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  • 管理人chaya

はじめに


 宗教は人間の側から神仏を信じて、自分の利益を得たいと思うのです。そういう人々が集って宗教団体をつくっているのです。ところが、その自分が何であるのか、さっぱり分からないままの状態で、ただ自分がしあわせになればいいと考えている。

 これは実にいいかげんな話でありまして、自分は死ぬに決まっているのです。人間は死ぬに決まっています。これは皆様もよくご承知のことです。いくら幸せになってみたところで、死んでしまえば終わりです。

 死んでしまう人間がしあわせになりたいと思うこと自体が、甚だいけないのです。本当のしあわせが何であるのかということを、現代の日本人はまともに考えないのです。死んでから天国へ行く、極楽へ行くということにやたらに感心する人が多いのですが、天国へ行くのは誰が行くのか。自分が行くのか。死んでしまえば自分は消えてしまうはずです。消えてしまった自分が天国へ行くというのはどういう訳なのか。こういう簡単なことが分からないのです。

 徳川家康が「厭離穢土欣求浄土」という旗を立てて戦いをしたのですが、欣求浄土とは浄土を求めることです。ところが、浄土を求める本人は誰なのかということです。現世に生きている人間は死ぬに決まっている人間です。死んでしまう人間が浄土へ行くというのは、宗教の言い分をただ鵜呑みにしているだけなのです。

 誰が極楽へ行くのか。極楽へ行って何をするのか。そういうことを真面目に考えようとしないで、ただ極楽へ行くという謳い文句に引っ張られて、仏教を信じるということになってしまう。

 死ぬに決まっている人間が幸福になるという他愛ないことを、日本人の大多数は信じているのです。

 初詣に何十万、何百万という人が押しかけていって、莫大なお賽銭をあげています。何をしに行くのでしょうか。しあわせになりたいから行くのでしょう。しあわせになりたいというのは本人の自由ですが、もう少し真面目に人生を考えて、しあわせとは何であるか、人間とは何であるのかということを、真面目に考えようという気持ちを持って頂きたいのです。

 実は皆様が生きているという事実を本当に勉強して頂ければ、現在既に仕合わせであることが分かるのです。仕合わせすぎるくらいに仕合わせであることが分かるのです。ところが、命を勉強しないで生活のことばかりを考えている。これが日本人のとんでもない見当違いの世界観です。

 人間は宗教にいっぱい引っかかって、宗教家の食い物になっているのです。宗教は全くの嘘ではありません。人間が真理を求める気持ち、神仏を求めるという気持ちを逆手に取って、人間の弱点をうまく利用して、現世だけで通用するような観念を人間に持たせるのです。

 宗教観念はこの世では通用します。それもその宗教の内部でしか通用しません。大部分の宗教では全然通用しないのです。

 自分が信じている宗教を正しいと考えている。そう考えるのはご自由ですが、そのグルーブの内部だけで通用するということを十分承知する必要があるのです。真理とは私たちの命の本体を捉えることです。皆様が現在生きているという事実の本質を捉えることが、すべての人間の行き着く所です。

 人間は死なねばならないに決まっている。死なねばならないに決まっていることについて、般若心経は一切空と言っているのです。目の黒いうちに、現世の自分の生活を乗り越えてしまうのです。目の黒いうちに、自分自身の妄念から解脱してしまうのです。

 般若心経が宗教ではないという第一の理由は、いわゆる人間のご利益を一切説いていないからです。般若心経は徹頭徹尾、空、無を主張しているのです。

 究竟涅槃というのは、現在生きている人間が消えてなくなってしまうことです。現在の人間の妄念が消えてしまうことです。

 皆様は自分自身の人生について、根本から考え違いをしています。何のために生まれてきたのか。何のために生きているのか分からずに、ただ何となく生きている。

 もし皆様が人間社会で大きくなったのではなくて、チンパンジーに育てられたとすれば、自我意識がないはずです。自分が幸いになりたいという気持ちが全然ないはずです。チンパンジーは自我意識を持っていませんから、自我意識を持っていない動物に育てられたとすると、自我意識は全然発生しないはずです。

 人間はこの世の常識で育っています。そのために、この世の常識という毒素を吸い込んで、自我という全く間違った感覚を持ってしまったのです。

 皆様は自分が生きていると考えているでしょう。しかし、自分が生きているという事実は何処にあるのでしょうか。皆様は自分で生まれたいと思ったのではないでしょう。そうすると、生まれてきたのは自分という人柄ではないはずです。

