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神の国に入る(1)

皆様は現世に生まれてきた以上、どうしてもしなければならないことがあるのです。どうしてもしなければ、霊魂の裁きという惨憺たる状態に追い込まれてしまわなければならないことになるのです。

人生というのは端的に申しますと、一か八かになるのです。一を不完全とする、八は完全だという言い方をすると、一か八かになるのです。

人生は空か実か二つしかないのです。完全というのは百点に到達するのとは違うのです。

 現在皆様は無意識に完全を求めているのです。死にたくないという気持ち、嬉しい、楽しい、おいしい、美しいとかいう感覚は、完全を意味するものなのです。

おいしいというのは完全を意味しているのです。菊を見た時に、人々は美しい菊だと感じます。菊のあり方を見ただけで美しいということが分かるのです。これは的を射ているのです。これが百点です。

 菊を見て皆様がきれいだと考えたとすれば、そのこと自体が完全です。これを彼岸という言い方をしてもいいのです。

 完全というのは数字の問題とは違うのです。数量の盈満を意味しないのです。完全というのは精神の盈満を意味するのであって、数的にいっぱいになるという意味ではないのです。

 皆様が自分の命を完全にしようと考えれば、完全になっていることに気が付いて頂きたいのです。

 皆様はしばしば完全になっている時があるのです。例えば、美しい花を見た時とか、おいしいものを食べた時とか、楽しい時間を過ごしたという時です。おいしいとか、美しいとか楽しい、嬉しいが完全を意味することになるのです。

 どんな小さな完全であってもかまいません。本当に嬉しい楽しいと感じる時には、その人の心は盈満を感じているのです。盈満を感じないで楽しいとか嬉しいを感じるはずがないのです。

 嬉しさにも色々あるでしょう。小さい嬉しさでも、その小さい嬉しさに満足しているはずです。満足しているということが実は神です。

 皆様は神の実物をいつも見ているのです。これを人生全体にあてはめていけばいいのです。例えば、おいしいものを食べた時に、おいしいとはどういうことか。おいしいという感覚と自分の霊魂とはどういう係わりを持つことになるのか。これを考えれば、皆様は死なない命にしばしば出会っていることに気づくはずです。皆様は神の実物をいつも見ているのです。

 パウロは、「良きおとずれを告げる者の足は麗しい」と言っています(ローマ人への手紙10・15)。麗しいというのは英訳でbeautifulになっていますから、美しいと訳した方が良いと思います。

 足とは、あり方とか、動き方という意味です。動いている状態とか、そこにそれがある状態という意味です。花が美しいということは、花が歩いているのです。存在という形で歩いているのです。

 すべて物事が存在するのは、時間の流れによって存在しているのでありまして、時間の流れというのは、それが歩いているという形容を用いていることになるのです。

 現在、花が咲いています。これは歩いていること、動いていること、花自身が働いていることを意味しているのです。

 植物的生命が躍動していることが足です。良きおとずれとは福音ということです。福音というのは人間が完成に出会えたこと、また、完成になったことを本人が自覚できる状態です。これが喜びです。幸いです。

 そのように、仕向けてくれる叡智が福音です。人間の命が盈満する状態になるような神からの訪れがあるのです。人間の霊魂に対する話しかけを意味するのです。

 嬉しいとか、楽しいとか、美しいとかを感じることが神からの話しかけの兆候です。花を見て美しいと思うことは神から話しかけられている状態です。これを美しいと思うのです。

 これは神が皆様に話しかけている兆候です。これを掴まえれば、命の本体が分かるのです。死なない命というものはそういうものを意味するのです。

 花が美しいということが本当に分かれば、その人は死なないのです。花を見た時の気持ちの持ち方が問題です。美しさを強く認識できたかどうかです。

 花が咲いているということだけでも、深く強く認識すれば、それだけでとこしえの命は分かるのです。そういう世界に皆様は住んでいるのです。

 キリスト教では良き訪れを告げる者の足ということが分からないのです。良き訪れとは福音です。福音を伝える者の足とはどういうものか。キリスト教では牧師さんの足のことかと思うのですが、そんなものではありません。

