top of page
  • 管理人chaya

上智


 般若心経と聖書とを、宗教的な角度から取り上げますと、大変難しい理屈になります。

 ところが、宗教ではない般若心経、キリスト教ではない聖書になりますと、簡単明瞭になるのです。

 大体、物事の真理は簡単明瞭でなければならないのです。それを、わざわざ人間が複雑怪奇にしているのです。宗教は商売ですから、せいぜい重々しくかまえて、複雑にしなければお金が取れないのです。

 般若心経の言おうとしている所は、彼岸に渡る上智なのです。上智を掴まえるのは、人間として生まれた以上、当たり前のことです。人間は彼岸に渡る上智のために生きているのですから、これを見つけるのはそんなに難しくないのです。

 人間が肉体的に生きている場合でも、一番大切なものは一番安いのです。例えば、空気です。また、太陽光線です。これは、一番大切ですが、一番お金がかかりません。全くただなのです。それから、水です。水は少しぐらいお金がかかりますが、それは水代ではなくて、水を浄化し、配水するための設備費用、水道局に勤務している人の生活保障に対して、費用がいります。それが、水道料金になっているのです。水の原料はただです。太陽光線、空気、水は一番安いのです。

 彼岸へ渡る上智は、なければならないものです。

1.宗教でない般若心経

 人間の魂から言いますと、絶対に必要なのは上智です。上智とは、上等の知恵のことをいうのですから、大変高いように見えますけれど、実はそうではないのです。人間の常識は、下の知恵、つまり、下智ですが、いわゆる悟りは上智になるのです。太陽光線がただであるように、上智、般若波羅密多もただなのです。

 ところが、宗教の手にかかりますと、大変難しいことになるのです。しかも全く分からなくなってしまうのです。本当の意味で、般若心経が正確に受け止められているという事実は、日本にはありません。日本人は、般若心経を非常に愛好しているのです。数百万人、あるいは一千万人の人が、般若心経を読んでいます。心経人口が一千万人もありながら、心経の精神が全く実在していないのです。

 なぜそうなるのか。色即是空がどうして分からないのか。また、理屈で分かっても、色即是空を本当に生活している宗教家が、一人もいないのはなぜか。

 もし、本当に現在の日本仏教が五蘊皆空、色即是空、究竟涅槃を実際に行えば、現代の日本仏教は泡のように消えてしまうでしょう。宗教と般若心経の精神は、全然反対なのです。宗教ではない般若心経と言える人はいないのです。

 聖書は、普通、キリスト教のテキストのように考えられています。ところが、聖書は絶対にキリスト教のテキストではないのです。キリスト教は、西欧の宗教教学に基づいて、聖書を切り売りにしているのです。だから、キリスト教で考えているキリストと、聖書のキリストとは全然違うのです。これは、般若心経の誤解ぐらいではないのです。

 キリスト教は、新約聖書を非常に誤解しているのです。死んだら天国へ行くと言います。死んだらという言い方は、おかしいのです。天国は、生きているうちに掴まえなければならないのです。水と霊とによって新しく生まれて、神の国へ入れと、イエスが命令しています。生きているうちに入れと言っているのです。死んでから、天国へ行くなどと言っていないのです。やがて、イエス・キリストは再びやってきます。

 キリストの再臨の時には、現在のキリスト教は完全に潰されるでしょう。神のキリストを最も誤解しているもの、また、誤解させているものがキリスト教なのです。だから、宗教ではない般若心経と、聖書を勉強しなければならないのです。

 ナザレのイエスの再発見以外に、文明を新しくする方法はないのです。今の文明は、腐りきっています。核兵器廃絶という問題でさえも実行できなくて、どうして文明が存続できるのでしょうか。

 アメリカの大統領と、ロシアの大統領が相互不信でいっぱいなのです。不信感が存在しているために、全世界の人間が、どれほど迷惑しているのでしょうか。もし、不信感さえなければ、こんな問題は起きないのです。

