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  • 管理人miwa

宗教の間違い

教育も宗教もすべて商売です。職業です。職業ですから、利害得失に一生懸命になるのは当たり前です。政治も、教育も、宗教も利害得失に一生懸命になっているのです。教育や宗教が立派なものだと思うことが間違っているのです。だから、学校の先生やお坊さん、牧師さんが立派な人だと思われると迷惑するのです。

汚くないとこの世の人たちと付き合っていけないのです。せいぜいごまかして、駆け引きしないと、現世の人と付き合っていけないのです。

ですから、宗教がインチキであることを責める方が間違っているのです。だから、宗教ではないものを勉強しなければ本当の命は分からないのです。

私が述べていることが宗教ではないというのは、現世の枠の中にはないものだという意味です。現世の常識、現世の人間の思想の範囲にないものです。

 現世の人間は、百人が百人、千人が千人共、全部死んでいくのです。絶対に死ぬのが嫌なのに死んでいかなければならない。死ぬということが分からない。人間はずぼらなものです。皆様も死ぬに決まっているのです。ところが、死ぬということが分かっていないのです。

 死ぬとは人間の究極の状態です。現世の人間は全部死ぬのです。ところが、死の実体が全く分かっていないのです。

 徳川時代の蜀山人の狂歌に、「今までは 他人が死ぬと 思いしが俺が死ぬとは こいつぁたまらん」というのがあります。世間の人は皆そう思っているのですが、皆様もそう思っているのではないでしょうか。

 死ぬという字は誰でも知っていますけれど、それを真面目に考えていないのです。死ぬということはあると思うけれど、自分が死ぬとは考えないのです。死なねばならないということを、本当に考えていないのです。

 死ぬのは他人のことだと何となく思っているのです。だから、死に対する考えが非常に無責任です。死んでどうなるのでしょうか。それよりも人間はなぜ死ぬのでしょうか。

 死ぬことが分かっていながら、なぜ死ぬのかということを真面目に考えようとしないのでしょうか。触れようとしないのでしょうか。嫌だからでしょう。死ぬという字が嫌なのです。死ぬという言葉を使うことさえも嫌なのです。

 人間は千人が千人、万人が万人共必ず死ぬのです。ところが、死ぬということを真面目に考えようとしない。これはどういう訳でしょうか。

 死ぬということは人間の霊魂の真っ向うの敵です。ところが、霊魂が分からないのです。魂が分からない。本当のことが分からないのです。

 魂という言葉は誰でも知っているでしょう。ところが、魂の実質、実体を全く知らないのです。宗教の専門家、仏教の専門家に聞いても分からないというでしょう。仏教の経典の中に魂という言葉はありません。一万七千六百巻と言われる膨大な経典の中に、魂という言葉が一字もないのです。

 仏教は魂を全然問題にしていません。だから、経典の中に魂という文字が一字もないのです。

 聖書には魂という字がいくつもあります。ところが、キリスト教の人々は魂の実体が全く分かっていないのです。牧師さんは魂ということを言いますけれど、本当の魂を知りませんから、魂を生かすことができないのです。魂を殺したままで天国へ行けるというのです。だから、牧師さんは死んでから天国へ行くというのです。

 イエス様を信じれば、死んだら(現世を去ったら)天国へ行けるというのです。だから、キリスト教会へ行けば必ず死ぬのです。死んで天国へ行くというのです。ところが、これが大嘘です。真っ赤な嘘です。

 イエスは、「生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない」と言っているのです(ヨハネによる福音書11・26)。イエスは「おまえたちは神の国へ入れ、生きている間に入れ」と言っているのです。生きている間に神の国を見なさい。生きている間に神の国に入れと言っているのです。

 「水と霊とによって新しく生まれて、神の国へ入れ」と言っているのです(ヨハネによる福音書3・5)。ところが、水と霊とによって新しく生まれるという説明ができる牧師さんは、日本に一人もいません。日本どころか、世界中に一人もいないのです。

 日本のキリスト教は全くひどいものです。聖書の説明がまともにできる牧師さんがいないのです。水と霊とによって新しく生まれている牧師さんが一人もいないのです。宗教とはこういうものです。ひどいものです。全く嘘を伝えているのです。

 キリスト教の神学校制度が悪いのです。神学校へ行ってキリスト教の教義を勉強したら、牧師になれるのです。牧師になっても聖書は何も分かりません。神学校と聖書は全く何の関係もないのです。

 仏教もひどいものです。お坊さんはナムアミダブツが最高だと言います。阿弥陀如来に南無すれば、人間の精神状態は最高になるという話をしているだけなのです。

 南無というのは阿弥陀如来の中に入ってしまうことです。阿弥陀如来の心理状態の中に入ってしまえば結構なことです。ところが、そうなっているお坊さんは一人もいないのです。

 口で唱えていますけれど、実行していないのです。だから、阿弥陀如来をばかにしているのです。口先だけで唱えて服従していない。こんなことならナムアミダブツと言わない方がいいのです。

 しかも説教が皆嘘です。嘘をしゃべっているのです。自分で実行しないことを話しているから、皆嘘になっているのです。

 宗教家は嘘を言っているつもりはないかもしれませんが、本当に仏を経験していない人が、仏について話しているのですから、嘘になってしまうのです。

 本当の神が分かっていない人が、神について説教すれば、嘘になってしまうのです。宗教は嘘ではないとしても、宗教家は嘘つきになってしまうのです。宗教の経文とか、教えている論理は正しいでしょう。しかし、その事実が日本にはありません。ナムアミダブツという本当の事実が日本にありません。

 そこで、宗教ではない般若心経と聖書を、どうしても勉強しなければならないのです。宗教ではないというのは、宗教家が説いているような般若心経ではない。キリスト教で説いている聖書ではないということです。

 キリスト教では神が分かりません。神を信じることはキリスト教の看板です。看板の神が分からない。神という字は知っていますが神の実体が全く分からない。神を信じることになりますと、いよいよ分からないのです。

 分からない神をどうして信じるのでしょうか。宗教はそれを無理やりに信じさせるのです。

 牧師さんは神を信じなさいと人に教えていながら、本人は神を知らないのです。だから、宗教家は地獄へ行くに決まっているのです。私は地獄へ行くことを最も警戒して、地獄へ行かない方法をお話ししているのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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