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  • 管理人chaya

般若心経と聖書の関係

 新約聖書の内容と言いますのは、ずばり申しますと、神の国をテーマにしたものということになります。例えば、キリストの十字架、復活、昇天、聖霊降臨、使徒行伝時代の活躍など、新約聖書の中心の思想は、神の国が強く押し出されています。これは現世の思想ではないのです。

 キリスト教の人々が、イエス・キリストの十字架によって、罪の贖いが完成したと言っています。人間の罪が許されてその人の魂が天国へ行くということを、いわゆる贖罪論と言いますが、これは概念としは間違っていません。しかし、これは宗教概念でありまして、神の国の実体という感覚がすっぽり抜けているのです。

 例えば、神の実体は何であるか。神を信じるとはどういうことなのか。天地創造とはどういう事実をさすのかというように、的確に具体的な事実を押さえていきますと、だんだん分からなくなるのです。

 これは、キリスト教という宗教が、概念を説明しているから、そういうことになるのです。聖書の言葉が具体的に預言されていないのです。キリスト教の神学と、聖書の預言とでは、内容が違っているのです。

 そこで、私たち異邦人は、日本人やアメリカ人は異邦人ですが、異邦人から考えますと、新約聖書の内容は、オクターブ違うのです。次元が違うのです。

 異邦人は、「キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束された色々の契約に縁がなく、この世の中で希望もなく、神もない者である」(新約聖書エペソ人への手紙2・12)とパウロが言っていますが、キリストや神の約束に何の関係もなかった日本人が、ぼやっと聖書を見ただけでは、なかなか本当の神の国の意味は分かりません。

 聖書は、「十字架によってすべての人は死んでしまっている」と言っているのです。このような秘密、すべての人が死んでしまっているとはどういうことなのか。キリスト教の神学ではなかなか分からないのです。

 従って、新約聖書に登りつくための足台として、般若心経が手頃であると信じられるのです。仏典はたくさんあります。なぜ般若心経を取り上げたのかという質問をする人がいますが、般若心経の中心思想は、釈尊の悟りの中核を貫く思想です。

 五蘊皆空は、釈尊の悟りの中心思想です。この五蘊皆空という思想から、釈尊のあらゆる教説は出発しています。このように考えてもよいと思います。

 新約聖書に足台なしに直接くらいつきますと、皆間違ってしまうのです。例えば、日本に来ているキリスト教は欧米から来ています。アメリカのキリスト教でも、イギリスのキリスト教でも、北欧のキリスト教でも、ほとんど皆間違っています。

 今の日本のキリスト教では、聖書の預言的な意味での言葉の扱い方が、ほとんど徹底していません。これは、新約聖書に初めからくいついたから、そうなったのです。

 イエスが、「心の貧しい人たちは、さいわいである」(同、マタイによる福音書5・3)と言っていますが、心の貧しい者とは、心のむなしい者という意味です。これをイエスが言ったのは、ユダヤ人に対して言ったものです。

 ユダヤ人はイエスが現われるまでに、モーセの掟によって、二千年間訓練されていたのです。日本人の場合には、何の訓練も行われていません。訓練なしに、いきなり聖書に取り組んだのです。

 だから、日本のキリスト教は、皆間違っているのです。例えば、新しく生まれるとはどういうことなのか、イエスの御名とは何であるか。こういう重大なことが分かっていないのです。

 イエス・キリストを信じるということ、神の国を受け取るということ、神の国に入るということは大変な問題です。

 目が黒いうちに、永遠の生命の実物を掴まえることになるのですから、大問題ですが、このような問題を、ただの素人が初めから取り組むということが、無理なのです。

 それが悪いというのではありませんが、大体そういうことはできないのです。そういう事実を、いやというほど見てきましたので、敢えて般若心経を前編にすえたのです。

 こういう意味でありまして、般若心経を軽んじているのではありません。般若心経にははっきりした彼岸の説明がありません。聖書には、彼岸の説明がされているのです。

 そこで、般若波羅蜜多を前編において、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」を後編におきますと、ちょうどワンセットになってよく分かるのです。

1.なぜ般若心経と聖書を一緒に学ぶのか

 普通、宗教的に扱いますと、般若心経なら般若心経、聖書なら聖書と、どちらも一本立ちができるテーマですが、般若心経と聖書の両方を一緒に取り上げるという考え方は、今までの日本にはなかったことです。

 般若心経は、もちろん仏教の経典として扱われています。ところが、般若心経は仏教だけではなく、宗派神道の勉強をしている人でも、随分用いていらっしゃるようです。婦人会とか、青年団などの修養団体、または社会教育団体の集まりでも、随分用いられています。

 般若心経は、諸法空相と言っていますし、無無明 亦無無明尽 乃至無老死亦 無老死尽と言っています。また、無苦集滅道と言っています。

 無明とか老死は、いわゆる十二因縁という仏教の唯識論の基本になっています。苦集滅道は、いわゆる四諦という教義をさしています。

 般若心経の字句を綿密に読んでいきますと、自然に仏教の唯識論を否定していることになるのです。いわゆる小乗仏教の唯識思想といわれる、四諦八正道、十二因縁を否定しているのです。こういう点から考えますと、般若心経を仏教の経典と考えるのは、どうかと思われるのです。

 お釈迦さんの思想の中心は空です。空を達見されたということが、釈尊の基本思想になっています。色々な経典を読んでいきますと、空がまず最初に書かれていて、それから色々な教えが説かれているのですが、結局、諸法空相という考えが般若心経の中心になっていまして、釈尊の考えをまとめてしまえば、般若心経という二百七十六文字の経典になってしまうのです。

 般若心経は、仏教の唯識論を否定していますが、仏教の中心思想である空が重点になっていますから、仏法の中心であると言えるのです。

 ところが、仏法と仏教は違うのです。仏というのは悟ること、また悟りを開いた偉い人をいうのです。つまり仏陀の法である悟ること、般若波羅密多という形で現世を乗り越えて悟りを開くこと、また開いた人のことを仏と言います。

