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あとがき

ユダヤ人が神の国と神の義を求めたらどうなるのでしょうか。世界中の人間が死ななくなるのです。

現在の文明は死を内包しています。エデンの園で、神が食べてはいけないと言った善悪の木の実をアダムが食べてしまった。現在の人間も同じことをしているのです。善悪の木の実を食べなくなったら人間は死ななくなるのです。これに気が付いている人が世界中に一人もいないことが不思議です。

世界中の人間を殺しているのはユダ人です。神がユダヤ人に約束を与えたということは、とこしえの命を与えたことですが、これをユダヤ人は全く理解していない。そのために、人類が死ななければならない状態に置かれているのです。

 もしユダヤ人が悔い改めれば、大多数の異邦人はそれについていくでしょう。しかし、ユダヤ人を軽蔑しているキリスト教徒は、ひどい仕打ちを神から受けることになるでしょう。

 人祖アダムが善悪の木の実を取って食べたとはどういうことか。食べて死んだとはどういうことか。

 聖書は次のように書いています。

 「人とその妻とは、二人とも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った。『園にあるどの木からも食べるなと、本当に神が言われたのですか』。女はへびに言った。『私たちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな。これに触るな。死んではいけないからと神は言われました』。へびは女に言った。『あなた方は決して死ぬことはないでしょう。それを食べるとあなた方の目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです』。女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので彼も食べた。すると、二人の目が開け、自分たちが裸であることが分かったので、いちじくの葉をつづり合わせて腰に巻いた」(創世記2・25~3・7)。

 これと同じことを現在の人間はまだしているのです。すべての人は自分の立場から善悪を判断している。これが善悪の木の実を食べていることになるのです。

 陥罪以後の人間は罪の塊になっていますから、罪に勝つことはできませんけれど、聖書の原点に立って、エデンの園の原点に目をとめていれば、罪に負けないで生きることはできるのです。園の真ん中の善悪の木の実を食べないで生きることはできるのです。アブラハムはそれをしていたのです。

 エデンというのは抽象的現実です。または現実的抽象です。聖書の神の言が抽象的な現実です。また、現実的な抽象です。私たちが現実的に生きていると考えることは、抽象的な現実です。霊において生きるという原則論から考えますと、肉体で生きていることが抽象になるのです。抽象とか現実という言葉になりますと、どちらからでも言えるのです。聖書と現実は裏表の関係になっているのです。

 人間は嘘と誠が表裏の状態で生きているのです。イエスはそういう見方をしていたのです。そういう見識の幅を持って見ていないといけないのです。霊がそのまま肉であること、肉がそのまま霊であると言えなければ、旧約聖書と新約聖書を自由自在に信じることはできません。イエスはこれができたのです。

 人間の肉体はあると考えてもいいですし、ないと考えてもいいのです。色即是空が本来のあり方です。色即是空がなぜ本来のあり方かと言いますと、「地は形なく、むなしく、闇が淵のおもてにある」という条件が天地創造の原理になったからです。

 闇が淵のおもてに座り込んだ。そこで神の霊が水のおもてをおおったのです。もし闇が淵のおもてに座らなかったら、神の霊が水のおもてをおおわなかったでしょう。天地創造はなかったのです。

 私たちに肉体があるのは、地球というボディーがあるからです。地球にボディーがなかったら、私たちにもボディーはなかったのです。

 地球というボディーがあることは、闇が淵のおもてにあったからです。闇が淵のおもてにあったから、神の霊が地球というボディーを考えざるを得なかったのです。これが創世紀の原点になっています。

 闇が消えてしまいますと、地球というボディーがあることが無意味になるのです。現在の地球が消滅した後にできる新しい世界では、物体的な地球は存在しません。霊の世界ですから物理的なものはないのです。

 聖書は空中に絵を描いたようなものです。空中に空の原理に従って造ったのが、地球です。

 現在の地球があることは、神があることを意味するよりも、悪魔があることを強く意味しているのです。私たちが肉体的に生きていることは、悪魔がいることを前提としているのです。だから、私たちが肉体的に生きるということほど、ばかげたことはないのです。

