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  • 管理人miwa

新しく生まれる

イエスが聖書を信じていたのは、自分自身のことが聖書に書いてあるからでした。だから、信じなければならないと言っているのです。

聖書の言葉を文字通り受け取るということが信仰の基本になりますが、それをするためには、私が書いた聖書についての解説をまず熱心に勉強して頂かなければ、聖書の言葉をそのまま受け取る気持ちにはなりにくいのです。

皆様の中の多くの人は一応御霊を受けているのです。御霊を受けているということは、約束の民として神から正式に認められているということです。

ですから、イスラエルとしての意見を言うならいいのですが、問題は、現在皆様は日本人として生きていると思っていることです。ですから、イスラエルとしての聖書の認識を持つと同時に、それを日本的な形に翻訳するとどうなるのかということを考えなければいけないのです。

 日本的な形でいうとどうなるのかということを、心得ておかなければならないのです。ですから、聖書に書いてあるからこうだという言い方は間違っていません。半分は合っているのです。現在日本人として神に生かされている訳ですから、霊的にはイスラエルであると同時に、肉体的には日本人であるというこの二つの条件を、かみ合わすような形で聖書を見ていかなければならないのです。

 イスラエルとしての意見は聖書に書いてあるのですが、日本人としては聖書に書いてあるということだけではいけないのです。

 第三の天とは何か。第三の天があるという証明は、暦年算定で今年が二〇一六年であること、キリスト紀元が存在するということです。

 キリスト紀元というのは、第三の天がなければ存在するはずがないのです。世界中の人間が日曜日を守っているということが、第三の天を証明しているのです。

 第三の天ができたということは、神の創造に基づく自然現象ではない別の条件が発生しているということです。第三の天というのはそういう天です。

 第一の天と第二の天は初めからあったのですが、第三の天は初めはなかったのです。イエス・キリストの十字架、復活によってできたのが第三の天です。新約時代というのは第三の天の時代であって、キリスト紀元があること、日曜日に休み、クリスマスを祝っていることが、第三の天ができた明白な証拠になるのです。

 ですから、この意味を心得たらいいだけのことです。あなた方自身がキリスト紀元を知っていながら、それが第三の天に関係があるという考え方をせずに、ただ歴史的に変化が生じていると漠然と考えている。こういう考え方が第三の天を知らない証拠になるのです。

 毎年クリスマスを祝っているということは、第三の天がある証拠です。クリスマスがあるということによって、第三の天が分からなければならないのです。

 第三の天においてキリストが神の右に座している。キリスト教であっても仏教であっても、共産主義者でも、そんなことに関係なくキリストが神の右に座しているから、全世界の大権をキリストが持っているということになるのです。

 だから、聖書を信じても信じなくても、皆クリスマスを祝っているのです。クリスマスの意味が分からなくても、聖書を信じていなくても、キリストの誕生を祝っているのです。

 これはキリストが特殊な位置、宇宙的な特殊な位置を与えられているという証明になるのです。今年が二〇一六年であるということが、その最も顕著な証明になるのです。

 もっと顕著な証明は、皆様が御霊を受けているということです。第三の天に生きていなかったら、どうして御霊を受けることができるのでしょうか。第三の天に生きていなかったら、異邦人である皆様が御霊を受けるはずがないのです。御霊を受けていながら、第三の天がはっきり分からない。それは真面目に聖書の勉強をしていないからです。

 人間は現在生きているのです。だから、聖書を信じない訳にはいかないのです。聖書は宇宙が存在すること、特に地球が存在することをそのまま記録しているのです。ありのままに記録しているのです。だから、聖書が分からなければ、生きていることの意味と目的が全く分からないのです。

 聖書がなくても、人間が生きていることがはっきり分かっていれば、聖書を信じなくてもいいのです。

 現在の人間が生きているという気持ちは、生きているという事実に合わない感覚で生きているのです。事実を正しく認識していない感覚で生きている。これが死んでいる証拠です。肉の思いというのはそういうものです。