 現代文明の病理の実体は何であるか。これは、世界中の誰にも分からないのですが、答えは簡単です。自分がいると思っていることが、病理の原因です。

 ところが、自分はいないのです。これは、重大な秘密です。例えば、人間は自分がこの世に生まれたと考えています。その証拠に誕生日があります。ところが、少し冷静に考えれば、生まれたという記憶をはっきり持っているかということです。

 自分が生まれたという記憶がある人は、伝説によれば恐らく釈尊だけです。母の胎より生まれた時に、三歩歩いて天上天下唯我独尊と言ったというのですが、これも伝説であって、あてにならないのです。人間は自分が生まれたという記憶はありません。親や医者が病院で見て、生まれたことを確認しているのです。従って、自分が生まれたことは客観的な事実であって、主観的な事実ではないのです。

 それからもう一つ、現世に生まれてきたものは、やがて、この世を去らねばならないのです。その時も死んでいく自分が分からないのです。例えば、医者が死を確認して、ご臨終でございますと言います。しかし、死んでいく本人は知らないのです。

 死んだという時点は、掴まえられない。掴まえたとすれば、まだ本人は死んでいないのです。これもまた、客観的事実なのです。生まれる時も、死ぬ時も、自分の命の出処進退について、自ら確認することは絶対にできないのです。

 しかし、人間は自分が生きていると思っている。本当に自分の力、自分だけで生きているのでしょうか。太陽光線がなかったら、空気がなかったら、生きることは絶対に不可能なのです。物理的にも、生理的にも、生きるのは自力によるのではない。大自然の客観的な力によって、生かされているのです。これが人間存在の実体なのです。

 現在の教育が悪いのです。これは、一部の誤ったユダヤ人の世界観から出てきたのです。ユダヤ人の世界観は、あくまでも、自分が生きていると思っているのです。モーセの掟と、真正面からぶつかっているのです。自分が掟を実行するのだと思っている。人生を主観的に見すぎていると、人間存在の実体と全然違った認識になってしまうのです。

 人間が生きている実体を、極めて自然な状態で考えますと、色即是空、五蘊皆空がすんなり分かるのです。今から、自分がいないと考えて生きてみますと、世界ががらっと変わってしまうのです。自分を客観的に見ていきますと、喜怒哀楽の観点が全く変わってしまうのです。

 マグロの味は、魚屋がつけた味とは違います。天然の味なのです。天然の味を、天然の人間が味わいますと、宇宙の味、神の味が分かるのです。これが、命の味なのです。般若心経の究竟涅槃はこういうことなのです。

 これは当たり前のことです。この当たり前のことが、文明の感覚によって曲げられている。人間は、好むと好まざるにかかわらず、現代文明の風潮に従って生きなければならないように、思い込まされているのです。大体、文明は人間のためにあるのであって、人間が文明のためにあるのはおかしいのです。

 今までの人間の物の考え方をやめようとすれば、どんどんやめられるのです。そうすれば、死なない命が分かるのです。これが大きいのです。自分が生きているという考え方は、はっきり間違っているのです。自我意識を捨ててしまって、単なる自意識を持ちますと、命を経験することのすばらしさが分かってくるのです。

 人間は生活するために生まれてきたのではありません。命を経験するために生まれてきたのです。命を経験するというのは、客観的に生きることなのです。そうすると、命の実体がはっきり分かってくるのです。ナザレのイエスが死を破ったことが、分かってくるのです。

 本来、人間の魂は死なないのが当たり前なのです。自分自身の本質を誤解しているために、文明に誤解させられているために、死ななければならないのです。そこで、宗教ではない般若心経と聖書が必要になってくるのです。現代は、虚妄の時代です。現代の中にあるのではなくて、虚妄が現代に化けているのです。