 天地万物は動いているのです。歩いているのです。その姿が分かればそれが福音になるのです。こういうことがキリスト教では分からないのです。キリスト教では霊のことが全然分からないのです。なぜかと言いますと、キリスト教の人々は聖霊を正しく受けていないからです。

 命が神の御霊によって生かされている。そのような実体を認識して、自分の命の本体である神の御霊を崇めるのです。

 崇めるというのは英語でマグニファイ(magnify)という言葉を使っていますが、これがどうすることか分からないのです。

 神を崇めるとはどうすることかが、キリスト教では分からないのです。

 キリスト教では魂の実感を問題にしないで、キリスト教の教えばかりを言っているのです。キリスト教の教義、ドクトリンばかり説いているのです。こういうことをしていますので、何年キリスト教会へ行っても神は絶対に分かりません。

 牧師さんは神を信じなさい。ただ神を信じなさいと言います。信じるとはどうすることかがキリスト教では分からないのです。

 信じるというのは霊なることです。人間の魂が霊的に作用することです。これが信じることですが、霊的に作用するとはどういうことか、宗教では分からないのです。

 キリスト教だけではありません。仏教でもそのとおりです。太鼓を叩いて歩いている教派がありますが、何も分かっていないのです。

 花を見て美しいということの意味を、皆様にははっきり知って頂きたいのです。そうすると、命が分かるのです。

 皆様の五官の働きというものは、命の本質です。皆様の五官は命の本体を受け止める力を持っているのです。五官の働きが、おいしいとか、美しいとかいうように受け止めていますが、これは命の働きを受け止めているのです。これは間違いなく神の実物を受け止めているのです。

 神というのはおいしいことです。楽しいこと、嬉しいことです。これが神です。恋愛をすれば嬉しいことがたくさんあります。これが神です。恋愛する時に神を実感しているのです。

 文明を信じていることがいけないのです。文明主義というのは、ユダヤ人が調子に乗ってルネッサンスという人間の概念の風船を何百何千と飛ばしたのです。これが文明というものなのです。

 文明が造っているのは概念という風船ばかりです。政治、経済がいくらうまくいっても、そこに命はない。人間の概念ばかりです。そういう概念に騙されている生き方をやめて素朴に考えて頂きたいのです。

 嬉しいとは何であるのか。楽しいとは何であるのか。これを考えてみて下さい。そうしたら、神が分かるはずです。

 皆様の魂は暗黒のうちに神を経験しているのです。皆様は皆様なりに神を掴まえているのですが、まだ神の国に入っていないのです。神の国に入って自由自在に神を使いこなすようなことができないだけです。

 神の国に入って頂きたい。神はとても仲良くしてくれるのです。そういうものなのです。

 皆様は嬉しいこと、楽しいことをいつも経験しているのです。これを魂の喜びとして受け取ることをしていない。これは魂の姿勢が悪いからです。この姿勢を直して頂ければ、嬉しい、楽しいことが永遠の命に繋がることが分かるのです。これが誠の神の実物だということがよく分かるのです。ここが宗教と違う所なのです。

 私が述べているのは宗教ではありません。人間が生きているということの事実を通して、神をどのように掴まえるかということをお話ししているのです。

 キリスト教の概念で聖書をいくら学んでもだめです。仏教の概念でいくら阿弥陀経を読んでもだめです。

 なぜだめかというと、本気になっていないからです。宗教は概念ばかりを話しているのです。親鸞会とか南無の会がありますが、概念ばかりを話しているのです。

 宗教家は概念ばかりを振り回しているのです。宗教という概念、解脱とか念仏という概念を並べているのです。これを何年勉強してもだめです。

 楽しい、嬉しいということが霊魂の救いだという簡単なことを考えて頂きたいのです。そうすると、神の国に入ることができるのです。

 人間は楽しい、嬉しい、美しいということを通して、神を経験しているのです。これをきちっと掴まえて、楽しいと感じた国に入ってしまうのです。

 嬉しいと感じたらその国があるのです。その国の中へ入ってしまうのです。

 皆様が嬉しいと思うこと、美しいと思うことには天地自然の原理があるのです。天地自然の原理がなかったら美しいとは絶対に思いません。

 皆様の霊魂は非常に単純に素朴に、楽しいことを楽しいと受け取るのです。これが霊の思いです。霊の思いは命であり、平安であるとあります。楽しいことを楽しいと言える心がありますから、生ける誠の神を掴まえることは十分にできるのです。これはそんなに難しいことではありません。誰でもできるのです。

