私は宗教ではないということを、繰り返し述べています。それでは宗教とは何かと言われるでしょう。神と魂との係りを勉強することが宗教になっているのです。
ところが神と魂との係りと言いましても、どのようなつながりを意味するかということです。宗教という言葉が持つ概念は何か。例えば芸術や哲学、その他の人間の精神科学に類する全般を含めて文化と言っています。従って宗教という考え方も、文化という概念の一部になるのです。
神と人間との係りを文化論的に考える。これが宗教になるのです。
神という概念は、キリスト教で考える神と日本の神とでは成立がまったく違っているのです。従って神との係りと言いましても、日本の神道は霊魂との係りをあまり持たないのです。
日本の神道は生活に関する指導、世話をやいてくれるのです。こういう神の概念であって、国家社会と人間との間に介在する神を想定しているのです。例えば靖国神社がそういうものなのです。
日本の八百万の神々は産土にしても氏神にしても、すべて国家社会の権威者という人々を神として祭ることを基礎にしているのです。キリスト教で考える救い主なる神とは全然違うのです。
私が宗教ではないというのは、日本の神と人間の霊魂との係りをかれこれいうものでは全くないと言っているのです。
日本の神は氏の神、産土の神を意味するのです。功労者とか先輩を神として拝んでいるのです。これは人間の霊魂には直接関係がないのです。国家社会の経営とか、国家社会の繁栄に係りを持っているのです。人間の生活の世話をやくための神霊です。
ところが霊魂との係りになると話が違うのです。生活に関することではなくて、死後の霊魂のあり方に係ることになるのです。これが聖書の神です。
日本の神と聖書の神とでは同じ神という言葉を使いましても全然違ったものになるのです。
霊魂の係りの勉強という考え方はどこまでも西洋的な考えであって、日本的なものではないのです。
中国の神、道教の神も、日本の神と似ているのです。中国では産土の神、氏神という風習はないようですけれど、やはり産土的な神概念はあるようです。
東洋的な神観と西洋的な神観とでは、基本的な違いがあるのです。私たちが勉強しているのは人間の命に関すること、魂の永遠に関することを勉強しているのです。日本的な意味での宗教の勉強ではありません。
西洋の神と霊魂との関係と言いましても、霊魂の受け取り方が問題なのです。
霊魂と言いましても、一般のキリスト教の人々は死んだ後のあり方を霊魂と考えてはいるのですけれど、死んだ後の霊魂は何か。死んだ後に本当に霊魂があるかどうかです。これが分からないのです。
仏教では霊魂はないことになるのです。一切空という大乗仏教の建前から言えば、霊魂はないのです。しかし死んだ人の霊を祭るということはします。
死んだ人の霊を祭ると言いましても、何を祭っているのか。大乗仏典には魂という言葉がありません。全くないとは言えない面があるのです。しかし、魂とは何かについては、仏教では実体の究明が非常に難しいのです。
大乗仏教には創造者という神が存在いたしません。釈尊の悟りは生老病死という四苦を悟ることから始まっているのです。人間社会が既に存在している状態から出発しているのです。人間社会が存在している。地球が存在している。森羅万象が既に存在しているという所から出発しているのです。
ですから、天地創造という概念が大乗仏教には全くないのです。いわゆる地水火風という四大によって、森羅万象が因縁的に所生しているということはありますが、因縁の本体は何であるのか。なぜ地球がありうるのが、因縁の本体は何であるのか。なぜ地球がありうるのか。こういうことについて大乗仏教には明確な概念がありません。
地球が既に存在している。人間が既に存在しているという所から出発したのですから、人間がどうして造られたのか、またどうして造られなければならなかったかについては、仏教には説明がないのです。そういうものを説明する必要がないからです。
天地が既に存在している、人間が既に存在しているのですから、天地創造、人間創造という概念がないのです。
釈尊は人間が生きていることが空であると言っています。五蘊皆空とは人間の常識、知識が空であると言っていますが、人間の常識、知識だけでなくて、森羅万象が五蘊によってできていると言っているのです。
人間だけでなく、人間の知識そのものが一切空です。ところが、一切空と言っても現在地球が自転、公転しているという事実があるのです。太陽が照っているという事実があるのです。人間の心臓が動いているという事実があるのです。このような事実をどのように認めるかということです。一切空という概念はありますが、それとは別に人間の実体を究明しなければならない事にもなるのです。
例えば浄土真宗なら浄土真宗の概念だけでいいのですから簡単です。地球が存在することの理由を浄土真宗で取り上げる必要がないのです。
ところが人間存在という角度から考えますと、一派の宗教団体の理屈でかたづけるというわけにはいきません。
西洋的な意味での神と魂との関係になりますと、キリスト教的な概念によって問題にする場合と、キリスト教という立場から離れて人間存在という立場からはっきり人間を導いていくことが考えられるのです。
般若心経は釈尊の悟りの思想を最も端的に要約した、また集約したものです。それから新約聖書はイエス・キリストの事績を基礎にして書いているのです。
宗教家ではなかった釈尊とイエス
ところが、釈尊もイエスも、両方共宗教家ではなかったのです。釈尊は釈迦族の皇太子であった。イエスはナザレ村の大工の青年であった。両方共宗教家ではなかったのです。
釈尊やイエスの事績を宗教という概念で取り上げるとおかしいことになるのです。内容的に考えましても、般若心経は人間の知識、常識は一切空であると言っているのです。知識、常識だけでなく十二因縁、四諦八正道が空であると言っているのです。
大乗仏教の唯識論の中心思想が空であると言っているのです。眼耳鼻舌身意という人間の六根もないと言っているのです。無色声香味触法とありますから、人間の感覚もないのです。こうなると、人間自身が生きていることを認めていないことになるのです。これが究竟涅槃の内容になるのです。
そうすると、世情一般の宗教の対象にはならないのです。世情一般の宗教は人間にご利益を与えるもの、人間を幸福にするためにあるのです。有形的にか無形的にか、何らかの意味で人間にご利益を与えるものが宗教です。
