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般若心経が言いたいこと


 般若心経に親しみを感じている人はずいぶん多いようですが、般若心経に何が書かれているかということを、具体的に捉えている人はめったにいないようです。

 般若心経を写経して寺へ送るということをしておられる人がいますが、これは寺の商売になります。般若心経を写経して寺へ送ったからといって、本人の利益にはならないのです。般若心経はそういうことのために使うものではありません。

 般若心経は二百七十六文字ですが、その中に無が二十八字あります。空という文字は七字あります。空と無を合わせて三十五文字あるのです。結論的に言いますと、般若心経は無と空を説いているのです。

 般若心経は何を説いているかということは簡単明瞭でありまして、般若心経を冷静にお読みになれば分かるのです。

 般若心経は人間の考え方と人間の生活は空であると言っているのです。空であることは無であると言っているのです。現世で人間が常識的に生きているということが全く無意味だということになるのです。無意味だけならいいのですけれど、大きいお添え物がついてくるのです。霊魂の裁きというお添え物がついてくるのです。

 霊魂の裁きと言いますと、地獄、極楽のようなものがあるとお考えになるかもしれませんが、そうではないのです。現在の日本人は非常に無責任、不真面目であって、宗教を嫌うのは結構ですが、人生を真剣に考えないという悪い癖があるのです。

 宗教は真剣に勉強する値打ちがないものです。これは参考として勉強するのはいいでしょう。しかし、命の足しにはならないのです。それよりもお金儲けの方が命の足しになるのではないかと思うのです。これはただ現世の命に足しになるという意味なのです。

 宗教に入ったらお金を取られるだけです。何の足しにもならないのです。宗教を勉強するのは何のためかと言いますと、宗教を卒業するために勉強するのです。これならいいでしょう。

 ところが宗教にすがって、これによって極楽や天国に行こうと考えていますと、とんでもない間違いになるのです。死んでしまいますと、一切空になってしまうのです。この世には寺も教会もあります。この世に生きている間は、宗教は精神的な支えになるかもしれません。寺や教会があるからです。

 死んでしまうと寺も教会もない所へ放り出されることになるのです。そうなると宗教は全然役に立たないことになるのです。

 キリスト教では死んでから天国へ行くと言いますが、これは大嘘です。仏教では死んでから極楽へ行けると言いますが、現世ではこの理屈は通用するのです。死んでしまったらこういう理屈は一切通用しません。宗教はこういうものなのです。哲学も学問も、宗教もすべて皆浮き世の迷い、浮き世の情報です。

目的がない人間社会

 情報を信じて命の足しにしようと思っていますと、とんでもない見当違いになるのです。人間社会全体がインチキそのものです。目的がないのです。政治にも目的がない。経済にも目的がない。人間生活の根本に目的がないのです。

 目的なしに現代社会が造られているのです。こういう無責任な人生観が間違っていると申し上げているのです。

 人間は命を勉強するために生きているのですが、皆様は命の勉強をしないでただ生きている。生活だけを考えている。無責任な世界観や人生観を解脱して、本気になって自分の命を考えて頂きたいと思うのです。

 宗教というのは命へ到るべき道標くらいにはなりますけれど、命そのものを皆様にはっきり提供してくれるのではありません。

 般若心経というのは空を悟ることが目的でして、それで終わりです。しかしこれは大変重要なことです。

 宗教ではない般若心経というのは本当です。人間生活が空しいものだということを悟るためには、般若心経の精神を認識する必要があるのです。しかしこれだけで命が分かったというものではないのです。

 般若心経は皆様の人生が空しいということを教えているのです。まず私たちは自分自身の人生が空しい生き方をしていることに気づくべきです。会社勤めをしているとか、商売をしているというのは、生活の手段にすぎないのです。命そのものの勉強にはならないのです。

 そこで般若心経によって、現在の人間生活の考え方が空しいということを学ぶことです。これが分かったら聖書によって命の実質を勉強して頂きたいのです。

 聖書はキリスト教の経典ではありません。キリスト教では聖書を宗教的に解釈して、キリストを信じれば死んでから天国へ行けるという概念を造って、宗教商売をしているのです。カトリックもプロテスタントも両方共、宗教商売をしているのです。両方共インチキです。

 キリスト教は神を学ぶための初歩的な道標にはなるでしょう。道標を見ただけで目的地へ到達したと考えたら、とんでもない間違いになるのです。

 道標には、この道をどんどん行けばそこへいくと書いてあります。それは間違いではありませんけれど、道標を見ただけで目的地へ到達したことにはなりません。

 キリスト教は聖書を宗教的に考えている。仏教は般若心経を宗教的に考えている。だから聖書も般若心経も殺されてしまっているのです。宗教家によって殺されているのです。

 般若心経と聖書の関係を簡単に言いますと、般若心経は私たちに空を与えてくれるのです。空の道標になってくれるのです。ところが空だけでは命の実体を捉えたことにはならないのです。命の実体を捉えなければ、本当の自由はありません。本当の幸福もありません。

