚かなことをしないで頂きたいのです。

 人間は自分の思いを信じています。これは信じるというよりも、生まれながらの感覚がそのまま定着しているのです。従って、後天的な人間の考え方を根本から検討するという態度を取らなければ、本当の意味での世界観、価値観の徹底的な革新はできないことになるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

閲覧数:4回0件のコメント

最新記事

すべて表示

はじめに

異邦人(ユダヤ人以外の民族)が、とこしえの命を与えられるということは、よほどのことでないとできないのです。異邦人がキリストを信じられるというのはよくよくのことです。キリストは大体異邦人には関係のないことです。 異邦人はこの世で苦しんで、悩んで、悲しんで、死んで地獄へ行くという運命しかない。これでいいと思っているのです。日本人はそんなものです。愚かな民族です。 ヨハネは次のように述べています。 「世

業(ごう)

この世に人間が生まれたことが業(ごう)です。この業を果たさなければ死ねません。この世に生まれた業とは何かと言いますと、一度死んで、死んでから裁きを受けるという業です。 これは人間の業というよりは、宇宙の業です。宇宙の肉の業です。肉というものの業です。 肉を代表しているのが人間です。肉を代表している人間が、肉の業の急所を心得てこれを片付けてしまいますと、肉の全体がごそっと救われるのです。これはとても

人間はなぜ死んだのか

現在の日本の社会では、本当の女性を教えてくれる人はいません。本当の女を自覚している女性も珍しいのです。 聖書にある女性と現世の世間の女性とは違います。聖書にある女性は、「これこそ、ついに私の骨の骨」と言われている女性です(創世記2・3)。これが現在では肉の肉になってしまっているのです。 この女性は性欲の対象にはなりますが、恋愛の対象にはならないのです。本当の意味で恋愛ができる女性は、女性自身が女で

bottom of page