 地球は実存していません。仮存しているのです。ユダヤ人があると信じているから実存しているだけです。ユダヤ人が新約聖書を信じることになりますと、地球を信じなくなります。ユダヤ人が地球の実存を信じなくなると、地球はどうなるのでしょうか。

 地球があるのは全くの幻です。従って、私たちの肉体があるということも幻です。これを生活において実感できるかどうかです。

 エデンの園の真ん中にある木の実を食べたら、神が叱るかどうかです。園の真ん中の実はどんな実でしょうか。皆様がそれを食べているかどうかです。

 創世記が解明されると命の本質が解明されるのです。これが聖書を勉強している者の最も楽しい点なのです。

 園の中央にある木は一本ですが、その枝が大きく二つに分かれているのです。一つは命の枝であり、もう一つは善悪の枝です。命を認めれば善悪の方は消えてしまう。善悪を認めれば命は消えてしまうのです。聖霊を受けて御霊に従って生きていても、肉の思いはあるのです。この肉の思いをどのように始末するかです。

 聖書はこれについて具体的に教えていません。聖書はキリストという神の処置を説いているだけです。パウロはあると言えばある、ないと言えばないという書き方をしています。「生きているのは、もはや私ではない。キリストが私のうちに生きておられるのである」と言っているのです(ガラテヤ人への手紙2・20)。

 私たちが現実に生きているというのはどういうことなのか。これは一人ひとりに責任があるのです。一人ひとりが自分の霊について責任を持たなければならないのです。心臓がいつ止まるか分からないから、いつも結論を出さなければならないのです。

 園の真ん中の木の実を食べると女が言い出した。園の中央にある木の実は、具体的に私たちの場合、何を指しているかです。園全体が中央であると言えなくもないのです。

 エデンの園とは一体何であろうか。私たちの命のあり方の真ん中は何か。中央の木の解釈の仕方によって、園全体の考え方が変わってくるのです。

 園全体というのは命全体になります。園とは命そのものです。皆様の命はエデンの園なのです。私たちはエデンの園を命として経験しているのです。エデンは抽象的な人生です。園は命です。

 人間が生きているということは全くの肉です。ところが、全くの肉ということが、全くの霊ということです。肉はありません。そのかわりに霊があるのです。肉体はありません。生きているという事がらがあるのです。肉体は肉ですが、生きているという事がらは霊です。

 これは全く自己矛盾であって、人間が生きていることは完全な霊と完全な肉とが一つになっているのです。そのどちらを自分と思うかです。生きている方を自分だと思うか、肉体的な人間を自分だと思うか。どちらを自分だと思うかです。

 魂を自分だと思う場合は、人間的な面子とか、人間的な健康とかは問題にならないのです。ところが、人間的な利害得失を考える場合は、霊の方は一切問題にならないのです。どちらか一つにしてしまわなければならないのです。

 霊の人間として実存し続けること、そうしたいと思えばできるのです。聖書を信じて生きるか、この世の人間として生きるのか。イエスと同じように生きたいと思ったら、生きられるのです。

 この場合、日本人としての自分、固有名詞の自分は実存していないのです。これを思い続ければいいのですが、なかなか思い続けられるものではありません。それを思い続けるにはどのように自分を訓練すればいいかという問題です。

 人の魂は生ける神の子として生かされています。甘いものを食べて甘い味がすることは、生ける神の子として生かされている証拠です。生ける神の子としての実体を経験していながら、この世に生きていると思う。これが間違っているのです。

 この世に生きている自分がいると思うこと自体が間違っているのです。肉体的に生きていると思っていることが、神に逆らっているのです。肉体的に生きているということだけで、神に反抗しているのです。神に反抗していれば地獄へ行くに決まっています。当然のことです。