 聖書は皆様に命そのものを提供しているのです。これはキリスト教では絶対にありません。聖書には命があるのです。般若心経には空があるのです。般若心経には悟りがあります。聖書には救いがあるのです。

 救いと言いましても、聖書の救いとキリスト教が言っている救いとは全然違うものです。般若心経と聖書の関係ですが、般若心経は私たちに現世をあきらめなさいと言っているのです。あきらめると言いましても、生活することをやめなさいという意味ではない。現世における人間の物の考え方が空であると言っているのです。これが五蘊皆空です。

 五蘊というのは人間の物の考え方です。これが空であると言っているのです。空を理解したら、その次に命を求めることを考えなければいけないのです。これは死んでから天国へ行くこととは違います。現世に生きている間に本当の命を捉えることを聖書は提唱しているのです。

 空が分からないままで聖書を勉強してもだめです。自分自身の気持ちを空じるという気持ちがないままの状態で、キリスト教へ行って聖書を勉強しようと考えても、とても分かるものではありません。

 自分自身を捨てるのです。イエスは、「自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」と言っています(マタイによる福音書16・24)。自分を捨てることが、今のキリスト教の信者には全くできていません。自分が救われたいと考えてキリスト教へ行っているのです。これはとんでもない間違いです。宗教ではない聖書は自分を捨てなさいということを言うのです。

 聖書にも空観がありますが、これは仏教で考える空とは少し違っています。よく似た所もあります。旧約聖書には、「空の空、空の空、一切は空である」とあります(伝道の書1・2)。地球上で人間がしていることは、風を捉えるようなものだと言っているのです。風を捉えるようなものだという言い方は、聖書独特の言い方でして、こういう空観は般若心経の空とは、少し違うのです。

 風というのは地球の命を象徴しているのです。風が地球の表面をぐるぐる回っています。そうして地球が生きているのです。地球上の万物が生きているのです。

 皆様の心臓が動いているということも風と大関係があるのです。風はいわゆるエネルギーです。エネルギーは人間の生命の原理です。人間が現在生きていること、地球の上で人間がしていることは、風を捉えるようなものだというのです。人間の両手で風をいくら掴まえようと考えても、風を掴まえることはできません。

 このような空しいことを人間はしているのです。風を捉えることができさえすれば、命を捉えることができることにもなるのです。

 般若心経はそういう言い方をしていません。般若心経の空観は人間の常識が空なるものです。人間の考えは空なるものだという点を指摘しているのです。

 般若心経は人間の間違いを指摘しているのです。聖書は人間の生活の仕方の間違いを指摘しているのです。

 皆様は自然現象の中に生きているのです。自然現象の中に生きているということは、風の中に生きていることです。太陽の中に生きていることです。

 大自然は宇宙の命、永遠の命がそのまま現われている状態であって、命の真ん中で生きていながら命が分からないというのは、皆様の物の考え方が根本から間違っている証拠になるのです。

 現在の人間の考え方は根本から間違っているのです。生き方が間違っているのです。全く風を捉えるようなことをしているのです。自然現象の真ん中で生きていながら、命が全然分かっていないのです。

 生きているということは、命を経験しているということです。命を経験していながら命が全然分からないということは、人間は自分自身の業(ごう)によって盲目になっているからです。

 生きていながら命が全然分からない。例えば太陽光線をご覧になると、大きなエネルギーが感じられます。ライジングサンとか、サンシャインという言葉を使いますと、宇宙のすばらしい生命力を感じます。しかし生命の本体が分かっていないのです。これが人間の魂が盲目になっている証拠です。

 こういうことを真面目にお考え頂くためには、現在の日本人の物の考え方が非常に間違っているということに気づくことから始めて頂きたいのです。

 現世に生きていくためには生活は必要です。しかし人間は生活のために生きているのではないのです。命のために生きているのです。生きるために生活があるのです。

 生活と生命とは違います。人間は命のために生活しているのであって、生活するために命があるのではないのです。

 現在の日本人は生活のために命があるという考え方をしているようです。これは日本人だけではありません。唯物史観を信じている人は皆こういう考えをしているのです。

 生活のために人間が生きていると考えているのです。こういう考え方を唯物主義と言うのです。このように考えたい人はそれでいいのですが、私たちは本当の自由や本当の幸福を捉えるために生きているのです。本当の自由や本当の幸福は、働くことによって得られるのではないのです。命を捉えることによって得られるのです。

 生きているのはこの世のためではない。生活するためではない。命の本質を弁えるためです。このように考えれば自ら生活も生命も両方共与えられるのです。

 生活は目の前のことです。命に係わることは永遠のことです。これは全然大きさが違うのです。

 私たちは自分の意志で生まれてきたのではありません。生まれたいと思わないのに生まれてきたということは、命は自分の所有物ではないということです。

宇宙のエネルギー

 皆様の命は皆様のものではありません。宇宙には大きなエネルギーがあるのです。例えば太陽が昇る時のようなエネルギーは、宇宙全体のエネルギーをはっきり象徴しているのですが、この命が皆様の心臓のエネルギーとして働いているのです。皆様の命として心臓が動いているのです。