 自分が生きていることを、正当に正確に認識することができない状態で生きている。これが死んでいることになるのです。

 何のために生きているのか分からない。それは肉の思いで生きているからです。現象意識で生きているからです。肉の思いで生きているから命が分からないのです。

 命は霊なるものです。それが分からない。現在人間が肉体的に生きているということが、死んでいることになるのです。

 肉体的に生きているということは、死んでいることを証明しているのです。

 今年が二〇一六年であるということは、すべての人間が死ななくてもよくなってから、二〇一六年も経っているということです。

 神の国が来てから二〇一六年も経っているのです。正確に言えば、聖霊降臨から神の国が地球に来ているのです。

 キリスト紀元というのはキリストの紀元であって、神の国の紀元をいうのです。人間の紀元とは違います。現在の人間は一応頭ではキリスト紀元を知っています。知っていますけれど、やはり元のままの人間として生きている。肉体人間として生きている。これが地獄へ行く原因です。

 キリスト紀元を信じているのなら、地獄へ行かなくてもいいのです。ところが、今の世界中の人間はキリスト紀元を頭では知っていますが、聖霊を受けていない。第三の天を信じていない。だから、地獄へ行くのです。

 キリスト紀元が全く分からないのなら、地獄へ行かなくってもいいのです。犬や猫は地獄へ行きません。キリスト紀元が全く分からないからです。ところが、人間はキリスト紀元が分かっている。だから、人間は地獄へ行くのです。

 イエス・キリストの十字架、復活によって、第三の天が実現したということは完璧な事実ですから、全世界の人間は信じなければならないように、神に仕向けられているのです。

 歴史の流れを造るのは神自身です。歴史は神の物語であって、人間の物語ではない。神の物語に従わなければ歴史が編成されないのです。歴史の概念を編成することができない。ユダヤ人を中心とする全世界の人間の動きを基準にしなければ、歴史の概念が編成されないのです。

 人文科学という組織の仕方の根元が神の流れにあるのです。自然科学でも同じです。神の創造という事実を基盤にしなければ、自然科学は成立しないのです。

 第三の天があるということは、世界歴史によって説明できるのです。キリストが来たことによって世界の歴史が新しくなった。歴史が新しくなったということは、第三の天ができたということです。

 第一の天(目に見える現象世界)、第二の天(天文学、理論物理学で見ている天)ではない、第三の天ができたというのは不可抗力によってできたのです。

 神の不可抗力というものは、分かるとか分からないというものではない。分からなければいけないことばかりなのです。知らなければいけないことです。分からなければ人間は死んでしまうのです。生命の根元に関する最も重要なポイントなのです。

 皆様が生きているということは、第三の天を経験していることなのです。第三の天があるということを前提にして考えますと、生きているということはそのまま救われていることになるのです。

 孔子が生きていた時代は、イエスよりも五百年位前でしたから、聖なる人間が全然分からなかったようです。聖書もないし、聖霊降臨もなかった。孔子が霊魂のことが分からなかったのはやむを得ないことでした。

 今孔子が生きていたら西暦紀元のことを考えたでしょう。西暦紀元のことを考えなかったら政治ができないからです。日曜日を考えなければ人間生活ができないからです。ですから、ユダヤ人問題のことを考えざるを得ないのです。

 孔子の時代には霊魂という概念がなかったのです。魂という言葉が大乗仏教にはありません。大乗仏教は無神論でありまして、無霊魂思想です。

 般若心経には魂という思想はありません。ただ人間が生きている状態が五蘊であって、それを皆空と言っているのです。五蘊皆空と霊魂という概念と、どのような関係があるのか。

 テレビの番組で民謡の番組がありました。民謡を踊っている本人たちは全く知りませんが、第三の天的な感覚で見ますと、神の栄光を現わす踊りになっているのです。民謡が持つリズムとか、手足の動き、メロディーも神を賛美するものになっているのです。人間の営みの中に隠れている神への憧れ、神への期待、神と交わりたいという魂のあえぎがよく出ているのです。民謡というのはそういうものなのです。

 第三の天は非常にありありとあるのです。これが民謡に現われているのです。

 皆様はお寿司がおいしいと言います。おいしいのはお寿司とは違います。人間の舌が味わっているからおいしいのであって、お寿司がおいしいのではない。

 実は舌に与えられている感触がおいしいのです。神が人間の舌に与えている感触がおいしいのです。

 人間が見ている景色が美しいのではなくて、人間の目の感覚が美しいのです。目が宇宙の美しさを捉えているのです。目が宇宙の美を捉えているのです。

 宇宙の美は神の栄光です。神の栄光を景色という形で捉えているのです。お寿司を食べようが、踊りを見ようが、すべて第三の天が現われているのです。皆様はそんな世界に住んでいながら、永遠の命が分からないのはおかしいのです。

