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命の木の前に置かれた関門


 般若心経と聖書は宗教の教本ではありません。

 般若心経は釈尊の悟りの全体を簡単に要約したものでありまして、これは仏教の経文ではありません。顕教や密教、他力本願以外の仏教でほとんど用いられているのですが、仏教の経典ではないのです。

 釈尊という人はインドの釈迦族の皇太子でした。従って宗教家ではありませんでした。人間がどうして生まれたのか。どうして年老いて、病気になって死んでいくのか。いわゆる生、老、病、死の四つのテーマを解決したいと考えて、バラモンの道場に入ったのです。彼は宗教を信じようと思ってバラモン教に入ったのではなかったのです。人生の事実、生まれて、老人になり、病気になって死んでいく。いわゆる生老病死がなぜ人間にあるのかということを究明するために菩提心を起こしたのです。

 ところが、バラモンの難行苦行のやり方では生老病死が分からないので、彼自身は難行苦行をやめて、菩提樹の下に座り込んで座禅を組んだのです。村の娘から牛乳をもらってゆっくり考え出した。これがいわゆる座禅の始まりです。

 その結果、彼は明けの明星を見て、人間が空であるという一大事を発見したのです。これは事実です。

 人間が空であるということは本当です。例えば、皆様は自分がいるとお考えになっていますけれど、自分の本体は何であるかが分からないのです。自分の本体が分からないのに、自分がいると思っているのです。

 皆様は自分で生まれたいと思って生まれてきたのではありません。そうしますと、今いる皆様は自分ではないはずです。自分が生まれたいと思って生まれてきたのなら、自分はいるのです。

なぜ人間は死んでいくのか

 自分が生まれたいと思っていなかったのですから、生きて、見たり聞いたり話したりしているのは、自分ではないはずです。それでは一体何なのかということになるのです。これが分からないから死んでいくのです。

 なぜ人間は死んでいくのか。人生の実体を正確に捉えていないから死んでいくのです。人生の実体を正確に捉えたら、死ぬというばかばかしいことがなくなるはずです。死ななくなるはずです。これは当たり前のことです。

 イエスは、「私は甦りであり、命である。私を信じる者はたとえ死んでも生きる。また、生きて私を信じる者は、いつまでも死なない」とはっきり言っています(ヨハネによる福音書11・25、26)。

 これは当たり前のことです。極めて当然のことですが、これが極めて当然だと思えない所に、現代人のとんでもない考え違いがあることを、よくご承知頂きたいのです。

 人間は死ぬべき者ではありません。命の実体が分からないから、死ななければならないだけのことなのです。

 人間が死ぬと考えるのは、人間の妄念です。死なないのが人間です。イエスは、「私は命である、甦りである」と言っています。「私は道であり、真理であり、命である」と言っています(同14・6)。これが人間の本体です。

 釈尊はイエスとちょっと違った言い方をしています。現在人間が存在すると考えている当体は空であると言っているのです。

 人間の実体を端的、率直に言いきれば、般若心経の妙諦になるのです。般若心経は仏教の経典ではありません。すべての人間の実体をそのままずばりと言っているだけのことです。

 それから聖書ですが、これもまた宗教ではありません。イエスは宗教に猛烈に反対したのです。時のパリサイ人と律法学者に向かって、イエスは徹底的に反対したのです。そうしてとうとう宗教家に殺されたのです。

 イエスが十字架につけられたのは、宗教家に殺されたということです。イエス・キリストは宗教を憎んだのです。宗教を痛撃したのです。そのために宗教家に殺されたのです。ところが、現在のキリスト教はそのイエスをご教祖のように崇めているのです。おかしな話です。

 キリスト教と聖書は、天地の違いがあるのです。聖書は絶対に宗教ではありません。

 般若心経もまた宗教ではありません。イエスはナザレの大工の青年でした。釈尊もイエスも両方とも宗教家ではないのです。釈尊が宗教家でなかったように、イエスもまた宗教家ではなかったのです。従って般若心経も新約聖書も両方共宗教とは何の関係もない。むしろ宗教を根本から否定する思想になっているのです。

 宗教というものは現世に生きている人間が幸いになるため、救われるためにあるのです。ところが般若心経は現世にいる人間を初めから否定しているのです。聖書も否定しているのです。

 一人の人が十字架につけられて死んだことによって、すべての人間は皆死んだのです。これは神の人間に対する明らかな意志表示であって、キリストという人類の代表者を一人殺して、全人類を全部殺したことを神が意志表示したのです。パウロがコリント人への第二の手紙の五章十四節で、このことを言っているのです。

 すべての人が十字架によって死んでしまった。これはパウロ神学の根本です。「私はキリストと共につけられたので、死んでしまった」と言っているのです。「今生きているのは自分ではない」とはっきり言っているのです(ガラテヤ人への手紙2・19、20)。

 このように、現在生まれたままの状態で生きている皆様は妄念の塊です。死ななければならない人間です。だから生まれたままの感覚で生きることをやめて、人生の実体を見極めるということをすれば死ななくてもいいのです。

 こういうことを藪から棒に申し上げますと、甚だ奇異にお感じになると思いますが、これは旧約聖書全体を通して要所要所を詳しくお話ししたら、十分にお分かり頂けると思います。

 般若心経の思想で言いましても、人間は空です。人間存在そのものが空です。肉体が存在していないのです。物理はありますが、物体はないということを、アインシュタインがはっきり言っているのです。

 物が存在するのではない。運動があるだけだとアインシュタインが言っているのです。また、般若心経も色即是空と言って、現象は空だと言っているのです。

 物が存在するというのは人間の妄念によるのです。仏になればいいのです。

仏とは

 仏というのはほとくことです。「仏とは たが言いにけん 白玉の 糸のもつれの ほとけなりけり」という道歌があります。人間の生活感覚というのは、糸がもつれたように混線しているのです。これを一つ一つほといていくのです。