 自然現象は大小無数のエネルギーによって構成されているのです。このエネルギーは何であるのか。何処から来るのか。なぜそのような生命現象が存在しているのかということです。火星や金星には生命現象は全くありません。

 地球にだけ生命現象が満載しているのですが、このような不思議な現象がなぜ地球にあるのか。こういうことを勉強しますと、命の本体が分かるのです。命の本体が分かりますと、本当の幸福ということが分かってくるのです。

 こういうことをお考えになりましたら、生活することと命の勉強は決して矛盾しないのです。商売をしながら、生活をしながら、命を学ぶという人生観に切り替えることができるのです。

 般若心経の色即是空が分からないという人が多いのです。また、字句を理解することができる人でも、色即是空ということと、空即是色ということの関係が分からないのです。

 色が空であることが分かるとしても、空が色であるとはどういうことなのか。もし空が色であるのなら、色が空であるということを言わなくてもいいのではないかと思われるのです。

 実はこれは仏教の専門家でも分からないのです。色即是空ということと、空即是色の関係がはっきり説明できる人は今の日本にはいないのです。

 皆様がこのことについてお分かりにならないのは当然のことだと思うのです。般若心経をお読みになる時、本当の意味を知りたいと思ってお読みになることです。知りたいという願いを持ってお読みになれば、少しずつお分かり頂けると思います。

 「素読百遍意自ずから通ず」という言葉がありますが、本当の意味を知りたいと願いながらお読みになれば、その念願が自然に般若心経の思想の本体に反映することになるのです。分からないと思わないで、分かりたいという願いを持ち続けることが必要です。

 分からないという気持ちは、自分の常識で判断しているからです。芭蕉は、「名月や 池をめぐりて 夜もすがら」と詠んでいますが、なぜ名月を見て夜通し池の回りを回っていたのかということが芭蕉自身にも分かっていなかったのです。

 月は般若心経みたいなものです。月や花、自然のあり方は般若心経みたいなものです。般若心経を読んでいても、月や花を見ていても同じものなのです。般若心経は名月みたいなものだとお考え頂いたらいいのです。

 名月を常識で見ていても、一杯飲みたいというくらいのことです。月見酒にはなりますけれど、悟りにはならないのです。芭蕉のような人でさえも、月を見ていながら本当の月が分からなかったのです。分からなかった証拠に、「旅に病んで 夢は枯野を 駆け巡る」という非常に悲しい辞世の句を詠んでいるのです。

 芭蕉は永い間俳句の勉強をしていました。人間の欲と得を捨てて、風流の路を歩いていたのですけれど、結局命が分からなかったのです。

 現世に生きている自分を認めたままでは、本当の命は分かりません。現世に生きている命と、本当の命とは違います。皆様は現世に生きています。自然現象の中に生きておられますけれど、自然現象というものが分かっていないのです。

 自然現象は何かと言いますと、生命現象です。これは今の人間の常識ではとても分からないのです。それはなぜかと言いますと、現在生きている人間の命を認めているからです。

 皆様は自分が生きているとお考えになっているでしょう。これが間違っているのです。

 人間は業(ごう)によって盲目になっているのです。人間が現世に生きていると、色々な苦しみ、悩み、矛盾に出会わなければならないのです。四苦八苦によって捉われた生き方をしているのです。こういう命は本当の命ではなくて仮の命です。人間は仮の命を経験しているのです。

 現在持っている命は仮の命だということに気がついて、本当の命を知りたいという気持ちを持つことが必要です。そうすると般若心経や聖書が難しいという気持ちがなくなるのです。これが本当のへりくだりです。

 命に対してへりくだることです。自然現象は神の現われです。菅原道真が百人一首の中で、「此のたびは 幣もとりあえず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに」と詠んでいます。今度の旅は御幸のお供で急いだために、道祖神に差し上げるための幣を用意できませんでした。この手向山の美しい紅葉の錦を幣として神の御心のままにお受けくださいという意味の歌です。

 紅葉が輝いている姿は神のまにまにである。神のまにまにというのは、神の御心のとおりにということです。紅葉が照り輝いている姿は神の命の現われです。宇宙生命の現われです。宇宙のエネルギーがそのまま紅葉に現われているのです。これはすばらしい神観です。日本人の非常に優れた神観です。