ところが般若心経は人間が生きていることを積極的に否定する字句が並んでいますから、これは宗教とは認められないことになるのです。ところが般若心経を各宗派が好んで用いているのです。
テレビドラマで葬式のシーンが出てきますと、申し合わせたように般若心経を読んでいるのです。これはおかしいことです。
人間の五官、六根をはっきり否定して五蘊皆空を称えている般若心経が、葬式とどういう関係があるのかと言いたいのです。葬式には全く関係がないのです。
そこで般若心経を勉強する場合には、五蘊皆空、色即是空、無苦集滅道、無知亦無所得故という考え方でいきますと、涅槃を究竟することが般若心経の目的ですから、霊魂との係りを説いているとは言えなくはないのですけれど、般若心経には神がないのです。一切空です。
般若心経は空と霊魂の係りを説いていると言えなくもないのです。空という言葉を神という言葉に置き換えてみますと、空と魂の係りを説いていると言えることになるのです。
ところが、神は空であるのかどうかということです。これは非常に難しい問題になってくるのです。
釈尊は宗教家ではなかったということ、また、般若心経の本文の中には人間にご利益を与えるというような世情一般の宗教概念は全く存在していないのです。従って般若心経は宗教ではないと言わざるを得ないのです。
新約聖書は人間を否定していません。否定していませんけれど、イエスの言行を正面からじっと見ていきますと、イエスは人間ではあったが人間ではなかったのです。神の子でした。誠の人であって誠の神であったとヨハネが書いているのです。
神の生みたまえる一人子であったと言っているのです。従って、普通の人間だとは言えないことになるのです。
イエスは神の側から人間とはこういうものであるということを示すために、地上にやってきたのです。
人間に対する神の経綸を示すために、やってきたのです。人間とは何かということを神が定義しているのです。人間の典型としてイエスが現われたのです。
神は人間全体をイエスとして見ているということが、新約聖書の定義になるのです。ですから全世界の人間を人間として認めていないことになるのです。神が定義としている人間を人間だとしたら、世間一般の人間は正当な人間とは言えないことになるのです。
神は現在の人間を人間として認めていないということは、とても皆様には承服し難いことですけれど、神は現在の人間を正当な人間として認めていないことは確かです。その証拠に、今の人間は死んでいくのです。
もし神が人間を人間として認めているなら、人間が死ぬというばかなことはないはずです。人間に死がないはずです。これがイエスの考え方です。
イエスは「私は天から下った命のパンである」と言っています(ヨハネによる福音書6・51~56)。「私は死なない」とイエスははっきり言っているのです。一度十字架によって死ぬけれど、三日目に甦ると言ったのです。その言葉どおりに甦ったのです。
甦ったイエスは、現在生きています。どこかにいるのです。イエスは十字架につけられて死にましたが、甦ったのでありまして、イエスによって死が破られたのです。
これがもし本当であるとしたら、人間は死なないものになるのです。従って死ぬ人間は本当の人間ではない。死なない人間が本当の人間だということになるのです。神がイエスを人間として認めるとしたら、死なない人間を人間として認めることになるのです。
神と霊魂の係りと言いましても、その取り上げ方によりまして、死ぬ人間を指すのか、死なない人間を指すのかということにつきまして、はっきり考えなければならないことになるのです。
イエスは死を破った
イエスが死を破ったということは、新約聖書に堂々と記されているのです。新約聖書はほとんどの国が認めているのです。聖典として認めているのです。ただ単にキリスト教の教典として認めているだけではなくて、非常に重要な人類の文献として認めているのです。
日曜日はイエスが復活した日です。イエスが死を破ったことを記念して日曜日が制定されているのです。
今年は二〇一五年ですが、暦年算定の基準をキリストの生誕にしているのです。死なない命を持った人が地球上に誕生した。だから地球の歴史がこの人を起点にして新しくスタートしたのです。それまでの歴史は死ぬ人間の歴史でしたが、死なない人間を基点にして新しい歴史が始まった。これが西暦紀元です。
キリストの復活は歴史的事実です。これは世界的な事実を意味しているのです。どうしたら死が破れるのか。イエスがどのように生きていたのか。イエスが生きていたような生き方を学ぶなら、人間は死を破ることができるのです。これを勉強しなければならないのです。
本当に人間が死を破ることができるのなら、現在の科学、哲学、宗教は根本から変ってしまうのです。
そこで私たちは慎重に、正確に、宗教ではない聖書を勉強しなければならないのです。
キリスト教は聖書を勉強していながら、人間が死ぬことを認めているのです。人間は死んだ後に天国へ行くと言っているのです。死んでから天国へ行くという言い方は、死ぬことを認めているのです。
ところがイエスは、「生きていて、私を信じる者は、いつまでも死なない」と言っているのです(同11・26)。死んだ者でも生きかえる。生きていて私を信じる者は、いつまでも死なないと言っているのです。
キリスト教と聖書の字句とは、非常に大きい違いができてくるのです。こういう点をできるだけ綿密に、正確に勉強していかなければならないのです。
人間が生きているとはどういう事なのか。神という宇宙人格の実体と、私たちの霊魂とがどのような係りを持っているのかを、端的に勉強して頂きたいのです。
般若心経は人間そのものを否定しているのです。しかも釈尊は宗教家ではありませんでした。ナザレのイエスも宗教家ではなかったのです。宗教家ではないどころか、イエスは宗教を大変嫌ったのです。宗教をぼろくそに言ったのです。ユダヤ教を徹底的に攻撃しているのです。
その結果、律法学者とユダヤ教のラビにつかまえられて殺されたのです。イエスを殺したのは宗教家です。宗教家に殺されたイエスを宗教家が祭っている。キリスト教は全く訳が分からないことをしているのです。
釈尊も同様です。般若心経の字句を綿密に、正確に考えますと、寺院仏教は成立しないのです。無苦集滅道と言っています。無無明亦無無明尽とあります。無老死亦無老死尽というように、四諦八正道と十二因縁を否定しているのですから、宗教にならないのです。
