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人間の考えは間違っている


 旧約聖書に次のような言葉があります。

 「主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪いことばかりであるのを見られた。主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、『私が創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。私はこれらを造ったことを悔いる』と言われた」(創世記6・5~7)。

 主というのは万物の主(あるじ)のことを言うのであって、存在それ自体の原点のことを言うのです。物が存在することの原点です。これが主です。

 すべての原点がすべての主(あるじ)である。原点を基礎にしてすべての事がら、物がらが成立しているのです。従ってすべての原点は、すべての主であると言えるのです。

 日本人は主が分からない民族です。日本という国がらは昔から主がない国です。万物が存在することの意味が分からないのです。存在するすべての事がら、物がらをそのまま鵜呑みにしているのです。

 人がすべての心に思いはかることが、すべて悪ばかりである。これがノアの洪水が起きた原因です。日本人は日本社会の情報だけを信じているのです。日本書紀に書かれていること、古事記に書かれていることが日本社会の情報です。こういうことを信じて、氏神とか産土神という考えに基づいて生きているのです。これは日本社会にだけしか通用しない情報です。中国や韓国では全然通用しないのです。

 日本でいう氏神とか産土神は、日本だけしか通用しない非常に狭い考え方です。日本社会には森羅万象の主、万国の主、地球の主、国際関係全体の主という思想がないのです。主がない国、主がない思想を持っている民族です。

 明治時代の日本の憲法には、「天皇は神聖にして犯すべからず」という思想があったのです。これが今は消えてしまっているのですが、明治時代の「天皇は神聖にして犯すべからず」というのは、日本だけの思想です。隣の韓国や中国では、このために大変迷惑したのです。

 中国は日本とは国がらが全然違います。従って日本人が天皇は神聖にして犯すべからずと言ってみたところで、中国人は全く関係ないのです。ところが天皇は神聖にして犯すべからずということを日本人は真剣に信じていたのです。

 日本は日本社会の通念、情報しか通用しない閉鎖された社会でした。皆様にはこの点をまずご理解頂いて、日本的な考えを揚棄する考えを持って頂きたいのです。そうすると本当の命が分かってくるのです。

 現在大学へ行っている人は揚棄しているつもりです。日本的な考えに縛られていないと思っているでしょう。ところが生まれてきた時から日本社会に閉じ込められていたのですから、知らず知らずのうちに日本社会の情報が頭に入り込んでいるのです。

 聖書を勉強している人でも、日本人的な聖書の勉強しかしていないのです。例えば十円切手になっている内村鑑三氏でも、日本人的キリスト教と言っています。キリスト教のことを純正キリスト教と言っている人もいます。純粋福音と言う人もいます。これが日本社会におけるキリスト教の考え方です。

 キリスト教でも仏教でも、日本には本当のものはありません。本当のキリスト教がありません。本当のキリスト教が日本にあったとしても、やはり西洋の宗教にすぎないのです。アメリカで正当であっても、世界的には正当ではありません。

 日本人の物の考え方は、西洋的な意識があると思えば、八百万の神々のような考えがあるのです。皆様が本当の命、本当の人生をお考えになるとしたら、日本人的な物の考え方を揚棄するという意識を、まず持って頂きたいのです。

 仮に皆様が日本的な考え方を棚上げすることに同意なさったとしても、なお人間の世界観、生命観は間違っているのです。

 死んでしまうに決まっている命を自分の命だと思い込んでいらっしゃるからです。現象世界が存在するという意識は、死んでしまうに決まっているという人間の意識です。

 現象意識が存在するという意識、自分という肉体人間が生きているという意識が、死んでしまうに決まっている人間の意識です。

 般若心経はこのことを五蘊皆空と言っているのです。聖書は、人間が心に思いはかることは、すべて悪いことばかりであると言っています。人間はこう思わないのです。悪いことも多いかもしれないが、時には良いこともあるのではないかと思うのです。ところが、人間の考えは全部悪いことだけだというのです。

 なぜ神は人間の考えを敵のように悪く言うのかということです。宇宙の主が人間をなぜ悪く言うのか。これは人間が死ぬに決まっている命を自分の命だと思っているから、神が真正面から痛撃しているのです。

 皆様は死んでしまうに決まっている命を自分の命だとお考えになっています。これを神は厳しく指摘しているのです。

 この考えを皆様は悪いことだとお考えにならないのでしょうか。

 肉体的な命は死んでしまうに決まっている命です。霊魂の命を発見すれば、死なない命はすぐに分かるのです。ところが、死んでしまうに決まっている命を自分の命だと考えている。そこで宗教ができるのです。

 仏教とかキリスト教は、死んでしまうに決まっている命を自分の命だと思っている人を掴まえて、死んでから天国や極楽へ行けると言うのです。これが宗教の大インチキです。

 仏教も死んでから極楽へ行くと言うのです。死んでから極楽へ行くという思想の根本は、現在生きている命が死ぬに決まっている命であることを証認しているのです。死んでいくに決まっている命を自分の命だと思っているから、死んでから極楽へ行くと考えるのです。これが根本から間違っているのです。

 大体、死んでからの命というものを鵜呑みにしていることが間違っているのです。死んでから極楽へ行くとか天国へ行くというばかばかしい思想は成立しないのです。成立させる必要がないのです。

 死んでしまうに決まっている人間を、神は正当な人間として認めていないのです。

 皆様が死んでしまうに決まっている命を勝手に自分の命だと思っているとしたら、神は皆様を人間として全く認めていないのです。

 従って絶対真理とは全く関係がない状態に、皆様は置かれているのです。

 日本の民族の古来からの習性の中には、シャーマニズムという非常に悪い感覚があるのです。いわゆる霊媒思想です。これは単なる思想ではなくて、神霊科学という学的部門の対象になるものです。しかし、精神的に非常に次元が低いものです。

 人間の霊というのは色々あるのです。死者の霊はどこにでもいるのです。いわゆる亡霊(ぼうれい)です。皆様は現在生きておいでになります。これは生霊(しょうれい)です。生霊と亡霊とがあるのです。

 生霊は現世に生きている霊です。皆様が生きておいでになるということは、生霊です。生霊とは魂が働いている状態のことを言うのです。幽霊みたいなものはいくらでもありますから、生霊が「ばか者」と一喝したらいいのです。「般若波羅蜜多」と言えば退散してしまうのです。

 摩訶というのは、そういうものに勝つ力ということです。般若波羅蜜多というのは、現世に生きていることが嘘ですから、現世という嘘の世界を出て、彼岸へ行ってしまえと言っているのです。

 般若心経をお読みになるのなら、般若心経の字句をできるだけ実感するようなお気持ちで読んで頂きたいのです。

 幽霊や亡霊に対しては、ただの元気でばか者と言えば逃げていくのです。しかしもっと上等の霊の位になろうと思われるのなら、現世に生きることがただの幻だということが実感できて、神の国へ入られたらいいのです。私はこのことがよく実感できるので皆さんにお話ししているのです。

人間は影のように彷徨している

 現世に生きていることがただの幻です。皆様が生きておいでになることがそのまま幻です。

 聖書は言っています。

 「まことに人は影のように彷徨います。まことに彼らはむなしいことのために騒ぎまわるのです」(詩篇39・6)。

 人間が現世に生きていることは、形はありますが実体がないのですから影です。その証拠に、皆様の命は一寸先が分からない命です。一寸先も知れぬ命ということは、正確に生きていないということの裏返しになるのです。明日をも知れぬ命、未来について全く見通しがつかない命です。いつ交通事故に遭うかもしれませんし、病気、地震が発生するかもしれないのです。

