人間が生きているというのは、宇宙でただ一つの最も尊い命を経験しているのです。これは万物を救うためにそういう命を経験させているのです。
万物の造り主から見て、万物の代表者である人間に神の言葉を理解させることによって、万物そのものを理解させようとしているのです。
従って、皆様が生きている命は、何ものにも譬えられない、すばらしい尊いものなのです。それを自分のものだと考えることを、まずやめることです。自分の命がある、自分の人生があるという考え方は、エデンの園の中央にある善悪の木を食べていることになるのです。
園の中央にある善悪の木というのは、現実の生活における肉の思いのことです。肉の思い、肉の感覚をそのまま食べると、それが人間の常識になってしまうのです。この常識を基礎にして考えたのがキリスト教です。
キリスト教は常識的に、また、宗教的、神学的に、聖書を人間的に理解させるために考えたものです。しかし、神の言葉が働いていないのです。
人間の直感性は命を経験しているのです。直感の実体をよく勉強したら、私たち自体が神の御霊と交わっていることが分かるはずです。
もちろんこれはすぐに分かるというのではありませんが、へりくだって生きているという不思議なことを静かに見ていけば、だんだん分かってくるのです。
生きているという不思議な経験は、皆様自身のものではありません。神が皆様に経験させているのです。だから、皆様は天然自然の味わいが分かるのです。食物のおいしさが分かるのです。花の美しさが分かるのです。
自然現象は神の御霊であって、皆様が生きている命の現象をそのまま大自然に移し変えたようなものです。だから、毎日命を見ていますし、命を食べているのです。
飲んだり食べたりして、人間の五官はいつも神の御霊の働きを直感しているのです。神を経験しているのです。
キリスト教を信じる必要はありません。イエスはユダヤ人の素人に向って、神の国と神の義を求めよと、最初から言っているのです。
皆様が生きていることが神の国です。自分が生きているのではない。神の国を経験しているのです。そういう経験をすることを、神が皆様に許しておいでになるのです。
皆様が経験していることを、よくよく考えれば、皆様自身が神の国にいることが分かるでしょう。五体で神の国という不思議なことを経験しているということが分かるはずです。だから、イエスは「新しく生まれて神の国に入れ」と言っているのです(ヨハネによる福音書3・5)。
皆様は自分の命があると思っています。聖書が分からないと思っている原因は、自分がいると思っているからです。
神が皆様を生かして、神を経験させているのですから、神が分からないというはずがないのです。
神の国と神の義を求めることは誰でもできるのです。皆様が生きていることが神の国です。食べ物を食べておいしいと思うことが神の国です。
皆様は五官を通して神の国をいつも経験しているのですから、神の御霊を崇めればいいのです。そうしたら、皆様は自分の命がどれほど尊いものであるかがお分かり頂けるでしょう。
皆様が生きていることの本体を霊的に理解しようと考えれば、死なない命は必ず分かります。これを見つけて頂きたいのです。
皆様の命を正確に認識することは、神を崇めることになるのです。
自分が救われるのではありません。神を崇めるのです。神は永遠の命です。永遠そのものです。永遠の本質が神です。これを崇めることができれば、皆様の霊魂が永遠に入っていけるのです。これがとこしえの命です。
心臓が止まっても、目が見えなくなっても、脳死状態になっても霊魂は死にません。脳が正常に働いているうちに、神の命が自分に働いていることを認識したらいいのです。
自分が生きているのではない。神の命が自分を生かしているのです。これさえ分かれば、神の命と自分の関係が分かります。
そうして、イエスの世界観、人生観が分かるのです。自分が生きているのではない。イエスが生きているということが分かるのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)