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  • 管理人chaya

空と実


 般若心経は空を説いています。聖書は実を説いています。聖書を普通の常識的な頭で勉強していますと、本当の実が分からないのです。聖書は神の言葉でありまして、神の御霊の思想がそのまま言葉になって現われています。神の御霊は、人間の命の実質、実体そのものなのです。

 ところが、キリスト教では人間の命の実質、実体を正しくつかまえないで、キリスト教の神学を説いているのです。イエス・キリストの十字架によって、罪が贖われたと言っています。その言葉に間違いはありませんが、一体罪とは何か、贖いとは何か、キリストを信じると魂がどのように具体的に変化するかということを、はっきり説明していません。

 なぜかと言いますと、キリスト教の先生も信者の人も、生きている人間が聖書を信じているからです。そこで間違ってくるのです。生きている人間が聖書を信じると、人間的な信じ方になってしまうのです。

 これは仏教でも言えます。人間が仏さんを信じているのです。人間がイエス・キリストを信じているのです。そんなことを何回しても本当のことは絶対に分かりません。

 聖書には「悔い改めて福音を信ぜよ」という言葉があります。悔い改めるとはどうすることか、これがキリスト教では分からないのです。キリスト教で説いているのは、キリスト教の神学です。教義、ドクトリンです。これは間違っていませんが本当のことではないのです。入り口なのです。奥の方まで入って行かないのです。

 聖書を正しく信じようと思ったら、まず自分自身を空じることです。

 パウロが新約聖書ローマ人への手紙十二章三節で言っていますように、心を更えて新しくするということです。心は英語では、マインドになっています。精神を変えることです。変えるとはレニューであって、精神を根本的にやり直すという意味なのです。人間が人間の精神を持ったままで聖書を信じることはできないのです。やってもだめなのです。世界中のキリスト教は、人間が救われると思っているのです。人間は救われないのです。魂が救われるのです。

 ところが、キリスト教では魂のことが厳密に説かれていないのです。魂が何であるか分かっていないのです。なぜそうなるかと言いますと、キリスト教の人々は、キリスト教という宗教の立場から聖書を読んでいるからです。人間が幸いになるという立場から読んでいるのです。

 宗教は世間並みの人間をしあわせにすることが目的です。聖書は世間並みの人間をしあわせにしないのです。世間並みの人間を、十字架によって殺してしまうのです。これがキリスト教では全然分かっていないのです。

 聖書の勉強をしようと思えば、まず十字架の経験をすることです。これをしなければ何十年キリスト教の勉強をしてもだめなのです。十字架は人間の肉(常識的な考え方)を殺してしまうのです。「私はキリストと共に十字架につけられたとパウロは言っています。「私はもはや生きていない。今ここに生きているのは、キリストが生きている」と言っているのです。

 この言葉を無教会の人々はすっかり間違えているのです。内村鑑三氏は聖書を正しく読んでいないのです。キリスト教の神学ばかり勉強していたのです。彼はたくさん本を書いていますが、キリスト教の講義ばかりです。聖書の正しい講義はしていないのです。

 結局、宗教は嘘を述べていることになります。本当のことを説いていないから嘘になってしまうのです。宗教の教理、教義を本当のことのように言いふらしているのです。これがキリスト教の間違いです。

 イエスは、「自分の命が救われたいと思う者はかえって滅びてしまう」と言っています。己が魂を救おうと思う者は、これを失うと言っているのです。命は宇宙に一つしかないのです。イエスが甦った命しかないのです。イエスの復活の命が自分のものにならなければだめなのです。この点が宗教とは全然違うのです。

 聖書は宗教ではありません。世界中十数億のキリスト教信者は皆、自分が救われたいと思っているのです。これが間違っているのです。本当に永遠の命の実物をつかまえようと思えば、聖書に基づいて自分の魂の勉強をするしかないのです。そうしますと、自分がいないことが自然に分かるのです。そのためには、般若心経の空という門を通過するのが一番良いのです。

 新約聖書の中で、パウロは「ギリシャ人にはギリシャ人のように、ユダヤ人にはユダヤ人のように説け」と言っています。日本人には日本人のように聖書を説かなければいけないのです。

 日本の文化は空に基づいてできている文化です。空を基礎にして、お茶とかお花を勉強している。この民族に聖書を説くためには、般若心経から入らなければならないのです。日本のキリスト教は般若心経から入り直さなければだめです。空が分からない者に十字架は分からないのです。