 実際人間の命は明日をも知れない命なのです。人間の命が一寸先も知れないということは、本当の命を生きていないということの裏返しになるのです。

 皆様の脳細胞の活動は、全体の十分の一くらいしか働いていないと言われています。脳細胞がありながら眠りこけているような状態になっているのです。これは正当の命を生きていないという証拠になるのです。

 現在の人間は自分の脳細胞の十分の一の実力しか持っていないのです。考える力がないのです。百四十億という脳細がありながら、十分の一しか使用していない。そういう限定された貧弱な状態で生きているのです。

 これで立派な命を持っていると言えるのでしょうか。日本人の生命観が根本から間違っているのです。現代文明の生命観が間違っているからこういうことになるのです。

 文明全体が間違っているのです。このことをよくお考え頂きたいのです。

 パウロは、「私は肉につける者であって、罪の下に売られている」と言っています(ローマ人への手紙7・14)。

 肉という言葉の意味は、死を意味するのです。「罪の価は死である」とあります(同6・23)。罪の下に売られているということは、死の下に売られているという意味です。

 皆様の命は、死の下に売られているのです。ところが人間はまともな命を持っているような考え違いをしているのです。そういう錯覚をしているのです。現在の全世界の人間は、錯覚に基づいて生きているのです。

 そこで般若心経は、そういう考え方が空であると言っているのです。間違った生命認識を持っているから、そういう人間は空であるとなるのです。

 般若心経に従ってご覧になれば、皆様ご自身の今の生命観、世界観、価値観が間違っているということを認めざるを得ないのです。これがはっきりお分かり頂ければ、永遠の命への前進ができるのです。

 私の話は分かったようで分からないと、よく言われます。分かったと思っても、すぐに分からなくなってしまう。現在の人間の記憶が非常に不完全です。分かったと思う理解のしかたが不完全なのです。不完全な理解、不完全な気持ちで、私の話を理解しようと思われることが分らない原因です。

 そこでまず、命についての自分の考え方が空であることをお考え頂きたいのです。自分の常識が空であることを考えて頂きたいのです。

 現代文明の世界観、価値観が間違っているのです。現代文明はいわゆるユダヤ的な世界観でありまして、ユダヤ人が間違いの種をばらまいたのです。これが今の文明の命取りになっているのです。

 ユダヤ人と全世界の人間との関係は、非常に難しい問題です。日本人はユダヤ人問題を知らないのです。ユダヤ人の考え方が全世界の人間の考えになってしまっているのです。ここに聖書と人間歴史の深い秘密があるのです。

 今の日本人は全部死んでしまうのです。日本人だけでなくて、全世界の人間は全部死んでしまうのです。これが分かっていますから、たとえ少しの人々でも救い出したいのです。本当の命に目覚める人、死なない命に目覚める人が出てほしいと思っているのです。

 私たちが黙っていたら、世界中の人間が皆死んでしまうのです。こういうことを言いますと、人々は私を気違いだと思われるでしょう。しかし何も特別のことを言っているのではなくて、かつて釈尊が言ったこと、また、イエスが言ったことをお話ししているのです。私は釈尊やイエスが言ったことを受け売りしているだけなのです。

 本当のことは本当のことです。全世界の人間を全部敵に回しても、間違っていることは間違っていると言われなければならないのです。

 黙っていたら日本人は全部死んでしまいます。皆様も死ぬだけです。

 皆様は現世に生きていて、何か希望や理想があるのでしょうか。死ぬに決まっている命を自分の命だとお考えになっている場合には、自分の運命を自ら死ぬ運命に決定しているのです。死んでしまうに決まっているという運命を、自分で設定しているのです。

 こんなばかなことをなぜしているのでしょうか。「私は肉なる者であって、肉の下に売られている」。これはパウロがただのユダヤ人であった時の気持ちを述べているのです。その後には、「この世の人は皆死んでいる」と言っています。

 現在の皆様は、キリストの命を発見するまでのパウロと同じ状態です。どんな地位や名誉、経験があっても命には関係がないのです。必ず死んでしまうのです。このことをお考え頂きたいのです。

 皆様はご自分の命に対する捉え方が、完全に間違っているのです。生命認識が間違っているのです。生命認識が間違っていることは、皆様の人生経験の全部が間違っていることになるのです。これは重大な問題です。

 一体救われる人がどれくらいいるのか。ヨハネの黙示録の七章四節には、十四万四千人と書いています。キリストの花嫁として救われる者が十四万四千人いるのです。それから、花嫁の友達として救われる者が千々万々と数えきれないくらいにいるのです。この人々は来たるべき千年王国の国民となる人々です。

 千年王国にいる人々は霊の思いで救われた人々ばかりです。こういうことは死なない命が分かればすべて分かります。

 まず死ぬべき命を返納して頂きたいのです。これが悔い改めて福音を信じることの入口になるのです。これをはっきり実行して頂きたいのです。そうして悔い改めて福音を信じて頂きたい。

 キリスト教ではない悔い改めをしてください。そうしてイエスの人格の中へ皆様の人格が入り込んでしまったらいいのです。

 日本人は人間の構成を全然知らないのです。人間の本質、本性について基礎的な認識が全くないのです。

 創世記は人間創造について、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造った」と書いています(1・26)。われわれというのは三位一体の神を意味するのです。三位一体ですから、われわれと複数で表現しているのです。

 神にかたどって神のかたちのように人を造ったとはどういうことなのか。皆様はご自分の命をよくご承知頂きたいのです。その本質が分からないから、皆様が現世に生活しておいでになることを自分の命だと思っているのです。

 日本人は生活はしているけれど、生命を知らないのです。生命という言葉は、生命するというように動詞的に変化するのです。命というのは現世に生きていることです。生というのは命の本質そのものを指しているのです。

 命の本質が現世で生きている状態を、生命と言うのです。従ってこれは名詞ですが、動詞に変化する場合もあるのです。例えば料理が料理すると変化するようなものです。

 生命は生命するというように変化するのです。皆様の命は鼻から息を吹き込まれた神の息です(同2・7)。

鼻から命の息を吹き入れた

 皆様が生きておいでになるということが、神が息を与えている。人が息をしていることは神的事実です。人間個人の息ではないのです。

 鼻から息を吹き入れた。これは神自身の生き生きした息を吹き込んだのです。神の実物をそのまま吹き込んだのです。息は神の命の実体をそのまま現わしているのです。これをザ・リビング(the living)と言うのです。

 イエスはザ・リビングの中に自分がいるという感覚を持っていたのです。神が生きているのと自分が生きているのとは同じ命だとイエスは考えていたのです。皆様もそう考えたらいいのです。

 鼻から息をしている人間はすべて神の子です。これを自覚して頂きたいのです。

 皆様が鼻から息を出し入れしている息は、ただの生理現象ではないのです。自然科学は片面だけを見ているのであって、両面を見たことにはならないのです。

 自然科学は現われた現象だけを考えているのです。医学は生理機能だけを考えているのです。生理機能がどうして実在するのか。なぜ生理機能が生理機能であるかについては、医学では説明できないのです。反面しか見ていないから分からないのです。だから医学は非常に不完全な学問です。