釈尊もイエスも、両方共宗教家ではなかったのです。般若心経は人間が生きていることを認めていないのですから、宗教にはならないのです。そこで宗教ではない般若心経と、宗教ではない聖書を勉強しなければならないのです。私たちが生きていることを綿密に究明するための命の書として取り上げているのです。
イエスや釈尊は宗教家ではありませんでした。しかし釈尊やイエスが言ったことを宗教的に扱うということはできるのです。
世情一般の宗教は人間がご利益を受けること、有形無形の利益を受けることが宗教の目的です。従って、世情の宗教という角度から言いますと、現在生きている人間を認めることになるのです。
般若心経は現在生きている人間を認めていないのです。般若心経は、五蘊皆空、色即是空と言っています。また、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法、無眼界乃至無意識界と言っています。目で見ている世界も、心で感じている世界も全部ないとはっきり言っているのです。ですから現在生きている人間を認めていないことになるのです。これが涅槃という言葉の内容です。
般若心経は現世の人間を否定しているのです。ですからこれは宗教にはならないのです。現在の宗教は人間を認めなければ宗教にならないのです。現在の人間に幸いを与えることでなければ宗教は存在する価値がないのです。
ところが現在の人間を認めるとしたら、般若心経の概念を否定しなければならないことになるのです。そこで困るのです。般若心経をどう扱えばいいのか。人間を認めるのか、認めないのかどちらになるかです。
私が宗教ではないと言いますのは、現在の生身の人間を認めて、幸せを与えることを目的としないという意味です。
新約聖書には救いという言葉があります。この救いという言葉は現在生きている人間が救われるという意味ではないのです。これがキリスト教と私たちの見解の違いです。
どう違うかと言いますと、パウロは、「人間は全て罪人であるから神の栄光を受けることができない」と言っています(ローマ人への手紙3・23)。神から救いを受けることができないと、はっきり言っているのです。
「人間はすべて罪を犯したので、神の栄光を受けることができない。義人はいない。一人もいない」と言っているのです(同3・10)。現在の人間を神は相手にしていないのです。
新約聖書は現在の人間に幸いを与えることができないと言っているのです。そこでどうなるのか。イエスは「悔い改めて福音を信ぜよ」と言っているのです。パウロは「心を更えて新にせよ」と言っています(マルコによる福音書1・15)。心を更えてとは、心をやり直してという意味です。英語で言いますとレニーイング(renewing)でありまして、心をやり直して神を信ぜよとなるのです。
心をやり直すということになりますと、現在生きている人間が常識を持って神を信じるということにはならないのです。現在の人間の心では神を信じることができないのです。そこで心をやり直して、精神構造を変えて神を信ぜよとなるのです。
そうすると聖書は現在の人間の心理状態を認めていないことになるのです。これが新約聖書が言いたい所です。
悔い改めてというのは、自分の行いが悪かったとか、考え方が間違っていたことを改めるだけではなくて、人生に対する、自分の命に対する考えを、変えてしまえと言っているのです。
命に対する考え方を変えてしまえとイエスが言っているのです。「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコによる福音書1・15)。これがイエスの伝道の第一声でありまして、非常にはっきりしているのです。
日本語の聖書は福音を信ぜよと言っていますが、英訳では、汝らとなっています。「汝ら悔い改めて福音を信ぜよ」となっているのです。この汝らとは一般の人間を意味しないのです。ユダヤ人を意味しているのです。間接的には日本人もアメリカ人も含んでいますけれど、正確に言えばユダヤ人を指しているのです。この点が一般のキリスト教と聖書の言葉を正確に取り上げている私たちとは、全く違っているのです。
字句を正確に見るか、常識的に見るかによって、非常に大きい違いになってくるのです。
般若心経も同様です。釈尊もイエスも宗教家ではなかったのです。彼らが言いたいことは、現在のキリスト教や仏教で言われていることは違っていたということになるのです。
人間の命が死なない命として、永遠の命としてはっきり確認されるためには、それだけの裏付けが必要なのです。
人間には常識的に生きている世間並の人間と、魂としての人がいるのです。人間としての皆様は絶対に救われません。ところが魂としてのあり方を発見なさると、非常に大きい神の御手が皆様を救うことになるのです。
自分を世間並の人間として見るか、霊魂として見るかによって、全然違ってくるのです。般若心経が五蘊皆空と言っているのは、世間並の考え方が五蘊皆空だと言っているのです。霊魂が空っぽだと言っているのではないのです。
釈尊が明けの明星を見たことによって、人間本来のあり方を直感的に悟って、自分が今肉体的に生きているのは空である、永遠の自分があるに違いないことを達観されたのです。そこで五蘊皆空とはっきり言われたのです。
観自在菩薩が深般若波羅蜜多を行じた時に、五蘊皆空を照見したのです。深般若波羅蜜多を行じるという事が、人間ではないもう一人の自分を発見したことになるのです。これを実行して頂いたらいいのです。
人間から脱出する
これは現世の人間が幸いになるという話ではないのです。現世の人間から抜け出すことです。青虫が蝶になるように、脱皮して頂きたいのです。
青虫が蛹(さなぎ)になります。蛹になるというのは死んでしまうことです。動かなくなるのです。青虫として桑の葉を食べていた幼虫が自ら死んでしまうのです。そうしてもう一度生まれ直すのです。これが心を替えてという意味です。命が違ったものになるのです。
釈尊もイエスも両方共、幼虫が成虫になる道程をはっきり述べています。
日本人は聖書に対して根本的な誤解を持っています。徳川幕府三百年において、キリシタンバテレンの思想の否定が徹底したのです。聖書を極端に誤解する、また、臆病なほど誤解する姿勢が世間並になってしまったのです。
そこで聖書とまともに取り組むということが全くなくなってしまったのです。キリスト教はありますけれど、キリスト教は西洋の宗教の概念に逃げ込んでいるのです。