 何のために人間は生まれてきたのか。何のために人間は存在するのか。何のために森羅万象があるのか。命とは何か。神とは何か。死とは何か。これを全部ほといていくのです。

 仏教では自性を見ると言います。これは自分自身の本性、本心を見ることです。これを見性と言います。見性成仏と言います。人間本来の姿をはっきり見極めるなら、成仏するというのです。

 仏になるというのは、人生全体がほとけてしまうことです。これが仏陀の思想です。人間が救われて極楽へ行くのではない。人生全体の謎がほとけてしまうことです。そうして自分自身の存在が別のものになってしまうのです。

 聖書で言いますと、人間は新しく生まれなければ神の国を見ることができないとなるのです。新しくというのは改めてと読んだ方がいいのです。人間は改めて生まれなければならないのです。

 一度現世に生まれた者は死んでしまうのです。母の胎から生まれた者は死ななければならないという約束の下にあるのです。そこで目の黒いうちに自分自身が死んでしまうのです。十字架によって死んでしまうのです。これを聖書が強調しているのです。

 十字架というのは、現世に肉体的に生まれた者が一度死んでしまうことです。死んでしまったからその人の罪が消えてしまうのです。死んでしまわない者は、その人の罪業がどこまでも神によって追求されるのです。

 死んでしまえばその人の罪も人間も消えてしまうのです。

 「イエス・キリストの名によって洗礼を受ける者は、イエス・キリストと共に葬られたのだ」と、パウロがはっきり言っているのです。これが洗礼です。

 ところが現在のキリスト教はそのように解釈していないのです。自分が救われて天国へ行くと考えているのです。そんなばかなことはないのです。

 この世に生まれてきた人間は、何のために生まれてきたのかということを知らないのです。こういう者が天国へ行って何をするのでしょうか。また、極楽へ行って何をするのでしょうか。何のために極楽へ行くのでしょうか。

 宗教はこういうことが全く分からない人間が、天国や極楽へ行けると言うのです。宗教はこう言って人を騙すのです。

 人間は死ぬに決まっていると考えている人は、生まれながらの常識に取りつかれているからです。この世の常識は、実は皆様方自身の思想ではないのです。

 例えば皆様は利害得失を考えます。また、救いとか幸福を考えます。いわゆる善悪利害得失を考えますが、この考えの基本となる思想は一体何かと言いますと、皆様が生まれた家庭で両親や兄弟、友人から色々なことを聞かされたのです。

 また、学校に入ってから色々なことを教えられた。社会人になってから色々なことを習った。その結果、皆様の頭には世間一般の常識がこびりついてしまったのです。皆様がお考えになっている思想の実体は、皆様の思想ではないのです。他人の思想です。世間一般の思想です。皆様自身の思想ではないことをよくお考え頂きたいのです。

 これを聖書では肉の思いと言っています。この世につける思いです。人間自身の思いではなくて、この世につける思いのために、世間並みの考え方のために、人間は死んでいかなければならないことになるのです。

 自分の思想によって死んでいかなければならないことならしかたがないのですが、他人の思想を見習ったために死んでいかなければならないのです。

 そこで、皆様には自分自身の本来の姿、自分の本性を見て頂きたいのです。人間とは何であるか。神とは何であるか。命とは何であるかについてはっきり究明するなら、皆様は死ななくてもいいのです。

 自分は死ななければならないと思い込んでいる人は、敗北思想です。負け犬の思想です。死ななければならないと思い込んでいる人は、死んでしまわなければならないことになるのです。これは自分の思想によって自分が死んでしまうことになるのです。

 イエスは、「汝の信仰のごとくに汝なるべし」と言っています。皆様が世間並みの思想を自分のものと考えているなら、世間の人と同じように死んでしまわなければならないことになりますが、もし釈尊の空がお分かりになり、イエス・キリストの十字架の意味が十分にお分かりになるなら、皆様は死なない人間になるのです。これが本当の救いです。

 死んでから天国へ行くというのではありません。目の黒いうちに、現在生きている間に、永遠の生命の実物を掴まえるのです。

 目の黒いうちに永遠の生命の実体を掴まえるのです。「私は命である」とイエスが言っています。イエスの思想によって生きるのです。

 そのためには、まず釈尊の空が分からなければ、なかなかイエスの信仰は分かりません。釈尊の空が本当に理解できなければ、イエスの思想はとても理解できないのです。

 ユダヤ人はイエスを理解することができなかったのです。なぜかと言いますと、モーセの掟の精神が本当に分からなかったからです。だからイエスを受け入れることができなかったのです。

イエスの前の関門

 イエスを受け入れる前に、一度関門を通らなければならないのです。ユダヤ人にはモーセの掟という関門があるのです。東洋人には釈尊という関門があります。アラブ、アフリカにはマホメットという関門があるのです。

 ソクラテス、マホメット、釈尊、モーセはイエスの前に置かれている関門です。この関門を通過しなければ、イエスの所に到ることができないのです

 創世記に次のようにあります。

 「神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと回る炎の剣とを置いて、命の木の道を守らせた」(3・24)。

 命の木とはイエスを指しています。回る炎の剣がモーセの掟であり、釈尊の空です。これを理解しなければ、命の木であるイエスの正体をはっきり捉えることができないのです。

 皆様は現在生きていらっしゃるのですから、今なら命が分かるはずです。しかし、皆様は生きていながら命が分からないのです。命とは何かについてはっきりしたことは言えないでしょう。現在生きていながら命が分からない。これが現在の人間の迷いの姿の実体です。

 人間は現在、気まま、気紛れ、気の迷いで生きているのです。これが現在の人間の思想の状態です。何も分からない。何のために生きているのか。結婚とはどういうことなのか。性欲がどういうことなのかが分からないのです。