 恋愛をすることはいいのですが、ただ世間並みのセックスの感覚で恋愛をしていても永遠の命になりません。これはいくらしても本当の幸福を掴まえることはできません。

 人間が考えるセックスと、本当の恋愛が持つ意味のセックスとは違うのです。女性を知るということは本当に難しいのです。現在の日本社会では本当の女性を教えてくれる人はいません。

 女性はたくさんいますけれど、本当の女を自覚している女性はいません。聖書が言っている女性と、世間にいる女性とは違うのです。聖書の女というのは、「これこそ、ついに私の骨の骨」ということです(創世記2・23)。

 この骨の骨の女が肉の肉になってしまっているのです。今の日本社会の女性は肉の肉ばかりです。これは性欲の対象にはなりますが、本当の意味での恋愛の対象にはならないのです。

 本当の意味での恋愛ができる女性は、女性自身が本当の女性を認識する必要がありますし、男もまた、永遠の命、命の本質に基づいて女性を見るのです。こういう男性でないと本当の恋愛は分かりません。永遠の恋愛とはそういうことです。

 恋愛は永遠のものです。人間がこの世に生きている間の恋愛は、本当の恋愛と言えるものではありません。小野小町は、この世に生きている人間の恋愛が嫌いでしょうがなかったらしいようです。そこで彼女は逃げ回っていたのです。

 女性には本当の恋愛が分かる人がいるようです。本当の恋愛が分かる男はまずいません。

 原罪をよくよく調べていきますと、現世の男というものは根本的に神を見失っているのです。男は現世の中心的存在の人格です。現代文明をこのように展開しているのは、男という人格の働きです。

 この世は男の世です。この世の主を聖書は悪魔と言っています。The prince of the worldこの世の君です。この世の王様が悪魔なのです。

 現世で威張っている男は悪魔そっくりです。皆様は今まで長年勉強してきました。しかし、現世に生きている人間は皆間違っているのです。死んでいく人間ばかりです。

 皆様は死んでいく人間のこと、また、死んでいった人間のことはよくご存知ですけれども、死なない人のことは勉強していないのです。イエスを勉強するのは、死ななかった人を勉強することです。

 イエスは死なない命を経験していた人物です。この人を勉強すると死なない命が分かりますし、また、本当の恋愛が分かってくるのです。そうすると、本当の女性を見ることができるのです。

 女性は本当の男性を見たいと思っているのです。また、本当の男に見られたいと思っているのです。ところが、本当の男はめったにいません。だから、本当の恋、永遠の世界に通じる恋というものを経験した女性はめったにいないのです。

 永遠の恋というものはめったにあるものではありません。しかしなければならないものです。この世に生きている間の恋愛は、セックスのことを言っているのです。本当の恋愛ではないのです。

 死なない命の恋愛、イエスが持っていた感覚の中にある命の恋愛を掴まえるのです。そのためには、まず皆様の人間観の不完全さを捨ててしまうことです。これが第一に必要です。

 自分に対する見方の不完全さをそのままにしておいて、常識的な人間のままで生きている状態では、本当の恋は掴まえられません。

 世間並の恋ならいくらでもあります。そんなものを掴まえてもしょうがないのです。熱烈な恋愛をして結婚しても、こんなはずではなかったということになるのです。そして喧嘩して別れることになるのです。こんなものは恋愛ではありません。

 人間は誤解しているのです。般若心経に五蘊皆空とありますが、人間の考え方、感覚は五蘊ばかりです。これは肉の思いです。妄念です。肉の思いで生活しているから、肉の思いで恋愛している。こんなものは恋愛でも生活でもないのです。

