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永遠の生命  公式ウェブサイト

「死なない人間になりました」中巻 著者。梶原和義。

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著者について

​​梶原和義

梶原和義。永遠の生命。六義園。

梶原和義(かじわら かずよし)

●  名古屋市に生まれる。
●  長年、般若心経と聖書の研究に没頭する。
●  十三年間、都市銀行に勤務後、退職して事業を始める。
●  現代文明の根源を探るため、ユダヤ人問題を研究する。
●「永遠の命」についての講話活動を各地で行っている。
●  東京と関西で、随時勉強会を開催している。
●  聖書研究会主幹の故村岡太三郎先生に師事し、般若心経と聖書の根本思想について、多くの事を学ぶ。また、村岡太三郎先生と共に「般若心経と聖書」というテーマで、全国での講演活動に参加した。
・毎年、七月から九月の間に、六甲山と軽井沢で開催された聖書研究会主催の夏期セミナーに講師として参加し、世界の文明・文化・政治・経済・宗教について指導した。
・毎年、大阪で聖書研究会により開催されている定例研究会に講師として参加。文明の間違い、宗教の間違いについて、十年以上にわたり指導した。
・聖書研究会神戸地区の地区指導員として、十五年にわたって監督、指導した。
・大阪の出版社JDC出版の主催による講話会で、「永遠の生命を得るために」「般若心経と聖書」等について連続講義をした。
・川崎市の川崎マリエンにて、土曜日の午後一時から四時頃まで、勉強会を開催している。
・日曜日の午前十時半から十二時まで、全国の読者に向けてスカイプにて講話活動を行っている。
● 一九九五年、一九九七年、世界一周をして、政治・経済・文化・人々の生活について広く見聞した。
・一九九五年七月二十六日エリトリアのイザイアス・アフェワルキー(Isaias Afeworki)大統領に面会し、エリトリアと日本の関係、エリトリア、アフリカの将来について話し合った。
・一九九七年二月十八日から二十八日の間に、イスラエルシャローム党創設者ウリ・アブネリ(Uri Avnery)氏と頻繁に会い、イスラエルの現状・PLOとの関係、イスラエルと日本との関係、ユダヤ教とメシア、イスラエルと世界の将来、人類の将来と世界平和等についてつっこんだ話合いをした。
・一九九五年六月二十七日より十月十七日迄、世界一周のためにウクライナ船「カレリア号」に乗船。船内で開催された洋上大学に講師として参加し、「東洋文明と西洋文明の融合」「永遠の生命とは何か」「永遠の生命を得るために」等について講演した。
・一九九七年十二月十九日から一九九八年三月二十一日迄、世界一周のためにインドネシア船「アワニ・ドリーム号」に乗船。船内の乗客に「般若心経と聖書」というテーマで、三十三回の連続講義をした。この内容は拙著「ふたつの地球をめざして」に掲載している。
●  日本ペンクラブ会員。
●  日本文藝家協会会員。

現住所  〒673-0541 兵庫県三木市志染町広野6-169-4
  TEL 090(3940)5426 FAX 0794(87)1960
  E-mail : akenomyojo@k.vodafone.ne.jp
  http://kajiwara.sitemix.jp/
 

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「​死なない人間になりました」  中巻 

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はじめに


 死から脱出しなければならない。絶対に死んではいけないのです。そのためには、死とは何かをよく知らなければいけないのです。

 人間は死ぬのは嫌だと言いながら、死とは何かを知らないのです。これがいけないのです。死には第一の死と第二の死があるのです。人間は現在生きていると思っていますが、なぜそう思っているのでしょうか。


 ヨハネは次のように述べています。

 「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、手で触ったもの、すなわち、いのちの言(ことば)について、このいのちが現われたので、この永遠のいのちを私たちは見て、その証をし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは父と共にいましたが、今や私たちに現われたものである」(ヨハネの第一の手紙1・1、2)。


