top of page
  • 管理人chaya

はじめに


 般若心経は、現在の日本の常識で申しますと、仏教の経典になっています。聖書はキリスト教の教典になっています。従って宗教という角度から申しますと、般若心経と聖書は一つにはならないのです。キリスト教と仏教が一つにならないように、般若心経と聖書はどうしても一つにならないのです。

 ところが、宗教ではないという立場に立ちますと、この二つは完全に一致するのです。なぜかと言いますと、般若心経は人間の常識が空だと言っているのです。現在の人間の社会生活は、常識を基礎としていますが、これは空であるということになります。色即是空の色とは、現象世界のことですが、この現象世界が空なのです。

 なぜ現象世界が空であるかと言いますと、これは、自然科学でも証明できるのです。例えば、理論物理学で考えてみますと、原子というものがあります。原子がなければ物はできません。原子は何によってできているかと言いますと、電子の運動によってできているのです。これは誰でも知っていることですが、物があるのではなく、原子がある。原子があるのではなく、電子の運動があるということになるのです。

 これを、古い言葉で申しますと、諸行無常ということになります。平安朝の時代には、諸行無常の思想が非常にはっきりしていました。。鎌倉、室町時代にもずいぶん使われていますし、謡曲には諸行無常の思想がたくさん入っています。これが、実は色即是空ということの原点になります。目に見える物は存在していないということになるのです。これが般若心経の言いたい所なのです。

 従って、目に見える物があると考えて生活していることが間違っていると般若心経は言っているのです。五蘊皆空とはこのことなのです。

 例えば、花を見て花があると誰でも思っていますが、花とは一体何でしょうか。花を見ると美しいというのは、誰でも分かります。それでは、美しいというのはどういうことなのでしょうか。

 北原白秋の詩に、「バラの木にバラの花咲く何事の不思議なけれど」というのがあります。バラの木にバラの花が咲くのは当たり前なのです。ところが、バラの木にはバラの花しか咲かない。バラの木に菊の花は咲かないのです。どういう訳なのでしょうか。これは当たり前ですけれど、奇妙なのです。これが詩の感情なのです。北原白秋はそれを言っているのです。

 花を見て美しいと感じますが、美しいということは、目を喜ばしていることなのです。目を喜ばすということは、本質的にもう一歩突っ込んで言いますと、実は心を喜ばせていることになるのです。目を喜ばすことは、視覚神経を通して、心を喜ばしているのです。美しいものを見ると心が喜ぶというのは、どういうことなのかということです。これが今の人間に分かっていないのです。

 般若心経は、花というものはない、美しいということがあるのだと言っているのです。花という形があるのではない。つまり、色即是空です。

 これが般若心経の思想ですが、般若心経はここまで説明するのです。花がなくて美しいということがあるという所までは説明しますが、美しいとは何かという説明はしません。美しいとは一体何であるか。これが分からなければ、本当の喜びは分からないのです。

 美しいということは、端的に申しますと、天地の心の慈しみ、聖書的に言いますと、神の愛なのです。神の愛が、美しいという形で現われているのです。青空の青さは、神の愛が青空という形で現われているのです。夕焼けの空のすばらしさも、神の愛の現われです。人が美しいと思うもの、山の景色、海の景色等、すべて人の魂に訴えるものがあります。満月を見ると、私たちは感動をおぼえます。一体、月の光は何でしょうか。これは、大宇宙のロマン、神の愛が現われているのです。それを人が見る時に、人の魂に神の愛が直に感じられるのです。理屈ぬきで感じられるのです。

 これは宗教ではありません。このことを、実は聖書が説いているのです。神の愛と人間の魂のつながりを、聖書ははっきり説明しているのです。「神は愛なり」とは、こういうことを言っているのです。現在、日本のキリスト教では、月の光が神の愛を現わしているといったような現実的な形で、神の愛を捉えることができないのです。

 キリスト教の牧師さんたちは、神学校へ行くか、どこかの教会の任命をうけて、その教派の教条を説明しているのです。宗教教義というのは、すべて、人間が造った思想なのです。どんな教義、宗教、道徳、論理も、すべて人間が造った思想なのです。

 ところが、聖書は教義とは違うのです。命とは何かという事実を示しているのです。般若心経は空という事実をはっきり示しています。空とは、釈尊の悟りの原則です。大乗仏教は、すべて空という理念から出発しています。空が分からなければ、仏法のいうところが分からないのです。般若心経はその原点なのです。

 ですから、般若心経を毎日、三回から五回位、読んだり写経したりしますと、知らず知らずのうちに、その感覚がしみこんでくるのです。そこに、般若心経の言うに言われない御利益があるのです。

 一体空とは何でしょうか。五蘊皆空とは一体何でしょうか。目に見えるものがないとすると、何があるのか。花が咲いているのにないといっても、やっぱり咲いているではないか。花が空だとすれば、咲いているのは何かということになるのです。

 従って、花という物質があるのではない。美しいという事柄が、花として現われているということになるのです。これが、般若心経の思想なのです。

 聖書から見れば、神が花を咲かせている。天地の慈しみが花という形で、私たちの目を楽しませ、心に命を暗示しているということになるのです。これは宗教ではありません。事実そのものなのです。

 イエスという人は、神が愛であるという事実を、自分の生活で証明するためにやってきたのです。彼は、天地の命を自分の命として生きたのです。それが、彼が復活した原因なのです。