 今では不完全な医学でも大いに通用しています。やがて医学が通用しない時が来るのです。キリストの再臨が実現しますと、現在の科学、医学、法律、経済、政治、文化、文明が一切通用しなくなるのです。

 やがて人間の歴史そのものがはっきり消えてしまうのです。新しい歴史が展開するのです。歴史が新しくなるのです。現在の文明は亡者の祭典ですが、これは根本から一新されるのです。キリストの命、神の栄光が実体的に、具体的に地球上に現われるのです。もう目前に迫っていると言えるでしょう。

 こういうことを日本人は全く知らないのです。日本人は誠に愚かな民族です。アメリカもロシアもヨーロッパの国々も同じことです。

 皆様は人格をお持ちですが、これは何でしょうか。人格を持っている皆様は、死んでしまうに決まっている命を自分の命だと思ってはならないのです。なぜかと言いますと、人間の人格は神のペルソナからきているからです。

 ペルソナは宇宙の理性の本源であって、位格です。絶対唯一の位です。これが三位一体の神です。原理、原則、原動力という三位一体がペルソナの実体です。

 ペルソナが現象世界に現われた状態を人格と言うのです。これを皆様はお持ちです。皆様は人格をお持ちですから、善と悪とかいう言葉を使っているのです。自分自身を中心に善悪、利害得失を考えるのです。これが人格の働きです。それで自尊心が発生するのです。自信を持つのです。

 いわゆる人間のプライドは人格から出ているのです。自由意志は人格から発生しているのです。自由意志がある人は、永遠の生命を掴まえることができるのです。

 自由意志は何かと言いますと、神自身の意志です。神自身のペルソナの意志が、人格の意志として人間に植えられているのです。

 皆様ご自身が自由意志をペルソナの御心に従って用いようとすれば、皆様は見事に神の命を自分のものにすることができるのです。

 皆様の人格は自分で植えたものではありません。また、親からもらったものでもありません。第一、親は皆様を生もうと思って生んだのではありません。

 人間は親の意志で生まれたのでもないし、自分の意志で生まれたのでもない。誰の意志なのか。「神にかたどりて神のかたちのように人を造った」とあります。神が造ったので神と同じ人格があるのです。

 神のペルソナが人格として人間に植えられたのです。

 私たちは楽しいこと、美しいことを経験していますが、これは何でしょうか。なぜ楽しいのでしょうか。なぜおいしいと思うのでしょうか。なぜ美しく思うのでしょうか。これは永遠の命を経験しているからです。これを聖書的に言いますと、キリストの福音と言うのです。

 聖書に、「すべて良き訪れを告げる者の足は麗しい」とあります(ローマ人への手紙10・15)。麗しいと言っても、おいしいと言っても、美しいと言っても同じです。これは神の実体を賛美しているのです。

 皆様の魂は神の実体を賛美するために生きているのです。皆様はおいしいことが好きでしょう。楽しいことが好きでしょう。こういうことを経験するために人格はこの世に来たのです。

 楽しいことの実体は何であるかをはっきり見極めれば、神の本物が分かるのです。美しいこと、楽しいこと、おいしいこと、かぐわしいこと、おもしろいことの実体を見つければ、神の実物が発見できるのです。これがキリストです。とこしえの命、死なない命です。

 皆様の人格は死なない命を見つけるためにあるのです。自由意志はそのために用いるべきものなのです。皆様が自由意志をこの世のために用いても、人格は完成しません。皆様の人格を完成させるために自由意志を用いるべきです。

 自由意志を人間生活のために用いてもいいのですが、これは行きがけの駄賃くらいに考えたらいいのです。終極的に神を見つけるために用いれば、人間完成という形で自由意志の役目を果たすことになるのです。

人間完成が人生唯一最高の目的

 人格を完成しなければ皆様の命は無駄になるのです。神にかたどって造られた皆様の人格は、神の方向に進むしか目的はないのです。

 人生の目的は人格完成です。これは唯一最高の目的です。私たちは命を完成させるために生きているのです。

 日本人は霊という言葉を使いますけれど、これは宗教の霊、新興宗教の霊です。

 ある映画俳優が講演会を開いて霊ということを言っていますが、彼は俳優としては有名な人物ですが、有名な立場を利用してもっと自分の名前を売るために、見てきたような嘘を言っているのです。そういう人に耳を貸すことによって、ますますその俳優は調子にのって勝手なことを喋るのです。

 迷っている人間にとっては、迷っていることを言われたら真実だと思うでしょう。その俳優は自分の名前を売るためにしているのですから、それはそれでもいいでしょう。

 人生というのはそういうばかなものとは違うのです。今皆様が生きておいでになるその命の本質と、肉体の命とは違います。命の本質は霊です。霊という言葉はこういう意味に使うのが正しいのです。

 人間は肉体的に生きていることを経験しているのですが、これはこの世の命ですが、霊というのは命の本質を指すのです。

 皆様の心臓が動いていますが、これはどういうことなのか。心臓が動いていることの本質が霊です。人間の心臓は細胞が集まってできていますが、そのようになぜ集まっているのかと言いますと、それが霊になるのです。

 細胞が働いているというのは物理的、または生理学的な言い方になりますが、細胞が働くというのはどこからきているのか、なぜ細胞が働くのかということです。

 例えば目で見ています。目の細胞が働いています。胃腸が働く場合には胃腸の細胞が働きます。人間の肉体には呼吸機能、消化吸収機能、排泄機能がありますが、そういう機能性、合理性がどうして生まれているのかということです。これが霊です。

 この説明が学問ではできないのです。機能の働きの説明は学問ではできますが、人間の機能全体がどうしてできているのかというと分からないのです。これが霊です。

 地球がなぜできたのかという根源的な問題になりますと、今の科学では分からないのです。地球がなければ人間も動物もあり得ないのです。

 地球は四十五億年前にできたということは言いますけれど、なぜできたのかという理由を説明しないのです。科学では偶然にできたと考えているのです。人間も偶然に生まれたというのです。これは唯物的な思考方式です。

 もし人間が偶然に生まれたのなら、法律を守らなければならないとか、倫理、道徳を考えるということはないはずです。しかし人間は法律や道徳を一切考えないで生きることはできないのです。マルクスの理屈はここで行き詰まってしまうのです。

 マルクスは人間が偶然に生まれたと考えたのです。偶然に生まれたということは、人間が生まれたということの正確な認識が持てないから、偶然に生まれたと言ってごまかしているだけのことです。

 マルクスはユダヤ人です。ユダヤ人の中には色々な考えの人がいますので、マルクスのような考え方をする人だけがユダヤ人かと言いますと、そうではないのです。

 肉体的に生きているのが人生の目的であるという考え方、いわゆる唯物主義的な考え方が現在の人間の考え方ですが、これがユダヤ人のトリックです。ユダヤ人はそういう思想をばらまいていますけれど、ユダヤ人が唯物主義を信じているかというと、信じていないのです。