キリスト教の人々は神様を信じて自分は救われていると頑固に思い込んでいるのです。冷静に自分自身の心境によって聖書を勉強することができないのです。キリスト教の概念の中に逃げ込んで、自分は救われていると思いこまざるを得ないような心境になっているのです。
日本のようなキリスト教嫌いの社会でキリスト教を信じることになりますと、そういう態度にならざるを得ないでしょう。日本ではキリスト教は排斥されているのです。聖書はボイコットされているのです。こういう風潮が日本民族の中に流れているのです。そこで、ボイコットされている聖書を勉強することになりますと、早く宗教観念の中に逃げ込んでしまって自分はこれでいいんだと思い込んでしまうことになるのです。
冷静にゆうゆうと聖書に取り組んでいくという余裕を失ってしまうのです。だから追いかけられるような気持ちで聖書にしがみついて、キリスト教の概念を頭から鵜呑みにしてしまうのです。これは間違っているのです。これは日本的な悲しい習性だと思うのです。
神の約束を妥当公平に冷静に読み取ることができないのです。キリスト教の悪い点は、白人主義の感覚が非常に強いということです。
例えば贖罪論がありますが、これはキリストの十字架によって罪が贖われるというのです。何かの大きい力によって自分の罪を消してもらえるというのです。これがキリスト教の贖罪論です。
キリスト教にはキリスト教の神学としての贖罪論はありますけれど、神学は本当の聖書の思想ではないのです。本当の聖書は神の言葉の一字一句が明々白々な形で神の御霊によってその人の心に植え込まれることになるのです。
仏教的に言いますと、観になるのです。観自在の観です。聖書的に言いますと神の啓示になるのです。神の啓示が人間の霊魂になされますと、自分自身の霊魂の実体がはっきり分かってくるのです。
観世音という場合、世音を見ると自分自身が世間並の人間として生きていることが間違っていることが、自ら明白になるのです。これが啓示です。聖書的に言いますと啓示ですが、仏典で言いますと、観自在、または観世音になるのです。これが、心を更えて新にするということになるのです。
普通に聖書を勉強していたのでは、何年勉強していても本当の神の御心は絶対に分りません。無理に分かったような気持ちになろうと思ったらなれないことはありませんが、これが宗教観念です。
宗教観念というものは本質的に言いますと、自己催眠です。自己催眠ではない他からの力による、神の聖霊による人間の心の目が開かれることです。いわゆる開眼されることが必要です。
出離の縁あることなし
親鸞の言葉に、「出離の縁あることなし」というのがありますが、現世に生きている人間は出離することができないと言っているのです。
出離というのは、死ぬべき人間、地獄一定の人間から出て離れるということですが、そういう縁はないというのです。人間の霊魂は絶対に成仏できないと言い切っているのです。これが親鸞の一面です。
もう一面ではナムアミダブツと申すことによって、必ず阿弥陀如来のご来光を受けると言っています。
本当の他力とは何であるのか。阿弥陀如来の本体とは一体何であるのかということです。
観世音が皆様によくお分かりになりますと、現世に肉体的に生きている人間は、仮の姿の人間であって、仮の姿の人間を自分だと思うことが間違っているのです。
仮の姿の人間には出離の縁あることなしになるのです。今生きている皆様は極楽往生する必要がないのです。今生きていらっしゃる皆様は煩悩の塊です。こんなものが救われる必要がないのです。
今生きている自分ではない、もう一人の人を見つけるのです。今常識的に生きている自分ではない、もう一人の自分を見つけたらいいのです。仏教的に言いますと、観世音である自分を見つけたらいいのです。聖書的には別の言い方になるのです。
煩悩具足の人間が救われなければならないように考えるのが、間違っているのです。世間並の皆様が、仏を信じるとか、神を信じるということは、絶対にできません。信じているつもりでも、それはいわゆる宗教観念であって、自己催眠です。
自己催眠の悪い状態から脱出して、本当の目覚め、心眼を開くことがあり得るかどうか。あり得なければならないのです。
親鸞は人間は絶対に救われないと言っています。しかし、皆様の霊魂は救われなければならないのです。
救われなければならない霊魂と、絶対に救われる見込みがない人間とが、皆様の中に同居しているのです。これを仕分けるのです。
人間は借り方と貸し方とがごちゃごちゃになっているのです。この状態を仕分けていくことが私たちの目的です。
私は皆様を極楽に案内することが、私の責任だと思っていません。私が一番言いたいことは、文明が間違っているということです。
現代文明が間違っているのです。文明が悪いのです。だから文明に馴れて生きていますと、人間の本体が分からなくなってしまうのです。
今の文明は悪質な文明です。文明の根源にはユダヤ思想があるのです。近代文明はユダヤ思想のアイデアによって指導されています。近代文明の指導原理が間違っているのです。
日本は第二次大戦後に高度成長をなしとげましたが、非常に現代化してしまったのです。こういうことを考えまして、私は色々な所で警告しているのです。
徳川幕府三百年の政治によって、神の聖書、本当の聖書が否認されてしまったのです。そこへ、加えて高度成長という空気が日本に流れ込んでしまったために、日本人の魂がふやけてしまっているのです。全くふやけてしまっているのです。このことを警告するのが私たちの目的です。
もし本当に希望されるのなら、魂が救われるという神の原理を申し上げたいと思うのです。
現在の日本社会の文明的な考え方が間違っているのです。この点をできるだけ明確にしたいのです。
私は文明思想が悪いと言っていますけれど、テレビが悪いとか、電車、バスが悪いと言っているのではありません。そういうものは現在の人間の生活の知恵です。生きていくために便利な電気製品を開発した。それによって生活の利便を得ているのです。これは間違いではないのです。
こういうことが悪いと言っているのではありません。確かに生活は便利になりました。しかし、人間は死んでいくのです。生活は便利になったために、人間は現世で生活していたらいいという思い、生活一辺倒になってしまったのです。
例えば民主主義という思想があります。基本的人権があると思っています。言葉は間違っていませんけれど、受けとめ方が悪いのです。人間の肉性を鵜呑みにしたような概念が横行しているのです。