 日本人は、空が分かって初めて十字架が分かるのです。

 ヨーロッパ人は、ソクラテス、プラトン、アリストテレスを十分に勉強すれば、人間がむなしいことが分かるのです。それから新約聖書を勉強することができるのです。

 ユダヤ人は、モーセの掟にさんざん苦しんだから、新約聖書を信じることができるのです。イエス・キリストを信じるためには、まず自分がからっぽにならなければだめなのです。

 イエスは、新約聖書マタイによる福音書の中で「私についてきたいと思うなら、自分を捨て自分の十字架を負うて私に従ってきなさい」(16・24)と言っています。己を捨て、己が十字架を負うことが、般若心経の色即是空、五蘊皆空です。

 空が本当に分からなければ、実は絶対に分かりません。今、人間が生きている命が空なのです。空とは、死ぬべき命をいうのですが、その向こうに死なない実があるのです。実とは、死なない命のことです。イエスの復活は死を破った命なのです。今の人間が生きている命は、死んでしまうに決まっている命です。だから、今生きている命を自分の命だと思っている人は、必ず死にます。死んでからきっと地獄へ行きます。

 空には二つの意味があるのです。生空と我空です。この両方をマスターしなければいけないのです。

 生空というのは、現在自分が生きている状態です。現在自分が生きている感覚です。これが空なのです。つまり、現象世界があるという気持で生きていることが、生空です。これを捨ててしまうのです。

 我空というのは、自分が生きていると思うことを捨てるのです。人間は、誰もが自分が生きていると思い込んでいる。その人は神の命を横取りしているのです。人間は神から命を預けられているのです。その証拠に、大脳には万物の命が入っているのです。人の脳細胞は神のコンピューターのようなものです。人は生まれながらにして植物の命、動物の命、昆虫の命、太陽の命、地球の命に対する直感的な認識があるのです。これが神のインプットなのです。

 生まれる前に神のインプットによって、人の脳細胞には驚くべき知識が秘められているのです。だから動物の命の状態が分かるのです。天体の状態が分かるのです。植物の命の状態が分かるのです。だから植木屋になったり、百姓になったり、養魚をすることもできるのです。生物を養うことができるのは、人の能力の中に万物全体の命がインプットされているからです。

 命は人間のものとは違うのです。神が人の脳細胞の中に驚くべき高価なものをインプットしているのです。神の知恵と知識がたたみ込まれているのです。だから、花を見れば美しいことが分かるのです。花の命が分かるのです。花の命が分かる人は花を育てることができるのです。

 人間は万物の長なのです。人の脳細胞の中に、天地万物のあらゆる命がインプットされている。だから、聖書に基づいて神の御霊によって自分自身の命を見ていけば、人の命がそのまま天地万物を貫く、無限の能力性があることが分かるのです。万物を生かすことも殺すこともできるような、恐ろしい力が大脳の中にあるのです。

 その勉強をするためにはどうしても、自分自身の気持ちを空じてしまわなければだめです。自分がいると思うことが間違っているのです。人間は、自分が生きていると思う悪い癖があるのです。人間は、自分で生まれたいと思ったのではありません。だから、今生きている命は自分のものではないのです。自分が生まれたいと思ったなら、自分の命かもしれない。ところが、自分が生まれたいと思わないのに勝手に生まれていたのです。「おのずから」生まれていたのです。

 自分というのは「おのずから」の分です。これが人間の命なのです。人間は「おのずから」生まれてきたのであって、自分が生まれたいと思って生まれたのではありません。イエスはこれが分かったのです。これが初めて分かったのです。

 だから、イエスの真似をしなければ救われないのです。キリシタンと思われようが、どう思われようが、イエスの真似をしなければ本当の命をつかまえることはできないのです。弘法大師の真似をしてもだめです。親鸞の真似をしてもだめです。親鸞は、自分の命がどういうものかをはっきり説明していないのです。知らなかったのです。

 釈尊は、人間がこの世に生まれたことが、はっきりと空だと言っているのです。一切空という言い方は、己を捨て、私のところへ来なさいとイエスが言っているのと同じことなのです。

 聖書を信じるためにはまず自分の考えを捨てるのです。キリスト教を捨ててしまうのです。キリスト教の観念にこだわっていては本当の聖書は分かりません。聖書は宗教ではないのです。

 神の命を人間は現在持っています。それが五官です。五官が永遠の命の実体なのです。これをはっきり受け取るために、般若心経と聖書を学ぶ必要があるのです。

1.人間存在の実体

 肉体人間がいるのではなく、肉体人間という形で生理機能と心理機能があることが、人間存在の実体なのです。

 人間存在の実体をはっきり見ていけば、今まで考えていない自分が見えてくるはずなのです。これは誰にも簡単に分からないことなのです。もし簡単に分かれば、イエスが十字架にかかる必要はなかったのです。