 日本の各仏教は、ご開山がありまして、ご開山が色々と教えを述べています。その教えに基づいて、真宗、浄土宗、真言宗、日蓮宗、禅宗ができています。それぞれのご開山の教えによって、日本の仏教ができているのです。これは仏法とは違うのです。

 ご開山の教えは、どこまでも教えであって、悟りには関係がありますけれど、般若心経のように、空を悟ることが日本の仏教の目的になっていないのです。

 般若心経に、究竟涅槃という言葉があります。遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃が、般若心経の目的になっていますが、遠離一切顛倒夢想というのは、人間の色々な思想は逆立ちしている。あるものをないもののように考えている。ないものをあるもののように考えている。これが顛倒夢想です。そういう見方を、遠離してしまう。その結果、涅槃を突き止める。これが般若心経の目的です。

 般若波羅密多は、究竟涅槃というようにもとれるのです。仏を信じるとか、極楽へ行くとか、この世で幸せになるという字は一つもありません。従って、いわゆる日本の仏教のように極楽往生するとか、現世で幸いな生活になるとか、国が立派になるとかいう考えは、般若心経にはありません。

 究竟涅槃が、人間が幸福になることだという解釈もできないことはないのですが、般若心経の二百七十六文字を読んだだけで考えますと、現世で幸いになるとか、死んでから極楽へ行くという思想はないのです。

 般若心経を、仏教の経典として取り扱うことが間違っているのです。般若心経は本願寺では用いませんが、天台宗でも真言宗でも、禅宗でも用いています。般若心経を用いるといっても、中心になって説かれているというのではなくて、刺身のつまみたいに扱われているのです。長いお経を読んだついでに、ちょっと般若心経を読むというように扱われているのです。

 だから、般若心経は日本の仏教の経典であるかどうか、分からないのです。しかし、釈尊の悟りの中心になっているのは間違いなのです。

 そこで、般若心経が仏教の本当の思想であるとすると、他の仏教が間違っていることになる。どうも、宗教信者、宗教学者の人々でも、般若心経の位置づけは大変難しいことになっているのです。

 ところが、宗教を離れて、人間が生きているという赤裸々な姿で考えますと、般若心経は大変結構なものになるのです。

 人間が生きているのは空なのです。何のために生きているのか分からない。何のために自分が生まれてきたのか分からない。死んでから極楽へ行くと言っても、どうなるかはっきり分からないのです。般若心経は、現在生きている人間の生き方について、非常に重要な提言をしているのです。人間が現在生きている姿が、そのまま空である。根本から空である。生きていても、死ぬしかないからです。

 無眼耳鼻舌身意、無色聲香身觸法、無眼界乃至無意識と言っていますから、人間が見ている世界も生きている世界も、一切無いと言っているのです。そうすると、人間が生きていることが、何のためか、さっぱり分からないことになるのです。般若心経は結論があるようでないのです。

 現在生きている人間を否定すれば、現在生きている事柄をどのように考えればいいか。これについて、般若心経は何も言っていないのです。ただ、般若波羅密多はけっこうだ。是大神咒、是無等等咒、能除一切苦と言っている。一番すばらしい経典である。一切の苦しみは無くなるのだ。羯諦羯諦、般羅羯諦、もっとやれ、もっとやれ、頑張ってしっかりやれと励ましているのです。

 頑張ってやれといっても、何をすればいいのか、般若心経の字句を見ただけでは分からないのです。現在生きている人間は、確かに空です。何のために生きているのか。命とは一体何か分からない状態で生きていることが、無意味なことになるのです。食って寝て、食って寝て、子供を産んで、結局死んでしまうのです。

 一人ひとりの人間が死んでしまうだけではなくて、人間社会も自滅してしまうのです。世界の人類がどこへ行くのか、さっぱり検討がつかないのであって、人間文明が消えてしまうことが必ずあるのです。

 遅かれ早かれ、人間歴史は空になってしまうのです。諸法空相が、そのまま人間歴史にあてはめられることになるに決まっているのです。

 限られた地球の面積に、人間がやたらに増加していくのですから、五十年後には、人口が現在の三倍位になるでしょう。そうなると、食糧はどうなるのか。エネルギーはどうなるのか。鉱物資源はどうするのかという大問題が生じてくる。食べることを考えても、五百年も千年も、ましてや、一万年も、二万年も、人類が存続することは不可能なのです。

 そのように考えますと、般若心経は大した見方をしていると言わなければならないのです。

 果たして人間は、空だと言ってすましておけるのでしょうか。般若心経は、この世に生まれてきた人間は空だと言っていますけれど、空だと言ってすましておけないことになるのです。何か絶対的なものに頼らなければならないのが、人間なのです。

 人間の魂は何かを発見して、何かを頼りにして生きていかなければ、生きておれないのです。般若心経の空という言い方に対して、心から同意できるのでしょうか。できないとすると、何を頼りにして生きているのでしょうか。

 そこで、神が問題になるのです。人間が空であるということと、神とどういう関係になるかということです。

 この神とは、キリスト教のいう神ではありません。キリスト教が言っている神は、宗教の神なのです。これは本当の神ではありません。キリスト教では、聖書が正しく説かれていないのです。正しく説いているつもりかもしれませんが、宗教の教義は、人間が造ったものです。長年の伝統に基づいて、キリストを説いているのであって、これは聖書そのものではありません。

 仏教もそのとおりです。本当の仏法は日本にはありません。仏と言っても、釈尊が言われた仏ではないのです。

 そこで私たちは、宗教ではない本当の悟りとしての、人間が空であるという意味での般若心経の勉強と、宗教ではない聖書の勉強の、両方を勉強する必要があるのです。宗教を離れて、命の実体を見なければならないのです。

 涅槃、空というだけでは、さっぱり先が見えない。そこで、人間自身が空であるとして、空である人間が何を頼りに生きるべきかということになりますと、神しかないのです。

 驚くべきことですが、人間の命の実体は神なのです。地球が自転、公転していること、心臓が動いていることが神なのです。これを信じなければ信じるものはないのです。

 般若心経によって空を信じても、私たちが生きているという事実があります。この生きているという事実が神であるとしますと、空を悟った上に、神の実体を掴まえて、命を明白に捉える必要があるのです。