 命には二つあります。一つは死んでしまうに決まっている命です。もう一つは絶対に死なない命です。死ぬことのない命なのです。人間は、死んでしまうに決まっている命を、自分の命だと思っている。それが、現代の虚妄の最も大きいものなのです。誰でも持っている虚妄です。

 人間は死にたくないという気持ちを持っていながら、死なねばならないと考えている。こういう自己矛盾があるのです。死にたくないのなら死にたくないとはっきり言えばいいのに、それを口にするのが恥ずかしいような気がするのです。死にたくないとはっきり言うことを、何となく恥ずかしいと思っている。そこで、死にたくないと思っていながら、死ななければならない命を自分の命のように考えているのです。これは、はっきり虚妄そのものです。現代はそういう時代なのです。

 肉体的に生きている人間は、何かに頼らなければならないのです。命の本体が分かっていないからです。肉体を持っていることは非常に弱い条件であって、何かを頼らずにいられません。お金に頼るか、保険に頼るか、学問に頼るか、何かの宗教に頼るか、何かに頼って、今日という日を何とか過ごしているのです。死ぬに決まっている命を持って、何に頼って生きるのでしょうか。

 日本人はほっておけば皆死んでしまいます。日本人どころか、世界中の人間が皆死んでしまうのです。命を真剣に考える人が、日本にはほとんどいないのです。生活のことを真剣に考える人はたくさんいます。しかし、命のことを熱心に考えようとしない。これは、一体どういうことでしょうか。

 自分の命を守るために、生活があるはずなのです。ところが、生活のことだけに熱中して、命のことを考えない。こういうことが現代の虚妄です。

 何のために生きているのか分からないままで生きている。とにかく、生まれてきたから、しかたがないから、世間並に、世間の習慣に従って、だらだらと生きているということでしょう。しかし、人間の命は現世だけで終わるものではないのです。

 生まれてきて、そして、死んでいくと言います。これは、生まれる前の人生と死んでからの後のいわゆる後生という人生と、現世との三つの人生が、人間の命であることをはっきり示しているのです。

 イエスも、お前たちはどこから来て、どこへ行くかは知らない。私はそれを知っていると言っています。

2.現世の命は自分の命ではない

 人間は今、生きています。生きていることは、命を経験していることなのです。命は、自分のものではありません。自分が生まれたいと思って生まれたのではありませんから、命は自分のものではないのです。自分の命と思う理由は、どこにあるかということです。そういう不合理なこと、非論理なことを、現代人は平気で考えているのです。古代人や中世人は命を知っていたのではありませんが、自分の命だとは言っていませんでした。何のために生きているかについて、現代人よりはるかに真面目だったようです。

 日本の王朝文化等を見ていますと、空の思想がたくさん出ているのです。般若心経の空という思想が、日本文化の特徴だと言ってもいいのです。それほど、日本人は空が好きなのです。従って、自分の命、今生きている命が、空であることを何となく考えていたようです。

 「花の色はうつりにけりないたづらに、我が身世にふるながめせしまに」という小野小町の歌の中に、空観がにじみ出ています。こういう考え方は、王朝時代には普通のことであったようです。

 方丈記にも、こういう思想が流れています。人間が家を建てて住んでいるのは、虫が巣を造るようなものだと言っています。

 こういう日本文化の特徴は、現代にはなくなってしまっています。現代文明が日本人を変えてしまったのです。今、日本人はもう一度、本来あるべき日本文化の特性をよく考えるべきです。

 般若心経を、仏教家にゆだねておくべきではない。また、新約聖書をキリスト教の牧師にまかせておくべきではないのです。

 宗教家にまかせておくと、商売にするのです。宗教ははっきり営利事業です。だから、宗教の専門家にまかせておくべきではないのです。

 般若心経を愛好する人、愛読する人は何百万もいるでしょう。一千万人もいるでしょう。それにもかかわらず、本当の空観はほとんど見られないのです。心経読みの心経知らずということになっているのです。