 人間は、誰も自分で生まれたいと思って生まれてきたのではありません。従って、自分の意志によって生きているのは間違いです。自我意識が、現世に遍満しているサタンの本体だと言っても良いくらいなのです。悪魔の本拠地だと言っても良いのです。

 自我という意識は完全に間違っています。それから脱却することが必要でありまして、イエス・キリストの十字架という問題は、それから抜け出すために是非通らなければならない問題なのです。

 イエス・キリストと共に十字架につけられたことが、新約聖書の非常に大きな命題になっています。一人の人がすべての人に代わって死んだことは、すべての人が死んだことだとパウロは断言しているのです。つまり人間は生きていないのです。もしあなたが、イエス・キリストの十字架を信じられるとすれば、このことがはっきり分かるのです。

 新約聖書にはこういう秘密のような所がありまして、こういうことをあなたがご理解すれば、あなた自身の思想を根本的に転換することは可能なのです。こういうことをお考えいただきたいのです。

 私が言っていることが絶対だと言うのではありませんが、イエスが復活したという事実が絶対なのです。死を破って復活したのは、イエス以外にはないのです。釈尊でも復活していません。マホメットも孔子も皆、死んでいるのです。

 日曜日はイエスの復活を記念する日なのです。日曜日に休むのは、イエスの復活を記念しているのです。現在では、世界中の人間が復活を記念しているのです。そういう意識があってもなくても、とにかく日曜日に休んでいるのです。そういう世界的な事実があるのです。

 イエスが復活したことは、歴史的な事実なのです。ただ聖書に書いてあるとか、自分が信じているとかいうことではなく客観的な事実なのです。客観的な事実を、お受け取りになることが必要なのです。

 その前にどうしても必要なことは、現在の人間の思想から抜け出すことです。そのために色即是空の思想が必要になってくるのです。今は色々な思想がたくさんあります。しかし、死を破ったというのはイエス以外にはありません。

 私は、大学の先生たちになぜイエスの復活の研究をしないのかと言いたいのです。イエスの復活はただの一例だから、学の対象にするのは困ると言うのです。私は、ただの一例だから、学の対象にする必要があるのではないかと思うのです。

 イエスが死を破って復活したことを、世界の歴史が認めている。これをなぜ学の対象にしないのかということです。現在の大学は、勇気を持っていないのです。

 今の文明は人間の命を考えていません。ルネッサンス以降の文明ははっきり言って間違っています。命が人間にとって一番大事なことであるのに、一番大事なことを文明は取り上げようとしていないのです。

 医者は病気を治すことには熱心ですが、命には全然責任を持とうとしないのです。こういう間違った意識が文明意識ですから、このような感覚を信じてはならないのです。思想とか主義とかいうものは、その人の精神から出た排泄物なのです。私たちは他人の排泄物を信じる必要はありません。生きているという事実を信じればいいのです。生きているという事実、心理機能と生理機能を見るのです。これが実はイエスということです。これが分かれば、永遠の生命の実体が分かるのです。

 これを聖書では、イエスの名、イエスの御名と言っているのです。イエスの名が分かればいいのです。そうすると神の子となるのです。これは聖書をよく読んでいけば分かるのです。

 復活についてもう少しふれておきますと、これは自然科学の根本原理からみても、十分説明できることです。新約聖書でパウロが、ダマスコ門外で太陽よりも明るい光を見て、盲になったと書いていますが、宇宙に新しい光の原理が生まれたというはっきりした事実があるのです。

 パウロの経験から考えまして、新約聖書の提供する自然科学のスケールをご存じないと、イエスの復活がもうひとつ信じられないかもしれません。

 新約聖書が私たちに教えようとしているスケールは、全くすばらしいものです。現在の地球が存在すること自体が、仮の姿だと言っているのです。

 神の国は悠遠無双であると思いますが、なぜそれが分からないかと申しますと、生まれる前の人生を知らないからなのです。人間は生まれる前の人生があったのです。これはいわゆる輪廻転生というものではありません。そして、現在の人生があり、それから、死んでから後の人生があるのです。

 生まれてきたというのは、どこかから生まれてきたのです。死んでいくというのは、どこかへ行くことなのです。過去生と現生と未来生の三つをワンセットにしたものが、本当の人生なのです。調和とおっしゃいましても、現世だけの意識でお考えになりますと、調和のスケールが小さくなるのです。

 現世だけの人生をあまり思いつめると、生きていることがばからしくなります。人生、生きるに価せずということになってくるのです。現世だけを人生だと考えますと、さっぱり訳が分からなくなるのです。何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか、また、死んだ後にどうなるのか。こういうことが全然分かっていない。