 皆様は現在生きています。生きていることは神の前にいることです。生きていることが霊です。ですから、肉体的な自分は影です。肉体はありますが、生きていることを称えるための影としてあるのです。自分の命はあるはずがないのです。神から離れて自分の命があるはずがない。そういうものがあると思っているのが大間違いです。

 現在の人間は、創世記の二章から四章を正確に読むことができません。一人の人が男と女になってしまったからです。男と女は本当の人ではありません。男は男ですし、女は女です。これは正確な人間とは言えないのです。

 創世記二章、三章で語られるのは、いわゆるハーアダムです。これは純人というべきものです。ハーアダムは男と女が完全に一体となったものです。これが原点的な人間であって、現在こういう人間はいないのです。

 現在の人間は男と女に分けられた後に、神が食べてはいけないと言った、善悪の木の実を食べて死んでしまった。そして、数百億に分解された後に地球へ追放されたのです。

 何回も失敗を繰り返し、漸く地球に辿り着いたのです。だから、人間に聖書が分かるはずがないのです。今の人間が聖書を本当に理解しようと思ったら、イエスを信じるしかないのです。イエスが自分の本体であって、自分が影だということがはっきり分かる時に、イエスにおいて、男と女が一つの人格であることを知ることができるのです。

 イエスを信じる時にだけ、男と女が一体である自分を知ることができるのです。人の主体はイエスです。イエスを信じることなしに聖書を信じることはできないのです。

 イエス・キリストとは何か。これは人類の統合を意味するのです。数百億に分裂する前、罪を犯す前の純人がイエス・キリストです。数百億の人間がいるように思えますが、人間は一人しかいないのです。

 日本国憲法には、天皇は日本国民の統合の象徴であると書いています。国民が統合するというのは、人格が統合することを意味するのです。キリストと天皇は不思議な関係があるのです。天皇は日本国民の統合を意味しますが、キリストは万物と人類の統合を意味するのです。ですから、天皇は影、キリストは実体の関係になるのです。影があることは実体があることを示しています。

 やがてこのことが世界的に明らかにされるでしょう。その時、全世界の人々は驚愕するでしょう。そして、キリストが再臨し、世界の歴史は根本的に新しくなる。その時初めて、地球上に絶対平和、完全な平和が実現するのです。

 聖書の初めにあるのはアダムですが、アダムとイエスは同じものです。本当の人間を知ろうと思ったら、現実の男である自分、女である自分を頼りにしていたのではだめです。男とか女から解脱して、イエスの立場に立って聖書を見るのです。これ以外に聖書を信じることはできないのです。

 自分でない自分、霊的な自分、イエスである自分を見つけたらいいのです。固有名詞の自分が聖書読んでいたのでは、真意が全然分からないのです。

 自分と聖書の関係を黙想して、聖書にある自分を見つけたらいいのです。これは生きている自分ではありません。生かされている自分です。生きている自分は肉ですが、生かされている自分は霊です。生かされている自分が聖書を読めば、その内容が正確に分かるのです。

 御霊を崇めればイエスが生きていた時と同じ場に立つことができるのです。御霊とは何かと言いますと、宇宙に展開するエネルギーを意味するのです。このエネルギーが万物と人間を生かしているのです。

 御霊の世界が神の国です。皆様が生かされていることが神の国です。生かされているのは現世ではなくて神の国です。現世に生きていると思っていると、聖書を信じることはできません。

 イエスは、「まず神の国と神の義を求めなさい」と言っています(マタイによる福音書6・33)。この条件をのまずに聖書を勉強してもだめです。皆様が生きている森羅万象の実体が神の国であり、その中にある味、香、栄養素が神の義です。人は知らずに神の国と神の義に生きているのです。神の国と神の義がはっきり分かってきますと、現世が影であることが分かるのです。

 皆様が毎日食事をしているのは、実は神の国を食べているのです。これが分からなければ信仰しているとは言えません。観念の信仰はだめです。自分の人生観そのものが信仰でなければならないのです。そうすると、自我を主張する必要がなくなるのです。