 般若心経は、現代の世界全体の文化教養の原理から考えても、非常に貴重な文献なのです。般若心経の空観こそは、頂門の一針として、十分に学ばなければならないものです。例えば、米ロシアの関係などでも、空観があれば、がたがた言い合う必要はないのです。お互いに原水爆兵器をたくさん造って、地球全体が数十回も全滅するようなことをする必要はないのです。

 お互いに相手が信じられない原因は何かと言いますと、文明そのものが空であることが分からないからです。

 現代は、「人盛んなる時は天に勝つ」時代なのです。そのあとに、「天定まって人に勝つ」という言葉があります。本当に、あるべき状態になると、現代文明はこっぱみじんになってしまうのです。

 今は、人間が言いたいことを勝手に言っている時代です。文明が虚妄だからです。ユダヤ主義的思考に基づく文明は、宗教でも、政治でも、虚妄によって覆いかぶされているのです。虚妄の文明の中にいる人間は、必ず死ななければならないのです。

 何回も言いますが、人間が現在生きている命は、絶対に死ぬに決まっている命なのです。絶対に死ぬに決まっている命を、自分の命だと思い込んでいることは、自分自身が死ぬべきものだということを、勝手に決めていることになります。これは愚かなことです。絶対に死ぬに決まっている命を、自分の命だと思わねばならない理由はどこにもありません。

 常識的に考えると、世間の人は皆死んでいくのだから、自分も死ぬのが当たり前だということになりますけれど、世間の常識に従わなければならない理由は、全くないのです。

 人間の命は、現世に生きている間だけではないのです。死にたくないという気持ちが、人の中にあるのは、死んだ後に、命の続きがあることを示しているのです。それが直感的に分かっているので、死にたくないのです。

 現世に人間が生きているのは、現世がくだらないものだ、間違いだらけのものだということを経験するためです。誤魔化そうと思えば、誤魔化せるのです。正直に物を言っても、正直さが正しく理解されるわけではない。政治も、経済も、社会も、誤魔化そうと思えば、どうにでもなるのです。そういう世界に人間は生きているのです。

 従って、現世の命が本当に信用できるものではないということぐらいは、よく分かるはずなのです。ところが、現世の命にしがみついて、離れようとしない癖があるのです。般若心経は、そういう癖を断固として切ってしまう原理を提唱しているのです。

 般若心経を読んでいる人はたくさんいますが、読んでいるだけでは般若心経の値打ちは分かりません。また、仮に色即是空という言葉の意味が分かったとしても、だめです。今までの自分の命を認める状態で分かっているからです。

 命の入れ替えをしなければならない。死んでしまう命を命だと思い込んでいる以上は、五蘊皆空という理屈が分かっても、色即是空という理屈が分かっても、やっぱり死んでしまうのです。このことをよく考える必要があります。

 般若心経は、現世に生きている人間の命から抜け出した観自在菩薩という人格が、五蘊皆空、色即是空、究竟涅槃と言っているのです。つまり、般若心経は現世の命が自分の命でないと見た者の発言をしているのですが、それを、現世に生きている人がそのまま鵜呑みにしても、だめなのです。

3.命の間違いに気づく

 般若波羅密多とは、彼岸へ渡る上智です。現世の知識ではないのです。現世の知識ではないもう一つの頭の使い方、考え方を掴まえる必要があるのです。

 現世に生きている命は、仮の命なのです。人間は現世ででたらめに生きている。政治も、宗教も、法律も、本当のものは何もありません。

 従って、現世に生きている命は、仮の命であることぐらいはよく分かるはずです。そういうものにとらわれて、ひきずり回される必要はないのです。これが、般若心経が言っている五蘊皆空、究竟涅槃なのです。