 地球は、森羅万象という生命体によってできています。生命体が充満しているのです。つまり、地球そのものが生き物なのです。地球から生まれてくる物は全部生きているのです。植物でも、動物でも、地球から生まれてくる物は全部生きているのです。これは、地球自身が生き物だからなのです。宇宙でこういう現象は、地球だけなのです。地球以外の星は、皆死んでいるのです。

 地球だけになぜこのような特異現象があるのか。銀河系の宇宙にも、生き物が満載されている星はないでしょう。そうしますと、なぜ地球だけにこういう特殊現象があるのかという問題なのです。こういうことが新約聖書の重要な問題でありまして、そういうスケールで物を考えますと、人生は、過去、現在、未来全体を貫いているものであることが分かるのです。

 この地球上に、やがて人が一人も住まなくなる時代がくるに決まっていますが、その時、地球は一体どうなるか。だいたい宇宙とは一体何であるか。神が天地を創造したのは何を造ったのかということなのです。こういう根本的なことが分からないと、本当の調和ということが分かりません。もっとスケールを大きくしますと、このことがはっきり分かってくると思いますが、キリスト教ではここまで突っ込んで話をしないのです。

 仏教でも、本当の空が分かっているお坊さんは少ないと思います。例えば色即是空は分かるのです。現在存在する物質が空であることは、自然科学でも、理論物理学でも分かることなのですが、空即是色が分からない。もし現象が空であるとすれば、空であるものがなぜ現象として現われているかということなのです。空即是色が説明できないのです。

 そういう訳でありまして、宗教界の人々は一つの概念にとりつかれているのです。私のようなことを言っていましたら、宗教は商売にならないのです。

 本当のことを言うと、人はめったに聞かないのです。嘘を言いますと、人は聞くのです。世の中はこのようにインチキなのですが、本当に人生を考えている人はめったにいないのです。やはり、自分がこの世で幸福になることばかりを考えているのです。

 幸福につきましても、人間はとんでもない考え違いをしていることがあるのです。調和についても、もっと大きなスケールで考えていただきたいと思います。死んでからも人生があるのですから、どうぞ現世だけが人生だとお考えにならないで、もっと大きいスケールでものを考えていただくことが必要です。

 イエスはその点において模範的な世界観、価値観を私たちに提供してくれたのですが、イエスの世界観、価値観をあなたご自身のものになさることです。そうすれば、本当の喜びが分かってくるのです。

2.肉の思いは死である

 一番重要なことを申し上げます。聖書の言葉にありますが、肉の思いは死であるということです。新約聖書ローマ人への手紙八章六節にありますが、この意味は、現在肉体的に自分が生きていると思い込んでいること、目で見たような状態、木がある、鳥が飛んでいると考えている。これを現象感覚と言っていますが、これが肉の思いです。

 人間は皆、現象感覚で生きていますが、今の人間は未完成なのです。ただ、釈尊とかイエスは、未完成の中から完成への灯火となってくれたという事実があります。

 人間の常識は肉の思いで成り立っています。物質が存在すると考えている。ところが、実は物質は存在していない。これは自然科学、物理科学でも証明できることなのです。原子の運動があるだけであって、物質があるのではないということは、故湯川博士も明白に言っておられました。ところが湯川さんは、私は学校では物質は存在しないと学生に教えているが、家へ帰ると物質が存在するような気持で生活している。どうも自分は偽善者のような気がするということをおっしゃっていました。これは非常に正直なことです。これが本当です。

 物質がないことは自然科学の理論で証明できるのです。ところが、人間の生活意識は物質があると思っている。これが、人間が未完成どころか死んでいるということなのです。だから私たちは、命がどこにあるかということを探せば良いのです。死なないようにと警戒するよりも、命がどこにあるかを考えて、それを探せば良いのです。

 皆様方は今生きていらっしゃいます。生きてはいるが命が分からないでしょう。命とは何であるかがお分かりになっていないのです。

 ところがイエスは、私は命であるとはっきり言っているのです。その証拠に彼は復活したのです。そのように死を破ったという歴史的事実が、この地球上にあるのです。これは世界的な事実なのです。こういう人間がいるのです。 

 どうして彼が死を破ったのかと言いますと、肉の思いを破ったからなのです。肉の思いは死であるとありますが、この肉の思いを破ったから死を破ったのです。イエスのしたことは、皆様方もできるに決まっているのです。