 親子の関係も、夫婦の関係も分からないのです。ただ世間並みに生きている。世間の人が結婚するから自分も結婚するという程度のものです。

 そういうあやふやな人生をやめて、はっきり自分の両足で大地を踏みしめるのです。

 人間は現世の生活を楽しむために生まれてきたのではありません。現世で神を経験するために生まれてきたのです。神は命の本源です。命そのものを本当に経験するために生まれてきたのです。

 現世でマイホームを楽しむために生きているのでないのです。人間の魂は現世に送られたのです。イエスが現世に送られたように私たちも現世に送られたのです。神を経験する、命を正当に経験するために生まれてきたのです。

 命を正確に経験すれば、釈尊の思想やイエスの思想が、はっきり皆様のものになるのです。逆に言いますと、皆様が釈尊やイエスの思想をはっきり経験すれば、命の実体が分かるのです。どちらも同じことになるのです。

 死ぬというばかばかしい考えをやめて頂きたいのです。死を蹴飛ばすのです。死を踏んづけるのです。そういう人生を掴まえることができるという事実を勉強して頂きたいのです。

 人間は旅行をする場合、その目的と行程を考えて旅行をします。ところが、七十年、八十年の人生を目的なしに生きているのです。これは目的なしに何十年も旅行をしているのと同じなのです。これは少々おかしいのではないかと思うのです。

 私たちは自分の意志で生まれてきたのではないのです。これは分かりきったことです。自分の意志で生まれてきたのではないとしたら、自分の意志だけで生きているのは甚だおかしいのです。

 四百年程前に、フランスにデカルトという哲学者がいました。この人が、「我思うゆえに我あり」と言いました。

 自分が思うから、自分が考えるから、自分はいると考えたのです。自分が物事を考えると言いますけれど、心理機能がなければ考えたり、思ったりできないのです。ところが心理機能は自分で製造したものではありません。生理機能もまた、人間自身が造ったものではないのです。

 親から伝承したもの、先祖代々から伝承したものということができるでしょうけれど、その根源は人間が人間の意志に従って勝手に造ったものではありません。その証拠に自分の生理機能、心理機能を自分で改造することができないのです。

 自分の髪の毛一本でも自分で造れませんし、身長も自分で伸ばすことができないのです。

 人間は自分の生理機能や心理機能が、自分の意志によってできたものではないということを、ごく平明な感覚で受け取るべきだと思うのです。こういうことからまともな人生観が生まれてくるのです。

 人間が自分の意志で生まれてきたのではないとしたら、今いるのは自分ではないはずです。私も自分の意志で生まれてきたのではありませんから、今いる私は自分ではないのです。自分の意志で生まれてきたのではないのなら、自分がいると思うのはおかしいのです。

 ハイデガーという実存主義の哲学者がドイツにいました。世界の哲学者の大御所と言われた人ですが、この人が自我というものは大変悪いものだと言っています。どうしてこういう意識が人間に入り込んできたのか分からないと言っているのです。

 自我が悪いものだということは分かるのですが、なぜ悪いものかということが分かっているのも自分です。焼き餅をやくのは自分です。嘘を言うのは自分です。腹を立てるのも自分です。焼き餅をやいたり、腹を立てたりして苦しむのは、結局自分です。

 自分が焼き餅をやいて、自分が苦しんで自分が地獄へ行くのです。死ぬのが恐ろしいのも自分です。その代わりに喜ぶのも自分、楽しむのも自分だという言い方もできますけれど、とにかく人生の苦しみ、悲しみ、悩みというものはすべて自我意識に基づくものなのです。自我という意識がなければ、人間は苦しみ悲しみから完全に解放されるでしょう。

自我意識

 ところが人間には自我がある。これが大変悪いものだとハイデガーは言っているのです。しかし自我がどうして人間に入り込んできたのか、どうしても分からないというのです。

 自我が悪いということは分かっています。どうして自我が入り込んできたのか、また、自我意識をどのようにして克服するかについては、分からないのです。

 人間が一番苦しめられている原因は自我です。この自我を何とか始末する方法がないことには本当の人生は分からないのです。私が言っているのは宗教でもないし、哲学でもありません。ハイデガーは哲学という立場から自我が悪いと言ったのです。自我意識は現代文明の中心思想である。中心意識であると考えてもいいのでしょうけれど、これが人間自身を苦しめる元凶であるということができると思います。

 デカルトの「我思うゆえに我あり」という考えは、近代哲学が形成される第一原理のようなものです。これに基づいてドイツ観念論哲学ができているのです。イギリスの経験主義、フランスの唯物論も同様です。すべて我という人格が近代文明の中心になっているのです。

 基本的人権という思想も我に基づいているのです。自我という思想が人権という思想に発展してきたのです。ただ今は基本的人権が王様になっているのです。自我が王様になっているのです。

 人間は自我という妄想、妄念に振り回されているのです。そうして人間自身が苦しんでいるのです。文明というものは魂にとって公害です。ルネッサンス以降の文明は、白人主義の現象意識に基づいてできあがったものですが、これは人間に対する認識が根本から誤っていることを示しているのです。虚妄を足場にした考え方です。これが近代文明という蜃気楼を造っているです。近代学は現象意識に基づいて、白人主義に基づいて構想されていますが、これは生活のためには役に立つのです。生活は便利になりましたが、人間の精神はだんだん追いつめられているのです。

 文明の度合いが高い所ほど人間の本質が悪いのです。文明の度合いが低いほど、人間の質が良くなるのです。人間の質というのは、いわゆる文化概念とか、文明思想ということになれば、文明の高い所ほど高いのですが、例えば心理状態の健全性、肉体構造の健全性が人間の本来の姿であろうと思われるのですが、これが文明によって損なわれているのです。