 本当の生活とはどういうものか。これを掴まえて頂きたいのです。

 聖書に次のような記述があります。

 神は「善悪を知る木から取って食べてはならない。それを取って食べるときっと死ぬであろう」と言われたのです。

 しかし「女がその本を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた」(創世記2・17、3・6)。

 女がその本を見ると、食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたとありますが、女にそのような精神能力があったかどうかです。その時の女の行動はどういうものではあったのかということです。

 エデンについては現在のキリスト教は全く分かっていません。カトリック教会でもエデンの勉強をしていないでしょう。エデンのことを本当に勉強したら、カトリックという教派が成り立たなくなるはずです。

 プロテスタントも同様です。エデンで起きた内容のことが全然分かっていないのです。エデンのことを皆様に分かって頂くためにお話ししたいのですが、皆様の人生観が根本的に矛盾しているのではないかと思われるのです。

 根本的に矛盾したままの状態で、いくらエデンのことを考えても分からないでしょう。私がお話ししたら、言葉として分かるかもしれませんが、命の実体としてそれを認識することはできないのです。

 皆様は現在生活していますけれど、これは昨日、一昨日のことを考えなければ今日の生活が成立しないのです。

 皆様は昨日のこと、一昨日のことを無意識に、また、有意識に認識しているのです。だから、今日の生活が成り立つのです。

 今日の生活をしながら明日のこと、明後日のことを考えているに決まっているのです。今日の生活が成立するために、まず皆様は昨日のこと、一昨日のことを踏まえて考えているのです。

 これは現世に生まれてくる前に、前世があったということを意味するのです。前世の経験があったことを意味するのです。前世のことを踏まえて現世が成立しているのです。

 ところが、今の皆様は前世のことを全く考えていません。だから、おいしい、美しいということの意味が分からないのです。これが分からないのは、大きな間違いをしているからです。キリスト教の間違いはここにあるのです。

 昨日のことを考えなければ今日の生活が成立しないのです。今日の生活を成立させるためには、明日のことを考えずにはおられないのです。

 過去と現在と未来というような時間的な配分を認識していなければ、人間生活が成立しないのです。これをまず承知して頂きたいのです。

 過去のことを考えなければ、今日の仕事の段取りはできないのです。明日、明後日のことを考えなければ、今日の仕事ができないのです。

 このように人間は過去、現在、未来という三つの重大なポイントを踏まえて生活しているのです。これと同じ原理が皆様の人生全体に当てはまるのです。

 皆様の現世の命は今日の生活みたいなものです。今日という生活をするためには、昨日、一昨日のことを考えなければいけないのです。ところが、皆様は現在の生活を考える場合に、前世を全く考えていないのです。

 皆様がこの世に生まれてくるためには、その原因がなければならないはずです。生まれてくるまでの自分の命のようなものがなければ、今日の命があり得る道理がないのです。

 原因がなければ結果は絶対にあり得ません。今日の命という結果を考えるために、生まれる前の命を考えたことがあるのでしょうか。

 宗教はそれが絶対できません。前世という言葉くらいはありますけれど、私が言うのは宗教で言う前世とは違うのです。具体的な意味において人間の前世があるとしたら、それはどのようなものであったのだろうかというはっきりした事実を踏まえて考えなければいけないのです。

 これがキリスト教では全然できないのです。創世記が分からないからです。エデンの園が分からないからです。

 聖書に次のようにあります。

 「主なる神は言われた。『見よ、人はわれわれの一人のようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木から取って食べ、永久に生きるかもしれない』。

 そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた」(同3・22、23)。

 ここに妙なことが書いてあるのです。

 人間が造られたその土を耕させられたとありますが、聖書には人間が土で造られたとはどこにも書いていないのです。創世記の二章七節には、土のちりで人を造ったと書いているのです。土で造ったと書いていないのです。英訳ではthe dust of the groundになっていますから、地のちりで人を造ったのです。