 マルクスでさえも共産主義という理論を展開し、宣伝しましたが、彼自身が共産主義を信じていたかというと、信じていなかったのです。

 レーニンは共産主義者ではなかったのです。共産主義を利用して、ロシア革命をしただけのことです。ユダヤ主義者だったのです。

 世界歴史にはトリックがあるのです。世界中の人間はユダヤ人にいいかげんにあしらわれているのです。手の平の上の団子を転がすようにやられているのです。

 皆様はこういうことをよくご承知になりまして、命を正確に考えて頂きたいのです。そこで一番必要なことは空観です。酸化しつつ、老化しつつ物が存在するという事実は、物が存在するのではなくて、風化しながら現われているのです。

 例えば花は割合に早く風化していきます。二、三日したら全然変わった状態に変化するでしょう。花が咲いているということが地球の命が現われていることです。土の命を吸い出して花という形になって命を現わしているのです。

 命とは何かと言いますと、風化しながら命が現われているのです。風化するということと命とは関係はありますけれど、同じものではないのです。風化するというのは物理的な運動です。命は宇宙の生命に関する真実です。

 地球があって、花が咲いたり、実が結んだり、雨が降ったりしていますが、こういう現象がなぜあるのかということです。こういうことになりますと、学問では説明ができないのです。

 今の学問は科学、法律学、生理学、政治学、経済学と色々ありますが、皆専門学になっているのです。法律学は法律を、政治学は政治を専門的に勉強しているのです。

 科学と言いましても、物質があると考えている科学と、物質がないと考える科学と両方あるのです。科学と一口に言いましても、物質があると考える科学なのか、物質がないと考える科学なのか、どちらなのかと言わなければならないのです。科学にも正反対の方向があるのです。

 現在の学問はそれぞれ専門学になっています。専門学ということは結構なことですが、専門学というのは本当の学とは違うのです。専門的ということは部分的ということです。

 物理学は物理学だけを専門的に勉強しているのであって、法律や政治には関係がないのです。ところが人間が生きているのは、部分的に生きているのではありません。皆様の生活は政治的にも、法律的にも、経済的にも、科学的にも、色々な面を持ちながら生きているのです。道徳的にも宗教的にも義理人情の世界にも係わりがあるのです。

 そうしますと、人間生活の実体は部分的なもの、専門的なものではないのです。ところが現在の大学の学問は、専門的になりすぎてしまっているのです。法律の専門家は科学のことを知りません。それで通るのです。私は法律家ですから科学のことは存じませんと言っても通るのです。

 科学者は哲学のことを全然知りませんと言っても通るのです。ところが、人間生活はある一つの専門だけで生きるという訳にはいかないのです。

 現在の専門学は部分的な学をいうのでありまして、全体的な学問を勉強していないのです。だから専門学を勉強すればするほど、人間の頭が部分的になってしまうのです。部分的な考えによって凝り固まってしまうのです。こういう弊害があるのです。これがユダヤ主義の弊害です。

 現在の学問は非常に大きい弊害を持っているのです。こういう学問を勉強した人が、政治家になったり、市長になったり、会社の社長になったり、評論家になったりしているのですから、社会がだんだん悪くなっていくのです。

ユダヤ人が人類のリーダーシップを取っている

 ユダヤ人と一口に言いましても、良いユダヤ人もいますし、悪いユダヤ人もいるのです。世界で一番悪いのがユダヤ人ですし、一番優れた人もユダヤ人です。現代学を造って、また専門学を造って世界に広めたのはユダヤ人です。

 ユダヤ人はある種の世界観を世界に広めることによって、自分たちの世界を造ろうと考えているのです。これがユダヤ人の世界革命です。

 ユダヤ人の中には色々な考え方がありまして、マルクスのような考え方もあれば、イエス・キリストの考え方もあるのです。これは天と地の違いがあるのです。

 私は現在の文明が専門的な方向に流されてしまって、今の学問が本当の学問であるように思い込まされてしまっているということについて、皆様に覚醒を促したいという気持ちから、お話ししているのです。

 そこでユダヤ人のリーダーの中にも、自分たちの考えが間違っているのではないかと考え出しつつあるのではないかと思われるのです。

 現在の文明はごく少数のユダヤ人がリーダーシップを取っていて、異邦人はそれに追従するしかないというのが現状になっているのです。

 動物の仲間にはボスがいますように、人間の仲間にもボスがいるのです。人間のボスはユダヤ人です。ところがボスのやり方が間違っていたら、全部の仲間が滅びていくことになるのです。これが困るのです。

 日本人はボスではありません。日本人がユダヤ人に尻尾を振ってついて行かなければならないのかと言いますと、そういう訳ではないのです。

 ユダヤ人の考えは覇権主義です。現代文明はユダヤ人の覇権主義によって振り回されているということは、間違いない事実なのです。しかし日本人がどこまでもユダヤ主義に追従しなければならないこともないのです。

 文明は人間のためにあるべきなのです。人間のために文明があるべきであって、文明のために人間があるのではないのです。

 人間はユダヤ主義に引きずり回されなければならないのではないのです。現在の日本の学校教育は、ユダヤ主義に引きずり回されている状態であって、大学出の人々が日本のリーダーシップを取っている状態は、ユダヤ主義に踊らされていることをはっきり示しているのです。

 現在のユダヤ文明は行き詰まっているのです。これはユダヤ人のリーダーも認めていることです。核兵器廃絶がなかなか進まない。進まないどころか核兵器廃絶と言えば言うほど、拡散しているのです。イスラエルとアラブの対立も解決する方法は全くないのです。

 そこで日本から新しい文明の見方を世界に向かって提唱しなければならないと考えるのです。人間本来の目的、本当の文明のあり方を、日本人が考え出すということは、どうしてもしなければならないことなのです。

 ユダヤ人の間違いを指摘できるのは日本人だけです。ユダヤ人の間違いのために、世界中の人間が迷惑しているとはっきり言ったらいいのです。ユダヤ人は日本人のアドバイスなら聞くことができるでしょう。日本人以外の民族から言われても聞かないのです。そういう意味で、日本人からのアドバイスを待っていると思われるのです。

 まず皆様には命のことを考えて頂きたいのです。文明がどれだけ発達したとしても、今の人間は皆死んでいくのです。皆様は今のままでは死んでいくに決まっています。そこで命のことを考えて頂きたいのです。

 そのために、般若心経の空を理解することが非常に重要です。空が基本的な原理になるのです。現在、空は分からないけれども、考えようとしているのは日本人だけです。白人社会には空という考え方は全然ありません。日本人には分からないけれども、般若心経があるのです。

 色即是空というのは非常に貴重な、世界的な財産になるのです。

 ところが色即是空と言うのなら、なぜ花が咲いているかということです。これは科学では説明ができない問題です。科学以上の大きい考え方が必要です。

 科学とか、医学とか、法律というのは専門学であって、専門的ということは部分的であります。部分的ではない、全体的な学が必要です。

 人間が生きている命をどのように認識するかということです。命の実体をはっきり見極めるのです。皆様の常識も専門学の一種類です。専門学とは言えませんが、専門的な考えになるのです。肉体的な人間には常識が必要ですが、人間が肉体的に生きているというのは、わずか八十年か九十年で終わりです。

 ところが皆様の魂の命は現世に生きている間だけのものとは違うのです。肉体的生命はわずか九十年くらいです。魂には生まれてくる前の前世と、現世と、この世を去った後の来世があるのです。