 文明の中から、死を追い出してしまうのです。死なない命をしっかり持つという覚悟を持って、もう一度人生を見直すために、宗教ではない般若心経と聖書を勉強する必要があるのです。

2.仏典は前編、聖書は後編

 人生というものは実に奇怪なものでありまして、現在の人間は洗脳されているのです。どのように洗脳されているかと言いますと、ルネッサンスによって、人間はヨーロッパ文明にすっかり洗脳されてしまったのです。そこで、現在の人間は、今の文明を深く疑おうとしない。これは洗脳されている証拠です。

 私は、皆様方が洗脳されている状態から、もとに帰って頂きたいと思うのです。

 現代の人間、現象主義の五蘊の状態で、しっかり現世を肯定しておられる方々の感覚から言えば、般若心経の思想や、聖書の思想は、はっきり洗脳されることになるでしょう。

 例えば、パウロという人物は、「すなわち、あなたがたは以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである」(新約聖書エペソ人への手紙4・22〜24)と言っています。これははっきり洗脳です。つまり古い人間の考え方を捨て去って、新しい人間の考え方に入ってしまいなさいと言っているのです。これをすれば、空ということがはっきり分かるのです。

 また、他の所で、「心を新しくせよ」(同、ローマ人への手紙12・2)と言っています。心は英文では(mind)になっています。新しくするというのは(renewing)で、いわゆる(change)とは違うのです。(change)というのは方向転換ということですが、(renewing)というのは、やり変えること、やり直すことです。全く新しいやり方で出直せというのです。

 これは洗脳を意味するのです。聖書は聖霊によって洗脳しようというのです。このように、心を新しくすることによって、空ということがはっきり分かるのです。

 ついでにお話ししておきますが、イエスは天から下ってきて、依然として天にいたと言っています(ヨハネによる福音書3・13)。漢訳では以前在天と言っています。人間は現世に生きていても、、この身このままで天にいることはできるのです。

 仏典の中で言いますと、即身成仏ということになります。これは、現在の憎しみを持ったままで、成仏してしまうことを言っているのです。この即身成仏と以前在天とは、ほとんど同じ意味になるのです。

 厳しく言えば、仏と神とは違います。仏と言いましても、観世音菩薩というのも仏ですし、大日如来というのもあります。これは真言宗の仏です。

 大日如来とは天地の主というような意味です。大日如来は、旧約聖書のエホバとよく似たものですが、大日如来には約束がないのです。約束がないということが致命傷なのです。これが仏典の致命傷なのです。

 聖書は、約束の上に厳然と立っています。約束ということは大したことです。旧約聖書、新約聖書と言いますが、古い約束、新しい約束という意味です。

 人間には未来があります。未来とは何かということです。簡単に言いますと、未来とは約束ということです。もし約束がなければ、未来はないのです。

 例えば、人間は明日が来るという未来を何となく信じています。だから、今日生きているのです。

 人間文明が間違っているということを、分かっている人は多いでしょう。しかし、何とかなると思っているのです。

 なぜ何とかなるかと言いますと、実は、人間の魂のどん底に、神の約束に対する牢固とした信念があるからなのです。人間の魂は、そのどん底で約束を知っているからです。これはすばらしいことです。

 ところが、仏教ではその説明がつかないのです。聖書でないとだめなのです。そこで聖書は後編ということになるのです。仏典は前編であります。そういう関係になるのです。

3.空観の結晶と永遠の命の結晶

 宗教というものは、例えば仏教は大乗の理論、小乗の理論、いわゆる八万四千の法門を展開する大宗教です。

 仏教はいくら勉強しても、人間の命には関係がないのです。私たちに必要なことは、命そのものの本質の究明であり、いわゆる宇宙の大霊、命の本源そのものの究明です。

 釈尊の生き方は、悟ることが中心命題でありますが、悟るということは、よほど仏性に恵まれた性格の人でなければできないということもあり、また、本質的に悟るとは一体何なのか、何を悟るのかということです。

 涅槃寂静と言いましても、この実体は何かということなのです。般若心経に究竟涅槃という言葉がありまして、涅槃を突き止めることが悟りでありますが、人間が悟りを開くということが、果たして妥当なのかどうか、色々と難しい問題が出てくるのです。

 人間は、大体自分で生まれたいと思って生まれてきたのではないのです。このことは、根本的に考えなければならないことなのです。

 命の本質にふれていくためには、私たち自身の命のあり方の本源をよく究明しなければならないのです。

 私たちは自分が生まれたいと思って生まれたのではない。これは明々白々な問題です。生まれたいと思って生まれたいのでないとすると、今生きていらっしゃる皆様は、自分という人間ではないことになるのです。

 自分の意志によって生まれたのなら、自分に決まっています。自分の意志によって生まれてきたのでないとすると、自分が自分だと思っている人間は、自分であるかないか、何であるかということなのです。

 悟ると言いましても、何のために生まれてきたのか分からない人間が、悟ってみたところで果たして本当の悟りになるかどうか、疑問があるのです。釈尊の悟りがどうこうというのではありませんが、今では、実は釈尊の本当の思想が何であるか、分からなくなっているのです。八万四千の法門は、釈尊の弟子が大風呂敷を広げたようになっているだけのことなのです。

 恐らく、阿含経、華厳経、大日如来経、大般若経の基本になる思想が、大体空なのです。これが般若心経に説かれている。般若心経は、日本人に最も馴染みの深い経典になっているものでありまして、空観を主張しているのです。

 もちろん、般若心経だけが仏典ではありませんが、いわゆる生老病死という考え方、十二因縁という考え方が無であると喝破している。生老病死とか十二因縁という考え方は小乗なのです。それを喝破して大乗であることを顕揚しているのが、大体般若心経であると思われますけれど、これにしてもはっきり釈尊の思想であるかどうかは疑問の余地がないとは言えません。

 釈尊はどうも偉くなりすぎたようです。これは、もちろん釈尊の関知していることではありませんが、後の世の人たちが大円鏡智とか妙観察智とかいうように祭り上げてしまったのです。いわゆる釈迦牟尼如来にしてしまったのです。

