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  • 管理人miwa

瞬間

パウロは次のように述べています。

「すなわち、あなたがたは以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新にされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである」(エペソ人への手紙4・22~24)。

これは新約の原点であって、聖書を勉強するということは、理想を勉強することなのです。

聖書を勉強する場合には、理想主義でなければならないのです。建て前と本音を一つにすることなのです。建て前と本音の二つがあるという考えでは、どうしても御霊の助けを期待することはできないのです。

地球が存在している原理は、神の理想に基づいているのです。これが建て前です。

 約束というのは、霊なる神の御霊の働きです。地球物理というものは、現象体として現われている神の御霊の働きです。神の御霊の働きの面と、神の御霊の知恵の面と二つがあるのです。知恵の面が約束になります。働きの面は具体的な現象になっているのです。どちらも同じ御霊です。どちらも同じ御霊であるということが、御霊は約束となるのです。

 御霊は約束であり、約束が二つに分かれている。物理的な約束と心理的な約束の両方に分かれているのです。聖霊は今述べた事がらを人間の魂に教え導くお方です。神の理想がそういう格好で現われているのです。

 人間の霊魂と神の約束との関係を結び付けるものが聖霊です。御霊という場合には、神の約束の原理並びにその働きです。それに基づいて、天使がセラビム(能天使)とケルビム(知天使)になっているのです。これが地球構造です。

 この地球構造の原点に立って考えることが理想です。これが地球存在に係わる原理的な認識です。

 この理想に向かって私たちは前進するのですから、私たちの生活をこの建て前のようにあらしめることです。この建て前がそのまま私たち自身の本音になることです。

 建て前と本音の距離をどんどん詰めるのです。これが当面の私たちの目的です。今の人間はこの建て前があることさえも知らないのです。地球物理の本体が何であるかを知らないのです。

 物理的な本体があるということは、心理的な法則があるからです。心理的な法則なしに物理的なものが構成されるはずがないのです。従って、心理としての御霊と、物理としての御霊と、神の御霊が両面に働いておられるのです。これ以上の理想は人間には考えられません。しかも合理的な理想です。

 さらに集約的に言いますと、人間存在というものは、この神の理想を実現するためにあるのです。私たちが鼻から息を出し入れしているということが、この原理に基づいているのです。

 生理はそのまま物理です。これは御霊です。皆様が鼻から息を出し入れしているということが御霊です。目が見えることが御霊です。五官の働きが御霊です。そのように、皆様は御霊によって生きているのです。

 パウロは、「御霊によって生きているから、御霊によって歩め」と言っています。ところが、御霊によって生きていることを認識できる人間がめったにいないのです。

 私たちは幸いにして、かろうじてその認識に到達することを許されました。この認識に到達することを許された者は、当然神の約束の原点になるべきです。御霊の働きが約束です。地球が自転公転していることが約束です。このことが分かった人は、この原点に立つべきです。立てるのですから立つべきです。

 神は地球を見せて、神の理想をそのまま現わしているのです。地球という現象態を見せているのです。現象態と物体とは違います。

 物体はありません。現象態があるだけです。地球物理という瞬間的な働きがあるのであって、それがそのまま現象態として現われているのです。

 物があるのではないのです。現象態があるのです。現象態というのはコンディションのことです。地球というのはコンディションがあるだけなのです。コンディションは物とは違うのです。

 神は瞬間的に存在するのです。神の実体は瞬間です。瞬間ですから、とこしえに変わらないのです。永遠である神は絶対瞬間です。瞬間であるから、永遠に変わらないのです。

 ですから、自分が三十年生きてきた、五十年生きてきたという考えは、神の見方に全く反するのです。五十年生きてきた人間はいないのです。いるはずがない。これは人間の錯覚です。

 悪魔が人間に植えつけた錯覚によって、五十年生きてきた、六十年生きてきたと思っているのです。そんなばかな錯覚から解脱されることです。

 今まで自分が生きてきたという事実はどこにもありません。この瞬間しかないのです。神は瞬間ですから、そういう感覚が普通にならなければいけないのです。

 瞬間が地球が存在することの実体です。今から一億年前の地球の位置と、今の地球の位置とは全然違います。だから、一億年前の地球はどこにもないのです。

 理論物理学で考えますと、物質は細分すると分子になります。分子をさらに細分すると原子になります。原子は原子核の回りを電子が一秒間に一億四千五百万回の猛スピードで回転していまして、これが物質のように見えるのです。つまり電子の運動が物として見えるのです。

