水と霊とから新しく生まれるというのは、聖書の建て前の言い方です。聖書の建て前は、広く言えば宇宙の建て前でありまして、聖書から言っても、宇宙から言っても同じことになるのです。
水と霊とからという言い方は、聖書から出ているのです。一般の方には受け取りにくいかもしれません。日本人には分かりませんので、詳しく説明しなければならないと思います。
水から生まれるというのは、キリスト教的な角度から言いますと、洗礼を受けることになるのですが、洗礼は水によって新しく生まれることを意味するのです。
ところが、キリスト教では水が何のことか分からないのです。なぜ頭から水をかけるのか。洗礼はキリスト教に入信するための儀式だと考えているのです。
水というのはノアの洪水の水を指すのであって、地球そのものが洗礼を受けているのです。ノアの洪水は、神が地球に洗礼を授けたことを示しているのです。
天地創造の原理から考えて、水のバプテスマが分からない人は、聖書が全く分かりません。内村鑑三氏は洗礼は受けても良いし、受けなくてもいいと、非常に曖昧な事を言っていたのです。洗礼の意味が全く分かっていなかったのです。彼はキリスト教の説明ばかりしていました。聖書の本当の原理を全然知らない人でした。その人が切手の絵柄にもなっているのです。有名人は中身が空っぽです。外身ばかりが有名です。
内村鑑三氏の神学は何の価値もありません。聖書の理論的な説明、教義的な説明はしていますが、水と霊とによって生まれるとはどういうことかが分からないのです。神の国に入るとはどういうことか、神はどこにいるのかと聞いても分からないというでしょう。
イエスの言葉が全然分かっていないのです。この人が切手になっているのです。教会信仰も無教会信仰も全部間違っています。水と霊によって新しく生まれて、神の国に入るということが実現していないからです。従って、聖書の言葉を具体的に信じていないことになるのです。イエス・キリストを信じていないのです。
キリスト教と聖書の違いは、水と霊によって新しく生まれるということを、本当に実行しているかどうかです。それを知っているだけでなくて、それを本当に実践しているかどうかによって分かるのです。水と霊とによって新しく生まれて、自分の霊が神の国に入っていなければいけないのです。
イエス・キリストを信じるというのは、ヨハネによる福音書の三章五節の言葉を、文字通り実行することです。イエスの言葉を実践するのです。これが信仰でありまして、キリスト教の教義を理解することではありません。
キリスト教は教義を宣伝しているだけのことです。聖書の言葉の一つ一つを闡明していません。聖書の言葉が命になっていないのです。だから、キリスト教はだめだと言っているのです。
聖書の言葉の一句一句が、本当に自分の命にならなければいけないのです。水と霊とによって新しく生まれるということが、実践されていなければいけないのです。
水と霊とによって新しく生まれて、神の国に入っているという信仰は、アメリカにもイギリスにもありません。今、それが日本において実現しつつあるのです。
バプテスト教会の人々がバプテスマの説明ができないのです。それで困るのです。バプテストという看板を掲げていながら、その教会の先生がバプテスマの説明ができないのです。バプテスマによって人間の霊が新に生まれることが分からないのです。
羊頭狗肉という言葉があります。羊の頭を看板に飾っておきながら犬の肉を売っているのです。牛肉の看板を掲げている店で牛肉を売っていないことになるのです。キリスト教はそういう宗教です。仏教も同じです。キリスト教も仏教も嘘ばかり言っているのです。
イエスは現世にいて、生きているという事実を通して神の証をした。神の証とは何か。イエス自身の命がそのまま神になっていたのです。
ヨハネがそれを見抜いていたのです。イエスの信仰の急所を捉えていたのです。
聖書に、「永遠の命とは、唯一の、誠の神でいますあなたと、また、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知ることであります」とあります(ヨハネによる福音書17・3)。神の実体がそのまま命です。イエスは自分が生きていることが、神そのものであることを知っていたのです。
ザ・ネーム・オブ・ゴッド(the name of God)、神の名がイエスの信仰の実体です。私もそのとおりです。神の名が私自身の信仰の実体になっています。だから、教義とか教派は全然ありません。聖書の論理というものは、神のネームがそのまま原点になっているのです。
神の名が分からなければ、聖書をいくら理解したと考えても間違っているのです。
神の実体は宗教では分かりません。神の実体は神そのものです。キリストそのものが救いです。キリストを信じることが救いではありません。キリストそのものが命です。キリストそのものが救いであることを信じることが、キリストを信じることです。この点がキリスト教の教義と全然違う点です。
神の御名、神の実質、実体を勉強しなければいけないのです。これは教義とは全然違います。
命とは何か。神とは何か。キリストとは何か。人間は六千年の間文明を続けてきましたけれど、全然分かっていないのです。何のために生きているのかということが、全然分からないのです。聖書を信じて何になるのか。何のために聖書を信じるのかが全く分かっていないのです。