 例えば、東京やニューヨークという大都会よりも、田舎の町の方が心理的に健康な方が多いと言えるのです。田舎の人は新しい情報は知らないですけれど、心理的にまた、健康的には健全であると言えるのです。これは科学技術の公害を受けていないという点と、人間の迷いが少ないという点からこういうことが言えるのです。

 文明によって、人間は心理的にと、生理的にと両面からだんだんと苦しめられているのです。これが文明の弊害です。文明は間違っていますから、やがて文明は潰れるだろうと思うのです。

 以前に日本沈没という映画や本が売れていましたが、こういうことは文明の世紀末現象です。これは文明自体が腐っていることを示しているのです。人間の思想の基本的な概念がずれていることが原因になっているのです。

 現在の人間の考え方が間違っているのです。簡単に言えばこうなるのです。私たちは何とかこの状態から抜け出さなければならないのです。

 現代人は自分が死ぬと思い込んでいるのです。これは命の本質を知らないからこういうことになるのです。命の本質というものは、死なないものです。

 死なないものを命というのです。死ぬに決まっているようなものを命とは申しません。肉体はただの生命現象にすぎないのです。生命現象と命とは違います。

 生命現象は中断することはあり得るでしょう。これは当然のことです。人間の肉体は一つの消耗品ですから、やがて古くなっていくのです。肉体は消耗品ですから、やがて欠落するのはしかたがないのですが、魂が死ぬということとは別の問題です。

 人間は現世で楽しむために生まれてきたのではないのです。マイホームを楽しむとか、お金儲けを楽しむことのために生まれてきたのではありません。

 何をしに来たのかということを簡単に申しますと、経験しに来たのです。この世に何かを経験しに来たのです。何を経験しに来たのか。端的に申しますと、命を経験しに来たのです。これが人間の唯一無二の目的です。

 これは宗教ではありません。すべて人間が行き着く所です。今の人間は命を経験しに来たのに、命を知らないのです。そして遊んでいるのです。マイホームを楽しんでいるのです。または自分の欲望の奴隷になって得々としていることは、人間存在の本質から全くずれてしまった虚妄な行為です。妄念の行為です。

 現代の文明はこういう生き方を当たり前のように考えているのです。人間とは何かをまともに考えようとしない。命とは何かを全然考えようとしないのです。

 今の学問でも命を考えているものは一つもないのです。生命現象を考えている学問はありますが、命そのものを考えている学者は一人もいないのです。

 宗教家にもいません。哲学者にもいません。現代文明は命について全く知らないのです。一番大切なことを一番疎かにしているのです。こういうばかな状態になっているのです。

 生活環境を考えたり、人間の健康増進を考えることも大切なことです。人間の目の前の生活向上を考えることも大切ですが、自分の命を考えることはもっと大切であると考えて頂きたいのです。このことを皆様に提案しに来たのです。

 生きているとは何であるのか。命とは何であるかということです。これを知るためには、般若心経と聖書を勉強していくしか方法がないのです。これをしっかり勉強して、命そのものを突き止めて頂きたいのです。

 般若心経は五蘊皆空と言っていますけれど、現存在の人間の考え方は全く空そのものです。般若心経の思想は釈尊の思想でありまして、今から二千五百年も前の思想です。この時代においても、釈尊は人間は空であるということを喝破しています。

 もし釈尊が今現われてきたとしたら、何と言うでしょうか。空と言ったくらいでは追いつきません。一体人間の学説とか、思想とかいうものが集合したものが学問ですが、学説とか理論とか、思想というものは、自我意識を持った人間が排泄した老廃物です。

 人間の思想というもの、人間の理論というものは、その人の精神的な排泄物です。そうすると現代の文明社会というものは、排泄物が堆積しているのです。これが文明の実体です。

 文明思想の根源は人間の排泄物です。人間はこれを有り難がって崇拝しているのです。これによって幸福になりたいと考えている。こういう根本的な間違いが現代文明にあるのです。

 釈尊は五蘊皆空とはっきり言っているのです。人間の考えていることは全く空です。無です。何の価値もありません。人間の本質にとっては全く無価値です。人間の生活にとっては価値がありますけれど、人間の本質には空なるものです。

 人間は生活するために生まれてきたのではないのです。命の経験をするために生まれてきたのです。生きることと、生活することとは違うのです。

 生きるということは心理的に命を自覚して生きるのです。生活するということは、経済的に肉体的にこの世で生きることです。生活することは人間の目的ではありません。

 政治の目的は生活を豊かにすることです。しかし人間存在の目的は、生活することではないのです。生きているそのことを突き止めることです。

 トルストイが死ぬ直前に言った言葉ですが、「私は人間として一番しなければならないことをとうとう考えられなかった。人間として成さねばならないことを、とうとう成さずに死んでいくことになった」と言ったのです。

 トルストイは一番成さねばならないことを、一番疎かにして死んでいったのです。これが文豪のトルストイです。

 ゲーテは死ぬ時に、「ああ暗い、もっと光を、もっと光を」と言ったのです。もっと光をというのは、生理的にだんだん目が暗くなったから、もっと光をと言ったのでしょうけれど、心理的には暗い気持ちがあったと思われるのです。

 人間は生きている間にどうしてもしなければならないノルマがあるのです。息が切れるまでにどうしてもしなければならないノルマがあるのです。それは何かと言いますと、命を知るということです。

 般若心経は人間の考えは空だと言っているのです。しかし空だというだけでは命が分かったことにはならないのです。

向こう岸

 般若心経の中に、「菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故無有恐怖 遠離一切顚倒無想 究竟涅槃」という言葉があります。

 これは何かと言いますと、般若波羅蜜多の思想によって心無罣礙になるというのです。般若波羅蜜多とは向こう岸へ渡った知恵ということです。

 こちらの岸は人間が生きている生活概念です。生活観念です。自我意識です。これがこちら岸です。向こう岸へ渡るというのは、人空、法空を体得した境地です。人空とは人間が空であるということです。法空というのは現象世界が空であると言っているのです。