 未完成であり、不完全である死んでいく人間から、生きている人間に鞍替えすればいいのです。これはできるのです。

 肉の思いを解脱することは、ある程度禅宗でもできます。禅の悟りは空の悟りであって、命を見極めていくものではありません。まず、般若心経の空がご理解いただければ、肉の思いは空になるのです。従って、自分の死そのものが空になるのです。肉の思いが死ですから、肉の思いから解脱すれば死から解脱することができるのです。これをしていただきたいのです。

 これは非常に重要なことです。私は天地の命の法則を申し上げているだけなのです。私自身の理屈ではありません。どこかの宗教の理屈でもありません。ありのままのことを、ありのままに申し上げているのです。どうか、肉の思いが死であることをお考えになりまして、死の状態から抜け出していただきたいのです。世間が何と言おうと、誰が何と言おうと、要するにこのままでいけば死ぬに決まっているのですから、死ぬような人間の仲間から抜け出していただきたい。そういう勇気をお持ちいただきたいのです。

3.何のために生まれて来たのか

 私たちがこの世へ出てきたのは、それだけの理由がなければなりませんし、また人間完成をしなければならない責任があると思います。七十年、八十年生きていて、ただ死んでいけばいいというもではありません。

 私たちは現世に人間という特権を持って生きています。例えば、食事をするにしても犬や猫のような食べ方はしません。また着るものにしても、住む家にしても、人間らしい誠に尊い万物の霊長にふさわしい貴重な生涯を生きているのですが、これにはそれなりの責任が当然ついて回るのです。

 基本的人権が国連憲章で言われており、日本の憲法でもうたわれていますが、人権がある以上当然責任がなければならない。責任を考えないで人権だけを主張するのは、大変間違った思想です。

 何のために生きているのかということが分からないで、ただ基本的人権だけを強調するということは、借金を返す見込みがなくて、でたらめにお金を借りるのと同じことなのです。手形を乱発したのと同じ状態です。私たちは生きている以上、それに対する責任と覚悟を、当然持っていなければならないのです。人間はやがてこの世から消えてしまいます。

 人生には続篇があるのです。今生きているのは前篇です。この両方を合わせて人生というのです。

 現世は、力のない人があるように買いかぶられている場合もありますし、正直一筋の人が働き通して、一生生活苦にあえいでいる人もあります。

 現世における人間生活は、徹底的に矛盾しており不公平です。

 こういう不完全な人生が、これでおしまいだということは絶対にあるはずがありません。この不公平で不完全な人生の結末が、どこかで精算されなければならないのです。

 ところが現世の文明は、人生とは何かということをほとんど考えていません。生活のことだけを考えているのです。このような文明は人間の本質を無視した、盲めっぽうなものであると言わざるを得ません。

 文明はヨーロッパ人の概念によって造られたものでありまして、現在の学校教育は学問という概念を教えています。概念を本当のものとして教えているのです。これは、肉体を持っている現世にだけあてはまるものです。現世を去ってしまえば全く役に立たないのです。

 文明は人間の魂の本質、生命の本質をまるで考えようとしないのです。これは文明の名に恥ずべきものです。

 文というのは天地万物のあり方を意味しています。あや模様です。あや模様というのは、森羅万象のあり方、姿、たたずまい、いとなみです。これが文でありますが、これを明らかにすることが文明であるとすれば、人間の命の本質が究明されなければならないのです。現在の政治や学問はそれを全然考えていないのです。

 私たちは人間の本質を究明し、生きているうちに徹底的に脱皮しなければならない。そして、肉体で生きている命ではなく、本当の命、永遠の命をつかまえなければならないのです。

 般若心経で空を学び、新約聖書で永遠の命を学ぶことができるのです。釈尊の悟りと、イエスの命、この二つを学ぶことによって永遠の生命の実体と、天地万物の真相をわきまえることができるのです。

 私は宗教宣伝をしているのではありません。人間は、死ぬために生きていてはいけないということを警告したいのです。人間は生きています。しかし命を知らない。これは警告される値打ちがあるのです。生きていながら命を知らない。これは全くうかつなことです。

 私たちは生きている以上、命を知らなければならない責任があります。これは人生のノルマです。

 トルストイが死ぬ直前に、「人生で一番しなければならないことを、とうとうすることができなかった」と言ったそうですが、人間が現世でしなければならない絶対的な責任があるのです。

 人間とは何かということを究明すること、命とは何であるかということを究明することは、人間として現世に生かされているものの根本的な責任です。この責任を果たさなければ、人生のノルマを果たさなかったことになるのです。そのままで死んだら大変なことになるのです。