 人間の現世の営みが民謡という形になって、人間の魂にアピールしている。それを魂が受け止めると、永遠の生命が分かるようにできているのです。それは第三天があるからです。

 イエスがキリストであることを信じると、命が新しくなるのです。イエスがキリストであると信じた者は、神から生まれるのです。これを経験していない者は生まれていないのです。

 母の胎内から生まれたということは、神に造られたということです。神に造られたけれども生まれてはいないのです。生まれるというのは、水と霊から新しく生まれなければいけないのです。

 「神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れた」とあります(創世記2・7)。その結果、人は生ける者となった。生ける者となったというのは、生まれたことではないのです。

 生まれたというのは、生きているという事がらの実体を認識することを意味するのです。生きている命の実体を正確に認識することを、生まれると言うのです。

 第三天におけるキリストが分からなければ、これはできないのです。キリストが分からなければ、新しく生まれることができないのです。

 皆様が生きているのは、神に生かされているのです。神が皆様を生かしているのです。神が皆様にプロポーズしているのです。ところがそれに全然答えようとしていない。魂が神に結び付くようなことをしていないのです。人間は御霊によって生かされていながら、そのかぐわしい生かされ方が全然分かっていないのです。

 従って、森羅万象を見ているけれども、神の栄光がはっきり見えていないのです。第三天におけるキリストの栄光が皆様の意識の中心になっていない。生活の気持ちの中心になっていないのです。ですから、皆様は新しく生まれていないのです。

 神に造られたことによって五官は働いています。神によって、目が植えられ、耳が植えられた。植えられた機能によって皆様は生きているのですけれども、命を認識していない。つまり、新に生まれていないのです。

 現世で母の胎内から生まれたことはあるでしょう。これは生まれたのではなくて、造られたのです。肉体的な形で造られたのですが、自分自身によって生まれたのではないのです。

 生まれるという言葉は自発的な意志によるのです。これをしていないと全部地獄へ行くことになるのです。なぜ地獄へ行くのかと言いますと、生きているのは神にプロポーズされていることになるのです。神の栄光を毎日見せられているのです。食べるにしても、飲むにしても、毎日毎日、神の栄光を次から次へと与えられているのです。それに対して、神へ栄光を帰して、神に感謝しなければならないのです。神の子としての自覚がなければならないはずですが、それをしていない。だから、地獄へ行くことになるのです。

 自分が生きている。自分が食べている。自分が勝手に飲んでいる。これは神を軽蔑しているのです。神を神として崇めていない。感謝もしていない。そこでセンスレスハートになっているのです。

 神の愛が全然分かっていない。みすみす命が与えられていながら、命が分からない。命を無駄使いしているのです。命の値打ちが分からない者は、地獄でさんざん思い知らされるのです。生きていることがどれほど有難いことだったかということを、地獄へ行ってから徹底的に思い知らされるのです。

 人間は生きていて神を崇めていない。生きていながら神を崇めていないということは、軽蔑に値することなのです。だから、この世を去って、神から徹底的に軽蔑される。これが地獄です。

 お寿司を食べておいしいと思っているのは、唯物論を信じているのです。この考えを持っている人は、自分の命を汚しているのです。だから、地獄へ行かなければならないのです。

 皆様は第三天から生まれなければいけないのです。上から生まれるとは、第三天から生まれることです。

 物理的な地球は人間の肉体を産むための生殖機能です。地球は女性的な機能であって、万物の肉を産むのです。第三天は霊を産むための機能です。神がキリストの復活によって創設した第三の天は、霊を産むための機能です。ここから生まれなければいけないのです。

 自分が生きているということを、落ち着いて真面目に考えたらいいのです。例えば、俳句をつくるような気持ち、絵を描くような気持ちでゆっくりと自分自身を見たら、永遠の命が分からなければならないようにできているのです。

 ある人が言っていました。創作活動と霊魂には関係がないと思うということでしたが、関係がないどころか、大いに関係があるのです。俳句をつくるとか、絵を描くというのは、永遠の命ではありませんが、その入口になるのです。そこから入っていったらいいのです。宗教から入ると却って間違えてしまうのです。