 向こう岸へ渡ってしまった状態を般若波羅蜜多と言っているのですが、般若波羅蜜多の思想によって心に少しも差し障りがない。だから恐怖が全くない。人間のすべての考えはひっくり返っていて、夢のような考えをしている。これを遠く離れてしまっている。そうして究竟涅槃の境に入ってしまうのです。

 涅槃とは冷えて消えてなくなってしまうことです。自我意識と現象意識がすべて消えてしまって空になっている。これが生まれたままの赤裸の人間です。

 般若心経は究竟涅槃が目的です。人間が消えてしまうことです。これが目的です。しかしこれでは命の実体を捉えたことにはならないのです。

 命とは何か。何のために生まれてきたのか。命の経験をするという、この目的を般若心経でははっきり捉えていない所があるのです。

 私は般若心経の思想を尊敬します。しかしこれだけでは完全だとは言えないのです。そこで般若心経にプラスしなければならないことがあるのです。

 ナザレのイエスという人物は、「私は命である。私は道である。誠である」と言っています(ヨハネによる福音書14・6)。「私は生けるパンである。私を食べなさい」と言っているのです(同6・51)。

 仏典は総合的に申しますと、究竟涅槃を説いているのです。ニル・バー・ナーを説いているのです。涅槃寂静の境を説いているのです。聖書は永遠の生命を説いているのです。究竟涅槃、空であり無であることが土台になって、初めて本当の永遠の生命が分かるのです。

 キリスト教が間違った根本原因は何かと申しますと、今生きているままの気持ちでキリストを信じようとすることです。ここに間違いがあるのです。

 この意味で世界中のキリスト教が全部間違っているのです。はっきりそう言えるのです。現在のキリスト教の人々は、死んだら天国へ行くと考えています。天国へ行くことが目的で聖書を信じているのです。

 死んだら天国へ行くということは聖書に書いていません。もしそう書いてあると思われたら、聖書を読み間違えているのです。

 十字架にかけられている犯罪人に対してイエスは、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒にパラダイスに入るであろう」と言っていますが(ルカによる福音書23・43)、この箇所を引用して死んだら天国へ行くと言っているのです。これが間違っているのです。

 本当に神を信じるということは、人間の思想で神を信じてもだめです。本当の信仰というのは神自身の思想です。キリスト自身の思想です。

 聖書に、「神を信じなさい」とありますが(マルコによる福音書11・22)、これを英訳ではHave faith in God.となっています。

 神における信仰を持てと言っているのです。神において信仰を持てというのです。神の信仰を持てという意味です。それを神を信じると訳しているのです。宗教観念で訳しているからそういうことになるのです。だから間違っているのです。

 神の信仰を持とうとしますと、まず人間が空であることを悟らなければいけない。現在肉の思いで生きている人間がそのままの状態 でいくら聖書を信じても絶対に救われません。

 まず空になることです。はっきり五蘊皆空を信じることです。五蘊皆空を信じることは、聖書の十字架を信じることと同じことになるのです。十字架と般若心経は同じことです。

 パウロは言っています。「私はキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、私ではない」(ガラテヤ人への手紙2・19、20)。

 イエスと共に死んでしまうこと、イエスと共に葬られてしまうことです。そうして全く新しい生命の存在として、新しい命の自分として、もう一度聖書を見直すことです。これを新に生きると言うのです。

 こういうことがキリスト教では正しく説かれていないのです。聖書には書かれているのですが、今のキリスト教はそれを正しく読んでいないのです。今のキリスト教は神に関する説明ばかりをしているのです。

 例えば、神が全知全能であるとか、イエス・キリストを信じれば救われるとかいうことは神に関する説明です。神そのものを教えているのではありません。キリストそのものをはっきり教えているのではありません。こういう点がキリスト教が間違っている所です。

 イエスは一通りや二通りで分かる人物ではないのです。今の文明の概念から言いますと、全く奇々怪々な人物です。大工の青年がなぜキリストであったのか。こういうことを本当に知ろうと思ったら、まず自分の概念が空であることを悟ることです。悟る上に救いがあるのです。

 般若心経には悟りはありますが救いはありません。そこで般若心経という悟りの段階を経て救いの段階へ入りますと、本当に聖書がはっきり分かる。そうして皆様の実体が分かるのです。皆様の命の実体が分かるのです。

人生のノルマ

 命とは何か。命を経験することが人間がこの世に生まれてきたノルマですから、このノルマを果たして頂きたいと思います。

 イエスという人物は普通の人間の感覚で直面しますと、全く分からないのです。今のキリスト教は西洋宗教の感覚でイエスを見ています。

 西洋宗教の感覚というのは現象的な人間が存在する、現象的な世界が存在する。人間は現世で楽しく生活すればいいのだというのが西洋人の考えですが、この世の感覚でイエス・キリストを見ているのですから、キリスト教の神学はとんでもない間違ったものになっているのです。

 これは全く外国の宗教でありまして、本来の聖書とは全然違います。例えば旧約聖書には、「汝わが前に歩みて全かれ」という言葉があります(創世記17・1)。神の前に歩けと神がアブラハムに注文しているのです。

 今のキリスト教は神の前も後ろも知らないのです。神の前とはどこのことか全然知らないのです。こういう聖書の根本原理が分からないままで聖書を信じているのですから、無鉄砲な話です。

 私はキリスト教信者の方々には非常な好意と尊敬を持っています。ただキリスト教の思想が間違っていると申し上げているのです。

 キリスト教の神学が間違っているのです。キリスト教信者の方々には無限の尊敬を持っているのです。キリスト教思想が神とキリストを偽造しているのです。今、もしキリストがこの地上へやって来たら、キリスト教は踏み潰されるでしょう。はっきり潰されます。