 私は、地獄極楽という因縁話をしているのではありません。生きていながら命を知らないということは、明らかに怠慢であるということをお話ししたいのです。

 皆様方は心臓が動いていることはご存知です。しかし、心臓が動いていることの意味が分からないのです。目が見えるとはどういうことなのかという、その意味が分からないのです。これが命を知らないということなのです。

 イエスは山上の垂訓で、「あなた方の目の働きが正しければ、全身が明るいだろう」と言っています。実は、皆様方の目は物を見ていないのです。物を見ないで物の実質を見ているのです。

 例えば寒いときにストーブを見ますと、暖かそうだという感じを持たれます。ストーブを見ないでストーブの実質を見ているのです。ごちそうを見ればおいしそうだという実質を見ているのです。料理の形ではなくて味を見ているのです。味とは形でなくて、般若心経的に言えば空なるものです。皆様は空を見ているのです。

 ところが、意識が肉性になっているのです。意識が間違っています。これが五蘊です。人間の目は実質を見ているが、意識は嘘を意識している。これが人間の迷いというものです。これを聖書では肉の思いと言っています。

 肉の思いは死です。現象を実体だと考えている。そういう考えは死であると言っているのです。今の人間は、すべて肉の思いで人生を生きていますから、全部死んでいると、新約聖書は断言しているのです。

 般若心経と聖書は、すべて人間の行き着く所を道破した大哲理、または大真理でありまして、このことを詳しくお話しするには、二時間や三時間ではできません。

 簡単にこの二つの関係を申しますと、イエスが生まれる前に釈尊が生まれたのです。釈尊は、イエスより五百年以上も前に生まれているのです。ですから、時代の流れから見まして釈尊の思想をよくわきまえないと、イエスの思想が分からないようにできているのです。

 イエスの存在の目的、価値、人生のあり方には驚くべき深いものがありまして、キリスト教で考えているようなものとは全く違います。イエスは宗教が大嫌いな人でした。その結果、宗教家に殺されたのです。ところが今のキリスト教は、イエスをキリスト教のご開祖として拝んでいるのです。これは全くおかしな話です。宗教が嫌いな人、宗教家に殺された人を、宗教家が拝んでいるのはおかしな話です。

 人間とは何であるかを煎じ詰めますと結局、般若心経と聖書に集約されるのです。まず般若心経において、本当に人間が空であるということを知ることです。五蘊皆空とはどういうものであるかということが分からなければ、イエスの思想は分からないのです。

 人間自身が空であることを承知した上で、十字架を学ばなければ本当の罪の贖いは分からないのです。ですから、般若心経は人生の真理の前篇であり、聖書は人生の真理の後篇であると考えられるのです。そこに宗教ではない永遠の生命があるのです。

4.生まれてきた目的は何か

 人間がこの世に出てきたのは、生活をするためではありません。生活とは一つの営みなのです。営みとは、家庭とか、商売とか、会社とか学校へ行くことなのです。人間は生活をするためではなくて、命を経験するために生まれてきたのです。人間がこの世に生まれてきたのは生きるためです。生きるとは、命を経験することです。

 本当の命とは何かと言いますと、例えば、花は命を現わしているのです。花が命ではなくて花が命を現わしているのです。生活している人は花と同じなのです。人生が命を現わしているのです。

 命がどこにあるかと言いますと、花が咲く前の状態、花がない状態、花が花になる前の状態です。これが命なのです。花が咲いてしまいますと、命のかすが現われているのです。

 実は、人がこの世に生まれる前に命があったのです。この世に生まれる前に本当の命があったのです。この世に生まれる前の命が今、人としてこの世に現われているのです。この世に生まれる前の命とは、自在の命、初めからあった命なのです。これが命の本質なのです。

 観自在とはこれを言っているのです。観自在菩薩は生まれる前の命を見極めたのです。この世に生まれる前の命ですから、この世の商売、家庭、親子関係とは一切関係がないのです。嘘をついたことも嘘をつかれたこともない純粋、無垢の命なのです。これが命の本体です。これがこの世に生まれてきたのです。

 この世に生まれたことが業なのです。肉体を持ってこの世に生まれたことが、人間の業なのです。カルマです。カルマを果たさなければ人間は死んではいけないのです。この世に生まれてきたいわれをよく心得て、それを果たさなければ、絶対に死んではいけないのです。

 ところが日本には、こういうことを教えてくれる人は一人もいないのです。世界にもいないかもしれません。人間は、この世に生まれてきた目的を知らなければならないのです。心は命を知ることができるのです。また、命によって心が発生しているのです。命と心の関係は非常に微妙なのです。

