般若心経は、観自在菩薩が上智を用いて彼岸に至る過程を書いています。「ギャテー、ギャテー、ハラギャテー、早く彼岸に行け、一日も早く行け」と言っていますが、ここで終わっているのです。彼岸に至ったという確証を述べていないのです。釈尊自身も彼岸に行ったとは述べていません。彼岸とはどういうものか、彼岸がどこにあるのかを全然説明していないのです。
なぜかと言いますと、釈尊が見た明星はやがて来るべき新しい国を見ているのです。釈尊は現実にそれを掴まえたのではなかったのですし、そこに生きたのでもなかったのです。
ところが、イエス・キリストは彼岸(神の国)にいたのです。イエスは彼岸から来て、現世にいながら彼岸にいたのです。そして彼岸に帰ったのです。
「人類史上初めて明かされた彼岸に入る方法」というタイトルは、誇大妄想、大袈裟すぎると思われるかもしれませんが、人類史上、彼岸に入る方法を書いた人は全くいません。私は幸いにもイエスの生き方を精密に学んで、彼岸に入る方法を教えられましたので、その方法を述べてみたいと思います。
人間の考えには、表面的な考えと、底に沈んでいる考えと二通りあります。思想するというのはじっと思うことです。自分が現在生きていることに基づいて、人間の生活形態について思うことが、思想です。
思念というのは、自分が生きていると思っていること、自分は肉体的に生きているのだから、肉体的に生きている感覚が生きている感覚だと思うことです。例えば、赤いものを赤いと思うこと、辛いものを辛いと思うことが思念です。思想と思念とは違うのです。
思念は人間の生命の底にこびりついています。思想は生活的に考えることです。思念は生命的に考えることです。思想的にいくら分かったと思っても、思念的に分かったことにはならないのです。
皆様は死ぬに決まっている命を自分の命だと思っているでしょう。ところが死にたくないという気持ちがある。この矛盾をどうお考えになるかです。
死ぬに決まっている命にしがみついている。これはどういうことでしょうか。皆様の現在の命は、間違いなく死ぬに決まっているのです。それをなぜ自分の命だとお考えになるのでしょうか。
死にたいと思う人はしかたありませんが、本当に死にたいと思う人はめったにいません。心から死にたいと思う人はほとんどいないでしょう。難問題に行き当たって、行き掛かりの成り行きで死んでやると言う人はいますが、心から死にたいと考えている人はまずいないのです。
死ぬに決まっていることをすべての人は知っています。百人が百人共、千人が千人共、死ぬに決まっている命を自分の命だと思い込んでいる。これはどういうことでしょうか。
死ななければならないことをすべての人が知っています。死にたくないと思うこともすべての人が思っています。このような矛盾が思想と思念の違いからできてくるのです。この問題を解決するためには、般若心経と聖書をよく勉強する必要があるのです。
般若心経の一番初めには、観自在という言葉を使っています。観自在も観世音も同じです。観自在と訳しても観世音と訳してもどちらでもいいのです。
世音とはこの世に現われている音、いわゆるこの世の中の状態です。景気が良いとか悪いとか、政治が良いとか悪いとかいうことを読んでいくのです。これが観世音です。音をみるのです。
いわゆる世の音をみることができるようになりますと、人間は生まれる前の自分が少しでも分かってくるのです。人間は、死ぬに決まっている命を自分の命だと思っています。なぜこんな気持ちを持っているのか。なぜこんなばかなことを思っているのかということが分かってくると、生まれる前の自分の思想に近づくことができるのです。これを観自在と言うのです。
観自在というのは初めからあったということです。自とは初め、在とはあるということです。初めからあるというのは、生まれる前からあったということです。生まれる前からあった命の状態に近づくことができることを観自在と言っています。
彼岸へ渡るということはどういうことか。現在生きている状態から向こう岸へ渡ってしまうことが、般若波羅蜜多です。
こちら側の岸から見れば、向こう岸へ渡った人はなんとばかな所へ行ってしまったのかと思えるのです。ところが向こう岸へ渡ってしまうと、死ぬに決まっている世界にいる人間はお気の毒だなあと思えるのです。これは岸の違いです。
本当に自分の命のあり方を転換するという勇気が持てる人は、向こう岸へ渡れるのです。
般若心経は、自分の命を根本的に転換してみようというくらいの大胆さ、勇敢さがある人には分かります。しかし、こちらの岸にじっとしがみついている人から考えますと、現世の常識を信じ込んでいますから、般若波羅蜜多とか、色即是空ということは考えるだけ無駄ということになるのです。これは考え方の違いです。
現在の人間が持っている常識は生きている間は役に立ちます。しかし常識的に生きているのは命の目的を持っていないのです。政治家も目的を持っていません。政治は本来まつりごとでありまして、まつりごとの本当の意味は、魂の本質を究明するという意味が大変強いのです。日常生活において自分自身の魂のあり方を究明しようという気持ちが、まつりごとです。
本来、日本の政治は、原則的にそういうニュアンスを持っていたのです。皆様の生活を自分の魂という拠点から見ていくのです。そうするとだんだん分かってくるのです。
現在の日本人は命のこと、霊魂のことを真面目に考える人がほとんどなくなっています。生活のことは一生懸命になっている。これは文明そのもののあり方が、そういう人間を造ってしまったのです。
人間の本質を考えないで、人間は死ぬのが当たり前だということが、文明の原則になっています。人間文明というのは、皆様の命について全く考えていません。生活のことしか考えていないのです。これは本当の文明と言えるものではありません。
こういう点をよくお考え頂いて、人間存在に関する本質的な考え方が、今までの常識ではない別の角度からの考えがあるべきではないかということを、お考え頂きたいのです。
死にたくないというのが皆様の潜在意識として、皆様の腹の底に張りついているのです。死んではならない、死んだらひどいことになるという気持ちがあるのです。これが魂の気持ちです。この魂の気持ちをよくお考え頂きたいのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)