 地球のちりで人を造ったのです。ところが、三章二十二節では造られた土を耕させられたとあります。これが現世の人間の運命です。

 本来人間は地のちりで造られたのに、現世では土のちりで造られたようになっているのです。二章の十九節では野のすべての獣と空のすべての鳥を土で造ったとあるのです。獣や鳥は土で造られたと書いてありますが、人間が土で造られたとは全然書いていないのです。これがキリスト教では全然分からないのです。

 キリスト教は聖書の根本的な見方が間違っているのです。聖書を正確に読んでいないからです。キリスト教の人々はキリスト教の教義の勉強はしています。神学校で教えているのは教義であって、神の言葉ではないのです。

 神学校を卒業した者が教師の免状をもらって牧師になっているのです。こういう人に聖書が分かるはずがないのです。

 苦しんで、本当に苦しんで塵灰に伏して御霊と相撲をとって、本当の神の言葉の真理を教えてもらうのでなかったら、人を教えてはいけないのです。こういう苦しみをキリスト教の人々はしていないのです。

 神学校という制度がキリスト教を完全に腐らせているのです。これがルネッサンス以降のキリスト教のあり方です。

 ルネッサンス以降の世界には、本当の真理もその影もありません。概念ばかりしかないのです。学問でも概念ばかりです。真理は一つもありません。

 般若波羅蜜多、彼岸へ到る知恵と言っていますが、ルネッサンス以降の世界には彼岸は全くありません。

 聖書は彼岸ばかりを書いているのです。神の国へ入れ、神の国へ入れ、こればかりを言っているのです。ところが、キリスト教では神の国が分からないのです。神の国という言葉はありますが、その事実がないのです。

 花を見て美しいと思う。また嬉しいと思う。これは神の国を見ているのです。イエスは「空の鳥を見よ。野のユリを見よ」と言っている。空の鳥が生きていることの中に、神の国があるのです。そこに入れとイエスが言っているのです。

 今日の生活がありますが、昨日のことが分からないと今日の生活が分からない。今日が本当に分からなければ明日のことが分からないのです。

 人間は過去、現在、未来と、時間を三つに区分して認識する性能を持っているのです。これが理性です。これが理性的能力というのです。

 人間は理性で生きていますから、人生に対しても、前世、現世、来世を認識する世界観や価値観を持たなければ、命を認識することができないのです。

 ところが、現世の人間は現世に生きていることは分かりますけれど、前世のことを全く知らないのです。前世がエデンの園です。エデンの園のことが全然分かっていないのです。

 人間が善悪の木の実を食べて、われわれの一人のようになったと神が言っています。われわれとは三位一体の神のことです。三位一体の神のような認識を、人間が持つようになったのです。

 これはどういうことかと言いますと、善悪を考えるという能力は本来神だけにしかないのです。神以外の者は善悪利害を考えてはいけないのです。神以外の者が善悪利害を考えると、たちまち死んでしまうのです。

 ところが、人間は善悪の木の実を食べた結果、善悪利害を考えるようになった。これが死んだということです。神以外の者が神と同じように善悪を考えるということが悪いのです。宇宙的な非違(ひい)です。

 昔、平安朝の時代に検非違使がおかれました。初めは都の犯罪、風俗の取り締まりなどの警察業務を担当していましたが、後に、訴訟、裁判をも扱い、強大な権力を持つに到ったのでした。

 非違というのはやってはならないことです。考えてはならないことです。人間が善悪を考えるということは非違です。アダムはこれを犯したのです。

 非違を犯すというのは死を意味するのです。良いか悪いか得か損かを考えたら、必然的に自我意識が発生するのです。善悪を考えることによって利害が発生するに決まっているのです。

 善悪の木の実を食べたアダムとエバに自我意識が発生しました。その結果、神から離れた独立人格を認めたことになったのです。

 神以外の者が神以外の独立の人格を認めるということが死を意味するのです。これを皆様もよくご承知頂きたいのです。

 キリスト教の人々は、自分が天国へ行きたいと思うから教会へ行くのです。自分が救われたいと思うからキリスト教会へ行くのです。

 自分が救われたいと思うことは、自分の人格を自分が認めているのです。これが間違っているのです。ここにカルビンやルーテルの甚だしいインチキがあるのです。

 この二人がとんでもないことを考え出したのです。自分が救われると言い出したのです。義人は信仰によって救われるという箇所を勝手に変更して、人間が救われると言い出したのです。教会へ行った人間が救われると言い出したのです。