 名月も、雪が降ることも、花が咲いていることも自然現象のすべては神のまにまになるのです。神のまにまにの状態に本当の宇宙の命がそのまま現われているのです。

 皆様は現世に肉体的に生きている自分を認めているでしょう。これがいけないのです。肉体的に生きている自分がいると思っている人は、本当の宇宙の命が分からない人です。

 菅原道真も本当の命が分かっていたのではありません。彼の歌はすばらしいものでしたが、彼自身に永遠の生命の実体が分かっていたのではなかったのです。

 本当の命はあるものです。永遠の命はあるのです。朝日が昇る姿はすばらしい宇宙のエネルギーの顕現ですが、このエネルギーと同じエネルギーが皆様の中に働いているのです。だから自分の命の実質を知りたいという気持ちになれば、必ず永遠の生命が分かるのです。

 結局、謙遜が足らないのです。へりくだって頂きたい。もう少し素直な気持ちになって頂ければ、本当の命がお分かり頂けるのです。自由、幸福というのは本当の命の実体のことです。

 本当の自由はお金があり、健康があって、したいことができるのではないのです。本当の自由というのは死なないことです。死を乗り越えることです。こういうものがあるのです。そんなものがあるはずがないと思われるかもしれませんが、人間の常識で考えるからあると思えないのです。そう思うことが人間の不自由を意味しているのです。

 人間の常識を空じてしまうのです。そうして本当の命を知りたいという気持ちを持つのです。そうしたら、般若心経が難しいと思わなくてもいいのです。だんだん分かってくるからです。

 本当の命を知りたいと思われたら、聖書を勉強されたらいいのです。キリスト教の教義はだめです。教義に関係がない聖書を勉強されたらいいのです。

 皆様の心臓が動いているのは、地球の自転公転の命によるのです。この命がありながら死んでしまうのです。これを愚かというのです。死んでいくほど愚かなことはありません。どうぞ命に対して真面目な考えを持って頂きたいと思います。

神とは何か

 神とは何か。日本の神というのは八百万の神のことをいうのです。これは人間が造った神です。こんなものは信じなくてもいいのです。紙屑みたいなものですから信じる必要が全くないのです。

 本当の神というのは菅原道真が言っているように、紅葉の錦を現わすことができる神です。地球を自転公転させている神です。宇宙のエネルギーである神が本当の神です。

 人格的に言えば神になりますが、働きとして見たら命になるのです。神も命も同じものです。この両方をひっくるめて光となるのです。命が光になるのです。

 これは阿弥陀経にも出ていますし、大無量寿経にも出ています。命は無量寿如来です。知恵が無量光如来です。命と光と神は同じものです。無量光如来は知恵としての働きを指すのです。命、人格的な働きが無量寿如来です。これが皆様の中にありますから、これを掴まえなかったらいけないのです。

 菅原道真は思想として誠の神のようなことを言っていますけれど、彼が本当の神が分かっていたのかというと、そうではなかったのです。これは日本人のお天道さんという考えと同じです。

 お天道さんという言い方が、本当の神によく似ているのです。ただ日本のお天道さんは本当のお天道さんではないのです。誠の神と言えるようなものではないのです。

 神というのは現在地球が動いているという事実です。皆様の心臓が動いているという事実です。これが分からなければ、本当の神の証明ができたとは言えないのです。

 皆様は神という命、命という神で生きているのです。地球が存在している原理、太陽が輝いている原理が神です。だからこの神を掴まえなかったらいけないのです。自分自身の命を、もっと大切にして頂きたいと思うのです。

 今までの皆様の生活感覚を持っていると、必ず死んでしまいます。人間が現世に生きているということは、非常に尊いものです。重大なものです。

 皆様は毎日、毎日太陽光線を見ています。空気を吸っているということは、神の命を経験しているのです。これを経験していながら、それを全く知らずに生活している。これはとんでもないことです。その人は死んだら必ず裁かれることになるのです。これをよくご承知頂きたいと思います。

 現在、人間はとんでもない考え違いをしているようです。人間は生活することが一番重要なことだと考えているのです。もちろん人間は生活のことを考えなければなりませんけれど、生活するために人間は生まれてきたのであろうかということです。

 生きるためには、生命を持続するためには、生活手段がなければならないのです。生活手段というのは一般的に言いますと、政治の問題、経済の問題になるのです。これは人間が現世に生きていくためにあるものですが、これは目的ではなくて手段です。

 人間の経済生活は人間が生きるための手段でありまして、目的ではないのです。

 人間は何のために生きているのかよく分からないのです。分からない状態のままで生きているのです。こういう考え違いをしているのです。

 人間の命は、例えば加藤さんの命とか、田中さんの命というように、個々の人間の一人ひとりに命があるのではありません。人間は自分の命があるように考えていますけれど、これは妄念であって、大自然の命、宇宙の命が個々の人間に働いているのです。

 宇宙には命が一つあるだけです。この命が人間に働いているのです。皆様の心臓が動いている。目が見える。足が動くということは、宇宙の命の営みが人間の命の営みとして現われているのです。これが人間の命です。

