自分がいないという確認が必要です。自分がいないという確認をしても、生きていることがなくなるのではない。生きている状態が自分ではないということが分かってくるのです。これが霊(人生)を渡すということです。神を信じることができるのは自分ではないのです。
聖書に、「終わりの時には、私の霊をすべての人に注ごう」とあります(使徒行伝2・17)。この日本語訳は正しくないのです。
英訳ではI will pour of my Spirt upor all flesh.となっています。すべての人ではなくてすべての肉に霊を注ぐとなるのです。人間はすべての肉を代表しているのですが、神が相手にしているのは、人間を初めとしてすべての肉なのです。肉という言葉は聖書独特の言葉で、聖書になじみのない人には分かりにくい言葉ですが、目に見える現象を肉と言っているのです。
人間という特別のものがあるのではない。すべての肉の代表として人間がいるのです。すべての肉は霊を受け止めることができない。人間だけが受け止められるのです。
私の霊を注ぎ出すとありますが、動物や植物はそれを受け止めることができない。受け止めることができないものに、霊を注ぐことはないのです。霊を受け止めることができる者に霊を注ぐのです。人間はそれを受け止めなければならないのです。
人間はすぐに自分がいると考えています。これがいけないのです。肉の代表者として人間がいるのです。人間が霊を受け取ることによって、すべての肉にその霊を与えてあげなければならないのです。すべての肉に対する神の処置を、万物に伝えなければならない責任が人間にあるのです。
その責任は祭司としての責任です。人間は万物の王であると同時に、祭司という責任を自覚しなければ霊の王になれないのです。
万物の祭司であることを自覚するのです。ですから、自分はいないのです。万物の代表者がいるのです。
五蘊の外へ出てしまわなければいけないのです。自分がいると思っていると、どうしても五蘊の中にいるのです。自分という意識から離れてしまうのです。
万物の代表者である人間に神の霊を注ぐと言っているのです。人間を顧みることになるのですが、人間だけを顧みるのではない。万物を顧みなければならないのです。万物を顧みるためには、万物の代表を顧みなければならないのです。
どこまでも万物を顧みることが神の御心です。従って、万物に対する恵みを横取りしてはいけないのです。宗教は神の恵みを自分が横取りしているのです。自分が救われたいと考えるのです。
イエスは自分を捨てるために、自分が消えてしまうために、神を信じたのです。自分が救われるために神を信じたのではなかった。これをよく考えて頂きたいのです。
重いものでも持ち上げようとすると、すっと力が出るのです。これは何かです。人間に力があるのではなくて、動くと力が出るのです。これが御霊の働きです。動き出すと勝手に力が出るのです。動いていることが力です。
神の霊が水のおもてを動かしているのです(創世記1・2)。日本語訳では神の霊が水のおもてをおおっていたとなっていますが、英訳では動かしているとなっているのです。
動くことが神の御霊です。パワーはどんなものでも神の御霊です。御霊ではないパワーはありません。パワーとはエネルギーのことです。
ところが、マイナスのエネルギーもあるのです。けがをするとか、事故が起きるとか、病気をするのはマイナスの力によるのです。
「闇が淵のおもてにある」とあります(同1・2)。闇はただ淵のおもてに座っているだけです。神の霊は水のおもてを動かしているのです。肉体があるのではない。肉体を肉体としている御霊の力があるのです。だから重いものでも持てるのです。人間の知恵も神の御霊の働きです。
現在の学問は全体学ではありません。部分学です。専門学というと聞こえがいいのですが、実は部分的なことしか分からないのです。部分的なこととはどういうことかと言いますと、人間の常識で判断できることをいうのです。
全体とは何かと言いますと、存在の根底をいうのです。専門学は部分的な説明しかできません。人間の肉体生活にはプラスになりますけれど、人間の命について何の価値もないのです。
新約時代には人間の知恵と力の御霊が働いているのです。これが神の国です。荷物を持ち上げるということが神の国にいることです。
人が生きていることは神の前にいることです。アブラハムにはこれが分かったのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)