 聖書にある義人というのは、自分、自我を持っていない人のことを言うのです。ノアは義人でした。ノアは神の内に生きていたのです。神を信じて神の命と同じ命で生きていたのです。

 ノアという人間は神から離れていたのではありません。ノアは神の中で生きていたのです。この状態を義人というのです。

 ルーテルやカルビンは義人という言葉の意味を全然知らずに言っているのです。義とされるというのは、神と同じように認められるという意味です。

 アブラハムは義とされた。神と同じようであると認められたのです。このことは山上の垂訓でも書いています(マタイによる福音書五章から七章)。

 「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者になりなさい」とあります(同5・48)。神と同じように完全になることが、義とされるという意味でありまして、人間が義と認められることではないのです。

 この点をルーテルやカルビンは摩り替えてしまったのです。ルネッサンス以後のキリスト教は、見事に宗教という内容に摩り替えられてしまったのです。現在のプロテスタントの教会は根本的に間違っています。キリスト教は間違いすぎているのです。

 皆様の人格が神の中へ入ってしまうことです。これを義とされるというのです。父が完全であるように、あなたがたも完全になりなさいとあります。これでなかったらだめです。

 自分は消えてしまう必要があります。ところが、アダムは善悪の木の実を食べて善悪を考えた時に、自我意識が発生したのです。そして、神から離れた人格を自分で持つようになったのです。これが陥罪です。

 神から離れた人格を持っている人は全部罪人です。神から離れた人格を持っていて、固有名詞の人間がいると考えている人は見事に罪人です。

 固有名詞の自分がいると考えている人は死んでいるのです。神の中で、神の範囲内で自分を見る人を、神の国へ入るというのです。

 神の国へ入って自分を見るのです。こうしなかったらだめです。神の国へ入らないでいくら神を信じたと言っても、それは単なる宗教観念にすぎないのです。こういうことを根本的に分かって頂きたいのです。

 前世が分からず、来世が分からずに、現世だけを認識しているということは根本的に不完全です。

 過去、現在、未来という事を三つに区分して時間を認識することが理性の本質ですが、それと同じことが皆様の人生に適用されるのは当然のことです。

 アダムとエバは善悪を知りました。善悪を知ったことによって、神から離れてしまって、自分が生きているという認識を持つようになったのです。そこでエデンに住んでいられなくなった。

 エデンは前世です。皆様が現世に生まれたのは、前世から追い出されたということです。

 この世に生まれたということが、前世から追い出されたということです。前世から追い出されて肉の命を持たねばならなくなった。自分が生きているというような変則的な生命を持たねばならない状態になったのです。

 現世に生まれた人間は全部死ななければならないのです。現世だけしか分からない人間は、全部死んでしまう人間に決まっているのです。天国へ行きたいと考えるのはもっての外です。

 この意味でキリスト教の人間は全部間違っているのです。死んだら天国へ行けると考えている。とんでもない間違いです。こういうばかなことを言っているのです。

 現世に生きている間に前世を見つけるのです。そうして、来世を掴まえるためには、現世でどのような生き方をすべきなのかを考えるのです。前世が分からなければ現世をどのように生きたらいいか分からないのです。

 花が美しいと思うのは前世で習ったのです。女性に惚れるというのは、前世で認識していたのです。男女の問題は生まれる前から知っているのです。世間で習わなくても知っているのです。

 皆様は生まれる前のあり方に従って、現在生きています。このことをはっきり認識しなければ、神の国へ入るということは絶対に分かりません。

 学問は現世のために造られた論理構成です。現世に生きることを目的にする場合には、学問は役に立ちます。

 ところが、人間は現世に生きることが目的ではないのです。人間が善悪を考えるようになったから、やむを得ず神の国から追放しなければならなくなったのです。

 現世は神の国を追い出された人間が生きているのです。この人間は生きているとは言えないのです。死ぬベき命をそのまま押し付けられて、死ぬベき命の状態で、しばらくの間生活することを許されているのです。