 人間はこの世に生まれてくるためには、その原因があったはずです。仏教ではこれを過去世と言います。過去世と現世と来世に渡って魂は続いているのです。

 皆様は生まれてから二十四時間以内に、お母さんのおっぱいを飲んだでしょう。赤ん坊はおっぱいの飲み方を知っているのです。母親が教えなくても本能的に知っているのです。人間の本能は、過去の命が現世に現われている状態をいうのです。これが本能です。

 本能は生まれる前に原理があるのです。皆様は本能に従って、現在食べたり飲んだりしているのです。本能がなければ五官は働かないのです。目で見る、耳で聞くというのは皆本能的な生命の働きになるのです。

 五官の本体は生まれる前にあったのです。今皆様は肉体的に五官を使っているのです。現世を去ると、魂は未来に入って行くことになるのです。

 皆様が生きておいでになる事がらを魂と言うのですが、この事がらが死んだらなくなるのかというと、なくならないのです。もし死んでしまってなくなるのなら、葬式とか法事をする必要がないのです。

 人間は死んだらどうなるかを、考えなければならない本能性を持っているのです。従って、命というものは前世から現世、来世へと続いているものです。

 宇宙には大きな命がありまして、それが輪廻しているのです。私たちは八十年、九十年の間、命の輪廻を経験しているのです。この命を経験している間に、命の本質を掴まえることができたら死ななくなるのです。これをして頂きたいのです。

 イエスは命の本質を掴まえたので死を破ったのです。十字架につけられて殺されたのですが、三日目に復活したのです。現在も生きているのです。

 人間の命は現世だけのものではないことをイエスが証明したのです。イエスが証明しなくても皆様は生まれて、二十四時間以内にお母さんのおっぱいを飲んだという事実があるのです。これは生まれる前の命によって飲んでいるのです。

 人間として一度この命を経験した者は、この命から離れられなくなるのです。この世で二十年、三十年生きていた人は、命とその人の霊魂が一つになっているのです。

霊と魂

 生きてきたこと、生きていることが霊です。人間の心臓が動いていることが霊です。目が見えることが霊です。これは新興宗教が言う霊とは違います。私がいう霊は神に結びついたものを言っているのです。

 皆様の心臓が動いていることが霊です。花が咲いていることが霊です。花は霊ではありませんが、花が咲いているという事がらが霊です。皆様は花という形の霊を見ているのです。

 魂とは何かと言いますと、五官という機能の働き、また考える力をいうのです。機能が魂です。生理機能が魂です。

 生きているという事がらが霊です。仏教には魂という言葉がないのです。一万七千六百巻の大乗経典の中に、魂という言葉は一字もありません。魂とは何かとお坊さんに尋ねても、答えられないのです。ここに仏教の不完全さがあるのです。

 仏教は現実に生きている人間を掴まえて、そのまま説明しているのです。人間が生きているという立場から、四諦八正道、十二因縁という言い方で説明しているのです。これが仏教の唯識論です。

 人間の霊魂が命を経験することになりますと、霊魂と命が一つになってしまうのです。そこで命とはどういうものであるかを勉強しなければならないのです。これが人間がこの世に出てきたことの責任です。

 自分の命を自分で勉強することが、人間がこの世に生まれたことの絶対的な責任です。これをしないで現世を去りますと、魂の審判を受けなければならないことになるのです。それをするだけの力を誰でも与えられているのにしないとなると、刑罰の対象になるのです。

 例えば花を見て美しいと思われるでしょう。花を見て美しいと思える人は、目が霊の美しさを受け止めているのです。霊という命を受け止める力を持っているのです。

 花がきれいだということが分かる人は死なない命が分かる人なのです。死なない命を見つける能力があることを証明しているのです。

 花を育てて咲かせているのは農家の人ですが、その人は世話をしただけのことです。農家の人が花そのものを製造したのではないのです。

 花が咲いているのは自然現象です。自然現象は宇宙の命が現われているのです。宇宙の命が、花が咲いているという状態になって現われているのです。宇宙の命とは神の命です。

 この神は日本の八百万の神とは違います。天地を造った神を言うのです。天地を造った神の命が、花という形で現われているのです。これを皆様の目は見ることができるのです。神の命の美しさを花の形で見ることができるのです。

 皆様の魂は神を正しく受け止めるだけの能力があることを示しているのです。神のやり方、神の力、神の命を皆様の目は正しく受け止める力があるのです。

 皆様の目は神の命を見る力があるのですから、もう一歩前進してその命の本体を見れば、死なない命が分かるはずです。

 皆様の五官は神のやり方をはっきり受け止める能力があるのですから、死なない命を見つけることは当然できるに決まっているのです。これをしようとしないのは皆様の責任です。

 こういう点で日本人は命を非常に粗末にしている国民です。これは日本人だけではありません。白人はもっとひどいでしょう。日本人は分からないけれども般若心経を愛しているからです。とにかく今の文明はユダヤ人の攪乱によって、世界中の人間が、ただこの世に生きていることだけが命だと思い込まされているのです。霊のこと、魂のことを全く考えない状態になっているのです。

 この世に生きていることだけが命ではありません。前世もありましたし、来世もあるのです。皆様はこの世を去ったら来世に行くに決まっています。そこしか行く所がないからです。

 常識が通用するのは現世だけです。来世では常識は通用しないのです。来世には寺や教会はありません。宗教もありません。死んだら天国へ行ける、極楽へ行けると思うのはとんでもない考え違いです。

 宗教が死んでからでも通用するというのが、日本人のとんでもない考え違いです。人間の常識はこの世に生きている間しか通用しません。

空とは何か

 科学は科学の世界でしか通用しません。科学は芸術の世界では通用しないのです。部分的な知恵しかない人々が、自分は学問をしたと考え込んでいる。これは現代人のとんでもない考え違いです。そこで空が分からないことになるのです。

 空が分からない原因がどこにあるかと言いますと、皆様が常識を信じすぎているからです。冷静になって頂いたら、空は誰でも分かるのです。

 釈尊は大学へ行っていません。しかし空が分かったのです。大学へ行ったら空が分からなくなるのです。今の仏教大学へ行っても、空は分からないのです。空を本当に教えている仏教大学はありません。般若心経が本当に分かっている教授がいないからです。

 大学で空という理屈は教えますが、空というのは理屈ではないのです。悟りです。命の光です。これが分からなければ命を掴まえることはできません。現在の人間の常識が空であることが分かりますと、命を掴まえることができるのです。命の本質の中へその人が入って行きますと、死ななくなるのです。

 イエスがこのことを実行したのです。死なない命を歴史的に証明したのです。これがイエスの復活です。

 イエスの復活を学の対象にしますと、人間歴史が根本から変わってしまうのです。死なない命が歴史の表面に現われてくるからです。

 般若心経は人間の根本的な間違いを是正するための基本的な思想です。これが空観です。

 今の人間の考えは間違っています。五蘊皆空とはそのことです。今の人間の考えは、学問でも常識でも、すべて間違っているのです。人間の常識にこだわりすぎているから、空が分からないのです。

 皆様は今生きているという条件で、命の実体を見つけなければならない責任があるのです。例えば砂糖は甘い味がします。砂糖に甘味をつけたのは誰か。天然自然がつけた味です。天地の摂理に基づいて味ができるのです。摂理の本源を人格的に表現しますと、神になるのです。摂理を物理的に言いますと、生命となるのです。

 自然現象と言っても、生命と言っても、神と言っても同じことです。人格的に言うか、物理的に言うかの違いだけです。神という人格があることが、人間という人格になって現われているのです。