 人間はこの世に生まれてきて何をしているのでしょうか。目で見ること、耳で聞くこと、手で触ること、五官が働いていることが生きていることです。五官の働きにそれぞれ意識が伴っているのです。目で見ていると見ているという意識が伴うのです。聞いていると聞いているという意識が伴っているのです。五官の一つひとつに意識がついて回っているのです。

 意識は般若心経で言いますと、眼耳鼻舌身となるのです。この五つの働きに意識がついて回るのです。触った時に触ったという意識があるのです。見たら見たという意識があるのです。そのように、五官というのは五つの意識を意味しているのです。五官、五意が人間が生きている証拠です。これがあるから、私たちは生きていると思っているのです。

 ところが、人間の五官、五意は、実は死んでいるのです。目で見ていると思っていますが、人間は肉の目で見ているのです。肉の目でとは、現象として現われた形だけを見る見方を言います。現象としての形は見ていますが、その本質を見ていません。

 目撃するというのはよくよく見ることです。日本語の聖書では、よく見てと訳しています。よく見てという所を漢訳聖書では目撃してと訳しています。

 見るというのは、ちょっと見るのと、じっと見るのと、じっと見て見極めるという見方があるのです。漫才で、「見て見て見いー」と言っている人がいますが、これはじっと見て見極めるという言い方になるのかもしれません。

 このように、見るということだけでも、三通りの見方があるのです。これをしっかり実行していきますと、物の本質が見えてくるのです。

 食べる時も、むしゃむしゃ食べる時と、じっくり味わって食べる時とでは、食べ方が変わってくるのです。じっくり食べると自然に消化も良くなるのです。むしゃむしゃと食べてはいけないのです。とにかく、三通り見る、三通り聞く、三通り味わうという気持ちで生きていれば、五官の意識が深くなっていくのです。ところが、見て見て見るという見方をしない。ちょっと見て終わりなのです。だから、見れども認めずということになるのです。認めるというのは、見極めることをいうのです。

 地球ができる前の本当の命が、今現象になって現われている。これは太陽ができる前の命です。大宇宙ができる前、現在の宇宙ができる前にあった命、宇宙の根源になっている命が、今地球現象という格好で現われているのです。

 私たちは現在、地球現象を見ています。森羅万象を見ています。外側の格好だけは見ていますが、森羅万象の実体が何なのか分からないのです。これが精神的に死んでいるという意味です。森羅万象の本質を見るだけの目がありながら、その本質を悟ることができていない。だから、死んでいると言わなければならないのです。

 人間が現世に生まれてきて、五官が働いているという点からだけ考えますと、生きていると言えるのです。ところが、五官が働いていながら、物事の実体が見えていない。だから精神的には死んでいるということになるのです。これがいけないのです。

 五官の働きは、人間に植えられた神の言です。人間に植えられた神の言(ことば)が、目となり耳となっているのです。現在五官として働いている言は、理性と言ってもいいのです。理性が五官の根本です。神の言、神の理性が人間に植えられている。だから、神が造ったものが分かるのです。

 動物でも、言が非常に不完全な形で植えられています。動物でも神が造ったものが分かるのですが、それを認識することはできません。人間は認識できるのです。認識できるかできないかによって、魂があるかないかが決定されるのです。

 動物が生きているのは魂ではありません。ただ本能によって生きているのです。人間の場合は、本能に認識する力が加わっている。そこで、魂と言えるのです。

 人間には現在生きているという事実があります。五官が働いているからです。ところが、人間の五官の働きは、上っ面だけの肉の感覚だけで見ている。初めからある命、神の言が見えていない。だから、生きていながら神が全然見えないのです。言が見えたら神が見えるはずです。ところが、見えていない。なぜでしょうか。

 イエスは、「心の清い人たちは、さいわいである。彼らは神を見るであろう」と言っています(マタイによる福音書5・8)。心が清ければ神が見えるのです。人間の心は雑念によって汚れている。だから、神が見えないのです。見えるはずの神が、見えないのです。衣食住において現われている神の姿が、全然見えないのです。神が見えないこと、命が見えないことは死んでいる証拠になるのです。