 仏教でも同じことが言えるでしょう。釈尊がやって来たら、今の寺は片っ端から火をつけて焼かれることになるのです。仏典の本当の精神はいわゆる宗教概念とは違うのです。宗教とは何の関係もないのです。人間自身の丸裸の姿を仏典も聖書もはっきり見つめているということは間違いないのです。

 私が申し上げているのは私の思想ではありません。神の思想をそのまま申し上げているのです。私は聖書の受け売りをしているだけなのです。キリスト教の神学ではないというだけのことです。

 人間のありのままを直感していきますと、西洋も東洋も同じことになるのです。

 般若心経が真理なら聖書と一致しなければならないのです。聖書が真実なら般若心経と一致しなければならないのです。人間が生きているという現存在の実体から考えて当然このように考えられるのです。

 般若心経と聖書を二つ並べますと、宗教にはなりません。もし私が宗教宣伝をするつもりなら、般若心経なら般若心経、聖書なら聖書とどちらか一方にしておくでしょう。そうしないと宗教商売はできないからです。

 般若心経と聖書を二つ並べた所をご覧頂いたら、私たちが宗教団体ではないことが分かって頂けると思うのです。

 なぜ地球ができたのかということにつきまして、仏教は因縁所生だと言います。因縁によってできたのだということですが、因縁とは何かということです。

造化神秀を鍾(あつ)めて

 これは中国の古い言葉で言いますと、造化ということになります。杜甫の詩に「造化神秀を鍾(あつ)めて」という言葉があります。宇宙の造化というのは神の秀れた所を現わしたものだと言っているのです。

 天地万物は神の優秀な力によってできたとしまして、優秀な力とは何であるかと言いますと、これが神の言葉だと聖書は説明しています。

 因縁所生というのは神の言葉によって造られたということです。神の言葉というのは神の思想、または神の行動、神の計画の全体を現わしているのです。これが宇宙が造られた根源だと主張しているのです。

 仏典の中には造化という思想はありません。全然ないとは言えませんけれど、非常に少ないようです。仏典は無始無終でありまして、宇宙は造られたものではない、初めからあるものだと言っているのです。

 しかし物質はやはり初めがあり終わりがあるのです。生あるものは必ず死する。形あるものは必ず壊れるとありますから、やはり造化という思想を認めた方がよいと思われますが、造化の根源になっているものが神の言葉だと聖書は主張しているのです。

 神の言葉が人間になって現われたのが、イエス・キリストです。神の言葉が肉体を取って現われたイエスが十字架によって殺されたのです。そうすると、神の言葉が十字架につけられたことになるのです。これが何のことかキリスト教では分からないのです。

 キリスト教では本当の十字架の意味が分かっていません。神の子が十字架につけられた。神の言葉が十字架につけられたことになりますと、天地万物が十字架につけられたことになるのです。これは大変なことです。天地万物が消えてしまうことになるのです。

 十字架は宇宙の秘密です。これを知る前にまず自分の命を知りたいと思うことが先決です。

 命は心にも関係がありますが、心ばかりではありません。松原泰道さんは般若心経についていろいろ書いています。松原泰道さんの般若心経の解釈は良いと思いますが、やはり宗教離れしたような解説はできていないのです。私のように天下の浪人であるなら言いたいことが言えるのです。何かの宗教団体に属しておられると考え方に限界があるようです。

 私は般若心経と聖書を専門家の手から取り戻すべきだと考えています。般若心経や聖書の解釈は専門家の手のみに委ねておくべきではないと考えるのです。

 聖書をキリスト教の牧師だけに委ねておくべきではないと思えるのです。

 仏教は集団と教派を造ったために、釈尊の考えが歪められてしまっているのです。聖書もそのとおりです。イエスは宗教を大変嫌ったのです。パリサイのパン種、サドカイのパン種と言って猛烈に批判したのです。その結果、イエスは宗教家に殺されたのです。

 釈尊もイエスも宗教を敵にしたのです。ところが今日、宗教の教祖として祀り上げられているのです。イエス・キリストはキリスト教のご開山のようになっていますが、これは全くけしからんことです。

 率直に言いますと、心は命ではないのです。それでは命とは何であるかと言いますと、事がらです。命は事実です。事がらです。事がらとか事実を聖書は霊と言っています。

 神は霊であると聖書に書いてありますが、神は事実です。事実と事がらは少し違いますが、事実の中には精神的な面もありますが、同時に物理的な面もあるのです。

 例えば今皆様が生きていらっしゃるということは事実です。これが命です。生きていらっしゃるということは、皆様の思想には関係がありません。般若心経を勉強しているとか、聖書を勉強しているとか、商売人であるとか弁護士であるということには、何の関係もありません。

 皆様が生きていらっしゃるということは宇宙的な事実でありまして、皆様の思想や経験や経歴には関係がありません。お金があろうがなかろうが、そんなことには関係がないのです。ただ命があるだけのことです。

宇宙の大生命

 命とは何かと言いますと、事がら、事実です。宇宙には大生命が一つあります。宇宙の命がそれぞれの状態で皆様に現われているだけです。加藤さんの命とか、伊藤さんの命があるのではありません。皆同じ命を生きているのです。

 特別に個人の命がある訳ではありません。皆様一人ひとりに命があるのではありません。宇宙の命が一つあるだけです。

 この宇宙の命を皆様が発見されたら、本当の命を発見することができるのです。この命が発見できたら、その人は死ななくなるのです。宇宙は死なないのですから、この命に生きている人も死なないのです。

 地球はやがて焼消していくでしょう。ペテロは次のように述べています。

 「しかし、主の日は盗人のように襲ってくる。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けくずれ、地とその上に造り出されたものも、皆焼きつくされるであろう」(ペテロの第二の手紙3・10)。