 人間がこの世に生まれてきたのは、彼岸に渡る知恵をつかまえるためなのです。現世が訳の分からないものだから、この世から出てしまうこと、解脱してしまうことを、私たちに教えているのです。わざわざ、訳の分からないこの世を経験させられているのです。

 この世が混乱していればいるほど、現世が間違っていることがよく分かるのです。

 現代文明は、病理社会を造っている。人権を言い過ぎるために、病気がだんだん重くなってしまった。人間に基本的人権があると考えたために、学校教育がめちゃくちゃになってしまったのです。先生のことを先こうと言うのが中学や高校では当たり前になっているそうですが、教育は荒廃しているのです。荒廃とは、荒れすさんで、全く手がつけられない状態をいうのですが、その原因がどこにあるかというと、学生に基本的人権を教えすぎたのです。先生はただの労働者で、月給をもらうためにしているということを、子供に教えすぎたのです。それが、校内暴力、家庭内暴力になっているのです。

 一体、権利がなぜ人間にあるのかということです。こういう思想はフランス革命によって、一部のユダヤ人が提唱した思想ですが、これが現代文明の基本的な精神になっている。教育の原理になっているのです。

 政府は国民をおだて、先生は学生をおだて、宗教は信者をおだてているのです。指導すべきものが、指導される人間をおだてて、いい格好をしている。年寄りをおだてて、命をやたらにのばしても、何にもならない年寄りを造っている。そういうばかなことをしているのです。

 寿命が長くなることは結構です。結構なことですが、それなら、命の有難さを教える指導方針を政府は当然考えるべきですが、それをしないで、やたらに年寄りを造ることがいいことのように考えられている。

 老人福祉という考え方が、文明の基本的な間違いの一つです。これがいわゆる病理社会なのです。命とは何かを教えないで、病気ばかりを造っているのです。家庭病、学校病、職場病ばかりを造っているのです。困ったものです。

 要するに、今人間が生きている命は、死ぬに決まっている命であることを、よく考える必要があるのです。それを自分のものだと思い込んでいると、死ぬことになるのです。死んでからが大変なのです。生きているうちに、般若波羅密多が理解できれば、死んでからについて、いくらか分かることになるでしょう。

 ただ、般若心経だけではだめです。本当の命を教えてもらうためには、キリスト教ではない聖書がどうしても必要になるのです。

 まず私たちは、現在生きている命の間違いに気づかなければならない。これが般若心経を学ぶことです。そして、聖書を学ばなければならない。そういう順序になるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

閲覧数:6回0件のコメント

最新記事

すべて表示

はじめに

般若心経は、現在の日本の常識で申しますと、仏教の経典になっています。聖書はキリスト教の教典になっています。従って宗教という角度から申しますと、般若心経と聖書は一つにはならないのです。キリスト教と仏教が一つにならないように、般若心経と聖書はどうしても一つにならないのです。 ところが、宗教ではないという立場に立ちますと、この二つは完全に一致するのです。なぜかと言いますと、般若心経は人間の常識が空だと言

般若心経と聖書の関係

新約聖書の内容と言いますのは、ずばり申しますと、神の国をテーマにしたものということになります。例えば、キリストの十字架、復活、昇天、聖霊降臨、使徒行伝時代の活躍など、新約聖書の中心の思想は、神の国が強く押し出されています。これは現世の思想ではないのです。 キリスト教の人々が、イエス・キリストの十字架によって、罪の贖いが完成したと言っています。人間の罪が許されてその人の魂が天国へ行くということを、い

空と実

般若心経は空を説いています。聖書は実を説いています。聖書を普通の常識的な頭で勉強していますと、本当の実が分からないのです。聖書は神の言葉でありまして、神の御霊の思想がそのまま言葉になって現われています。神の御霊は、人間の命の実質、実体そのものなのです。 ところが、キリスト教では人間の命の実質、実体を正しくつかまえないで、キリスト教の神学を説いているのです。イエス・キリストの十字架によって、罪が贖わ

bottom of page