 五官が働いていながら神が全然見えていない、神が認識できない、これが死んでいる証拠です。もう一つ死んでいる証拠があります。皆様の生活の中で、憎むとか、そねむ、焼きもちをやく、ひがむ、嘘を言う、ごまかす、おべっかを言う、不正直になる、生きていることが嫌だと思うことが、いつもあるでしょう。これが死んでいることです。

 人を憎んだり、呪ったり、恨んだり、時には殺してやりたいと思うこともあるでしょう。これが死んでいる証拠です。すべて、苦しみ、悲しみがある人、重荷がある人は、死んでいることになるのです。

 神がはっきり分からない。神が造ったものを見ていながら、神が分からない。心にいつも重荷を背負っていること、嫌なことばかりがやってくるような気がすること、自分ほど不幸な者はいないと思うこと、人間がこの世に生きているのは、はっきり死んでいるのです。

 毎日毎日、重荷を背負っている。罪を造って生きているのです。不幸と不満と不安でいっぱいです。心からの喜び、平安、安心がない。これが精神的、魂的に死んでいる証拠です。

 人間がこの世に生まれたのは、はっきり殺されたことです。肉体的にこの世に生まれたことは、死を経験するためです。死を具体的に経験させるために、神が人間を肉(現象世界)に放り込んだのです。

 この状態から絶対に抜け出さなければならない。そうしないと必ず地獄へ行かなければならないのです。


 ヨハネは次のように述べています。

 「海はその中にいる死人を出し、死も黄泉(よみ)もその中にいる死人を出し、そして、各々その仕業に応じて裁きを受けた。それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。このいのちの書に名が記されていない者は皆、火の池に投げ込まれた」(ヨハネの黙示録20・13、14)。


 死はすべて火の池に投げ込まれる。これが第二の死で、これが恐ろしいのです。永遠の裁きになるからです。

 人間は現世に生きていて、不幸、不満、不安、苦しみ、悲しみが次から次へと襲ってきます。生きていることが嫌になるようなことが絶えず湧いてくるのです。これが罪の下に売られている証拠です。

 本当に生きているのなら、神の前に生きているのですから、喜びと感謝でいっぱいでなければいけないのです。常に喜べ、絶えず祈れ、すべてのことに感謝せよ。いつでもこれがなければならないのです。

 救いとは何か。死んでいる状態から出ることが救われることです。死からはっきり出なければならない。出ることができるのです。

 死とは何か。死がはっきり分かればそれから出て、命がはっきり分かるでしょう。ところが、人間は死んでいることが分からないのです。心配ごと、苦しみ、悲しみがあっても仕方がないと考えているのです。仕方がないどころか、既に死んでいるのです。

 自分はこれからどうなるのか。自分の運命はどうなるのだろうか。女の人はいつも自分を意識しています。これが死んでいる証拠です。

 キリスト教の信者は、救われたいと言っていながら、暗くなっているのです。人を裁いています。人の悪口を言っています。これはすべて死んでいる証拠です。山上の垂訓(マタイによる福音書五章~七章)が、はっきり実行できなければいけません。山上の垂訓は一箇所実行できたら、全部実行できるのです。

 神が現在人間を生かしていながら、心の持ち方が悪いために死んでしまっている。それは命を目撃していないからです。目の働き、手の働きの実体が分かっていないからです。

 人間が見たり聞いたりしているものは、実はとこしえの命です。毎日とこしえの命を見たり、聞いたりしているのです。一杯の水を飲んでも、とこしえの命を飲んでいるのです。

 夏は暑く感じます。暑いと感じることが、とこしえの命を感じているのです。そう思って生きてみるのです。暑ければ暑いように、暑いということの内容をじっと味わうと有難く思えてくるのです。

 食べる時は、噛んで、噛んで、よく噛んで食べるのです。見る時は、見て、見て、見るのです。そうすると、分かってくるのです。じっくり見るか見ないかです。じっくり見れば命が分かってくるのです。

 暑さ寒さを経験できるだけでも有難いことです。それがなぜ経験できるのでしょうか。それは神の言(ことば)が人間に植えられているからです。その機能によって暑さ寒さを認識できるのです。だから、人間は神の子です。