 神という人格があるから、その反映として皆様の人格が現われているのです。皆様の人格の親が神です。日本神道でもこういう考え方があるのですが、日本神道では神の正体がはっきりしていないのです。八百万の神々と言いますが、命としての神の説明が日本ではできません。

 皆様の人格は皆様が勝手に造ったものではありません。第一皆様は自分で生まれたいと思ったのではありません。従って皆様の人格は皆様のものではないのです。皆様の命も自分のものではないのです。神のものです。皆様は神の命を生きている間、貸し与えられているのです。

 神の命が人間として現われているだけのことです。魂と命が二つあるのではありません。肉体的に人間が生きていることが魂です。神の命が魂として皆様に与えられているのです。

 命の本質は神です。神の命が人として現われている。これを魂と言うのです。命の働きが人間として現われていることが魂です。

 皆様が命の本質を見ることができるようになりますと、神の命が自分の命であることが分かるのです。自分の命が神の続きであることが分かるのです。これが分かりますと、現世の生命意識が神の意識に転換されるのです。そうすると、物の考え方が全然違ったものになるのです。

 善と悪というのは人間の常識的な区別であって、生まれる前の命という感度から考えますと、善悪はありません。命の本質に適合していることが善です。命の本質に適合しなければ悪です。

 皆様に根本的に分かって頂きたいことは、皆様はユダヤ人ではありませんから、教育とは何かが分かっていないのです。ユダヤ人は人間をどういう方向へ引っ張って行こうかという考え方ができるのです。そこで学校制度とか、民主主義政治とか、経済制度を造るのです。銀行、保険制度もユダヤ人の考えたものです。基本的な社会制度は皆ユダヤ人の考案によるのです。

 ユダヤ人は人間生活の基本原理を造っていくことができるのです。日本人はユダヤ人によって造られた制度についていくことしかできません。

 日本人とユダヤ人とがどういう違いがあるかということです。なぜ日本人はそういうことができないのか。それは日本人の物の考え方が小さいからです。霊魂の問題、命の問題と言いましても、日本人は現世に生きている命のことしか考えないのです。

 現世に生きている命だけが命だと考えていると、やがて現世を去って黄泉(よみ)へ行き、神の大審判を受けて地獄へ行くことになるのです。三島由紀夫は今黄泉にいます。霊媒によって霊を呼び出すことができるのです。首が痛い、原稿を書いていると言っています。地獄へ行ったらもう呼び出すことができないのです。

 皆様は自分の魂の運命のことを勉強しなければならないのです。

 人間は生まれてきたのです。どこから来たのでしょうか。どこからか生まれてきたから、生まれてきたと言うのです。死んでいくと言います。どこかへ行くから死んでいくと言います。

 そこで現世にいる間に目が開くと、死なない命の状態になるのです。赤ちゃんの五官の働きは生まれる前からの本能的な働きです。だからおっぱいの飲み方を知っているのです。

 皆様の五官の機能は甘いものを食べて甘く感じるとか、花がきれいだとか思うのです。五官は神の命をそのまま捉えているのです。ところが人間の頭がだめです。

 生まれてきた時は良かったのですが、物心がついたために人間の業(ごう)にひっかかってしまうのです。物心というのは人間の業、カルマです。この世に生まれてきたということが、業に落ちたことです。

 なぜ業に落ちるかと言いますと、業に落ちている間に、もう一度生まれる前の命を見つけることができるかどうかを、神がじっと見ているのです。それを見つけることができた者は、永遠の命を与えられるのです。見つけなかった者は黄泉に送られるのです。

 皆様はこの世に生まれて物心がついたために、大人になってしまったのです。大人になったということは困ったことなのです。業の虜になったということです。業が凝り固まってしまったのです。五十年間の経験がある。七十年間の経験があると言って、業に沈没してしまっているのです。

 大人は全くだめです。花の命を見ていながら、神の命を花という状態で見ていながら、神が分からないのです。命が分からないのです。これが人間の業です。そこで空が必要になるのです。五蘊皆空が必要です。

究竟涅槃

 今まで考えていたことが間違っていたのです。大人の考え、世間の考えが間違っていたのです。これに気がつけば目が開かれるのです。これが究竟涅槃です。究竟涅槃を皆様に経験して頂きたいのです。

 究竟涅槃を経験しますと、今までの自分の知識とか常識、経験、記憶に三文の価値もないことが分かるのです。

 この世の記憶、この世の常識はこの世で生活するためには必要です。私もこの世で生活するために常識を用いています。電車に乗るためには切符を買うという常識が必要です。

 この世の常識はこの世で生きるためには必要ですけれど、この世を去ってしまえば、この世の常識は一切通用しません。ナムアミダブツということも、ナムミョウホウレンゲキョウということもこの世の常識です。これは死んでからは通用しません。通用するはずがないのです。

 日蓮宗も浄土真宗も、死んだ後にはないのです。ない所には通用しないのです。通用するのは命の光だけです。

 皆様は息が切れたら体は灰になりますが、記憶は灰にならないのです。魂がこの世に生きていたという記憶をしっかり抱いたままで死んでいくのです。

 命というのは神と同じものです。神は示して申すのです。命は肉体的な形で生きていることをいうのです。皆様の肉体の感覚、目の働き、耳の働き、舌の働きには神の力が宿っているのです。皆様の舌が砂糖をなめて甘いと感じるのは、皆様の舌が示し申しているのです。

 肉体が霊魂の舌になっているのです。皆様が生きているということが、皆様の霊魂の光です。肉体が示し申しているからです。

 宗教はだめです。なぜだめかと言いますと、人間の常識的な考えしかコントロールすることができないからです。ところが皆様がこの世に生まれたのは、皆様の霊魂が時間や空間の世界へ入り込んできたということです。世界歴史と、物理的に存在する自然現象の中へ、皆様の霊魂が入り込んで込んできたのです。

 そこで皆様が命を見つけようと思うと、歴史の流れとか、地球が存在することについて、専門学的ではない直感的な自覚をしなけれならないのです、

 歴史が流れていること、地球が存在していることについて、直感的に素直な感覚で捉えることが必要です。皆様の魂は時間、空間と一緒に生きているのです。だから歴史の流れとか、地球が存在している事がらについて勉強しなければならないのです。

 例えば、花が咲いているとか、太陽光線が輝いていることについて、直感的に見て自分の霊魂の糧にするのです。霊魂の食物にするのです。専門的な勉強をする必要はありません。

 世界の歴史の流れというのは、皆様の霊魂の食物です。太陽の光が輝いていること、昼が明るくて夜が暗いことが、皆様の霊魂の糧になるのです。これを食べるのです。

 これは宗教の理屈を述べているのではありません。イエスが死を破ったのはこういうやり方をしたからです。イエスが死んで甦ったのは、時間、空間の本質を食べたからです。

 時間、空間の本質は何かと言いますと、言(ことば)です。言い方を変えますと、遺伝子です。時間、空間の本質は、言という遺伝子です。

 遺伝子は宇宙の命に関する情報です。皆様はこういうことについては全く無知です。何十年も生きていて命のこと、魂のことについて何が分かったのでしょうか。

 仏教は時間、空間の説明はしません。時間とは何かと言いますと、歴史の流れです。世界歴史はどのようにできているのか。二〇一四年現在七十一億の人間がいますけれど、人間は何をしているのか。白人とか、黄色人種とか、黒人という種族がいますけれど、こういう種族がなぜ地球上にいるのか。こういうことについては、仏教は全然教えていないのです。