 ところが、釈尊という人は王国の皇太子なのです。素人なのです。だから、素人的な考え方で、率直に一切の理屈ではなく、人間自身が生きているという実体を捉えて、話し合うということが一番いいのではないかと思うのです。

 宗教ではないと私が言いますのは、宗教理論、例えばキリスト教には贖罪論とか、再臨論とか、終末論という理論がたくさんありますが、そういうものは宗教の教義です。仏教にも、各宗の教義があります。教義に基づいて教えを説くものが宗教なのです。

 私が考えていますのは、命の当体を捉えて、何のために生きているかを究明しなければならないと考えているのです。とにかく、仏を信じた、キリストを信じたと言ってみても、死んでしまえば何にもならないのです。

 イエスは、「私を信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、私を信じる者は、いつまでも死なない」(新約聖書ヨハネによる福音書11・25、26)と言っていますが、イエスがそう言明した根拠は何であったか。彼が復活したという事実は何なのか。どういうことなのか。私たちは復活にあずかれるものか、そうではないのかということなのです。

 人間はぼやぼやしていれば皆死んでしまいます。それが釈尊のいわゆる空ですが、現在、人間は常識、知識に基づいて生きている。つまり、五蘊に基づいて生きているのですが、この常識、知識が一切空であると釈尊は喝破しているのです。

 現在の人間の理屈は、悟ったと言おうが、悟らないと言おうが、要するにそういう考え方の根本が空だと言っているのです。

 大乗起信論によりますと、人間は妄念が妄念を受け継いで、無限の無明に沈み込んでしまっているとはっきり言い切っています。

 こういう人間が、果たして悟ることができるかどうか。釈尊はそういう人でなかったのかもしれません。とにかく、一般の人間は無明の底に沈殿してしまっているのです。そういうものが悟ることはできない。また、悟ったところで迷っている人間のことですから、本物がどうか甚だ疑わしいことになってくるのです。

 問題は、私たちが現在生きていることは何であるかということなのです。何のために私たちは生きているか。こういう問題をはっきり究明するために、まず般若心経の空観に徹すること、自分が生きているということは、バカみたいなことだということを悟ることです。

 その次に、自分が生きているその命は何かということをはっきり掴まえることです。こういうことのために、空観の結晶である般若心経と、永遠の生命の結晶である聖書を捉えて、人間の命の実体を究明しようというのです。

 これは宗教ではありません。もし宗教を宣伝するなら、般若心経を宣伝するか、聖書を宣伝するか、どちらか一つを宣伝します。この二つを並べると、宗教にはならないのです。日本の社会の宗教という概念からはずれてしまうのです。そういう意味で、命とは何か、何のために生きているか、生とは何か、死とは何か、こういう問題を端的に究明するようにしたいと思います。

4.般若心経も聖書も宗教を否定している

 私は仏教を軽視する気持は毛頭ありません。軽視するどころか、東洋人に与えられた神の摂理としての通過すべき門であると考えています。

 例えば寺には山門があります。宗派によって山門のあり方は違いますが、正式にはお寺の本堂に参拝をするためには、山門を通過するのが儀式なのです。昔、勅使が一流の寺へ下向しますと、山門から入ったものです。そのように正当に通過すべき門があるのです。これが仏典なのです。

 神の奥義、神の約束、神の救いは、普通の人間が直接に触れようとしても分からないのです。分からないままで無理に触れますと、分からないのを無理にのみ込んでしまうことになります。そこで、現代のキリスト教という妙な宗教ができあがってしまったのです。

 イエスという人物はただの人ではありません。ただの人ではありませんが、キリスト教では神の子だと言っています。もちろん神の子です。しかし、神の子とはどういうことなのかということです。イエスは処女マリアから生まれたのですが、処女降誕とはどういう意味なのかということです。

 処女降誕ということになりますと、現代のキリスト教で説明できる人はほとんどいません。一人もいないのかもしれません。このように、処女降誕でさえも分からないのです。ましてや再臨のことはどうかということです。第一降臨のイエスが分からないのですから、第二降臨のイエス、つまり再臨のキリストとなると全然分からないのです。

 宗教的に聖書を解釈するということが、聖書を間違えてしまった原因です。仏教が仏典を仏教的に解釈したために、間違ってしまったのです。ウパニシャッドとか、ヴェーダという経典類まで、皆仏典の中に押し込められてしまったのです。

 ところがウパニシャッドは、バラモン教の哲学思想を現わす聖典でありますが、仏典の中へ押し込んでいるのです。これは無茶なことなのです。

 仏典の編集において第一結集、第二結集があります。この時に色々なものが入り込んで、純粋な釈尊の思想が非常に希薄になっているのです。

 般若心経は、かろうじて釈尊の面目を保っていると思われるものです。曇鸞とか善導とかいう中国のお大師さんが、他力を説きました。日本でも他力が尊重されています。他力そのものが悪いというのではありませんが、他力と自力との関係がどのように連結されるべきかと言いますと、どうもはっきりしないのです。つまり現代の日本の大乗仏教は、曖昧模糊として霧の中にかすんでいるのです。正体が不明なのです。

 聖書は仏教ほどではないにしても、色々な教団によって随分曲げられています。だから、今のキリスト教も仏教も宗教としては立派なものですが、真理として真実として、その価値を問うことになりますと、ほとんど無価値でしょう。

 キリスト教は、例えばイエス・キリストの復活ということでも、その物理的な説明は全くできません。ただ復活を信じているだけなのです。これは信じないよりはましかもしれませんが、イエスが復活したことは、ありうべからずことが発生したということです。だから、イエスの復活に立ち会った弟子たちが、幽霊が現われたと思って、顔色を変えてうろたえたと聖書に書いてあります。

 ところが今の牧師さんたちは、イエスの復活に対して顔色を変えてうろたえないのです。ただ過去的事実として冷淡に扱っているのです。

 これがいけないのです。復活にうろたえて、泡を食うぐらいでなければいけないのです。顔色が変わるぐらいでなければいけないのです。神学者たちは泰然自若としているのです。つまり復活が分かっていない証拠なのです。