文明が発展してきたことはよろしいのですけれど、このことの本当の意味が何であるかということです。
科学、科学と人間は絶賛していますけれど、物質が存在すると考えるのが科学です。ところが、物質が存在しないと考えるのも科学です。物質が存在すると考えるべきなのか、物質が存在しないと考えるべきなのか、どちらなのかと言いたいのです。
原子爆弾が存在しているということが、物質が存在しないことの証明になっているのです。理論物理と、応用物理とでは、考え方が全く違っているのです。どちらを科学というのかということです。
もう一つは、科学者が新幹線という超高速列車を走らせています。五百トンもあるジャンボジェット機を飛ばしたり、組織工学によって月面着陸を成功させているのです。こういう事を科学者がどのように考えているかという事です。科学者自身が何をしているつもりかということです。
こういう事が、科学者自身に分かっていないのです。聖書から考えますと、現在科学が発展しているという事は、非常に大きい神的な意味があるのです。
人間文明の進展は、神の約束と重大な関係があるのです。神は絶対者です。万物は神によって造られたのです。神の立場から科学を見ていきますと、非常に奇妙なことになるのです。
神は科学をどう見ているのか。人間の霊魂と科学とどういう関係にあるかということです。私は文明の利便性を否定するつもりは毛頭ありません。否定してみた所でしょうがないのです。
ところが、現在の人間の心情が間違っているのです。人間の心がだんだん腐っているのです。本来の姿を失ってしまっているのです。
現在の日本人は魂とは何かをまともに考えようとしていないのです。宗教家も、政治経済の指導者も、人間の魂について考えようとしないのです。何のために人間が生きているのかについて、考えようとしていないのです。霊的な価値についてはっきりしたことを考えようとしていないのです。この点が現代文明が間違っていると申し上げる原理です。
文明のあり方ではなくて、人間の精神的なあり方が間違っていると申し上げているのです。
水と霊とによって新しく生まれる
現在の人間は新しく生まれなければならないのです。死ぬべき人間の状態を否定して、新しく生まれるのです。これについてイエスは、「水と霊とによって新しく生まれなければならない」と言っているのです(ヨハネによる福音書3・5)。
新しく生まれて神の国に入らなければならないとイエスが言っているのです。イエスの言葉にどのような真実性があるのかということです。
イエスは歴史的事実において、はっきり死を破ったのです。釈尊も、孔子も孟子も、マホメットも死にました。すべての人間ができなかったことをイエスは実行したのです。イエスははっきり死を破ったのです。
これを世界的事実として認めているのです。これが日曜日の制定であり、西暦紀元の実行です。復活の内容は正確には認識していないのですが、とにかく日曜日と西暦紀元が、これを認めていることになっているのです。
今ほとんどの国で新約聖書が読まれています。もし新約聖書を発売禁止にしますと、その国が潰れてしまうのです。キリスト教を厳禁しますと国の運命に係ることになるのです。
今年は二〇一五年です。これはキリスト紀元です。現在キリスト紀元が世界的に公認されているのです。イエスの復活、水からと霊からと新しく生まれなければならないというイエスの言葉には、普通の人間では計り知ることができないような千金の重みがあるのです。
これは色即是空、空即是色と言った釈尊の言葉以上に、イエスが復活したということによって、人間が新しくなることを証明したのです。
復活という事実によって、人間の命が新しくなり得ること、人間が新しく生まれ直すことができることを証明したのです。これには千金の重みがあるのです。
キリシタンバテレンであろうがなかろうが、反対できないのです。聖書を敬遠したいと思う人がたくさんいますけれど、敬遠できないのです。釈尊の一切空というのも敬遠できないのです。
般若心経は人間は空だと言っています。これを聞いて寂しくなったという人がいますが、死んでしまうに決まっている人間を空だと言っているのです。死ぬに決まっている人間が空なのです。これは寂しく思う所か、大いに感動してもらいたいのです。
西暦紀元の現在では人間が死んでしまうという事実が消えてしまっているのです。色即是空ということ、五蘊皆空ということは、皆様にとって誠に有り難いことなのです。
死から脱出する必要はないのです。死ぬべき人間は現在空になっているからです。死んでしまうに決まっている自分を自分と思うことが間違っているのです。
死んでしまうに決まっている自分を、なぜ自分だと思わなければならないのでしょうか。この自分を空じてしまえばいいのです。これが般若心経の精神です。
人間が空だと言われて寂しがる必要はないのでありまして、死んでしまうに決まっている命を自分の命だと思わねばならない必要はないのです。
命には二つあります。死んでしまうに決まっている命と、絶対に死なない命と二つあります。絶対に死なない命が永遠の命です。死んでしまう命をなぜ自分の命だと思うのでしょうか。
今の日本人は、全部死んでしまうに決まっている命を自分の命だと思っているのです。これは日本人の甚しい欠陥です。命に関する根本的な間違いをしているのです。
般若心経に親しんでいる人は、日本には沢山います。一千万人もいるでしょう。それほど般若心経を愛していながら、五蘊皆空が全然分かっていないのです。何ということかと言いたいのです。こんなに般若心経に親しんでいながら、般若心経の五蘊皆空が分かっていないのです。
死んでしまうに決まっている命を、なぜ自分の命と思わねばならないのでしょうか。釈尊は今から二千五百年も前に、死んでしまうに決まっている命を、空だとはっきり言い切っているのです。
釈尊がこの世を去ってから、五百年程後に、イエスが現われて、人間が死を破ることができることを証明したのです。
釈尊の空とイエスの復活を正確に勉強したら、死なない命が分かるに決まっているのです。
般若心経の字句の解説をしている人は沢山います。しかし、本当に死んでしまうに決まっている自分から抜け出して、死なない命をはっきり握っている人は、めったにないのです。
私たちは宗教観念から離脱して、本当の般若心経と、本当の聖書を勉強したら、死なない命がはっきり分かるのです。
死なない命を見つけるための、新しい世界観の確立が必要なのです。これを私がお話ししたいと思っているのです。