 人はこの世に生まれる前に純粋な命があったのですが、この世に生まれて、親とか子、男と女になって、どろどろになり業が始まったのです。生活という問題は、生まれてから始まった後天的な問題なのです。命の本体は先天的なことなのです。生活がなくてもいいというのではありません。生活はしなければならないのです。真面目に働くという気持さえあれば、生活するくらいは絶対にできるのです。ですから、生活のことよりも命のことを考えれば、業を果たすことはできるのです。

 ところが、日本社会は一種の欠陥社会であって、日本人は実にいいかげんな民族です。だいたい日本の神道が間違っているのです。日本の八百万の神は人間の生活のためにのみあるのです。命のことは全く考えていないのです。天理教やPL教団は、神道にキリスト教の概念を合わせただけなのです。命とは何かという説明ができないのです。仏教でもキリスト教でもできないのです。

 命とは何かという簡単なことが日本人に分からないのです。だから、死ぬということが分からないのです。人間は命を経験しています。命を経験している状態を、魂というのです。ところが日本人は、命を経験せずに生活の経験ばかりをしているのです。生活の経験というのは、いくら儲かったとか、損をしたとか、あの人が良いこの人が悪いということばかり考えているのです。

 命とは、五官が働いている実体です。五官は、見ること食べることによって、はっきり天地の命を捉えているのです。ところが人間は、五官の働きが何をしているのか知らないのです。命を知らないからです。

 華道、茶道はいくらかこれを知ろうと考えています。初めはそうだったのです。今の華道は全然だめです。お嬢さんの遊びになっているからです。千利休は一期一会と言っていたのです。花を活けることによって命を見ようとしていたらしいのです。しかし、千利休はただの人間でしたので、本当の命を見極めていないのです。

 花の心は、命を見ようという心が原点なのです。お茶を飲むとはどういうことなのか。これによって魂がどのような感覚を持つのか、これを考えるのが本来の茶の心なのです。ところが、肉体的な生活のことばかりを考えているのです。だから、肝心の命が全然分からないのです。

 五官が働いていることが命ですが、命がまともに働くようになりますと、五官の働きが光になるのです。「命は人の光である」とヨハネは言っています(ヨハネによる福音書1・4)。これがそのまま仏説阿弥陀経の内容になるのです。ここで聖書と仏典とは一つになるのです。

 「言に命があった。そしてこの命は人の光であった」とヨハネは言っています。命とは、人間が現世に生きている状態をさすのです。私たちが注意してミカンを食べればその味が光になるのです。

 人間が生きている事実は宗教ではないのです。哲学でもない。生まれる前の状態が、生まれた後の状態になって現われているのです。これが自在なのです。

 生まれる前とは初めからあったもので、地球ができる前に天地の命があったのです。万物の命があったのです。この本当の命、宇宙の命が、地球という形、森羅万象という形で今、目の前に現われているのです。これを見るために人はこの世に生まれたのです。

 森羅万象を見て、地球ができる前にあった命を知るのです。これが永遠の命です。人間は、永遠の命を知るために地上に生まれてきたのです。死ぬべき人間とは、間違った命の受け取り方をしている人です。これだけのことなのです。

 どうすれば死から脱出できるかと言いますと、間違った考えをやめればいいのです。彼岸で生きることなのです。観自在が死なない命なのです。生まれる前の命だから死ぬはずがないのです。これを経験するために、人間は現世に生まれてきたのです。

5.生きていることは虚しいことか

 般若心経を何回読んでも命は分かりません。聖書をどれだけ暗記しても聖書の命は分かりません。般若心経と聖書が宗教ではないというのは、命をはっきり体当たりでつかまえる書ということです。

 すべて人間の行き着くところは、現世の人間は空であるということです。皆様が何のために生きておられるかをお考えいただきたいのですが、空に決まっているのです。皆様が現在生きておいでになることが、空なのです。

 あるプロ野球の監督が優勝した経験について語っていましたが、優勝したその日は嬉しかったが、二、三日すると非常に虚しい気がしたというのです。全くそのとおりです。結婚しても、金儲けをしても、別荘を建てても、虚しいという気持が腹の底からわいてくるでしょう。要するに、人生は虚しいものなのです。人生において、虚しくないものは一つもありません。宗教は最も虚しいものなのです。その中でも仏教やキリスト教は虚しいものなのです。もし今、釈尊が地上へ来たとすれば、現在の寺のお坊さんたちを叱りつけるでしょう。虚しいことをしているからです。

 釈尊が言ったのは空という実体です。色即是空とは、物質的現象は実体ではないという意味です。これは理論ではありません。本当のことなのです。生きていることは事実です。事実をはっきり究明することが、私たちの人生勉強の中心でなければならないのです。