 そういうわけでありまして、宗教の棚卸しを始めるときりがないのです。仏教もキリスト教もはっきり言えますことは、間違っているということです。宗教ではない般若心経と、宗教ではない聖書、宗教の神でない神と、キリスト教のキリストではないキリストをつかまえる必要があるのです。

 どの教団に属しているかは問題ではないのです。皆様方の心にある宗教観念を追い出して、聖霊による聖書、釈尊の正当な悟りによる仏典を、はっきりつかまえる必要があります。宗教ではなく生きているという事実に基づいて命を見る、地球存在を見ることをしたいと思っているのです。

(1)宗教ではない般若心経

 般若心経が宗教であるかないかについて、簡単に申し上げておきます。

 日本では般若心経が大変身近な経典として、非常にかわいがられています。婦人会とか青年団でも、般若心経を使っている所があります。また、宗派神道、天理教、成長の家でも般若心経を使っています。般若心経は日本では何百万人という人が読んでいます。

 ところが、色即是空を本当に受け取っているだろうかということです。色即是空というのは、物質的現象は実体がないから空であるということなのです。五蘊皆空とは、人間の常識や知識は本来空であって、間違っているという考えなのです。

 般若心経を読んでいらっしゃる方でも、本当に色即是空を生活の実感として受け止めている人は、めったにありません。般若心経を読んでいるけれど、ただの宗教として読んでいるだけのことであって、本当に自分自身の人生の頼りとして、人生の光として、命の光として、これを読んでいる人はめったにいないのです。

 色即是空は人間の命の光なのです。これを命の光として読まなければ、何の文句をいくら知っていてもだめなのです。宗教は世の中にたくさんありますが、自分の命の光として、人間が何のために生きているのか。人間とは一体何であるか。命とはどういうものなのか。神とは何であるか。こういうことが分からないで、ただ般若心経を読んだり、聖書を信じているだけなのです。

 そこで宗教である般若心経と、宗教でない般若心経とでは、大変な違いになってくるのです。  

(2)宗教ではない聖書

 キリスト教には各宗派、教団がありまして、聖書の解釈が少しずつ皆違っているのです。聖書は一つです。神は一人です。ところが人間の解釈が加わりますと、色々な考え方ができてくるのです。

 聖書は、神とは何かという言い方をしていません。神は霊であるという言い方はしています。神は霊であるから、拝する者も霊と誠を持って拝しなさいという言い方をしています。 

 ところが、神は霊であるとはどういうことかについての考え方が、ばらばらであってまとまっていないのです。それで結局、神とは何か、イエスとはどういう人だったかということについての正しい考え方ができるかどうかということで、宗教であるないかが決まるのです。

 聖書には、すべてのものの父なる神は一つであると書いています。神が二つも三つもあるわけではありません。

 日本には八百万の神という考え方がありますが、これは神ではないのです。これは世の中で人間が勝手に造り上げた神です。聖書の神は人間が造った神ではありません。地球を造った神です。神が人間を造ったのであって、人間が神を造ったのではありません。人間が神を造ったというのは、顛倒夢想でありましてひっくり返っているのです。

 キリスト教の教派が、それぞれ自分たちの考え方を立てようとすることは、各々自分自身に気に入った神を造ろうとすることになるのです。例えば、純福音系のきよめ派というグループがありますが、これはきよめ派というグループで神を造っていることになるのです。

 そのように、カトリックにはカトリックの教条で造り上げた神があります。ルーテルはルーテルの考え方で神を見ています。ところがルーテルがどう考えようと、カトリックがどう考えようと、神は神でありますし、イエスはイエスです。本当のイエスはどういう方であるかを、イエスの名によって勉強する必要があるのです。

 例えば、新約聖書ヨハネによる福音書一章十二節には、「彼を受け入れた者、即ち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えた」とあります。

 彼を受け入れた者、即ちその名を信じた者とはどういうことなのか。彼の名を信じるとは、イエスの名前を信じることであって、これがキリスト教では分かっていないのです。

 神の名前、エホバの御名という言葉が旧約聖書にあります。新約聖書の主の祈りに、「天にいますわれらの父よ、御名が崇められますように」とありますが、御名を崇めるとはどういうことなのか。これがキリスト教では分かっていないのです。

 宗教ではない本当の聖書とは、神の御名を崇め、イエスの御名を信じることを具体的に捉えることなのです。

 十字架ということについても、世間のキリスト教では十字架によって救われると言っていますが、聖書をよく見ますと十字架によって救われるどころか、人間は死んでしまうと言っているのです。新約聖書で、「私はキリストと共に十字架につけられて、死んでしまった」とパウロは言っているのです。

 そのように、人間は死んでしまうことによって、自分の罪が消えてしまうことになるのです。聖書に書かれているとおりのことを信じて、宗教ではない聖書ということを申し上げているのです。

(3)宗教を否定したイエス

 まず最初に申し上げたいことは、私たちは命について勉強しなければならないということです。現在の人間は、生きていながら命を知らないという、誠にけしからん状態にあります。

 人間として生かされていながら、人間としての生命観を持っていない。例えば、イエスが神を父と呼んでいたような生命観を持っていない。そのために、人間は結局死ななければならないと考えているのです。

 ところが、イエスは死ななければならないとは考えていなかったのです。イエスは、「私は天から下った生ける命のパンである」と言っています。また、「私は誠であり、道であり、命である」と言っています。このような自覚を持つことが、まともな人生観であると言えるのです。

 本当の命をつかまえることになりますと、「私は道であり、誠であり、命である。私によらなければ父の元に行くことはできない」とイエスが断言しましたように、命は一つしかないのです。救いとか、恵みとかいう言い方をすればいくつもあるでしょうが、命は一つしかありません。

 パウロが言っていますように、「信仰は一つ、バプテスマは一つ、主は一つ、父なる神は一つです」。聖書は一つの神、一つの命を説いているのであって、信仰が五百も八百もあることがおかしいのです。