 生活するというのは、生きていることを意味しないのです。生活は生活です。生きるは生きるであって、生きるという言葉そのものは、命そのものを認識して生きるのです。

 剣道で言えば、無刀取りの極意を悟った者だけが剣道が分かっていると言えるのです。柳生流で言えば、剣の持ち方から胴具のつけ方を教えてもらわなければなりませんが、無刀取りは最終のものでありまして、一挙に無刀取りの極意を学ぶことはできません。

 人間の場合には、皆様が生まれてくる前に人生があったのです。剣道で言えば、生まれてくる前に既に剣道の極意を知っていたのです。

 皆様は生まれてくる前に、既に花の美しさを知っていたのです。女のすばらしさを知っていたのです。何が神であるか、何が悪魔であるかを知っていたのです。

 人間は命を生まれる前から知っていたのです。おいしい、楽しい、嬉しいとかということは、生まれる前に魂が経験していた感覚を、現世で現象的にもう一度復習しているのです。

 生まれる前に自分に気に入ったことが、現世で現われているのです。そこで、ああこれは美しい、これは気に入ったという感激を持つようになるのです。

 赤ん坊は生まれた時に、既においしい、おいしくないを知っているのです。それを赤ん坊はどこで習ってきたのか。生まれる前に習っていたとしか言いようがないのです。

 皆様は生まれる前に無意識の状態で人生を経験していたのです。皆様は神の前で人生を正しく経験していたのです。これが生まれる前の魂の状態です。

 ところが、肉体を取ってこの世に生まれました。これは追放されたのです。神の国で生きる資格を失ったために、神の国から追放されたのです。

 現世に生まれたということが、現世に追放されたことを意味するのです。創世記の二章二十二節には、造られた人をエデンの園から追い出したとあるのです。そうして、エデンの東へ置いたのです。

 エデンの東というのは、神の前に生きることができなくなった者が追い出された場所です。自我を意識する状態になったので、神の国に置いておけなくなった。そこで追い出されたのです。

 自我を意識する人は、本当の意味での霊魂というもの、神というもの、またキリストを知らない人です。

 現在固有名詞で生きている人は、固有名詞の自分から解脱して、イエスが神を生活したような形になることです。これが魂の完成と言えるのです。イエスと一つになることによって、魂を完成することが人間の責任です。

 イエスは言っています。「目は体のあかりである。あなたの目が澄んでいたら、全身も明るいだろう」(マタイによる福音書6・22)。

 全身というのは英訳ではwhole bodyという言葉を使っています。これは人生全体のことを言っているのです。生まれる前と、現世と、この世を去った後の三つの人生をホールボディと言っています。

 生まれる前に人生があったのです。そうでなかったら、食物の味のおいしい、おいしくないをどこで覚えたのかです。男女のことをいつ習ってきたのかということです。

 皆様は未だ経験しないことを知っているのです。前世で経験したからです。前世で経験したことを現世で生きているのです。このことがよく分かりますと、死んだ後のことが分かるのです。死んだ後に自分の魂がどうなるかがはっきり分かるのです。

 本当の人間は生まれる前の命と、現在の命と、現世を去った後の命が分かる人生観を持っている人のことです。これが完全な人生と言えるのです。

 人間は人生を完成しなければいけないのです。イエスは、「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者になりなさい」と言っています(同5・48)。

 天の父は過去、現在、未来を造る永遠の神です。永遠の神をはっきり認識するためには、永遠の認識を持つ必要があるのです。

 永遠の認識を持たなければ、永遠の神を捉えることはできません。「天の父が完全であるようにあなたがたも安全であれ」、この立場に立って考えますと、今のキリスト教とは全然違ったものになるのです。