現在の人間の心理状態は、非常に腐っているのです。般若心経を読んでいながら、心経読みの心経知らずになっているのです。だからわざわざ宗教ではない般若心経と言わなければならないのです。
日本人が本当に立ち直るチャンスがここにあるのです。これを受けとめて頂きたいのです。
現代文明の文化的な認識から言いますと、イエスの復活は単なる宗教観念になるのです。そうすると単なる伝説ではないかと考えられるのです。
ところがキリスト紀元が歴史の中で中心になっているのです。もしイエス・キリストの復活が単なる伝説にすぎないのなら、キリスト紀元が制定されるはずがないのです。
聖書はイエスが復活したあとに現われて、焼き魚を食べてぶどう酒を飲んだとはっきり書いています。焼魚を食べたというのはどういうことか。現在の人間の肉体とイエスの復活体とはどうなるのか。どのような関係になるかということです。
イエスが復活したあとの彼の肉体はあったに違いないのです。あったから魚を食べたのです。四十日の間この地球上にいたとはっきり書いているのです。このような荒唐無稽な事と思われるような事を聖書は堂々と書いているのです。
聖書は全世界の断トツの大ベストセラーです。一年間に六十億冊もの聖書が発行されています。アメリカの大統領就任式では、聖書に手を置いて宣誓するのです。もし聖書が嘘なら、こういう事はありえないのです。
一年間に六十億冊という膨大な量の聖書が発行されているのに、イエスの復活という歴史的事実を、現在の大学は学の対象としていない。全く無視しているのです。これは学の甚しい怠慢になるのです。
私たちの肉体の他に、もう一つの甦った体があったのです。現在あるはずです。私たちが考える物質の他に、未来次元の新しい物質がなければならないのです。これについて自然科学はどう考えるのかということです。
こういう事を現在の文明や文化に向かって、はっきり指摘したいのです。
人間とは何か。肉体的に生きている人間を人間とするのか。魂として生きているものを人間として見るかどうかです。客体的に存在するものを人間というのか、主観的に存在するものを人間というのかです。
客観的存在の人間と主観的存在の人間とは全く別です。ドイツの観念論哲学も全く間違っているのです。
今こそ日本から新しい文化概念、新しい世界観、価値観を顕揚しなければならないのです。
日本は経済大国であるだけでなくて、文化大国としてのリーダーシップをとるべきです。日本から世界を照らす新しい価値観と新しい世界観を発進すべきなのです。
皆様が命の勉強をしたいと思われているのは誠にご奇特なことです。しかし本当の命を勉強するのはご奇特くらいのことではだめなのです。人並はずれた精進をしておられる皆様方でも、現世に生きているということが皆様にとっての大変なハンディキャップになるのです。宗教ではない般若心経という命題をご覧になったらお分かりになると思いますが、般若波羅蜜多というのは彼岸へ渡る明智のことです。上智のことです。現世にいる人間の知恵ではないのです。
般若波羅蜜多ということが、皆様がこの世に生まれてきた目的です。この場合の皆様という言い方はユダヤ人以外の一般人を指しているのです。皆様はこの世に生まれてきたのですが、目的を持たずに生まれてきたのです。目的を持たずに生まれてきたのですから、何のために生きているのか分からないのです。
国は国、民族は民族の仕来りがありますから、それぞれ教えということを言ってはいますけれど、民族の教えとか仕来りということが人間のただの情報なのです。本質的に言いますと、人間の情報でしかないのです。
しかもこの情報は死んでいった人間が造り上げた情報です。死んでいった人間によって考えられた概念です。この概念が情報になっているのです。
仏教とか、儒教とか、神道とか色々な宗教概念が日本にありますけれど、皆概念にすぎないのです。
仏教の実体、実質は何であるのかと言いますと、実は分からないのです。般若波羅蜜多という言い方をしますと、実は仏教の実体を否認してしまっているようなことになるのです。
般若波羅蜜多というのは彼岸へ渡る知恵のことでありますし、この世の知恵ではないのです。波羅蜜多というのは現世のことと違うのです。現世を後にして彼岸へ渡ることが般若という知恵、上智です。
ところが現世にいる人間が勉強しているのです。これは愚かな事です。現世に生きているままの人間が勉強していることが間違っているのです。
彼岸へ渡るとは
もちろん現世にいる人間が初めに勉強するのは当前です。現世にいる人間が彼岸へ渡ろうと考えて般若心経を勉強することは結構ですが、いくら勉強しても勉強しても、彼岸に渡らずに勉強する、三十年も、五十年も勉強して彼岸へ渡らずにしているのが現状です。だから般若波羅蜜多という言葉が全く分かっていないのです。
人間は彼岸へ渡る知恵を神から与えられていながら、彼岸へ渡らずに現世で頑張っている。これはなかなか見事なものです。般若心経を勉強し始めてから、三十年も四十年もの間現世で頑張っているというのは、なかなか見事なものです。これはかなりの耐久力があると言わなければならないのです。そうして写経したりして後生安楽になりたいと考えている。こういう愚かなことを日本人はしているのです。
こういうことになる原因は何かと言いますと、人間と魂が別だということが分かっていないのです。日本に人間と魂とをはっきり分けて説明ができる人は、一人もいないでしょう。
だいたい大乗仏教には魂という考え方がないのです。一万七千六百巻という膨大な大乗仏典の中に、魂という言葉が一字もないのです。これはおかしいことです。般若波羅蜜多と言いながら、彼岸へ誰が行くのかということが分からないのです。
向こう岸へ行くのは誰かが分からないのです。分からないままで仏典を勉強しているのです。
般若心経には観自在菩薩と最初から書いているのです。魂というのは観自在の原形になるのです。
魂が正確に捉えられたら観自在になるのです。ところが日本人の頭には、魂という言葉が正確に理解されていないのです。武士の魂とか、大和魂とか農民魂という言葉はありますが、こういう言葉で騙されているのです。
結局、魂が分からないのです。分からないので観自在すること、観世音することの意味が分からないのです。
皆様は目で見ていると思っています。見ているのではなくて、光線が物に当って反射して、目の網膜に映っているのです。この状態を魂というのです。字を書いている能力、生態の原理、五官の働きの実体が魂です。