 自分という意識は、生まれた時には持っていなかったはずです。皆様を育てた家庭、近所の人々、学校の先生、職場の先輩などは、自分を考えている人ばかりでした。だから、皆様は自分が生きているという妄想を勝手に持たされたのです。

 そのように、命の実体を見極めないで、人間の常識、知識を信じている。世間の常識が生存意識の基本になっているのです。

 誰でも死にたくないと考えています。なぜ死にたくないと思うのでしょうか。死にたくないという気持ちをとことんつきつめれば、本当の命が分かってくるのです。皆様の命はそのままで幸福そのものです。皆様が生きていることは、具体的に幸福そのものの実体を経験しているのです。

 ところが、人生に対する考え方が正しくないために、あれも気に入らない。これも気に入らない。不平、不満、不信によって勝手に気持ちが混乱しているのです。だから、生きていながら死にたいと考える人さえいるのです。

 普通の人間なら死にたくないに決まっています。その証拠に、ちょっと病気になりますと、すぐ病院へ行くのです。命の有難さは皆様の顕在意識に、明々白々に刻み付けられているはずです。

 生きていることは有り難いことだという非常に素朴な直感があるはずですが、生きていることがなぜ嬉しいのか、なぜ有難いのかを真面目に考えないために、肝心要の命の本質が全然分かっていないのです。

 般若心経は人間に幸福を与えようとしていません。幸福を与えようとしないものですから、宗教ではないのです。

 聖書もそのとおりです。聖書は、「自分を捨てよ、自分を憎め」としきりに言っています。聖書を信じて十字架を受け取るというのは、現世の自分を否定することを指しているのです。その意味では、般若心経と聖書は人間に幸福を与えることを目的にしていないのです。

 聖書には救いという言葉がありますが、それは現世に生まれてきた自分を解脱することを前提にしているのです。般若心経の原理と同じことを聖書は言っているのです。

 世間のキリスト教は、死んだら天国へ行けるという非常に無責任な言い方をしています。仮に死んで天国へ行けるにしても、そこで何をするのでしょうか。死んで天国へ行ったという証拠は何処にもないのです。現在、聖書を信じているキリスト教の信者は、全世界に二十億人もいます。二十億人ものキリスト教信者が、聖書に書いていないことを信じているのです。キリスト教の教義が、作り話を宣伝しているからです。

 皆様が現在生きているという事実を明確に認識すれば、人間は死を乗り越えることができるのです。

 般若心経だけでは無理ですが、般若心経の空観と聖書の十字架の二つをしっかり掴まえると、現在生きている偽りの命から完全に出ることができるのです。

 今、皆様が生きている命は死ぬに決まっている命です。だから、死なない命を発見しなければなりません。イエスは死なない命を発見したのです。イエスが生きていたことを勉強すれば、それが分かるのです。死なない命が何処に、どのようにあるかが分かるのです。

 皆様が生きていることが、死なない命とどのようにどのように関係しているかです。これを発見すればいいのです。

 般若心経の一番最初に、観自在菩薩という言葉があります。自在の自というのは何々から始まるという意味です。在はあるということです。自在とは初めからあったそのものです。人がこの世に生まれてくる前の命が、自という言葉で現わせるのです。

 人間としてこの世に生まれる前の命があった。これは当然のことです。生まれる前に命の原因のようなものがなければ、今人間として生きているはずがないのです。

 原因がなければ、結果が生じるはずがない。従って、生まれる前の命があって、今人間として生きているのです。生まれる前の本当の命を捉えることができれば、死なない命を掴まえることができるのです。

 現世に生きている人間は必ず死にます。これを空じてしまうのです。そうすると、生まれる前の自分に帰る度胸がわいてきます。勇気がでてきます。勇気があれば死なない命の本質を捉えることは、必ずできるのです。

 観自在菩薩は釈尊のことですが、釈尊がそれを発見したので、観自在菩薩という敬称を書いているのですが、釈尊が分かったことは皆様にも分かるに決まっています。

 イエスは一度死んで、そして、復活しました。見事に死を乗り越えた。これは歴史的事実です。歴史的事実において死を乗り越えた人がいるのですから、この人の勉強をして頂きたいのです。そうしたら、彼岸に入る方法が分かってくるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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