 皆様は現世に肉体的に生きていると思うからいつも矛盾が生じるのです。肉体的に生きているという事実はありません。肉は実存していないのです。実存していないから肉というのです。肉は仮存しているだけです。仮存しているから肉というのです。

 聖書でいう肉は現象を意味します。現象感覚を肉の思いと言います。現象は瞬間、瞬間の状態です。現象を実体と思うことは科学的にも間違っているのです。

 科学は現象は実体ではないと証明しています。広島、長崎で原子爆弾が爆発したことが、物質が存在していなことを証明しているのです。物質は存在しない。それはエネルギーであるという理論物理学によって原子爆弾、水素爆弾、中性子爆弾が開発されたのです。現象は実体ではないということを証明するために、科学があると言ってもいいのです。現象が実体であるとすれば、科学の理論を否定することになるのです。

 現象を実体とするのは科学以前の古い考え方です。現象は実存していません。人間の思いであると思うからあるのです。人間の肉体感覚は幻覚です。幻覚を信じないで実体を信じるのです。これが聖書を信じることです。

 人間が考えている女や男は存在していません。人間の肉の思いは勝手な妄想で物を見ているのです。肉体的に存在するとか、現象的に存在するものはありません。現象は感覚であって実存ではないのです。だから、悪口を言われた、誤解された、誉められたということはないのです。それはただの幻覚です。幻だけを見て、人間の精神状態は動揺しているのです。幻を捨ててしまえば、人間の精神が動揺する理由はどこにもないのです。

 イエスは生ける神の感覚をそのまま持っていたのです。エホバがそのままイエスの命だったのです。だから、思い煩いはなかったのです。自分がいないのですから、エホバ以外は何もないのです。エホバは万物が実存していることです。

 万物が存在していることが神の国の原点です。地球があることが神の国です。これが光り輝く状態で感じられるのです。

 人が生きている実体がそのまま永遠の命です。理性、良心、五官の働きは、永遠の命そのものです。この身がこのままとこしえの命です。これを実感することが無上の喜びです。私が生きていることが、そのまま永遠の命です。

 命は一つしかありません。生きているという事実は一つしかありません。従って、永遠に決まっているのです。これは単純な命です。世間の人間は常識で生きているから死ぬのです。

 今生きている命はこのまま続くのではありません。今生きている命を十字架につけるのです。これをしないからいけないのです。今生きている命を十字架につけると、別の命が上から与えられる。これを経験しなければいけないのです。

 別の命が与えられるまでは、思想的に分かっているにすぎないのです。神学的に分かっているのです。思想的に分かっているだけではだめです。本当に十字架を自分で崇めてみるのです。崇めてみるというのは、十字架の中に入ってみるのです。そうすると、今まで自分が生きていた命ではない別の命があることが分かるのです。これを経験するのです。

 十字架はただ聖書に書いてあると思うだけではだめです。十字架によって神が保証している命、死なない命があるのです。これが実感できるようになりますと、自分の命が変わってくるのです。自分の命に対する見方が変わってくるのです。これを恐れてはいけないのです。

 これを経験しようとしますと恐ろしい気がしますが、これは古い自分の恫喝です。これを恐れる必要は全くないのです。

 今までの命の見方は死ぬべき命の見方にすぎません。これをやめるのです。人の悪口を言ったり、人を疑ったり、ごまかしたりするのは死ぬ命です。死なない命に生きている人はそういうことをしません。あるものをあるがままに、イエス、ノーと言ったらいいのです。

 自分が生きている状態を客観的に見れば、死なない状態になっているのです。イエス・キリストが十字架につけられて復活した。それによって人類は死ななくなった。死なない命が与えられたのです。この事実を素直に受け入れたらいいのです。そうすれば、死なない命があることが無上の喜びであることが分かるのです。

(本書の姉妹編、「人類史上初めて明かされた彼岸に入る方法」[JDC出版]を刊行していますので、よろしかったらご覧下さい。)


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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