 人間もすべて滅びるでしょう。しかし宇宙はなくならないのです。そうしたら命はあるに決まっているのです。そこで皆様が永遠の生命をはっきり見つけたいと思われるなら、今皆様が生かされている命を掴まえたらいいのです。

 今皆様が生きておいでになるのではなくて、生かされているのです。皆様は空気を造った覚えはないでしょう。水を皆様は造ったのではないでしょう。太陽光線も自分で造ったのではないでしょう。ところが、皆様には空気や太陽光線が無制限に与えられているのです。だから人間は生かされているのです。

 そこで宇宙の命がお分かりになれば、皆様は死なない命がよく分かるのです。これは宗教でいう霊魂不滅という意味ではありません。永遠の生命と霊魂不滅とは、全然違うのです。とにかく宇宙の大生命が皆様という形で現われているのだということをご承知頂きたいのです。

 これが今皆様が生かされている状態です。ここで皆様は命をしっかりと掴まえれば死ななくなるのです。

 神とは何かという大問題、これは皆様が生きるか死ぬかの問題ですから、どうぞ真剣に勉強して頂きたいのです。

 ある宗教では、釈尊が生まれてすぐに七足歩いて、天上天下唯我独尊と言われたと言っていますが、こういうことを言うからおかしくなるのです。生まれたての赤ちゃんが、天上天下唯我独尊と言うはずがないのです。これは全くの迷信です。

 現在の仏教は釈尊を祀り上げすぎているのです。イエスは大工の青年でした。釈尊は釈迦族の皇太子でただの人間です。それを万徳円満釈迦牟尼如来とか輪転王と言うからいけないのです。

 釈尊は釈尊でいいと思います。イエスはイエスでいいと思うのです。イエス様とかキリスト様と言わなくてもいいのです。私たちと同じ存在の人間です。

 私はキリスト教の人々にあなたが信じているイエス様は小便しますかと聞くのです。ところがキリスト教の信者はイエス様は小便しないと言うのです。肉体を持っていて何十年も小便をしないということがあるのでしょうか。これがおかしいのです。私たちは小便をするイエスを信じなかったらいけないのです。

 キリスト教の人々はイエス様が小便するとは全然考えないのです。ところがヨハネは、「肉体で現われたキリストを言い現わす者でなかったらだめだ」と言っているのです(ヨハネの第一の手紙4・2)。肉体で現われたキリストとは小便をするイエスのことです。

 聖書の記述とキリスト教の概念とはそのように違うのです。

 天上天下唯我独尊という釈尊の悟りは、悟りとしては結構ですが、釈尊はイエスが生まれる五百年ほど前の人でした。だから釈尊はイエスを全然知らなかったのです。もし釈尊がイエスの後に生まれていたら、こういう言い方をしたかどうか分からないのです。

 釈尊の悟りは東洋哲学として非常に尊敬すべき大スケールのものですが、この宇宙に本当の人はただ一人しかいないのです。この一人以外はいないというのは、良い点もあるが非常に悪い点もあるのです。

 自分一人しかいないというのは、人間は孤独だということです。自分の気持ちを分かってくれる人は一人もいないとなると、地獄思想になるのです。

 なぜかと言いますと、自分の気持ちは親でも分かってくれません。兄弟も分かってくれません。夫婦どうしでも分からないのです。人間は永遠の孤独です。永遠の孤独ということは死後の状態を暗示しているです。

 死ぬのは自分一人ではない。友人も知人も皆死んでいる。あの世で又会えると思っているのです。人間は現在孤独である。自分の気持ちを誰も分かってくれていないというのは、現在独房に入れられているということです。これが地獄の状態です。

 このことをよくお考え頂きまして、目の黒いうちに独房から出て頂きたいのです。神と話をする人間になって頂きたいのです。これがイエスの状態です。

 イエスは神を父と呼んで、父と交わっていたのです。神と交わることは命を知ったらすぐにできるのです。本当の命は神ですから、本当の命が分かれば、皆様は神と十分に話ができるのです。

 天上天下唯我独尊というよりは、神と肩を組んで歩く方がはるかに楽しい人生になるのです。

 釈尊の悟り、それから聖書に記されている救いは、人間が救われることとは違うのです。釈尊の悟りの場合でも、人間が悟ることとは違うのです。

 これは般若心経をご覧になればすぐに分かることです。観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄とあるのです。観自在菩薩が般若波羅蜜多を行じた時のことです。これは観自在菩薩の悟りでありまして、人間の悟りとは違うのです。

 イエスの場合でも、神の信仰を持てと言って弟子たちに教えているのです。イエス自身はイエス自身の信仰で信じていたのではなくて、神の信仰をイエスが持っていたのです。そのように新約聖書の信仰は神の信仰です。

 般若心経の悟りは観自在菩薩の悟りです。皆様方が悟ったのとは違うのです。人間が悟ったのではないのです。

 それでは皆様の悟りが観自在菩薩の悟りと同じであり得るのか、あり得ないのかと申しますと、人間の中には仏性があるのです。これはいわゆる生活概念とは違うのです。実存哲学とか、観念論哲学とかいうものとは全然違うのです。

 西洋の哲学思想というものは、すべて人間の思想です。人間の知性による、または人間の理知性による批判です。例えばカントの実践理性による批判は彼自身の理性による批判でした。

 そのように理性に基づいて理性批判をした。これが理性批判の哲学です。西洋人はそのように知性、理性を重んじるのですが、釈尊は理知性によったのではなかった。仏性によって悟りを開いているのです。だから釈尊が悟ったとは書かないで、観自在菩薩が悟ったと書いているのです。

イエスとは誰か

 釈尊という人間が悟ったのではなくて、観自在菩薩が悟ったのです。こういう言い方をしているのです。

 それではイエスは誰かと言いますと、イエスは一度十字架によって殺されて復活しました。甦ったのですが、甦った結果、キリストとされたのです。キリストと認定された証拠に、甦らされたのです。これは人間とは違うのです。