 キリスト教の各教派を勉強して言えることは、キリスト教は間違っているということです。キリスト教は、教義は説いていますが一番重要な命を説いていないのです。「あなたの目が正しければ、全身も明るいだろう」とイエスは言っていますが、目が正しいということが今のキリスト教には見られません。

 私は、キリスト教の信徒の方には敬意を表します。なぜかと言いますと、現在のキリスト教の教義は全くでたらめなのに、熱心に教会に行ってみえるからです。

 アメリカの宇宙飛行士が人工衛星で天を駆け巡ってみたが、どこにも天国はなかったと言っていますが、キリスト教の教義は天国について妙な誤解をしているのです。天国と神の国の違いについて、新約聖書のマタイによる福音書には天国がたくさん書かれていますが、ルカによる福音書には全然書かれていません。こういうことについて、キリスト教の教義では完全に説明できません。キリスト教では、本当のイエスが正確に説かれていないのです。

 この点が、今日のキリスト教の盲点になっているのですが、そういうしどろもどろの神学を説いているにもかかわらず、キリスト教の信徒の方が、たくさん教会へ出入りしていらっしゃるのです。

 そういう方々に対して私は敬意を表するのです。おかしな言い方ですけれど、十分に聖書を説いていないのに、熱心に教会へ行かれるのは聖書に強く興味を持っていらっしゃるからでしょう。

 聖書を勉強なさるには、イエスそのものを勉強しなければなりません。イエスは「私に来なさい」(マタイによる福音書11・28)と言っているのですが、これはイエス自身に来なさいということになるのです。キリスト教に来なさいということではありません。

 イエスは宗教家に殺されたのです。ローマの兵隊に殺されたのではありません。それは、イエスが宗教の偽善性を徹底的に攻撃したからです。宗教を攻撃したイエスを、キリスト教は宗教のご開祖のように拝んでいるからおかしいのです。

 このように、キリスト教の教義には色々な盲点があったり、不明瞭な点があったり、間違った点があるのです。

 私は、キリスト教の悪口を言うのが目的ではありません。信仰は一つ、主は一つ、パブテスマは一つです。イエス・キリストに来れば救われるということを申し上げているのです。

 仏教は、現世に対してピリオドを打つ宗教です。宗教であるというより、考え方であると言った方がいいでしょう。仏法は、人間が空であることを悟ること、現存在の人間にピリオドを打つことを目的としています。

 般若心経の空の思想は、阿含教、華厳経、大日如来経、法華経、般若経という経典の中心思想となっているものです。

 般若心経の言おうとしているところは、非常に素朴ですが、大乗仏教の中心点を単刀直入に指摘しているのです。日本人に非常に馴染みが深いものです。人口に膾炙しているのです。

 仏教各派はもちろんのこと、神道でも、婦人会とか青年団とかいう社会教育団体でも、般若心経を用いている人は随分たくさんいます。般若心経を写経して、お寺へ送っている人もたくさんいるのです。そのように、気軽に読んだり聞いたりしているのが般若心経でありまして、日本人が空を悟るのは一番ぴったりくるのです。般若心経と聖書は、あらゆる宗教を否定しているのです。

(4)イエスや釈尊と宗教

 イエスや釈尊の言ったことを宗教として扱うことの是非ということですが、イエスや釈尊は宗教家ではなかった。これは確かなことです。しかし、釈尊やイエスの言ったことを宗教的に扱うということは、可能であると思います。

 一般の宗教は、人間が有形無形のご利益を受けることが目的です。従って、世情の宗教という角度から言いますと、現在生きている生身の人間を認めることになるのです。

 ところが、般若心経の場合はそれをはっきり認めていないのです。字句から言いますと、五蘊皆空であり、また色即是空であり無眼耳鼻舌身意、無眼界乃至無意識界となっていますから、目で見ていること、また心で感じていることは全部ないとはっきりと言っているのです。現在、生身で生きている我々の状態を認めていない。これが涅槃の内容になるのです。字句に関する限り、現在の人間を否定しているのです。そうするとこれは宗教にはならないのです。

 ところが、世情一般の宗教は、人間を認めなければ宗教にはならないのです。現在の人間に幸いを与えることでなければ、宗教は存在する価値はないのです。しかし、現在の人間を認めるとすれば、般若心経の概念を否定しなければならないのです。そこで困るのです。般若心経は一体どうなのか、人間を認めないのか、認めるのか、どっちなのかということなのです。

 私が、般若心経と聖書を宗教ではないと言っていますのは、世情一般のように、現在の生身の人間をそのまま認めて、幸せを与えることを目的としないという意味なのです。

 例えば、新約聖書では救いということを申します。新約聖書の救いという言葉は、現在生きている人間が救われるという意味ではないのです。

 聖書は、人間はすべて罪人であるために、神の栄光を受けることはできないとはっきり言っています。義人はいない。一人もいないとパウロは言っています。現在の人間を神は相手にしていないのです。

 新約聖書に関する限り、現在の人間に幸いを与えるものではないことになります。それではどうなるのか。イエスの言葉に、「悔い改めて福音を信ぜよ」というのがあります。

 パウロは、「心を更えて新にせよと」言っています。更えてというのは、やり直してという意味なのです。英語で言いますと、心をやり直して神を信ぜよと言っているのです。

 心をやり直すということになりますと、常識で神を信じることにはならないのです。現在の人間の心では神を信じることができない。そこで、心をやり直して精神構造を変えて神を信ぜよとなるのです。そうすると、現在の人間の心理状態を認めていないことになります。これが、新約聖書の言いたいところです。

 悔い改めてとは、自分の行いが悪かったとか、考え方が間違っていたとかいうことを改めるだけではなくて、人生そのものに対する考え方、自分の命に対する考え方を全部変えてしまえと言っているのです。これをイエスは言っているのです。

 「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(新約聖書マルコによる福音書1・15)。これがイエスの伝道の第一声でありまして、非常にはっきりしているのです。

 これは、一般の人に対して言っているのではないのです。ユダヤ人に対して言っているのです。間接的にはアメリカ人、日本人も含んでいることにはなりますけれど、正確に言えばユダヤ人に言っているのです。この点が一般のキリスト教の考え方と聖書の考え方とは違っているのです。聖書の字句を正確に見るか、概念として常識的に見るかによって、非常に違ってくるのです。