救われるとはどういうことか。キリスト教という世界的な宗教があるから信じているのです。キリストとは何か。何のためにキリストを信じるのかについて全く分かっていないのです。
イエスは人間が生きていることが、救いであることを証したのです。人間が造られていることの中に、救いがあることを証したのです。霊に従ってこれを見れば分かるのです。
現在の宗教家は霊に従って見ることが全くできません。難しいことを皆避けて通ろうとしているのです。宗教観念だけで見るという簡単な道を選んでいるのです。
キリスト教では個々の人間が救われて天国へ行くと言いますけれど、個々の人間が死んでから天国へ行くといことは絶対にありません。そんなことは聖書に書いていません。
大体、個我がないのです。救いとは何かと言いますと、イエスが主であることが救いの絶対原則です。イエスが主であるとは、人間が統合されることです。人間がキリストにおいて統合されるのです。これが救いです。
この考え方は日本国憲法の第一条にあります。国民統合の象徴が天皇であると言っているのです。国民が統合するとはどういうことなのか。これは不思議な言葉です。国民が統合するということを、憲法ではっきり述べているのです。
これは宗教的に、哲学的に非常に難しい問題です。国民が統合することを憲法で説いているのです。日本の憲法は宗教でも哲学でも説けない問題を平気で説いているのです。
聖書の奥の院、イエスの御名ということが分かって初めて、国民統合の象徴の意味が分かってくるのです。日本国憲法とはそういうものです。こういう文章が、よく憲法の中に入っていると感心せざるを得ないのです。哲学や宗教では全く取り上げていない人間統合という大問題を、日本の憲法第一条では堂々と取り上げているのです。
天皇は国民統合の象徴である。この言葉の意味が日本人に分かるのでしょうか。哲学者でも、人間が統合するという論理を述べている人はいないのです。
国民が統合するというのは大思想です。これが日本の憲法に堂々と書いてあるのです。このことは、新約聖書ローマ人への手紙の十章九節を見ないと分からないのです。
パウロは次のように述べています。
「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスを甦らせたと信じるなら、あなたは救われる」(ローマ人への手紙10・9)。
イエスが主であるということが、人間が統合することを言っているのです。
皆様がいくら聖書を理解してもだめです。個々の人間として理解してもだめです。皆様が個我であることをやめることが必要です。個我である自分を認めている時には、皆様はまだ本当にキリストが分かっていないのです。
個々の人間は救われません。個々の人間が救われるという思想はキリスト教の思想です。イエスが主であるということは、自分自身が消えてしまって、イエスの中に私たちが入ってしまうことです。そうして、キリストの教会になるのです。
キリストの中に入るのであって、個々の人間が救われることではないのです。死んでから天国へ行くというキリスト教のばかばかしい思想とは全然違います。
個我とは何か。アダムが神に対して罪を犯した。善悪を知る木の実を食べた結果、個我ができたのです。人間の人格が分裂したのです。人間の人格が分裂した結果、個我の人格ができたのです。
皆様は個我の没却を考えなければならないのです。イエスが主であるというのは、個我を捨ててしまうことを言っているのです。個我を捨てる気持ちをはっきり認識して、キリストの内に自分を見るのです。これをパウロはインクライスト(in christ)と言っています。
パウロ自身の信仰はキリストの内にある信仰です。キリストにおいて信じるのです。キリストにおいて見るのです。キリストにおいて仕事をするのです。これでなければいけないのです。
皆様もキリストにおいて見るようになって頂きたい。これが新約聖書の思想です。自分がキリストを見ている状態では、キリストを信じている思想にはなりません。
自分が救われたいとか、自分が完成されたいという考え方を捨ててしまって、キリストにおいて自分を見るのです。イエスにおいて見るのです。これが国民統合です。人間統合です。
人間統合のシンボルが天皇です。これをローマ人への手紙の十章九節によって、憲法第一条を説明したらよく分かるのです。これほど高いレベルの憲法を日本人は持っているのですから、本当の救いが分からなければならないのです。
哲学や宗教では分からないすばらしい思想を、日本の憲法は持っているのです。天皇はなぜすばらしいのか。天皇はキリストの影だからすばらしいのです。
キリストを本当に知るためには、人間の哲学性、宗教性を全部没却してしまう必要があるのです。水と霊とから新しく生まれるのです。そうすると、物事の見方、考え方ががらっと変わってしまうのです。
本当の水のバプテスマと本当の聖霊のバプテスマを受けると、非常に素朴で、また、大胆な考え方になるのです。
個々の人間を脱ぎ捨てて、イエスのネーム、神のネームが自分の命になる。これを自覚するのが正しい見方です。
聖書の価値観、世界観を皆様の価値観、世界観にして頂きたいのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)