 宇宙の命は死なない命です。人間は死にますが、宇宙は死なないのです。私たちが死んでも、宇宙は依然として残っているのです。例えば地球がなくなっても、宇宙の命はなくならないのです。宇宙の命は永遠に存続するに決まっているのです。命というのは死なないものです。死なないのが命であるはずです。ところが、人間が考えているのは死ぬ命です。人間は死ぬに決まっていると考えている。死んでしまえばそれまでだと考えている。こういう命は人間の妄念で考えている命であって、正確な意味での大自然の命ではありません。

 命の実体がよく分かれば、人間は死ななくなるのです。

 イエスは復活しました。死を破ったのです。死線を越えたのです。これは歴史的事実でありまして、イエスの生き方が宇宙の命の法則に適っていた。宇宙の営みと同じ営みをイエスは営んでいた。だから十字架によって殺されたが、復活したのです。

 イエスは、「生きていて、私を信じる者はいつまでも死なない」と断言しているのです(ヨハネによる福音書11・26)。イエスは彼の生き方が宇宙の命であることを知っていた。宇宙の営みが人間の営みとして現われていることをイエスは知っていたのです。

 人間の生存の本質は宇宙の営みの本質ですから、人間の生存の本当の意味がよく分かれば死ななくてもよいのです。

 ところが、人間は死ななければならないものだと考えている。これは大変な妄念です。

五蘊皆空

 般若心経の初めの方をご覧になりますと、観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄とあります。観音さんが深般若波羅蜜多を行じていた時に、五蘊は皆空だと照見したのです。

 五蘊というのは簡単に言いますと、人間の知識、常識です。皆様が持っていらっしゃる知識、常識が五蘊です。

 色受想行識と五つに分けて説明していますけれど、無色無受想行識と言っている。五蘊はないと言っているのです。人間の常識知識は人間の妄念だと言っているのです。

 五蘊は妄念だと言っているのです。人間の物の考え方は全部空であると断言しているのです。このことがはっきりすれば、おのずから人間の命の実体が分かってくるのです。

 もっとも空を悟ったらすぐに命が分かるという訳にはいきませんが、空を悟るということが第一に必要なのです。

 聖書は大変誤解されているのです。未だかつて日本で聖書が正しく説かれたことはないでしょう。聖書はキリスト教の経典のように扱われているのです。聖書の言葉の意味とか、神学的な思想とかを勉強している人はたくさんいますけれど、聖書の命、とこしえの命の実物がはっきり分かっている人はほとんどいません。極端な言い方をしますと、一人もいないと言った方がいいかもしれません。

 聖書は字句の研究をいくらしてもだめです。イエスが、「私を信じる者は死なない」と言っていますが、死なないというのが本当の命です。

 イエスは復活したのです。復活とはどういうことなのか。人間が歴史的に復活したという実例は、イエスただ一人です。イエスの復活はライズ・アゲイン(rise again)ではなくて、レザレクション(resurrection)です。これは死んだ者がもう一度息を吹き返したとは違うのです。

 命の本質が宇宙的に確保されたこと、新しい命が宇宙に誕生したことを意味するのです。

 そういう意味で、永遠の生命の実体としての聖書が全く読まれていないのです。イエスがどのような命を持っていたのか。イエスが復活した後の彼の命はどういうものであるのか。こういうことに対して明確な受け取り方が全くされていないのです。

 イエスは宗教に非常に反対した人です。ユダヤ教に徹底的に反対したのです。そのために宗教家に殺されたのです。ユダヤ教のラビとか法律学者に殺されたのです。

 イエス・キリストと宗教は不倶戴天の敵になるのです。キリスト教会では徹底的に宗教を排撃したイエスを、キリスト教の教祖として祀っているのです。おかしい理屈です。

 キリスト教の神学と聖書の命とは全然違うのです。みすみす聖書を学んでいながら、本当の命が分からないのです。こういうおかしなことをキリスト教はしているのです。これは日本だけではありません。世界中のキリスト教がこういうことをしているのです。

 キリスト教にはたくさんの教派があります。何百何千とあるでしょう。一人一党と言ってもいいくらいに教派があるのです。なぜこんなことになるのかと言いますと、イエスの本当の命が分かっていないからです。神の実体、神とは何であるのか。キリストは何であるのかについて、全然分かっていないからです。

 ある大学の教授の話ですが、「私は三十五年間もキリスト教会に行っていますが、神の実体について説明を聞いたことが一回もない」と言っていました。「だからもうキリスト教の教会へ行くのをやめました」と言うのです。キリスト教はこういうものです。

 牧師さんに神とは何かと質問しますと、牧師さんが嫌な顔をするのです。神は信じるもので知るものではないと言うのです。こういうことも言えるのですが、神を信じるとはどうすることかということです。

 神を信じるとはどうすることか。教会では「ただ神を信じよ。キリスト教を信じよ」と言っていますが、神を信じるとはどうすることか分からない。なぜそんなおかしなことになるのかと言いますと、人間が常識、知識を持ったままで神を信じることは不可能なのです。信じても無効です。