 宗教はこういうことを考えないのです。死んだら天国へ行くとか、極楽へ行くとかというバカなことを言っているのです。考え方が虚しいのです。宗教というものが五蘊皆空の中に入ってしまうのです。五蘊の中に宗教という概念がすっぽり入ってしまうのです。これが皆空だと言っているのです。これが観自在の悟りです。

 私たちは本当の意味の空の実体を考え、イエスが主張した永遠の生命の実体を究明しなければならないのです。

 釈尊は人間が空であることを言いました。イエスは永遠の生命があることを証明したのです。イエスの復活がそれを証明したのです。釈尊は無という事実を徹底的に証明したのです。イエスは有という実体に徹した。この意味で、仏典と聖書は正反対の位置にあります。正反対の位置にあるといっても、まず、釈尊の空という実体に徹しなければイエスの実体は分からないのです。本当の神が分からないのです。

 今のキリスト教はローマ・カトリックをはじめとして、どこのキリスト教でも教理を説いている。教義を説いているのです。宗教は読んで字のように主なる教えでありまして、人間のために人間が造った人間の教えなのです。しかし、釈尊から見れば現在の人間そのものが空なのです。だから、人間のために人間が造った教えは本質的に空なのです。これが分かれば、虚しい人生がなくなるのです。 

6.空と命

 いわゆる一般的に考えられている宗教は、宗教組織を持ち、社会的な背景があり、宗教教義を説いている団体を言います。もしそれらが、本当の意味で神と人との結びつきを検討しているのなら、なんら意義を唱えるものではありません。新約聖書で、「新しく生まれなければ神の国を見ることはできない。水と霊とによって生まれなければ神の国に入ることはできない」(ヨハネによる福音書3・5)と、イエスは言っています。

 ところが現在のキリスト教では、新しく生まれるということが全く漠然としていまして、新しく生まれたと信じますと言ってごまかしているのです。そういうごまかしを宗教教義ということができるのです。聖書は、一切ごまかしは通用しません。

 新しく生まれるというのは、新しく生まれること自体をさしているのでありまして、新しく生まれたと信じることではないというのが、聖書の主張なのです。私は、新しく生まれることをささやかながら経験していますので、こういうことを述べているのです。ただ新しく生まれると信じるのではありません。

 新約聖書の中でパウロが、私はキリストと共に十字架につけられたという有名な言葉を述べていますが、この点についてもキリスト教でははっきり述べていないのです。キリスト教では教義は教えるが、聖書の命の言葉は教えていないのです。死んでから天国へ行くということは、聖書には書いていません。そういう聖書に書いていないことを、まことしやかに言っているのです。こういうものが宗教だと考えているのです。

 宗教ではないというのは、聖書を本当の意味での命の言葉として扱うということです。

 仏教につきましても、もし空ということが現在の仏教で取り上げられているとすれば、現在のような伽藍仏教がありうるはずがないのです。現在の伽藍仏教は、空を説きながら空を体得していないのです。こういう状態でありまして、各宗派がお互いに悪口を言い合っているようですが、そういうことをさして仏教は宗教だと言うのです。

 仏法と仏教は違います。もっとも現在では、釈尊の本当の思想がなんであったかは、ほとんど不明です。いろいろな仏教家が演繹した結果、膨大な教学系統ができまして、現在では釈尊の本当の思想が曖昧模糊となっています。

 般若心経の思想も、本当に釈尊の思想であったかどうか疑問な点があると思いますが、とにかく仏教全体の流れを考えまして、般若心経の言おうとしていることは、一番釈尊の思想を要約しているように思います。

 究竟涅槃ということ、遠離一切顛倒夢想ということが、般若心経の本当に言いたいところだと思いますが、この究竟涅槃という一点に絞って考えても、般若心経を取り上げることが仏教の中心的なテーマを取り上げることになると思います。

 空、涅槃は宗教で考えられているようなものではありません。色即是空、空即是色に徹底すれば、イエスの本当の姿が見えてくるのです。

 現在の人間の考え方、新約聖書で言いますいわゆる異邦人的な物の考え方では、なかなかイエスのことは分からないのです。イエスは、誠の神にして、誠の人であったとヨハネは言っていますが、この人の立っていた場は非常に高かったのです。高いというより普通の人間とは次元が違っていたのです。人間と違った次元に立っていたのですから、私たちが自分自身を空じなければ、イエスの立場を理解することはできません。

 般若心経によって空を学び、新約聖書によって命を学ぶことの両方が、宗教ではないものとして取り上げられなければならないのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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