 大乗仏典には一万七千六百巻という膨大な経典がありますけれど、世界歴史のことは全然述べていません。現在の世界はユダヤ人を中心にして動いているのです。これは事実です。アメリカを動かしているのも、ロシアを動かしているのも、ヨーロッパを動かしているのもみんなユダヤ人です。

 なぜユダヤ人が世界を引きずり回しているのかと言いますと、その理由があるからです。本当の神と本当の人間の関係はどうなっているのか。神と人間との関係はどういうことになっているのか。これを本当に説明しているのは旧約聖書だけです。この旧約聖書をユダヤ人は考え違いしているのです。

 旧約聖書がなかったら、神と人間の霊魂の関係は絶対に分かりません。仏教をいくら勉強しても霊魂のことは分からないのです。仏教には神がないからです。だから分からないのが当たり前のことです。

 神と霊魂のことが分からなければ、死んでからの命のことは全く分かりません。

 日本人は困ったことに、聖書が全く分からないのです。知ろうとしないのです。キリスト教の人々でも、旧約聖書を本気になって勉強していません。ユダヤ人でさえも旧約聖書を正しく勉強していないのです。困ったものです。旧約の掟だけを勉強していますが、その他はほとんど勉強していないのです。

 そこで宗教ではない聖書が必要になるのです。聖書の他に神と人間の霊魂の関係を説明しているものは全くないのです。キリスト教もだめです。仏教もだめです。ユダヤ教もだめです。神の聖書だけ、宗教ではない聖書だけが、人間の霊魂と神との繋がりを説明しているのです。

 宗教ではない聖書を説明しているのは、私たちだけです。アメリカにもありません。ヨーロッパにもありません。命について本当に説明できる人間が、今の世界にはなくなっているのです。だから私たちが言わなければならないのです。私はただの人間です。馬の骨のような人間ですが、私は自分の意見を述べているのではありません。神の意見を代弁しているのです。

味とは何か

 皆様の魂の働きは神から来ているのです。その証拠に神が造った花が、皆様の目に見えるのです。砂糖の味、塩の味は神がつけた味です。神がつけた味を皆様は味わうことができるのです。このように皆様の霊魂は神を味わうことができるのです。神を感じることができるのです。

 これほどの霊魂を持っていながら神が分からない。これを迷いというのです。現実に皆様は神と一緒に生きているのです。心臓が動いていることが神です。現に皆様の命は神と一緒に生きているのです。

 これが分からない。日本人は聖書を敬遠しているから分からないのです。聖書を嫌がっているのです。キリストという言葉を嫌がっているのです。これは徳川幕府三百年の大害悪です。これが日本人に本当の魂を知らせないような形になって働いているのです。

 これが日本人の業(ごう)です。恐ろしい業です。神の言葉である聖書を嫌がっているのです。ばかな民族です。だから日本人で本当の命が分かる人間はほとんどいないのです。宗教を勉強している人にはなおさら分からないのです。

 空だ空だと言うけれど、般若心経の本当の空が全く分かっていないのです。般若心経を色々と説明しているお坊さんがいますけれど、理屈ばかりを言っているだけのことです。本当の空を全然知らないのです。本当の空が分かっていたら、写経して千円をつけて送りなさいと言うはずがないのです。

 本当の空が分かったら、寺を出てしまうでしょう。腐りきった仏教界の中にいられるはずがないのです。寺で食べていこうとするはずがないのです。ところが、彼らは般若心経を説きながら宗教で食べているのです。

 寺のお坊さんのことはどうでもいいのです。皆様には宗教観念をやめて頂きたいのです。

 皆様の心臓が動いていることが神です。皆様が知っても知らなくても、皆様は神と一つになって生きているのです。このことを真面目に考えて頂きたいのです。これが幼子のようになるということです。

 素直ということは、自分で自分の気持ちを削ることです。私の言葉は皆様の考えを削っているのです。皆様にとって耳障りの内容が多いですからお受け取りにくいかもしれません。しかし皆様がお受け取りになれば、これが皆様の命の足しになるのです。

 今日本に本当の命を説く人がいないのです。宗教ではない般若心経と聖書の説明ができるのは、私たちだけです。今まで日本でこういう勉強をした人がいなかったのです。

 仏教の精髄は空観です。欧米社会の精髄は聖書です。聖書がなかったら白人文明は全然成立していなかったのです。

 キリスト教ではない聖書と、仏教ではない般若心経とを一つにして勉強しなければいけないのです。

 般若心経は仏教ではありません。一切空と言っているのです。仏教が空だと言っているのです。四諦八正道とか十二因縁をどんどん否定しているのです。だから般若心経は宗教ではないと言えるのです。

 宗教ではない空の思想と、キリスト教ではない本当の聖書、神の言葉である聖書とが一つになれば、初めて自分の中に神があること、自分自身の中に死なない命がはっきりあることがお分かり頂けるのです。

 日本で聖書がまともに取り上げられていないということが、とても残念です。日本では私たちがお話しする以外の方法で、本当の命を掴まえる方法はありません。

 宗教はどんなものでもすべて商売です。はっきり商売だと言えるのです。仏典は人間の心理構造のことばかり述べているのです。

 聖書は世界の歴史の流れを述べているのです。世界の歴史の流れと、地球がなぜ存在するかということを述べているのです。

 地球には昼と夜があるのです。「神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた」とあるのです(創世記1・5)。昼と夜があるのは宇宙の中で地球だけです。地球だけに昼と夜があるのです。こういうことでさえも学問では説明できないのです。

 命の説明ができる学問が本当の学です。イエスの復活を学の対象とすることによって、初めて人間は本当の学を学ぶことができるのです。

 私は皆様に対して、霊魂のボランティアをしているのです。命に関するボランティアをしているのです。

 現在日本人は聖書を敬遠しているような形に見えますが、聖書に親しみを持っていないという点から言えば、徳川幕府の間違いでしたが、日本民族をキリスト教の害毒から守ってくれたという点から言いますと、徳川幕府のやり方には功績があったのです。

 もし織田信長、豊臣秀吉の時代から日本にキリスト教が入り込んできたとしたら、日本は相当なキリスト教国になっていたでしょう。小西行長、高山右近、大友義鎮、大村純忠、有馬晴信、黒田孝高、蒲生氏郷、筒井定次、畠山高政、六角義賢といったそうそうたる大名がキリスト教に入信したのですから、日本は相当なキリスト教国になっていたでしょう。

 そうしたら、私たちのような人間は日本から現われることができなかったでしょう。

 もし私がアメリカでキリスト教が間違っていると言ったら、間違いなく殺されるでしょう。日本だから堂々と言えるのです。しかも日本には大きい理由があるのです。それは天皇制があるという問題です。これは全くすばらしいものです。日本の天皇制は世界の政治からは説明ができない制度です。これは非常に大きい問題であって、神が地球を造った事がらと大関係があるのです。

 日本に天皇制があることと、キリスト教を尊敬していないことの二つが、日本人の良い所なのです。キリスト教のように聖書を尊敬しないからいいのです。だから本当の聖書の見方ができるのです。