 「おまえのその心で神を信じて救われようと考えるが、それはだめだ」とイエスが言っているのです。「おまえの目は見えない。おまえの耳は聞こえない。見ることは見るがはっきり認めていない。おまえの耳は聞くことは聞くけれど悟っていない。そういう耳、そういう目を持ったままで神を信じてもだめだ」とはっきり言っているのです(マタイによる福音書13・14、15)。

 ところが、今のキリスト教はこれをしているのです。だめだと言われたことをしているのです。人間の常識を持ったままで聖書を信じている。宗教ならそれでもいいのでしょう。本当の命としてのキリスト、イエスの命、神の命の言葉をはっきり受け取るためには、まず人間の常識、知識が間違っていることをはっきり認めなければならないのです。

 このことをイエスは「悔い改めて福音を信ぜよ」と言っているのです(マルコによる福音書1・15)。今の日本のキリスト教では本当の悔い改めをしていないのです。泥棒のようなことをして悪かったとか、人の悪口を言って悪かったとか、親不孝をして悪かったとか、約束を破ったことが悪かったと言って、こういうことを悔いることはするのです。

 イエスが言っている罪というのは、人間の心の持ち方について言っているのです。人間は原罪の缶詰のような状態になっている。人間が常識によって生きていることが罪だということを、イエスは手厳しく言ったのです。

 「聖霊と火とによってバプテスマを施す」というのはこのことです(マタイによる福音書3・11、ルカによる福音書3・16)。

 聖書は正しく読まれていません。正しく説かれていないのです。正しく読もうとしても、本当に聖書を正しく指導している人は今の日本にはいないのです。こういう状態なのです。

悔い改める

 現在の人間の常識、知識を持ったままでキリストを信じようとする、聖書を勉強しようとすることがいけないのです。悔い改めないで福音を信じようとしている。これがいけないのです。

 それでは悔い改めとはどうしたらいいのか。これが五蘊皆空です。色即是空です。無色無受想行識です。無眼界乃至無意識界です。

 現在目で見ている世界がない。意識している世界もないのです。釈尊のいわゆる五蘊皆空の悟りが絶対に必要です。釈尊の五蘊皆空の悟りをよくお受け取り頂ければ、初めて悔い改めという言葉の意味が本当にお分かり頂けるのです。

 そうしたら、皆様は永遠の生命の実物を経験することができるに決まっているのです。

 皆様は今生きていらっしゃるのですから、命を掴まえて頂きたいのです。せっかく生きていらっしゃるのですから、命をしっかり掴んで頂きたいのです。

 皆様が今のままで生きていたら、必ず命を失ってしまいます。ただ命を失うだけならいいのですが、その後が怖いのです。人間にはなさねばならない責任があります。基本的人権という言葉が使われているのなら、基本的人責がなければならないのです。

 人責とは人間の責任です。権利を主張したければ、責任ということ、義務ということをはっきり認識すべきです。人間には責任があるのです。現世に人間として生まれてきた以上、命の実質を究明しなければならないという責任があるのです。

 これをやらずに死んでいきますと、必ず地獄に行くことになるのです。絶対地獄が待っているのです。なすべきことをしなかったのですから、当然そうなるのです。このことを人間の魂は知っている。だから死にたくないのです。死ぬのが怖いのです。だから現世にしがみついていたいのです。

 今皆様が現世に生きておいでになるということは、神と対面しているのです。生きているということは神と対話していることなのです。皆様は現在、神と対話しているのです。だから神とは何か。命とは何かがお分かりになれば、人間は完成されるのです。

 人間完成のことを聖書は救いと言っているのです。

 私は宗教の勉強をしているのではありません。命とは何かということを究明しているのです。そのためのグループを造っているのです。

 皆様は現在生きておいでになります。生きておいでになりながら、命をご存知ないのです。生きていながら命を知らない。これが今の人間の状態です。

 生きていながら命を知らないというのが、人間の実状です。このような状態の中で、一人でも二人でも本当に目を覚まして、一緒に般若心経と聖書の勉強をしていきたいと願っているのです。宇宙の命と人の命が一つであるという事がらについて勉強していきたいのです。

 私は宗教ではない般若心経の勉強をしていますけれど、宗教というのは人間のために、人間が造った、人間の教えです。宗教は現在生きているままの人間をそのまま肯定して、現在の人間が天国へ行く、極楽へ行くことを目的にしているのですが、これが間違っているのです。

 人にはそれぞれ考えがありますから、自分が生きているままの状態で天国へ行けると考えている人、極楽へ行けると考えている人は、自由にして頂いたらいいのですが、現世を去ったら分かることなのです。しかし死んでからでは手遅れになるのですから、目の黒いうちによくお考え頂きたいのです。

 般若心経的に言いますと、救われたい、極楽往生したいという考えは人間の妄念です。皆様が生きていらっしゃる命は大宇宙の命ですから、救われたいと考えなくても既に救われているのです。現在救われているという事実を明確に体得したいと思えば、また、体現しようと思えば、常識で考えている自分を解脱しなければいけないのです。