 皆様はイエスと同じになれるのか。先程私は皆様も釈尊と同じように悟ることができるし、イエスと同じ心境になれると言いました。これはどういう意味かと言いますと、実は皆様の中には皆様がご存知ない人格がもう一つあるのです。

 これはカント哲学や実存哲学には全然ない考えですが、事実です。皆様がこの世にお生まれになったばかりの日に、皆様はにこにこ笑っていたのです。

 生まれたての赤ちゃんが、時々にこにこ笑っているのです。目も見えず耳も聞こえない赤ちゃんがにこにこ笑うのです。一体赤ん坊は何を笑っているのでしょうか。こういうことが、今の学問では分からないのです。

 人生というのは前世の延長です。赤ん坊の魂は生まれる前にどこかにいたのです。笑うのはなぜかと言いますと、何か楽しい経験があるから笑うのです。全然経験がなかったら笑わないのです。楽しいこと、おもしろいことを経験しない人は笑うことができないのです。

 赤ちゃんが笑っているのは何かを思い出して笑っているのです。思い出し笑いです。赤ちゃんは何か経験したことを思い出して笑っているのです。

 皆様はお生まれになった時に、既に何かを経験しておられたのです。そうしてにこにこ笑っておられるのです。それを今の皆様は忘れてしまっておられるのですが、これが五蘊皆空ということです。今の皆様の思想は全く五蘊です。

 実存主義という考えが五蘊です。これは全部空です。そういうものに、人間的な価値はどこにもないのです。

 人間の命の本質をマルクスは全然説いていないのです。命の本質を知らないのです。こういう人が革命というからおかしいのです。人間とは何かということがはっきり分かって革命をいうのはいいでしょう。赤軍派もマルクス主義者も、そういうことを全然考えようとしないのです。

 人間存在の本質を考えないで、ただ経済事情だけを考えようとすることは、人間に対する見方が全く片手落ちであると言わなければならないのです。こういう間違いを文明はしているのです。

 私は文明をむやみやたらに批判しているのではありません。言わなければならない理由があるから言っているのです。

 皆様はお生まれになった時に笑っておられたのです。その時皆様は過去世(前世)を知っておられたのです。人間は生まれてきたという言葉をごく自然に使います。また、死んでいくという言葉を自然に使います。生まれてきたというのはどこからかやって来たのです。死んでいくのはどこかへ行くことなのです。生まれてきたこと、現在生きていること、また、死んでいくこと、過去と現在と未来の三つの生があるのですが、三つの生を全部ひっくるめて人生というのです。

 過去世と現世と来世の三つを仏教は三世と言いますが、これを全部ひっくるめたものが本当の人生だと考えて頂きたいのです。現世だけが人生ではありません。現世だけを人生だと考える思想が五蘊皆空です。

 現象が実体だと考えている。これが五蘊の元です。五蘊に基づいて考えている現代人から見ると、私の思想は全く見当違いの思想に思えるのです。しかし今の人間は全部死んでいく人間ばかりです。死んでいく人間のことをお考えになるか、復活したイエスのことを考えたらいいのか、冷静にお考え頂きたいのです。

 皆様の中には生まれる前の自分があるのです。生まれる前の自分に気づいて頂ければ命の本質が分かるのです。

 臨済禅に次のような道歌があります。

 「闇の夜に 鳴かぬカラスの 声聞けば 生まれぬ先の 父ぞ恋しき」。これが本当の空です。イエスの心境の中にもこれがあるのです。

 どうか皆様の中にあるイエスと同じ人格に目覚めて頂きたいのです。釈尊と同じ仏性が皆様の中にあるのです。皆様の中に釈迦如来が生きているのです。イエスが生きているのです。このことをはっきり見破って頂ければいいのです。

 現在の地球が消滅した後にどうなるかについては、聖書にも詳しく書いていません。新約聖書の抽象的な言い方をしますと、ヨハネの黙示録に新天新地という言葉があるのです。これは現在の地球ではない、物理的に完成された地球を書いているのです。

未完成の地球と未完成の人間

 現在の地球は未完成の地球でありまして、非常に不完全なものです。例えば砂漠であるとか、地震、台風があります。洪水や旱魃、噴火、津波、病気があります。

 2004年12月26日に発生したスマトラ沖のマグニチュード9・1の大地震によって発生した津波によって、22万人の人が死亡しました。また、日本では2011年におきた東日本大地震では15800人、行方不明者3155人の大災害になりました。地震は世界各地で頻発していますし、色々な病気が人々を苦しめているのです。これは現在の地球が不完全であることを示しているのです。

 不完全な地球に不完全な人間が住んでいるのです。現在の社会を実体だと思うことをやめて頂きたいのです。常識で考えたらだめです。

 常識は五蘊です。人間が開発したら必ず地球を荒らすのです。人間文明は地球を食い潰す文明です。こういう悪い文明を信じないで頂きたいのです。

 未完成の地球に未完成の人間が住んでいますから、学問とか思想を重大に考える必要はないのです。もっと完全な思想があるのです。現在皆様が生きておいでになるという事実は、皆様の思想よりももっとすばらしいものです。

 命という事実は皆様の思想よりも、哲学や宗教よりももっとすばらしいものです。どうぞ生きているというこの事実を率直に見て頂きたいのです。

 皆様の中に隠れた人格があるのです。仏教でいう仏性です。聖書でいう神の子です。これが皆様の中にあるのですから、この神の子に目を覚まして頂きたいのです。

 皆様が生かされているということ、皆様の目が見えるということ、鼻の穴から息を出し入れしているということが神です。これが造化の神秀です。

 造化の主、造化の神秀が神なのです。これは理屈や宗教のこととは違います。本当のことです。本当のことですから、どうぞこのことに気づいて頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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