 般若心経でもそのとおりです。釈尊もイエスも宗教家ではなかったので、彼らの言いたいことの本当の意味は、現在のキリスト教や仏教で言っていることとは全然違っていたのです。

 私たちはどうしても死から脱出しなければならないのです。死ぬべき人間が、死から具体的に脱出できることを、般若心経と聖書は提言しているからです。

 こういう点から考えまして、釈尊やイエスの言ったことを宗教的に扱うということは、間違っているのです。

5.聖書の空と般若心経の空

 「空の空、空の空、一切は空である」とソロモンは言っていますが、これは肉の思いで生活した結果、すべては空であると言っているのです。

 これと五蘊とは違います。旧約聖書伝道の書で言っている空は、人間がしていること、またしようとしていること、あるいはしてきたことが空だと言っているのです。

 般若心経の方はそうではなく、人間が見ている見方が空であると言っているのです。物の見方そのものが空である。

 例えば、人間は目で物を見て実在するように思っている。自分の妻や夫が実在するように思っている。自分の命が実在するように思っている。自分の命が実在するもののように感じている。それが空だと言っている。感覚それ自体が空であると心経は言っているのです。

 旧約聖書の方は、肉の思いで生活した結果が空であったと言っているのです。よく似ていますが違うのです。

6.般若心経と聖書は誰が書いたのか

 これは結論的に言いますと、人間の常識で書いたものではないのです。般若心経を常識で書いたものなら、遠離一切顛倒夢想とは言いません。人間の常識に合うようなもっともらしい説明をするに決まっているのです。

 般若心経は五蘊皆空とはっきり言っているのです。不生不滅不垢不浄と言っているのでありまして、人間は生まれていない、従って死ぬこともないと言っているのです。これは常識以前の問題です。釈尊の教えのエッセンスをまとめたものが般若心経ですが、誰が書いたか分からないようです。

 聖書は神の言葉でありまして、神の言葉というのは現在目が見えること、耳が聞こえることです。命の源と人の命を繋ぎ合わせているものです。これが神の言葉の働きです。これによって我々は生きていることを経験しているのです。

 文明意識は、この繋ぎ目をむちゃくちゃに寸断してしまったのです。ばらばらにしてしまったのです。その結果、宗教ができたのです。専門学ができているのです。ここに地球全体の大きい流れがあるのです。

 聖書は旧約聖書と新約聖書に分かれており、旧約聖書はモーセ、ダビデ、ソロモン、数人の大預言者、小預言者たちが書いたものです。新約聖書はイエスの弟子たちが書いた四福音書と、パウロの伝道記録、書簡集、ヨハネの黙示録等が集められたものです。

 誰が般若心経と聖書を書いたかを考えることもいいのですが、それも人間の常識的な探求になりますから、なるべく常識を棚上げにした方がよいと思います。

7.イエスと観自在

 三蔵法師玄奘の訳ですと、観自在となっています。鳩摩羅什の訳ですと、観世音になります。これは同じことであって、観自在とは自在を見るのです。観世音は世音を見るのです。音を見るのです。音は見えないものですが、これを見るのです。

 白隠禅師は、人間がもし愛憎煩悩を去ってしまえば、誰でも観世音菩薩になれると言っています。そのように、もし人間が愛憎の念を去って、煩悩を解脱すれば完全と言えるのです。

 世音とは世の音です。人間は現世に生きている以上は、それぞれ自分なりの考えを持っているのです。現在の政治をどう思うとか、経済をどう思う、教育をどう思うとかそれぞれの意見を持っています。これは世音を見ているのです。

 観世音とは、この世の中ができている実相、真相を見るのです。人間が生きているのは世音の中で生きている。商売をしても、仕事をしても、世音と世音の中で生きているのです。

 その時、その時に世音を見ているし、また感じているのです。生活のためにそうしているのです。

 ところが般若心経になりますと、生活のためにそうするのではなくて、命のために世音を見ることになります。人間がこの世に生きているのは、大きな意味があるに決まっています。この世に生まれてきた目的がなければならないのに決まっているのです。

 今の日本人は、そういう目的を考えないで生活のために生きている。ほとんど全部の人が、そういう考えをしているのです。政治家ならそれでもいいかもしれませんが、人間として生きている以上、自分の人生について責任を持たねばならないのです。

 人間がこの世に生まれてきたことが、業なのです。これがうるさいのです。業が世音になって見えるのです。親から受け継いだ業、社会の業、学校の業、何でも生きていると業がついて回るのです。若い人は若いように、年寄りの人は年寄りのように業がついて回るのです。

 この業を見きわめて、その主体は何であるかを見破って、業を果たしてしまわなければ死んでしまうことになるのです。死ぬのはしかたがない。どうせ人間は死ぬと簡単に言いますけれど、死ということが本当に分からないから、すましておれるのです。

 本当の観世音になりますと、業の正体が分かるのです。死の正体がはっきり分かるのです。そうすると死ななくなるのです。死ななくなる所まで世音を見破ってしまう。世音を看破してしまうのです。そうすると死なない人間になってしまう。これが本当の観音さんなのです。

 自分の世音を見破ってしまいますと、人間の愛憎煩悩が消えてしまうのです。そうして、愛憎煩悩の向こうへ出てしまうのです。これが般若波羅密多です。般若波羅密多になりますと死ななくなるのです。

 死ぬのはしかたがないと言いながら、死ぬのはいやに決まっています。いやならいやとはっきり考えるのです。そうすると、死ななくてもいい方法が見つかる可能性が出てくるのです。死にたくないのに死ななければならないのは、殺されるということです。

 日本中の人間、もっと広く言えば世界中の人間は皆、殺されるのです。人間の業に殺されるのです。死ぬのは人間の業です。これを突破することはできるのです。観世音はこれをしたのです。その方法が般若心経に出ているのです。