 ほとんどの人は、日曜日に仕事を休みます。日曜日は、イエス・キリストの復活の記念日なのです。人々は、イエスもキリストにも関係がないのに、日曜日を休んでいます。これが歴史の流れなのです。自分は日本人だから、日曜は休まないと頑張った所で、世界の常識が通用しないのです。

 そのように、イエスの復活記念日を、世界中の人間が守っているという事実、こういう歴史の流れをどのように考えるべきかということなのです。今年は二〇〇九年です。これはキリスト紀元です。キリストが生まれたことを世界歴史の紀元にするのはどういうことかということを日本人は知らないのです。

 そこで、日本思想と、聖書や般若心経との関係ということですが、日本民族には日本民族の無明があります。個人にも個人の迷いがあるように、民族という集団にも集団の迷いがあるのです。ロシアにはロシアの迷いがあります。アメリカにもアメリカの迷いがあるのです。私たちは、宗教ではなく、国家思想でもなく、本来あるべき姿に立って、本当の命を究明しなければならないのです。

 私たちはこの世に生まれた時は、日本人ではなかったのです。生まれて一週間か十日後に戸籍を入れるのです。そして、日本人になったのです。生まれた時には、まず人間であったのです。それから、戸籍上日本人であるということになるのです。しかし、今でも場合によっては日本人をやめることはできるのです。どこかの国の市民権を獲得したら、日本人ではなくなるのです。

 私たちが日本人であるということは、絶対的な事実ではないのです。人間の本質を究明する、命の実体を学ぼうと思いますと、日本人であるとか、神戸の生まれであるということを前提にしますと、日本、神戸という意味での迷いがついて回ることになります。そこに注意しなければならないのです。

 日本思想の中で、本当に尊敬することができるのは、結論的に言いますと、神ながらという思想です。百人一首の中に、「このたびはぬさもとりあへず手向山紅葉の錦神のまにまに」という菅家の歌があります。紅葉の錦神のまにまにというのは、大自然の景色はそのまま神のまにまにであるという意味です。まにまにとは、神ながらと同じことです。神のまにまにの心が、日本の心であると考えられるのです。

 日本の国を考える場合には、国家思想が自然に浮かび上がってきます。菅家が言ったように、紅葉の錦神のまにまにとして考えますと、山に散らばっている紅葉、または、春の桜の花、これが神のまにまにでありまして、桜の花が美しいとか、紅葉がきれいだというのは、日本の国には関係がないのです。この土地が日本であろうがなかろうが、紅葉には変わりがないのです。桜は桜です。これが、本当の日本精神であると考えられるのです。

 本当の真理とは、昔であろうが今であろうが、また、どこの国へ行っても通用するものでなければなりません。ところが、日本精神とか、日本的な考え方を握りこんでしまいますと、アメリカへ行ったら通用しません。本当の大和精神、例えば聖徳太子の十七条の憲法のような精神、和の精神で見ていきますと、天地と人間が一つになることが、日本本来の大和心であると言うべきなのです。

 ところが、今の日本人の考え方は、非常に物質的で、島国根性が露骨です。これは民族の迷いです。例えば、ロンドンの大学で、日本精神の講義ができなければだめです。ニューヨークで日本精神の講義ができなければだめです。そのためには、どうしても聖書とか、般若心経という世界に共通する思想の原理に立たなければならないのです。

 そこで、聖書から見て、日本精神をどのように考えたらよいかということです。例えば、日本の国体のあり方、菊花十六弁の御紋章とは何であるか。金甌無欠とは何であるかということなのです。金甌とは金の瓶のことですが、これと日本の国体とどういう関係にあるのか。これが神道でも説明できないのです。旧約聖書なら説明できるのです。

 そういうわけでありまして、実は日本人が聖書を知らないのは、大変な間違いなのです。要するに、神ながらという考えを前提にして、いわゆる国家主義ではない日本精神、民族思想ではない本当の大和心に立ちますと、般若心経も、聖書も十分分かりますし、イエス・キリストと日本の国体との関係も説明できるのです。こういう角度から、聖書の勉強をする必要があるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

閲覧数:23回0件のコメント

最新記事

すべて表示

上智

般若心経と聖書とを、宗教的な角度から取り上げますと、大変難しい理屈になります。 ところが、宗教ではない般若心経、キリスト教ではない聖書になりますと、簡単明瞭になるのです。 大体、物事の真理は簡単明瞭でなければならないのです。それを、わざわざ人間が複雑怪奇にしているのです。宗教は商売ですから、せいぜい重々しくかまえて、複雑にしなければお金が取れないのです。 般若心経の言おうとしている所は、彼岸に渡る

般若心経と聖書の関係

新約聖書の内容と言いますのは、ずばり申しますと、神の国をテーマにしたものということになります。例えば、キリストの十字架、復活、昇天、聖霊降臨、使徒行伝時代の活躍など、新約聖書の中心の思想は、神の国が強く押し出されています。これは現世の思想ではないのです。 キリスト教の人々が、イエス・キリストの十字架によって、罪の贖いが完成したと言っています。人間の罪が許されてその人の魂が天国へ行くということを、い

空と実

般若心経は空を説いています。聖書は実を説いています。聖書を普通の常識的な頭で勉強していますと、本当の実が分からないのです。聖書は神の言葉でありまして、神の御霊の思想がそのまま言葉になって現われています。神の御霊は、人間の命の実質、実体そのものなのです。 ところが、キリスト教では人間の命の実質、実体を正しくつかまえないで、キリスト教の神学を説いているのです。イエス・キリストの十字架によって、罪が贖わ

bottom of page