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  • 管理人miwa

霊に従いて歩む

格という言葉は人間の霊魂の格式のことであって、霊魂の品格です。霊魂の品格とは何か。これは男とか女とかいうのとは違います。霊魂の品格が違うのです。品性というのは罪人であるかないかということです。これは大きい問題です。

女は罪人ではありません。神が禁断の木の実(善悪を知る木の実)を食べるなと、女に言ったのではありません。女が禁断の木の実を食べても、罪を犯したことにはならなかったのです。

男のあばら骨が女になったのですから、罪を犯した者に関係はありますが、禁断の木の実を食べるなと言われたのは女ではないのです。アダムが言われているのです。これを品格、または品性と言います。男と女とは根本から品性が違うのです。

 女は罪人ではありません。男は罪人そのものです。男は神に反抗しているのです。反抗したのは男です。禁断の木の実を食べるなと言われて、これを意識的に破って反抗したのは男です。前世でこれをしたのは男です。そこで、男と女とは霊魂の品格が違うのです。

 男は神に対して罪を犯してはいるけれど、命の息を吹き込まれているのです。女は命の息を吹き込まれていないのです。男は悔い改められないのです。しかし、悔い改めれば命に帰ることができるのです。

 ところが、男はあばら骨を取られているので、悔い改められないのです。そのままの心を持っていたのでは、神を信じることができないのです。心を更えて、考え方を全部変えてしまわなければだめです。

 心を更えるというのは、命を新しく見直すことです。これをしなければだめです。これが男にできないのです。だから、命を新しく見直すことができないのです。

 男は死んでいるのです。「そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた」とあります(創世記2・21)。深く眠らされたというのは、死んだということです。

 男は死んだのですが、女は死んでいません。ところが、女は命の息を鼻から吹き込まれたという経験をしていないのです。そこでどうするかです。

 男は命の息を鼻から吹き込まれたという経験をしているが、罪を犯して死んでいるのです。だから、更心ができないのです。自分の気持ちで神を信じることができないのです。してもだめです。

 男は罪人ですが、女は罪人ではないのです。だから、女は信じることができるのです。ところが、女は罪を犯していないから罪が分からないのです。

 女は女だけではだめですし、男は男だけでもだめです。女と男が完全に一つになるような人格を持つのではなかったら、悔い改めができないのです。女の良い点と男の良い点とがある。それを一つにしなければいけないのです。

 男と女は格別の存在です。格が分かれているのであって、性が分かれているのではありません。セックスという考えは男の考えであって、間違っているのです。格別がはっきり分かるかどうかが問題です。

 人間の思想で聖書を読んでも分かるはずがないのです。本当に真剣になって、どうしても分かりたいと思って聖書を読むことになりますと、本当に聖書を分かりたいと思う本人の気持ちと、聖書の真理とがぶつかるのです。神の言葉の厳粛さと、本当に真面目な人間の真剣さとが正面衝突するのです。そうすると、何が何かさっぱり分からなくなるのです。

 これがパウロが盲目になった三日間です(使徒行伝9・9)。イエスが十字架にかかって三日間死んでいたのと同じ経験をしたのです。こういう経験をしなければ分からないのです。

 一度死んだ状態を通過しなければ、神の前に出ることはできません。神の前に出なければ本当の聖書は分からないのです。それを分かった分かったと思っていることになりますと、神の命に触れないで聖書を信じることになるのです。これが危ないのです。

 聖書が分かった分かったと言っている人は、本当に分かっていないのです。

 神の命に触れて聖書を信じているのなら、とこしえの命が与えられているのですけれど、神の命に触れていない状態で聖書を信じていても、それは宗教であって信仰にはなっていないのです。

 そうなっていないことが悪いのではなくて、そうなっていないことを自覚していないことが悪いのです。自覚していればいいのです。

 霊に従って生きることが分かっていないのです。肉体的に生きているという条件においてなお霊に従っているのです。肉体的に生きているという形はあるけれど、実は肉体的に生きていないのです。

 人は今生きている状態で死なない命を持っているはずです。これが分からない人は、神に質問したらいいのです。求めよ。そうしたら教えてもらえるのです。

 三十代、四十代の人は、この世を去るということはあまり考えません。これを真面目に考えられないのです。だから危ないのです。聖書の言葉が本当の命になりにくいのです。七十代、八十代になりますと、現世に生きていることよりも、この世を去るということの方がはっきりしているのです。だから、この世を去るということをいつも考えられるのです。

 現世に生きているという格好があっても、心が現世に生きていなければいいのです。パウロはいつもこれを考えていたのです。

 現在心臓が動いています。目が見えます。耳が聞こえます。これは何をしているのでしょうか。目が見える、耳が聞こえる、五官が働いていることが霊です。これは肉ではありません。

 目が見えるという言い方は人間的な言い方になりますが、目が見えるということが、神の御霊が人間の生理状態に宿っているのです。生理状態というものが、そのまま神の御霊の働きです。神の御霊の生理が人間の生理になって私たちに感じられるのです。

 人間が生きているのではありません。神の御霊が私たちの肉体において生きているのです。神の御霊が命として私たちに宿っているのです。命が宿っているから肉体が動いているのです。御霊が働いているから新聞が読めるのです。テレビが見られるのです。

 人間がいるのではない。神の御霊が人間の体において生きているのです。人間という生物がいるのではないのです。人間という生物がいるというのが、ユダヤ人の考え方なのです。