こういうことが分からないままでいくら般若心経を読んでもだめです。分かるはずがないのです。ところが日本の仏教では分かったようなことを言っているのです。日本の仏教のお坊さんで、本当の空が分かっている人は一人もいません。もし本当に空が分かっていたら、伽藍仏教は成立するはずがないのです。仏教商売ができるはずがないのです。仏教という営業が成り立つはずがないのです。
仏教という営業が成り立っていることが、魂が分かっていない。空が分かっていないことを証明しているのです。
空というのは宗教ではありません。信心ということが空です。日本の仏教で考えている信心というのでは、観自在が成立しないのです。信じるという心が五蘊です。日本の仏教が五蘊です。キリスト教も五蘊です。聖書も般若心経も、本気になって勉強していないのです。
そこで私たちがこういうことを言わなければならない余地が出てくるのです。余計なおせっかいと言われるかもしれませんが、こういうことを言わなければならないのです。
皆様が生きているということが魂です。英語で言いますとliving soulになるのです。これが人間存在の質体になるのです。人間の実質の状態です。質体という言葉は日常では使わないかもしれませんが人間の実質、実体です。これが魂です。
人間というのは、市役所の戸籍台帳に登録されているものです。固有名詞、自我意識で生きているものです。やがて死んでいくに決まっているのが人間です。肉体という形態を持っているのです。魂は理性と良心という心理機能を持ち五官を与えられた人間の実質です。この区別がつかなければ、般若波羅蜜多といくら言ってもだめなのです。
人間は必ず死ぬに決まっているのです。必ず死ぬのです。人間はただの形態です。生あるものは必ず死ぬ。形があるものは必ず壊れるのです。「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」と幸若舞という曲舞「敦盛」の一節があります。
皆様は夢幻のうちに生きているのです。これを自分だと思っているために、皆様の精神状態はいつも夢幻の内にあるのです。
世界の軍備縮小の話がまとまらないのも、選挙で血眼になって走り回るのも、無理がない話です。現在の人間の心理状態では、核兵器廃絶は絶対にできないのです。
何らかの形で人間の意識を転換することができなければ、超大国間の相互不信は絶対に消えないのです。従って軍縮とか核兵器廃絶という方がおかしいのです。
そういうことを話し合うよりも、人間と魂とどちらが実体なのかを考えたらいいのです。人間という場に立っている間は、お互いに騙し合い、警戒し合いながら付き合っているのです。夫婦でも、兄弟でも、親子でもそうです。
現世に人間は不信と不安とで生きているのです。実は人間はいないのです。魂が分からないから人間を自分だと思い込んでいるのです。
魂は質体であって、その本質は命です。生きている事がらが魂です。その本質は命です。魂で生きている人の精神状態は平安です。安心です。
長年般若心経と聖書を真剣に勉強している人でも、頭で分かっても、ハートの状態が本当に魂になり切っているかと言うとなかなか難しいのです。
こういう事は一回か二回分かってもだめです。毎日毎日新しく確認して、これを自分自身の魂に言い続ける必要があるのです。
この世にいる間は猛烈な戦いを継続していなければいけないのです。人間はいない、魂が実体だと言い続けなければならないのです。
猛烈な戦いをしているなら平安はないと思われるかもしれませんが、平安があるから闘えるのです。平安がない人は闘えないのです。
魂が本体だということが分かっているだけで、非常に大きい平安があるのです。この平安を持ち続けるために、自分が持って生まれた業と毎日闘うのです。
この闘いは勝つに決まっている闘いです。だからどんなに闘いが激しくても、やる気になってできるのです。
皆様の質体が魂だと言いましたが、皆様が生きている状態をよくよく見て頂きたいのです。生きているとはどういう事なのか、例えばお茶の味が分かります。味が分かるというのはどういう事でしょうか。これが魂の働きです。皆様はお茶の味を誰かに教えられたことがあるのでしょうか。
お茶の入れ方は習われたでしょう。お湯をわかして、それを急須に入れて、そこへお茶の葉を入れるということは習われたでしょう。しかし味というものについては習っていないのです。皆様が生まれた時に、既に味覚を持っていたのです。
例えば生まれたばかりの赤ん坊は母親の乳に吸いついて吸うのです。おっぱいの味を知っているからおいしそうに飲むのです。哺乳瓶においしくない飲料を入れて与えてもすぐに吐き出してしまうのです。
赤ん坊は母親のお乳をおいしそうに呑むのです。これはおっぱいの味を知っているからおいしそうに呑むのです。赤ん坊はおっぱいの味を誰から教えられたのでしょうか。母親が教えた訳でもないのに、おっぱいの味を知っているのです。これを魂というのです。
皆様は目で花を見ますと、きれいだと思われます。きれいとはどういう事でしょうか。きれいという意味を皆様は誰かに習ったことはあるでしょうか。皆様はきれいなものをきれいと言われるのです。こういう状態を魂というのです。
不可視世界
皆様の五官の本質が魂です。皆様が生きているということは、魂が生きているのです。人間が生きているのではないのです。食べるとか、見るとか、聞くとかいうのはどういうことか。例えば味というのがありますが、おいしいものを食べたいと思うことは目に見えないことを信じているのです。不可視世界のことを信じているのです。
味というのは不可視世界のものです。また、香りというのも同様です。皆様は目に見えない世界を経験しているのです。これを霊というのです。これが本当の霊です。霊媒の霊とは違います。神霊科学でいう霊は巫子の口寄せの霊であって、味や香りと全然違うのです。
霊媒の霊、神霊科学の霊、新興宗教が言う霊は、人間の妄念が生み出した妄想です。今の日本では新興宗教がたくさんはやっています。守護の霊という事を言うのですけれど、これは皆安物の霊です。
例えば守護の霊があったとしても、命は分からないのです。守護の霊を二十知っていても、三十知っていても、皆様の命の実体は全然分からないのです。守護の霊を信じれば信じる程、本当の霊が分からなくなるのです。彼岸へ渡れなくなるのです。彼岸へ渡れないように仕向けているのが、新興宗教です。
不可視世界のことが本当の霊でありまして、これは新興宗教の霊とは違うのです。