 人間の肉体は存在していません。釈尊は今から二千五百年も前に、色即是空、目に見える現象的物体は存在していないと喝破しているのです。一切空、肉体はないと言い切っているのです。これは今から二千五百年も前の話、日本という国ができるはるか前の洞察です。

 理論物理学では物質は存在していない。電子等の運動が物質に見えるだけだと理論づけています。この理論を実際に応用して造られたのが、原子爆弾、水素爆弾です。物質は即ちエネルギーであることを実行したのが、広島、長崎の悲劇でした。

 もし物質が本当に存在するのなら、広島、長崎の悲劇は嘘になるのです。人間の肉体は存在していません。ただ新陳代謝がある。流れ動いているのです。少し真面目に冷静に考えれば、肉体がないことは誰でも分かるのです。肉体がなければ、重荷、悩みを背負う必要はないのです。

 肉の思い(人間の常識、知識)で生きていることは、死んでいることです。これをはっきり承知することです。これが分からなかったら命は分からないのです。

 なぜ神は人間に死を与えたのか。死なしめたのか。神が人間をこの世に送ったことは、殺したことになるのです。生まれたことは死んだことです。実は誕生日は命日です。なぜ神はこんな無茶なことをしたのか。

 神は人間を殺したつもりでいるのに、人間は生まれたつもりでいるのです。人間はこの世に生まれたことがおめでたいことだと言って、誕生祝をしているのです。神と人間とでは、まったく意見が違っています。だから、神が全然分からないのです。

 神はなぜ人間を殺したのか。こういう重大な問題に対して、神はいつも考えるヒントを与えているのです。人間に悩みや苦しみがあるのはなぜか。悩みや苦しみを味わっていることが、死を味わっていることです。

 神を賛美したり神を喜んだりするはずの人間が、神を呪ったり神に文句を言っているのです。これは人間に死を与えている姿です。神はなぜ人間にこのような処置をしているのか。

 人間に死を与えなければ命が欲しいと思わないからです。お腹がすくからご飯を食べたいと思うのです。喉が渇くから水を飲みたいと思うのです。喉が渇いたと思わないなら、水を飲みたいと思わないでしょう。

 空腹は料理人を名コックにすると言います。二、三日何も食べなければどんな料理でも飛び上がるほどおいしいと思うでしょう。

 飢え渇くごとく義を求めるという言葉が聖書にあります。飢えたり、渇いたりするから義を求めるのです。命を求めるのです。

 簡単なことです。現世に生きていることが辛いから救いを求めるのです。すべての人間を死の中に閉じ込めたのは、命を求めさせるためです。

 命は求めなければ与えられないものです。なぜかと言いますと、求めない者に命を与えても、命の値打ちが分からないからです。

 悪魔がそうでした。神は悪魔にすばらしく輝く命を与えたのです。叡智にあふれるような命を与えたのです。ところが、悪魔はそれを嬉しいとも、有難いとも思わなかった。自分にそういう力があって当然だと思っていたのです。

 初めから大金持ちの家に生まれた子供は、お金の価値、生活の苦労を全然知らないでしょう。お金は有難いものだということが分からないのです。あって当たり前だと思っているからです。

 だから神は、命の有難さを知らせるために、人間にまず死を与えたのです。死を十分に味わうことが必要だからです。死から命に転換するためにはどうするか。死に切ることです。死に切ってしまえば命になるのです。死をもって死を滅ぼすために死に切ってしまうのです。悩みや苦しみがあると思う人は、悩みや苦しみに徹底することです。悩みのどん底まで行ってしまうのです。そうすると、命に向かうことができるのです。

 次から次へと不幸が襲ってくる場合は、とことん不幸を味わってみようと度胸を決めるのです。そうすると、不幸を突き抜けてしまえるのです。

 深い淵のある川にはまったら、慌てたらいけないのです。黙ってはまったらいいのです。息を止めて沈む所まで沈んだらいい。すぐに浮くに決まっているのです。浮いたら助けてくれと言えばいいのです。それを最初から浮こうと思うから、却って溺れて死んでしまうのです。水を飲まなければ絶対に死ぬことはありません。