 現在人間が生きている命は、宇宙の命が直流的に働いているのです。この命の意味がはっきり分かりさえすれば、既に救われているという事実が分かるのです。

 そのためには、十字架の贖いがどういう役割を演じているのか、イエスの復活がどのような役割を演じているのか、イエスの復活と世界文明にどういう係わりがあるかということをよく勉強して頂かないといけないのです。

 私が人間の常識が間違っていると申し上げているのは何かと言いますと、人間は現在肉体が存在していると考えているのです。ところが肉体は存在していないということです。

 例えば皆様はお腹がすいたらご飯が食べたくなります。喉が渇いたらお茶が飲みたくなるのです。これは生理現象が肉体という形で現われているのです。鼻から息を出し入れしていること、手足が動いていることは、生理機能が肉体という形をとって現われているだけのことなのです。

 本当のことを言いますと、肉体は存在していないのです。生理機能が働いている状態を、肉体と考えているのです。肉体があるという考え方が、般若心経的に申しますと五蘊皆空になるのです。

 般若心経の色即是空というのは、物質的現象を言います。物質的現象には実体がないということが、色即是空という言葉になって現われているのです。

 肉体があるのではなくて、生理機能があるのです。マルクスは弁証法的唯物論と言っています。物質は弁証法的に存在すると言っています。流動的な形で存在しているのです。個体的な形で存在するのではない。新陳代謝という形で万物は存在しているのです。

 マルクスの弁証法という考えだけは正しいのです。これは般若心経と同じことを言っているのです。仏教で言いますと、諸行無常という言葉があります。諸法無我、諸行無常、涅槃寂静を三法印と言います。法印というのはお坊さんになるための資格と言われているものですが、本当に本職のお坊さんになりたければ、諸行無常と諸法無我、涅槃寂静の三つが分からなければいけないと言うのです。

 その第一の諸行無常が新陳代謝を意味しているのです。これは弁証法と同じです。

 物理運動はすべて弁証法的に存在しているのです。例えば原子核の回りを電子が回っています。だから原子が存在しているのです。

 原子があるから分子ができる。分子があるから要素ができる。要素があるから物質ができるのです。その原理は何かと言いますと、原子核の回りを電子が回っているからです。また、原子核の中に中間子が働いているのです。

 中間子の活動とか電子の活動が、物質が存在する原理です。こんなことは理論物理学の基礎です。だから人間の肉体は存在していないことになるのです。

 皆様は生理機能と心理機能が一つになって、人間という形で存在しているのです。生理機能、心理機能が形をなしているのであって、人間という肉体ではないのです。

 人間の常識で言えば肉体になりますが、悟りとか原理的に言えば、機能が肉体になって現われて、人間面をして生きているのです。

 このことが分かりますと、人間の常識が間違っていることが分かるのです。何でもないことです。これを五蘊皆空と言っているのです。常識が本当だと思っていますと、死んでからひどい目に遭うのです。

 人間の常識はありもしないことを信じているのです。色即是空という観音さんの悟りは本当です。このことが分からなければ、イエスの復活の意味が分からないのです。

 本当に見るのです。本当に知るのです。こういう習慣をつけるということが、大自然と人間の命が一つになる秘訣です。大自然を崇めて、ご来光を崇めて心が喜ぶというのは、皆様の命と大自然の命が一つだから、そういう実感が沸き起こるのです。

 しかし、ただその実感が沸き起こっただけではだめです。その根本を確かめて、永遠の生命の実物が分かる所まで勉強して頂きたいのです。

 人間がこの世に生まれてきた以上、本当の自分を知らなければならない義務があるのです。その責任があるのです。そうして、私たちは万物の長として全宇宙を指導しなければならない責任があるのです。

 こういうことをお考えになりまして、イエスの復活という原点をしっかり掴まえて頂きたいのです。

死生命あり

 孔子は「死生命あり」と言っています。人間の生死は天命によるもので、人間の力ではどうすることもできないのです。人間は生きるにしても、死ぬにしても、大宇宙の法則に従わなければならないのです。

 人間は則に従って生まれ、また則に従って死ぬのです。死生命ありとは、人間には人間としての使命があるということです。何のために生きているのか。何のために生まれてきたかについての明確な認識がなければならないのです。

 国のため、社会のために尽くすということは、肉体人間としては崇高なことかもしれないのですが、宇宙的な見解に立って考えれば、いつか地球は消えていく運命にあるのです。聖書には、「天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けくずれ、地とその上に造り出されたものもみな焼き尽くされるであろう」と書いているのです(ペテロの第二の手紙3・10)。

 これは般若心経を持ち出さなくても分かることです。生あるものは必ず死する。形あるものは必ず壊れるとあるからです。人間の文明もやがて消えていくでしょう。そうすると国のため、社会のために尽くしたとしても、何になるのかと言いたいのです。こういう非常に重要な疑問がわいてくるのです。