 森羅万象はすべて電気現象です。人体も地球も電気現象です。電気現象は瞬間の働きだけがあって、一年前の電気、十年前の電気はどこにも存在していません。だから、過去の自分は存在していないのです。

 瞬間しか存在しません。瞬間においてこそ永遠の力が現われているのです。神がもし瞬間でなかったら、地球が四十五億年経っているという概念さえも生まれないのです。地球が存在するのは瞬間だけです。瞬間だけ存在しているから、四十五億年地球が存在したという概念が成立するのです。そのように神が見せかけているのです。

 人間は瞬間の存在ですから、過去の自分とは何の関係もありません。こういう考え方をノーマルの意識であるとするのです。意識を切り替えるのです。

 「天国を激しく襲う者たちがそれを奪い取っている」とあります(マタイによる福音書11・12)。これをするためには、心が貧しくなればいいのです。プアー(poor)になることがピュアー(pure)になることです。

 貧しいことと清いこととは同じことです。この気持ちがあれば神が見えるのです。難しいと考えたらいけないのです。難しいと考えることは、自分の錯覚を認めることです。

 皆様は自分の肉の思いを認めたらいけないのです。ところが、皆様は自分の肉の思いを認めるという悪い癖があるのです。自分の考えを人に押し付けないこと、自分の気持ちを神に押し付けないことです。

 イエスは、「恐れるな、ただ信ぜよ」と言っています。神の平安を受け取ろうとすると、皆様は恐れを感じるのです。だから、自分を思い切って捨てる、昨日まで生きてきた自分を捨てることが不可能に思えるのです。

 ところが、できるのです。やってみるのです。自分を捨ててしまうと、一度に平安になるのです。昨日までの自分に責任を持たなくてもいいのです。

 人間は神の理想をそのまま自分の理想にしようと思いますと、そんなことをしてもいいのかと思うのです。自分のことをきちんと整理をして、後始末をして神を信じようと思うのです。そういうことを考えたらいけないのです。

 有難いことに肉はさっと消えてしまいます。もともと肉はなかったのです。神の恵みを理解する、神の力を理解するために、今までのだらしがない肉の生活が必要だったのです。今それを捨てる時が来ていますから、捨てたらいいのです。思い切ってやってみれば何でもないことです。

 どのように聖書の勉強が長くても、また、イエスの御名が理解できても、自分がいる間はだめです。思い切って自分を捨ててしまうのです。分かっても分からなくてもいい。自分と縁を切ったらいいのです。恐れる必要はない。ただ信じるのです。信じた瞬間に世界が変わってしまうのです。

 今までの自分を持っていても、情欲に迷って滅びるだけです。ところが、肉の生活を切ってしまって、もう一度情欲を再検討してみると、全く違うものになっているのです。

 情欲がないのです。実は神の愛と恵みがすばらしい形で感じられたのです。それが情欲という形で感じられていたのです。それだけのことです。

 情欲によって生きていると滅んでいくのです。情欲を裏返してしまうと、神のすばらしい愛が分かるのです。そうすると、滅びゆく者がひっくり返って、神の栄になるのです。見方を変えてしまうのです。

 花が咲いている世界は神の国です。ここへ入ったらいいのです。花が咲いているのが目に見えるのです。物質的な花と、花の美の世界がだぶっているのです。

 具体的に私たちは神の国を経験しているのです。滅びゆく情欲に惑わされている思いだけが、私たちを掴まえていたのです。これを捨てたらいいのです。

 精神の霊を変えたらいいのです。精神の霊を変えてしまうと、全部裏返ってしまうのです。悪魔は神の恵みを全部裏返したのです。これをまた、裏返したらいいのです。そうしたら、神の国がはっきり分かるのです。神の国が分かった人は、全世界の人々に神の国があることを伝えなければいけないのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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