 人間に苦しみがなければ、楽しみや喜びは分からないでしょう。死を味わなければ、命を求めようとしないのです。お腹がすかなければご飯を食べたいと思わないでしょう。これは全く簡単なことです。

 生きていることが苦しいと思ったら、それに感謝するのです。苦しいという気持ちがあるから命を求めるチャンスができたのです。

 苦しいと思うことは、命を求めるチャンスだと思えば必ず救われます。苦しみを与えた神の御名をほめるのです。苦しみを与えられたことに感謝するのです。嫌なことに感謝するのです。これを実行すると霊魂の状態が必ず変わります。正直に死を味わった者は、必ず命を与えられるのです。

 人間は本当は、苦しまなければならないほど悪いことはしていないのです。嘘を言ったり、焼きもちをやいたりした。これは大した罪ではない。ところが、やっぱり心に重荷があるのです。暗くなるのです。悲しみや苦しみが絶えずあるのです。その時、そういう悩みがあることは、神は私に喜びや悲しみを与えるためだと考えたらいいのです。

 そうすると、与えられている苦しみや悲しみが、感謝に変わるのです。こういうやり方をするのです。そうすると、常に喜んでいられるのです。暗かったらそれを喜んだらいいのです。悲しかったらそれを喜んだらいいのです。

 嬉しいことを知らせるために、悲しいことをまず経験させるのです。苦しいことがなければ嬉しいことはあるのでしょうか。年がら年中、朝から晩まで楽しいことばかりだったら、楽しみボケになって楽しみが苦痛になるでしょう。楽しさがさっぱり分からない人間になるのです。

 苦しいから楽しいことが分かるのです。苦しいことを感じる時があったら、神は私たちに楽しさ、嬉しさを与えるためだと思ったらいいのです。そう考えた途端に、苦しみが楽しみに変わってしまうでしょう。ヤコブが言っています。「苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ」(ヤコブの手紙4・9)。だから、悲しみがある方が得です。苦しんだ方が得です。楽しんでいる時はそれ以上の楽しみはありません。

 楽しんでいる人は神は放っておきます。救いを与える必要がないからほったらかしにしているのです。

 苦しんでいる人、悲しんでいる人は、救いを求めざるを得ない。だから、楽しさ、嬉しさが与えられるのです。

 人間は殺さなければならないほど悪いことをしていません。それなのに苦しみや悲しいを与えているのは、死を味わうことによって、命の方へ向けさせようという神の計画なのです。

 これが分かったら、苦しんだり、悲しんだりして生きていく必要はありません。苦しみや悲しみを楽しみに変えたらいいのです。

 苦しみを与えられたことに感謝したら、命が分かってくるのです。神は命を求める者に必ず命を与えるからです。

 神は人を生かし、救うために死なしめたのです。生かすために殺したのです。これは有難いことです。

 人間は現在神に生かされています。自律神経が働いていることは、神に生かされている証拠です。自律神経がどのように働いているのか。脊髄が自律神経の基本になるのです。脊髄の上は延髄です。延髄は大脳に繋がっています。大脳細胞は、五官に繋がることが中心になっています。

 大脳が延髄に繋がっています。延髄が脊髄に繋がっています。脳で考えることが、延髄を通して脊髄に伝達される。脳で楽しいと感じますと、脊髄にそれが送られてくるのです。脊髄神経が非常に健康的に、円満に働くのです。そうしますと、胃腸の状態、心臓の状態、肺の状態が良くなるのです。従って、常に喜べ、絶えず折れ、すべてのことに感謝せよということが実行できるのです。

 すべて与えられた条件を楽観的に見ていくのです。これが恵みを数えるということです。こういう生き方が上手になると、生きていることが苦しいことではなくなるのです。苦しいことが楽しいことになるからです。