 人間という生物がいると考えると、聖書が信じられなくなるのです。人間が邪魔になって神が信じられなくなるのです。

 神の御霊によって生かされているということを理解すると、新聞を読んでいることが、神の前にいるということが分かるのです。食事をしていること、歩いていること、料理を作っていることが、神の前にいることだということを確認しないからいけないのです。

 パウロは、「肉の思いは死であるが、霊の思いは命と平安である」と言っています(ローマ人への手紙8・6)。肉体的に生きているという思想を持って自分を見ている人は、死んでいるのです。肉体的に生きている自分を信じていることが、肉の思いになるのです。

 この思いでいくら聖書を信じてもだめです。肉の思いは死であるという方に入ってしまうのです。だから、死んでしまわなければならないのです。

 肉体的に生きていることは間違いないのですけれど、御霊が肉体において生きているのです。目が見えること、耳が聞こえること、味が分かることは皆御霊の働きです。人間の働きとは違うのです。

 生きているということが御霊です。自分が生きているのではないのです。五官の感覚も御霊です。神の御霊が肉体という器を用いているのです。肉体という家があって、その中に御霊が住んでいるのではない。家があることが既に御霊なのです。神の御霊がなかったら、目が見える、耳が聞こえるということがないのです。

 肉体があるということが御霊の器です。極端な言い方をしますと、聖書を一頁も読んだことがない人でも、その人が肉体的に生きているということが、神の御霊の宮です。本人は知らなくても、神から見ると、全世界の人間は一人残らず神の御霊の宮です。

 人間には前世があります。前世で五官の経験をしていたのです。この世に生まれた時に、既に五官の状態を知っているのです。

 赤ちゃんはお母さんのおっぱいの味を知っているのです。生まれる前にそれを経験していたからです。

 三世が人間の境涯です。現世に生まれてから死ぬまでが境涯ではありません。生まれる前から現世を去った後まで、人間の境涯は続いているのです。前世と現世と来世が続いているのです。過去、現在、未来が境涯です。この全生涯を考えなければ、人生は分からないのです。現世だけを考えて生きていると、大変なことになるのです。

 現世に生きているのは非常に危険な状態です。現世主義という感覚に陥りやすいのです。現世だけが生涯だと思うのです。これは大変な間違いです。

 前世があったから現世があるのです。現世があるから来世もあるに決まっているのです。生まれる前に五官があったのです。生まれた時にもう五官が働いているのです。

 母親の胎内にいる時に、母親の声を聞いているのです。周囲の物音も聞いているのです。母親が階段を上がる時の音も聞いているのです。音がやかましい時には耳をふさいでいるのです。胎内が暖かいことも感じているし、自分が丸くなっているのもよく知っているのです。胎内にいる時に、既に五官は完全に近い状態で働いているのです。

 神は現世で三世を見ることができる者だけを、天へ上げようとしているのです。前世だけでは完全な人生は分からない。しかも、人間は前世で失敗したのです。だから、人間は現世で生かされているのです。

 目が見えること、耳が聞こえることは霊です。肉ではありません。食べて味が分かるのは霊です。霊だから分かるのです。生きているのは神の霊です。生きているという神の霊を毎日経験しているのです。

 人間は肉体を持っていながら霊を経験しているのです。このことが分かった人は、肉の思いで生きないで、霊の思いで生きるはずです。これができるかどうかが問題です。

 イエスが山上の垂訓で述べています。山上の垂訓は、人間が生活する上において心得ておくべき中心の思想を述べています。

 神の国と神の義を求めよと言っています。山上の垂訓は、イエスが在世当時の普通の人間に言っているのです。

 生きていることは自分ではありません。自分が生きているという考えが、根本から間違っているのです。神の御霊が人間を生かしているのであって、自分というのは初めからいないのです。死ぬも生きるもない。自分は初めからいないのです。神の御霊が一人ひとりを生かしているだけなのです。

 人間はこの世にいる場所がありません。人間がいるのではない。神の御霊が人間という器を生かしている。これが分かったら死ななくなるのです。神の御霊が人間を生かしているから、死ぬはずがないのです。

 現世に生きるのではなくて、神の国と神の義を求めよと言っているのです。これは当たり前のことです。

 花が咲いているというのが神の国です。人間が仕事をしている状態が神の国です。神の国と神の義は、私たちが生きている状態にあるに決まっているのです。

 人間の義で考えるから、死ぬとか生きるとかになるのですが、神の義が分かってくると、人が生きていることがそのままとこしえの命に繋がっていることが分かるのです。

 こういう考えが日常生活になりますように、また、毎日生きていることが神の国になりますようにと願わずにはいられません。そうすると、人生に行き詰りがなくなってしまうのです。自分の運命が神の国の運命になるのです。そうしたら、すべてが神の責任になってしまいます。こういう信仰を獲得することが人生の目的です。

 自分の生活を肉の思いで見ないで、霊の思いで見ることができるような自己訓練、努力をするのです。

 これは努力をしなかったらできません。肉体的に生きていても、霊の思いで生きようという気持ちがあれば、その人の生活は霊の生活になっていくのです。これが本当の信仰です。御霊を崇めて生きるということはこれを言っているのです。

 自分の常識、肉の思いというのは、人間の頭にこびり付いているのです。これがあってはいけないというのではありません。あってもそれを問題にしないことです。それを取り上げなければいいのです。

 肉の思いで生活することをやめるのです。霊の思いで生活するのです。肉の思いを持ったままでいますと、いくら聖書を勉強してもだめです。このことをよくご承知頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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