 絵を描いたり、文章を書いたりする人は、それにかぶれてしまうのです。絵を描いていくと、それが一番上等のものと思い込んでしまうのです。それに惚れ込んでしまうのです。

 冷静に考えるのなら、創作活動は非常にたくましい神への前進になるのですが、それにのめり込んでしまうのです。

 芥川龍之介や川端康成がなぜ自殺したのか。自分が書いた文学に酔っぱらってしまって行き詰ったのです。自分が最高だと思った文学に行き詰ったのです。その値打ちが分からなくなったのです。そこで死んでしまったのです。

 ばかなことをしたのです。皆様はそういうことはしないでしょう。芥川龍之介よりも真面目ではないですし、川端康成よりも謙虚ではないからです。

 皆様は自分の魂の値打ちを知りません。命の値打ちを知りません。命の値打ちを知らないことほど、もったいないことはありません。また、恐ろしいことはありません。

 皆様は肉体を持って生きていますが、もし神が肉体を持ったとしたら、皆様と同じような生活をするに決まっています。皆様が現在生きている衣食住の生活形態は、宇宙の最高の形態です。神が肉体を持っても、皆様以上の生活形態はできないのです。

 御霊を受けたということは、上から生まれたことです。御霊を受けていながら、上から生まれたという事実を理解していない。これがいけないのです。

 女性とは何か。神はアダムに神自身を知らせる必要があったのです。アダムが神自身を認識しない状態ですと、天使長ルシファーが悪魔に転落したようなことになるのです。アダムに神自身を知らせたい。神自身を教えたい。そこで、アダムをエデンの真ん中に置いたのです。

 ところが、アダムはエデンのすばらしい景色を見ても分からなかったのです。

 見るによく、食べるにふさわしいもろもろの木を生えさせた。エデンの景色は今地球上にあるものとは違います。土が呪われる前の景色でしたから、エデンの夕焼けはすばらしいものでした。現在の人間が考えるような景色とは全然違います。天国のすばらしさがそのまま現われていたのです。

 四つの川が源から流れ出て、水晶のような、ダイヤモンドのような水が流れていた。神はそういう所へアダムを置いたのです。被造物に現われている神の栄光のすばらしさを、アダムに知らせようとしたのです。

 ところが、さっぱり分からない。花を見ても、動物を見ても分からない。太陽を見ても、月や星を見ても分からない。山を見ても川を見ても分からない。どうしても神が分からなかったので、一番最後に、神の栄光がすばらしく現われた最高のものである女を見せたのです。

 第三天ができた後の人間は、それ以前とは全然違います。生ける魂ではなくて、命を与える霊になっています。御霊を受けた者は、命を与える準備ができているのです。だから、天のエルサレムから生まれなければいけないのです。

 一輪の花が咲いているということの中に、千々万々の原理、道理が集まっているのです。風が吹くということの中にもたくさんの原理が集まっているのです。仏教で考えているように、色々な仏性が集まって花になっているのです。太陽の光、風の力、土の力等、数え切れないほどの多くの原理が集まっているのです。

 一つひとつの原理、法則を、仏教では如来、仏性と言っているのです。仏が北から一億何千万、南から一億何千万、東から一億何千万、西から一億何千万と集まって、仏さんが会議をしているのです。こういうことを華厳経、維摩経、法華経には詳しく書いています。

 一陣の風が吹いているということの中にも、恐ろしい神の言の原理が何百万、何千万と働いているのです。人間の体には六十兆の細胞と一千万兆の細菌が集まっていますが、一つひとつの細胞に無数の原理が働いているのです。これを一体何と考えたらいいのでしょうか。

 神が産んだのはたった一人の人間です。これが生みたまえる一人子です。ですから、自分が生きているという事実はありません。自分の命があるというばかなことはありません。

 人間はおのずから生まれたのであって、自然現象として生まれたのです。これは本人が生まれたのではないのです。

 生まれたのはナザレのイエスだけです。神が産んだのはイエスだけです。イエス以外のものは全部動物的に産み落とされたのです。

 人間は花とは違います。生ける神の御霊ご自身が、皆様の中に臨在していて、皆様の人格を統一しておられるのです。神の御霊によって皆様の生理機能や心理機能は秩序整然と置かれているのです。このすばらしい神の力が、皆様の中にありありと出ているのです。これをインマヌエルというのです。エホバがわが救いというのはこの事をいうのです。これをイエスの御名というのです。

 そのように皆様は一輪の花よりもっと優れた状態で、神の国を現わしているのです。神の国を一人ひとりの人が現わしている。これをよくお考え頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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