 照見五蘊皆空 度一切苦厄とは、一切の苦厄を乗り越えてしまうこと、死を乗り越えてしまうことです。これが観世音菩薩の所行です。観世音菩薩は、悟りを開いた人の抽象人格です。観世音には誰でもなれるのです。そうすれば死を乗り越えられるのです。五蘊皆空 度一切苦厄を実行すれば死を乗り越えて、死なない人格になることができるのです。

 そんな難しいことはできないと思う人は、自分の今までの考えに束縛されているからです。人間は、今までの経験について束縛されてしまうような弱点があります。向こう岸へ渡ってしまえば、そういう弱点と関係がなくなるのです。向こう岸へ渡るとは、別の人間になってしまうことです。今まで生きていた人間が、本当の空を悟ることになりますと別の人間になってしまうのです。

 空とは、何もないからっぽとは違います。大きな実があるのです。空の実体は、宇宙生命の一大事実なのです。言葉を変えて言いますと、これが真の神なのです。空を見るとは神を見ることです。観世音を見るとは神を見るのと同じことなのです。

 世音とは人間の業であって、自分の業をはっきり見きわめますと、自分ではない自分の姿が見えてくるのです。これが観自在です。

 観自在とはどういうことか。自在とは自由自在のことで何ものにも捉われないことです。現在の地球に生まれてきた人間は、自由自在というわけにはいかないのです。地球以外に住む所はありません。例えば、男として生まれた人は男でなければならないのです。女は女でなければならない。生年月日を変えることはできないのです。

 そのように、現世に生まれたということは、自在ではないことを意味するのです。地球ができた以上、人間は地球でなければ生きられないようにできているのです。本当の自由自在があるとすれば、地球ができる前のことなのです。地球ができる前には、時間もない、空間もない。従って五十歳とか六十歳とかいう年齢もないのです。男もない、女もない。これが自在です。

 観自在とは、地球ができる前の人間に帰るというすばらしい意味もあるのです。自在の自とは初めからという意味です。初めとは地球ができる前のことです。今の学者は、四十五億年前に地球ができたと言っていますが、それ以前には地球はなかったのです。従って人間もいなかったのです。生まれる前の本当の人間の姿が、自在です。

 この世に生まれて、この世の業の虜になって、男だ、女だ、得をした、損をしたと言っているのは、自在ではないのです。そういう者に関係がない生まれる前の状態が、自在なのです。観自在というのは、生まれる前の自分を見るという雄大な思想なのです。

 イエスはこれを見せてくれたのです。生まれる前の自分が今ここにいると言ったのです。イエスは「よくよくあなた方に言っておく。アブラハムが生まれる前から私はいる」(ヨハネによる福音書8・58)と言ったので、当時のユダヤ人たちはイエスが気違いだと思ったのです。アブラハムはイエスより二千年も前に生まれた人です。そのアブラハムより前からイエスはいると言ったので、人々は全く理解できなかったのです。

 イエス・キリストは、観自在を文字どおり実行して見せたのです。

 今までの勉強、経験にこだわらないで、幼児時代の気持になって、たんたんとして物を考えるという気楽な人になれば、観自在が十分に分かるのです。五十歳とか七十歳という年齢はありません。あると思う方がどうかしているのです。何十年か生きている自分は、どこにも存在していないのです。摩訶般若波羅密多から見ればそんな人間はいないのです。

 禅の歌に「闇の世に鳴かぬからすの声聞けば、生まれる前の父ぞ恋しき」とあります。生まれる前の自分の魂を見きわめることが、本当の悟りであると言っています。禅にはこういう歌はありますが、この悟りはありません。

 しかし観自在という人格はなければならない人格なのです。観自在にならなければいけないのです。そうすると自分が死ぬという因縁を乗り越えてしまうことができるのです。業を果たすことはできるのです。業を果たさなければ、必ず死んでしまいます。死んだらしまいと思うのは、大間違いです。死んでからが大変なのです。

 人間は本来、観自在になるために生まれてきたのです。ところが商売人になったり、会社員になったり、学者になったり、弁護士になっている。そんな事のために私たちは生まれてきたのではありません。商売人や会社員になってもいいのですが、本職は自分の業を果たすことです。生活をするために、ちょっと働いてみようかというだけのことです。

 働きながら観世音の道を歩むのではなかったら、何にもならないのです。お金を儲けて楽しく生活をしながら観世音になるのです。これは難しいことではないのです。むしろ、働くということは立派な道場なのです。寺で座禅をするより働いている方が、よほど悟りやすいのです。汗水流して働く方が、よほど功徳があるのです。

 私たちは現世に生きるためではなくて、観自在になるために生まれてきたのです。その意味で、イエスが生きていた生き方は偉大な参考になるのです。

 釈尊は悟ったが、そのまま死んでしまいました。イエスは死ななかったのです。死を乗り越えたのです。日曜日はイエスが復活した記念日なのです。イエスは、歴史的事実において死を乗り越えたのです。

 本当の観世音をしたのです。イエス観世音と言えるのです。千手観世音とか十一面観世音がありますから、イエス観世音があってもおかしくはないのです。イエス観世音になったらいいのです。これは歴史的事実なのです。

 イエスが死を破ったことは、歴史において証明されているのです。これは宗教ではありません。キリスト教では復活をはっきり説明しません。現在の科学ぐらいではイエスの復活の説明はできません。

 とにかく歴史的事実を勉強すれば、私たちも歴史的に死を破ることができるのです。現世で人間は好きな物を食べて、好きな服を着ることができます。これはぜいたくな事です。神が肉体を持てば人間と同じ生活をするでしょう。だから悟りを持つ責任があるのです。世間の人が考えているのと同じ考えでいると、ひどいことになります。この世に生まれてきたのは、それだけの責任を負っているのです。

 今までの経験を棚上げして白紙に戻って、愛憎煩悩を去って観世音菩薩になるという気持を持ったらどうでしょうか。これをするには仏教だけではだめで、聖書の助けがどうしてもいるのです。

 白隠が言っていた観世音と、現在私たちが考えている観世音とは違うのです。白隠は死を破るとは言っていませんが、私は死を破る観世音を言っているのです。白隠禅師よりも大きい観世音を勉強しなければならないのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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