この霊が皆様の命の本質です。この命の本質に目が開かれることです。これを観自在菩薩というのです。または観世音菩薩というのです。
彼岸とはどういう所か。この世ではない向こう岸です。人間が生きている場所ではないのです。人間が生きていない所です。これが向こう岸です。
人間が生きている状態で向こう岸へ渡ってしまうのです。今日彼岸へ渡っても、今日という日と、明日という日とは時が違いますから、今日彼岸へ渡ったら、明日もう一度渡る必要があるのです。あさってまた、渡る必要があるのです。この世に生きている間、毎日彼岸へ渡り続けていなければいけないのです。
命は毎日新しいのです。毎日新しい命を経験しているのですから、毎日新しい彼岸を経験するのでなかったらいけないのです。これを実行している人は日本にはいませんし、世界にもいないのです。しかしこれはしなければならないことなのです。
世界中で誰もする人がいなくても、私たちはそれをしなければならないのです。なぜかと言いますと、皆様がこの世に生まれたのは彼岸を見つけて彼岸に入るためなのです。
彼岸を見ない状態、彼岸に入らない状態で、人間として生きていても、何にもならないのです。
皆様は四十年、五十年の間この世に生きておいでになったのですが、皆様の命の本質には何のメリットもなかったのです。ただ生きていただけなのです。ただこの世の常識を学んだだけなのです。何のプラスもなかったのです。
そこで今まで生きていた自分は人間として生きていたのです。人間として生きていたのは魂の上に乗っていただけです。魂の上に乗って、ふんぞり返っているのが人間です。これが後天性の人間です。
後天性の人間というのは常識と知識で生きているのです。常識、知識は人間の思いです。思いというのは迷いのことです。
皆様は生きていると思っているでしょう。現世に生まれてきて生きていると思っているのは、ただ思っているだけです。従って現世で生きていると思っていても、人間の思いは根本的に迷いそのものです。
魂は思いではありません。魂が生きているというのは生きているという事がらです。これが霊です。これは誰に習わなくても生まれた時から生きているのです。
生まれてしばらくしますと、物心がつきます。物心とは何かというと偽の人格です。物心がつくと人間はばかになるのです。迷いだすのです。迷いだした結果夢幻の世界に生きるのです。こういうことをご理解頂きたいのです。
皆様が現在生きているという気持ちを端的に申しましたので、これをまずご承知頂きたいのです。この状態で生きていながら、いくら般若心経を読んでも分かるはずがないのです。迷っている状態にいるのですから本当のことが分かるはずがないのです。
この状態では神を信じることは絶対にできません。キリスト教の神なら信じられますが、こんなものはキリスト教が造った神です。
キリスト教の宗教教義が神を造っているのです。今の人間が信じられるように造っているのです。天にまします我らの父よとキリストの人々は祈っていますけれど、天とは何かが分からないのです。ましますとはどういう状態なのか、我らの父とは何か。この一つ一つ分かっていないのに、天にいます我らの父よと祈っているのです。これは聖書をばかにしているのです。
キリスト教も仏教も、現世の人間に分かるように嘘ばかりを言って信じさせているのです。これが宗教教義というものです。宗教教義を否定するのです。これはなかなかできないことですが、これができますと、般若波羅蜜多の意味が分かってくるのです。
人間は現世に生きていても何もならないのです。九十年生きようが、百年生きようが、何にもならない所か、罪をつくっているだけです。業を積んでいるのです。嘘を言ったりごまかしたり、焼き餅を焼いたりしているのです。人を憎んだりうらんだりしない日があるのでしょうか。
この世ではこういう事をしなければ生きていけないのです。こういう世の中です。世の中の大人が悪いのです。
デカルトは精神と物質は別だと言っていますが、こういう考えがまったく間違っているのです。霊が分かれば精神と物質が一つであることが簡単に分かるのです。
皆様がこの世に生まれてきたのは、人間と魂とを見分けることをするためです。命とは何かということを知ることができるために生まれてきたのです。
このことを日本的に言いますと観世音というのです。世音というのはこの世の有様です。この世の有様を見ることによって、この世がインチキなものであることがはっきり分かった人は、インチキではない状態になったらいいのです。
皆様はこの世に生まれた時には、霊魂そのものだったのです。ところが、物心がついて、人間になってしまったのです。これが間違っているのです。
大人のゆがんだ気持ちを、放下することはできるのです。これを脱ぎ捨てることはできるのです。そうすると、皆様は元の魂に帰ることができるのです。
皆様の五官の本質はそのまま魂の本性です。これを情緒というのです。本当の情緒に対して目を開くことができますと、初めて魂ということが分かってくるのです。そうすると、現世にびくびくと生きている必要がなくなるのです。
今の人間は戦々恐々として生きているのです。ガン、心臓病、脳梗塞にならないか。いつ地震が起きるのではないか、会社が倒産しないか、老後の年金や介護はどうなるのか、いつ死ぬかも知れないと、びくびくして生きているのです。安心して生きておれないのです。
魂がはっきり分かれば、坦々として知るべきことを知り、言うべきことを言える人間になるのです。そういう人間になれるのです。これが観自在です。
観自在すること、観世音することが人生の目的です。これをするために、私たちは生まれてきたのです。般若波羅蜜多をするために生まれてきたのです。
般若波羅蜜多が人生の目的です。私たちはこの世に生きるために生まれてきたのではありません。皆様はこの世に生きることに対して熱心でありすぎたのです。だからこの世に生きることが自分の目的のようにお考えになっているのですが、これは間違いです。
命さえ分かれば、この世で生きていけるに決まっているのです。本当のことが分かれば、生きていけるに決まっているのです。本当のことが分かったら、あえて生きていかなくてもいいのです。
私たちは現世に生きるために生まれたのではないのです。般若波羅蜜多するために生まれたのです。命そのものを知るために生まれてきたのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)