 脊髄が命です。関節は働きです。聖書の言葉をよく読んでいきますと、関節と脊髄との関係が分かってきます。精神と霊魂が分けられるのです。関節と脊髄に分けられるのです。心の思いと志が分けられるのです。

 精神と霊魂は何の関係もありません。苦しい、悲しい、辛いと思うのは精神です。精神の方に気を取られていると、いつまでも思い悩まなければならないのです。精神の方をやめて霊魂の方に目を向けるのです。そうすると、苦しみが消えてしまい、楽しいことばかりになるのです。

 霊に従って歩むというのは、自分の精神状態を見ないで魂の方を見ることです。実例を言いますと、仕事をしてもうまくいかない。聖書を読んでもさっぱり信じられない。神の恵みから落ちたのではないかと思えるのです。これが精神の方です。聖書を読んでも全然開かれないので、暗くなる場合があります。これは精神の方へ引っ張って行こうという悪魔のやり方です。

 開かれようが開かれまいが、聖書は神の言葉に決まっていますから、私に開かれなくても誰かに開かれるのです。気持ちを精神の方へ向けずに、魂の方に持っていくのです。そうすると、聖書六十六巻が、自分の中に入ってしまうのです。開かれようと開かれまいと、聖書は聖書です。

 聖書は分かると決めてしまうのです。そうすると、いつか聖書が開かれるのです。精神と魂は関係がありません。精神が暗かろうが落ち込んでいようがそんなことには関係がない。精神の言うことをいちいち聞く必要はないのです。

 魂は神に属するものです。精神は人間に属しています。人間の方を考えるからいけないのです。神に属する方を見ていくのです。

 神は恵みを与えるために苦しみを感じさせているのです。だから苦しいと思う時には、必ず楽しさがくることを期待したらいいのです。そうすると、明るくなるのです。関節は命の働きです。脊髄は命です。関節の方に目をつけないで、脊髄の方に目を向けるのです。手足がなくても脊髄があれば生きているのです。

 現世の生活状態はすべて関節です。ところが、魂の状態は脊髄です。脊髄がだめになったら死んでしまいます。考え方の基本を訓練するのです。そうすると、生きていることがそのまま神の国に生きることになるのです。

 現在私たちが生きている世界には、初めからあった命の言が現われていますから、これは神の国です。水が冷たいことが神の国です。夏が暑いことが神の国です。私たちは神の国を経験してるのです。

 まず神の国を自分で経験してください。そして、自分が神の国を造るのです。自分一人が明るくなるとその周囲が明るくなるのです。それがだんだん広がっていったらいいのです。信仰とはそういうものです。

 肉の思いで生きている人は死んでいるのです。死んではいますが、一方、神に生かされているという面があります。テレビ、クーラー、パソコンがあります。家の中には電化製品がたくさんあります。車や電車、船、飛行機で行きたい所へ行けます。通信手段によって世界中の人々と話ができます。春夏秋冬に折々の花が咲き、山の幸、川の幸、海の幸と、私たちは食べたい物が食べられます。これはすべて神の助けです。肉の思いばかりで生きていたとしても、なお現世にいる間は死んでいるけれども楽です。嬉しいこと、楽しいこと、感激することもあるのです。死んでいると言われても、大したことはないのです。

 第二の死とは何か。神に生かされているという面がぴたっとなくなるのです。苦しみばかりになる。これが火の池です。

 肉の思いで生きているという第一の死の間は、まだ神の命が相当働いていますから生きていると思えるのです。霊魂の位としては死んではいるけれど、命の味わいが少しずつあるのです。刺身も食べられるし、おいしい果物も食べられるのです。お酒もビールも飲めるのです。

 火の池にはこういうものはありません。喉が渇いてもビールどころか一杯の水もありません。本当の死とは何かを見せてくれるのが、第二の死です。これは震え上がるほど恐いものです。それが永遠に続くから恐いのです。

 生きている間に、苦しみや悲しみの意味が分かった人は、もう地獄へ行かなくてもいいのです。だから、現世でじっくりと、苦しみ、悲しみを味わったらいいのです。

​「死なない人間になりました」中巻

​​梶原和義

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