 皆様はどういう気持ちになればいいかのということです。本当に素朴になるというのはどういうことなのか。

 男の知性で考えれば、私が言うことはほとんど分らないでしょう。ですから、男の人は女のあり方をよく見て頂きたいのです。

 女の人は自分のご主人や子供さん、あるいは他人の世話をすることに非常に大きい喜びを感じているのです。女の人は人の世話をする時に、そこはかとない喜びを実感するのです。これが素朴というものです。

 自分が得をするのではない。とにかく他人の世話をするということを、女の人は無意識にするのです。これに喜びを感じるのです。この気持ちを男の人は学んで頂きたいのです。

 人間の霊魂の本当のあり方はこの状態です。神に仕えることが人間の魂の本性です。神に仕えることが人間の魂の本当の喜びになるのです。黙って隠れて神に仕えるのです。人に対しても黙って良いことをするのです。黙って損をするのです。こういうことをしていますと、無上の喜びを感じることができるのです。その時には無意識に神に仕えているのです。無意識に神を生きているのです。

 神は目に見えないものです。日本人がいうお天道さんがあることが、人間には分かっているのです。

 山へ行く人はご来光を拝みたくなるのです。ご来光を拝みたくなるという感覚、意識があるのです。これは無意識に神を拝んでいるのです。

 女の人が男の人の世話をする。他人の世話をすることに喜びを感じるというのは、ご来光を拝む気持ちと同じことなのです。善悪を考えないで、極めて素朴に自己犠牲のような気持ちで世話をすること、黙っておいしいものを作ってあげること、こういうことが喜びであるという気持ちがあるのです。

 皆様の奥さんがどういうことをしているのか。母親が子供にどういうことをしているのかをご覧になったらいいのです。

 女の人は人に尽くすことが喜びそのものです。ここに女性心理のすばらしさがあるのです。素朴というのはこういう感覚をいうのです。自分の本心をそのまま実行するのです。

 女性の素朴が人間の霊魂の持ち前です。男の方はこの霊魂の持ち前に気付いて頂きたい。女性の長所を自分の霊魂で実行するようにして頂きたいのです。

 この気持ちで神に接するのです。そうすると、神を信じることが分かるのです。

 神を信じるのは、観念や概念でするのとは違います。ある行動をするのです。心の行いです。命の行動です。生命的な行動です。これをして頂きたいのです。

 女の素朴さが美しさに現われているのです。これが女性のボディーラインになって現われているのです。

 前世において、アダムは神を掴まえることに完全に失敗しました。男が失敗したので、男は使い物にならない状態になったのです。そこで、男の中からあばら骨というハートを引き抜いたのです。そして、女を造ったのです(創世記2・21~23)。

 男の中のすばらしい上等のハートを女として現わしたのです。これが女性の美しさです。

 本来男にあるべき良さが、今女として現われているのです。男の内にあるべき良さ、魂の良さ、人間としての本質的な良さが女として現われているのです。そこで男は女に惚れるのです。

 男が女に惚れるのは当たり前です。本来自分の中にあるべきハートが、女というすばらしい格好で外に現われている。そこで、女が好きになるのです。これが恋愛の根本的原理です。

 男の中にある真心が女として現われている。だから、男は女性に無限の憧れを持つのです。好きで好きでたまらない気持ちを持たされるのです。これが恋心です。

 私たちの目的は永遠の生命にあるのであって、セックスの問題ではないのです。異性への憧れは命への憧れです。

 女性は女性の本質が分からないのです。女性は男性の中から取られたものですけれど、自分が人のために尽くしていることが何をしているのか分からないのです。

 なぜ女性はそういう気持ちを持っているのか。日本社会では男は威張っていますけれど、女は男に黙って従っているのです。こういう服従の気持ちがどうして女にあるのかということです。これは聖書をよく勉強しないと分からないのです。

 男は前世で失敗しました。その失敗の内容が男に全然分かっていないのです。男は女をよく勉強して頂きたい。欲望的、性欲的に女を見るのでなくて、魂として見るのです。

 女が女であることが何かということをよく勉強するのです。そうすると、陥罪前にいた神の国に帰ることができるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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