 人間がすべての生き物、全地を治めても、地球が消滅したら何をか言わんやということです。ここに聖書が持つ非常に深奥な大哲学があるのです。

 人間は現世に生まれたくて生まれてきたのでありません。皆様の中で、自分が生まれたいと思って生まれた人は一人もいないでしょう。そうすると、私たちは自分の意志によらずに生まれてきたのです。宇宙の営みによって生まれてきたのです。だから宇宙の営みに従って生活するのが当たり前です。これを神を信じるというのです。

 実は皆様の目が見えること、心臓が動いていることが神です。もう少し具体的に言いますと、聖書では神の御霊の働きと言っています。

 神は人間に命と息とを与えているのですが、これは神みずからが命と息になっているということです。皆様は鼻の穴で呼吸しているのですが、呼吸機能が神ということです。だから皆様自身の命はありません。神の命があるだけです。これをイエスと言うのです。

 そこでイエスの復活が分かりますと、地球に人間が住めなくなった後の状態まではっきり見えてくるのです。アブラハムは地球がなくなった後の世界、新天新地まで見通していたのです。

 皆様が生きておいでになる命が神そのものの命であることが分かれば、アブラハムの心境が分かるのです。皆様の命は神そのものの命です。ところが常識や知識で生きておいでになるために、神の命の実体がはっきり捉えられないのです。はっきり体現できないのです。そこで死んでしまうのです。

 生きていながらみすみす死んでいくというのは、ばかばかしいことですが、常識、知識がじゃまをしているから死んでいくのです。

 人間の世の中はやがて消えてしまうのです。良くても悪くても消えてしまうのです。形あるものは必ず滅するのです。

 「死生命あり富貴天にあり」と言います。永遠の生命の実体は富貴です。人間の存在の目的も富貴です。幸福も自由も富貴ですが、これは天にあるのです。本当の幸せは天にあるのです。

 幸せというのは神と人が仕合わせることです。神が積極的に人間を指導する。人間が消極的にそれを受け止めるのです。神と人とが毎日仕合っているのです。神と人が対話するのです。対面するのです。仕合うのです。

 神と肩を組んで歩くのです。皆様の命は神の命ですから、そうなるのが当たり前です。こうなるためには現世における宗教観念とか、経済観念、社会通念、常識、経験、自分の立場、自尊心、自我意識を全部捨ててしまわなければいけないのです。

 これができれば、永遠の生命が自分にあることがはっきり分かるのです。イエスはこれを実行したのです。皆様にも実行して頂きたいのです。

 自分が生きていると思っていると必ず死にます。自分の命はないからです。神の命が皆様方に宿っているだけのことです。そのことを認識しないと必ず死ぬのです。そうして地獄へ放り込まれることになるのです。地獄で人間の責任を果たさなければならないことになるのです。

 七十年、八十年の間この世に生きていて、人間面をして生きていて、命の本質が分からない、知らぬ存ぜぬではすまないのです。刑罰を受けなければならないことになるのです。だから今生きている間に、自分の命が神の命だということを悟って頂いて、常識、知識というつまらないものに拘泥しないで、五蘊皆空という事実を本当に掴まえて頂きたいのです。

 そうしてイエスの復活を受け取って頂いたら本当の命が分かるのです。本当の命は肉体的な命ではない、もっとすばらしいものです。これをイエスは知っていた。知っていたから彼の生活は宇宙的な合理性を持っていたのです。

 今の人間の生命は宇宙的な合理性を持っていません。人間社会の合理性だけです。こんな命は人間社会と共に滅んでしまうのです。人間の世が滅んだ時に、全部滅んでしまうのです。

 イエスが持っていた命はそういうものではありません。永遠の生命を持っていたのです。

 大体、物理が物体になって現われなければならない必要はないのです。物理が現在、物質現象になって現われているのです。こういう現象は、宇宙の中で地球だけです。

 地球は森羅万象という生命体に満ちあふれています。地球そのものが生物です。地球はただの惑星ではありません。地球はすばらしい生物です。

 地球から生まれてくるものは、皆生きているのです。これは地球自身が生きものだから、地球から生まれてくるものは生きているのです。

 それではこの奇妙な惑星がどうしてできたのか。森羅万象をなぜ神が造ったのか。こういうことは聖書を勉強したら分かるのです。

 地球ができる前に本当の命があったのです。本当の命を示すために地球が存在しているのです。皆様の命はこういうことを皆知ることができるすばらしいスケールを持っているのです。

 人間がこの世に生きているのはとても大したことです。皆様が生きていることは尊い命ですから、この命を自分の常識や知識によって棒に振らないで頂きたいのです。

 五蘊皆空です。色即是空です。このことを本当に知って頂きたいのです。

 イエスが伝えた福音とは何かと言いますと、神の命がそのまま皆様に宿っているということです。これが分かれば、イエスがどんな気持ちでこの世に生きていたかが、はっきり分かるのです。このことを皆様にお話ししたいと思うのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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