 もし日本人が聖書を尊敬していたら、キリスト教は間違っていると日本で言ったら殺されるでしょう。

 徳川幕府のやり方は功もあり、罪もあったとなるのです。宗教は端的に言いますと営業になるのです。しかし宗教は真理への入口にはなるのです。もし浄土真宗が真理への入口として謙遜な態度で阿弥陀如来を説くのなら大賛成です。

 実は阿弥陀如来というのは、人間の魂の本当の姿を説いているのです。これは魂の構造に対する説明であって、世界歴史に結びついていません。大自然の力に結びついていません。阿弥陀如来と太陽がどういう関係にあるのか。阿弥陀如来とユダヤ人とがどういう関係にあるのかということが、全然説明ができないのです。

 この説明ができないと、地球の上に生きている人間を本当に救うことができないのです。そこで阿弥陀如来の信仰は入口になるのです。そこに入って向こうへ出てしまうのです。堂に入って堂を出るという言葉がありますが、宗教に入って宗教を出てしまうのです。そうすると本当のことが分かるのです。

 宗教は命への入口にはなりますけれど、命を教えてはくれません。般若心経は空を教えてくれますが、空は命ではありません。空は悟りです。悟りの目標です。

 空を捉えることによって、命を捉える資格ができるのです。今までの自分の常識を空じることができない人は、神の真理を自分のものにすることができません。

 人間の信仰をいくらやってもだめです。神の信仰を持たなければいけないのです。神と人間が一つになるのです。こういう言い方をすると難しいように聞こえますけれど、現在皆様の心臓が動いていることが神です。

 神は皆様に非常に近いのです。皆様の体の中に神がいるのですから、自分の中にある神を掴まえるのです。生理機能の働きが神です。医学はこれを説明することができないのです。医学では神を掴まえることができないのです。

 今の医学は不完全なものですが、医学の真髄は神です。宗教の真髄も神です。政治、経済の真髄も神です。法律の根本も神です。神はすべての学問の根源です。こういう考え方が全体学です。

 こういう考え方をしたら、学問も宗教も常識も一つになってしまうのです。皆様は目の黒いうちに、鼻から息を出し入れしている間に命の根源を早く捉えて頂きたいのです。

 人間は今晩死ぬかもしれないのです。早く命の真髄を掴まえて頂きたいのです。

イエス・キリストの十字架

 皆様はこの世に生まれたという業(ごう)を背負っているのです。この業はイエス・キリストの十字架によって、実はなくなっているのです。これがキリスト教ではない聖書の本当の値打ちです。

 人間がこの世に生まれて背負い込まされた業が、全部消えてしまっているのです。これは大変なことです。例えば泥棒をした人でも、放火をした人でも、神の前ではその罪はなくなっているのです。

 神と人との関係は、ヨベルになっているのです。ヨベルの年とはユダヤ教で、五十年に一度の大恩教の年で、この年になるとすべての借金や罪がゼロになると言われているのです。イエス・キリストが十字架にかかったということは、地球全体がヨベルになったことを意味するのです。地球全体の重荷、苦しみ、悲しみ、悩みが消えてしまったのです。

 今皆様が五蘊皆空さえ分かれば、自分自身が救われなければならないこともなくなるのです。現在皆様は浄土にいるのです。

 イエス・キリストの救いというのは、神の地球全体がヨベルになったということです。ここまではキリスト教でははっきり言いません。実は皆様はもう死ぬ必要がないのです。イエスが死を破って復活したということは、皆様に既に新しい命が与えられているということであって、これに気がつきさえすれば、今からすぐに死ななくなるのです。

 これは少し話がうますぎるように思われるかもしれませんが、そうではないのです。ただ一つの条件があります。これをするためには、今まで生きていた自分の妄念を捨ててしまわなければいけないのです。これがなかなか大変なのです。

 今まで商売をしていたとか、聖書を勉強していたとか、家族を養っていたとか、家や不動産を買ったとか、保険に入ったとか、色々なことが皆様のプライドになっているでしょう。誇りがあるでしょう。それを全部捨ててしまわなければならないのです。

 人間の誇りを持っている間は、必ず神から離れた自分の命を自分で握り込んでいることになるのです。神から離れた命を意識しているということだけで、死んでから地獄へ行かなければならないのです。

 イエスが復活したことによって、人間は死ぬべき者ではないということが歴史的に証明されたのです。これがキリスト紀元です。キリスト紀元が始まってから、既に二○一四年になっているのです。日本の社会はキリスト紀元をまともに説明しない社会です。学校でキリスト教ではないキリスト紀元を真正面から堂々と証明することができないのです。

 日本人全体はそういう間違った根性を持っているのです。神が日本人に天皇制という特別の制度を与えていますが、これが世界の光になるのです。

 私は右翼思想を述べているのではありません。八紘一宇のような思想を述べているのではないのです。本当の世界の歴史の光である天皇制がやがて明らかになるでしょう。

 こういうことが分かったとしても、皆様のお考えが今までのような状態ではだめです。

 阿弥陀如来は本当です。これは玄関の入口であって、まだ奥座敷に入っていないのです。人間が生きていることが神ですから、阿弥陀如来と言っても、神と言っても同じことです。

 皆様の命が神の命へ結びつくような方向へ行くように、勇気を持って前進して頂きたいのです。

 人間はいつ死ぬか分からないのですから、できるだけ早く命を掴まえてしまうことです。

 日本は聖書を敬遠しているのです。キリシタンバテレンという思想があるからそうなるのですが、これはキリスト教から日本を守るという点では非常に良かったのですが、聖書を敬遠する、キリストという言葉を大変嫌う点では非常に悪かったのです。

 まず白紙になって、幼子になって勉強する気持ちになって頂きたいのです。

 今の人間の一番悪いことは、自分が生きていると思っていることです。自分が生きていると思うことは、このキリスト紀元の時代において、神に対して真っ向からの対立になるのです。皆様の個々の命はキリスト紀元においてはもうなくなっているのです。神の命がそのまま皆様の命になって与えられているからです。

 復活したキリストは現在生きています。復活したというのは、死ななくなったということです。死ななくなったということは、現在生きているということです。

 やがて復活のキリストが歴史の真ん中へ割り込んでくるのです。その時に初めて、本当の平和とはどういうものかが分かるのです。本当の神とはどういうものかが分かるのです。

 キリストが永遠の生命の実物を持って、文明の中へ割り込んでくるのです。これが世界完全平和の実現です。私たちはそのために働いているのです。

 ユダヤ人がイエス・キリストを受け入れないので、世界の混乱が続いているのです。やがてユダヤ人が目を覚ますでしょう。そうしたら復活したキリストが歴史の中へ割り込んでくるのです。そこで千年間の絶対平和が実現するのです。

 今までの皆様の何十年間かの命は何にもならない命です。皆様の命をこのまま続けていれば、ただ死ぬだけです。死んだ後には恐るべき裁きが待っているのです。

 これは皆様が自分の舌の力を本当に弁えていなかったからです。自分の目の働きを本当に弁えていなかったからです。五官は神を見ているのですが、それを神として気がつかずに、自分が見ていると考えていたのです。

 自分の命はありません。神の命が今皆様の中で働いているのです。イエスはこのことに気がついて、死を破ったのです。神の命が自分の中に働いているという考え方で、死を破ったのです。このことがお分かりになればいいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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